花骸(はなむくろ)

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【一】( 2 / 15 )

原にて、もったいなくも当今に乗馬をお教えつかまつるのだ。まさか、二十七歳の若さで、このようなお役目が得られるとは思っていなかった。無骨で大柄で、和歌や管弦などの才能がないことに、少将は引け目を感じていたが、このような分野での自分の技術を評価してもらえるとは身に余ることと感謝している。

しかし、それとは別に少将は、今の主上は、いささか唐突な性格で遊ばすと思わざるを得ない。例えば、今、自分がこうして粟田口に向かっているのは、誰あろう帝よりくだされた命令なのである。

 

少将が考えにふけるうちにも、網代車は細かく揺れながら進んでいる。簾から見える景色は暮色が濃くなってきて、少将はいささか焦った。彼の邸は六条で、都の東の端なのでここから遠くはないが、やはり暗くなった道を通るのは避けたい。従者に少し牛の速度をあげるよう命じると、ほどなく目指す邸に着いたので、ほっと息をついた。

大きいとはお世辞にも言えない、古びた塀をかろうじて修復したばかりの、心細さが感じられる住まいであるが、今の少将にとってこの小さい邸は、休息と安堵の象徴にさえ思えるのである。あたかも、航海する船乗りにとっての燈台のような。それには、十分な理由があった。

 

少将は門の前に車を止めて、邸の召使いに来訪を告げた。心得た召使いが邸へと走ってゆき、やがて主人である初老の尼僧がその姿を現した。

墨染めの表着の裾をからげて、下にかさねた衣類は、淡い青磁色の練り絹であった。暮色をました情景の中で、鮮やかに見える白い顔には、年月の衰えはあるものの、聡明で深みのある美が宿っていた。右手に灯をともした蝋燭を持ち、左手には、いつものものを持っている。四位の少将を見ると、嬉しげに微笑んだ。

「少将様、ようお越し遊ばされました。毎日のこととて、ほんに御足労なことと推察申し上げます」

「いえ私こそ、お騒がせするようで恐縮です。もう少し早い時刻に伺えれば良いのですが……」

「なんの。殿方には宮仕えがございますことはよう存じ上げておりますもの。さあ、それではどうぞ、お好きな花を」

【一】( 3 / 15 )

尼が差し出したものを、少将は頷いてとった。すなわち、鋏(はさみ)と蝋燭を。少将は無言で足早に庭の右手に向かい、今を盛りと花をいっぱいにつけている巨木に相対した。

 

それは少将の肩の辺りまでの高さのある、大きな椿であった。幹の太さも椿というよりは、藤の木とみまごう太さがあり、重量感に誰もが驚く。それほどの木であるから枝の茂り方も相当なもので、うねりながら延びている様は、木というより、荒れ狂う動物を凝り固めた状態を連想させる。

神無月のこととて、椿は今が盛りである。

黄昏れた庭にどっしりと生えている椿の巨木。それだけでも、心魅入られる光景であったが、この椿は尋常な草木ではなかった。

 

この椿の花弁は紫色であった。藤色と、菫のような濃い色の花と、ところどころ赤い花もつけているのだが、割合としては、薄紫のものが多いのだ。

 

開花した椿は、あるいは花を全て落とし、あるいはつぼみが開くところである。

花びらが藤のような色で、蕊は金色。この取り合わせはなんとも色っぽく、見つめていると妖しさを感じさせるのだが、四位の少将にはその美を味わう暇はない。

 

少将は真剣そのものの表情で適当な花を探した。灯りをさしつけ、ためつすがめつしながら花びらが整ったものを見つけ出し、人が捧げ持つ際に持ちやすい長さも勘案して、鋏を入れる。

ばちり、という金属音とともに、少将の心に、安堵とも悲哀ともつかぬ、強いて言えば空虚な満足が広がった。あとはこれを持って家に帰り、明日の朝に、やんごとない御方に献上申し上げるのである。

 

老いた尼が、水を汲んだ手桶と手ぬぐいを差し出してくれた。少将は花びらが水に濡れないようにして枝と葉のみを丹念に洗い、最後に手ぬぐいを水に浸して絞り、濡れ手ぬぐいで椿の枝を包んだ。これで家に戻るまで花びらは散らないだろう。そうすれば、明日の朝までこの美をもたせることは難しくない。

 

【一】( 4 / 15 )

尼君はその間、少将の従者たちに心付けを配っている。最初、少将はそれは無用ですと言ったのだが、彼女は聞かなかった。疲れた人にそれくらいするのは当然だと。その心優しさを少将は尊いものと思った。しかし、今の少将は、彼女に尋ねるべき事があった。自分が受けた命令に関する、重要な事をまだ聞いていなかったのだ。彼は咳払いして尼殿、と呼びかけた。

「今日で私がここに参るのは三十日目になりました。数えてみますと、百日めとなるのは、年が明けた睦月の六日。いまはまだ神無月の終わりです。

今まで三十日間、紅葉狩ならぬ椿狩をやってまいりましたが、これは艱難辛苦だとあらためて思いましてございます。男が弱音を吐いてはならないと存じておりますが、いささか気にかかることがございます」

従者と和やかに話していた尼君は、大きな眼を、ひたと少将に据えて次の言葉を待った。

 

「あの御方、蜻蛉の更衣は、このことをご承知遊ばすのでしょうか? 帝が『蜻蛉の更衣の邸に百日通えば、その褒美として、蜻蛉の更衣をそなたに賜る。邸に出向いた証拠として、あの邸にある紫の椿を持って参れ』と、私に命令遊ばされたことを。

どうも私の周囲の公達は皆それを承知していて、私を励ましたり、そんな夜歩きは危険だと心配したり、もうさまざまな話題が宮中に満ちておりますが、蜻蛉の更衣は、それをどのくらいご存知なのでしょうか?

尼君は、更衣の御母上で遊ばされますが、もしや、あの方からなにかうかごうてはおられませんか? 」

 

 

【二】

 

蜻蛉(かげろう)の更衣は、床の中で長い豊かな髪をかきあげつつ起き上がろうとしかけたが、考え直して再び夜着を引きかけた。今は、何時くらいなのであろうか。卯の刻くらいであろうか? 寅の刻というにはあたりが暗いと思った。そうして、今朝まで自分が遊弋し、身をさすらわせていた夢には、いかなる意味があるのかと心をざわつかせた。

その夢は、まったく見知らぬ公達と蜻蛉とが、薄のなびく武蔵野の野原にて臥
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深良マユミ
作家:深良マユミ
花骸(はなむくろ)
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