練り清めた銀 聖書を批判的に読む

練り清めた銀 聖書を批判的に読む50の有料書籍です。
書籍を購入することで全てのページを読めるようになります。
練り清めた銀 聖書を批判的に読むを購入

【7.アブラハム契約と律法】( 1 / 2 )

7-1~7-33

7.アブラハム契約と律法】

 

7-1

 

 2章で述べたとおり、旧約聖書の記述や旧約聖書にまつわる伝承が、考古学的調査により否定されてきています。アダム、ノアはシュメール神話の伝承をユダヤ的に解釈したであろうとされ、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフについては存在が確認できない上に、考古学的には矛盾が多く伝承の人物としかいえません。モーセは実在したかもしれませんが、出エジプトがなかったことはほぼ確定であります。ヨシュア記にあるようなカナン征服を一気に行った形跡もなく、ヨシュアの頃にはそもそも存在していなかった都市を攻め落とした記述がいろいろあります。ダビデ、ソロモンは実在したでしょうが、実在の痕跡はみつからず、「ダビデの家」という言葉がユダの王国の名称として用いられた碑文があるのみです。

 

7-2

 

 モーセ五書もソロモン以降に宮廷で、その中核部分の作成が開始(引用文献①p94)となり長期にわたって編纂がなされたので、神が人類と交わした契約というものが本当にあったのかという疑問が生じます。ダビデ王朝が権力基盤を固めるために、伝承や神話を用いて権威づけをしたという見解が常識的な考え方でしょう。そう考えるとソロモンを最後に神の契約の更新が止まっていた理由も良くわかります。

 

7-3

 

 モーセ五書の権威を否定してしまうと、イエスの救済もまた否定されるのでしょうか?  私はモーセ五書が史実でなく、アブラハム契約がダビデ王朝の願望に過ぎないとしても、やはりイエスによる救済はあると考えています。これを本章で論述します。

 

7-4

 

 アブラハム契約が実際にはなかったとしても、ダビデやダビデ王朝の預言者、祭司が霊感を受けてこれらの契約を思いつき、人類の始祖の象徴であるアダム・イブ、シュメールの文明の始祖の象徴であるノア、イスラエル民族の伝説の父祖である、アブラハム、イサク、ヤコブ、救世主の型であるヨセフ、モーセ伝承に仮託して、これらの霊感をちりばめた文書を作成し、それがユダヤ民族全員に共有されたとしたら、やはりユダヤ民族全体としてそうした約束を持っていることになります。ただ伝承における歴史の記述が史実と一致しないだけです。

 

 あるいは「神とユダヤ人の間に契約があった」という事が、ユダヤ人の願望であるにすぎないとしても、その一部に神の霊感が散りばめてあるのかもしれません。6章で述べたとおり、祭司や書記の気がつかないうちに、文書にイエスの象徴が散りばめられていたように、願望にすぎない契約にも神の意志が部分的に反映されており、その一部が有効であるかもしれません。

 

 その場合には、旧約聖書は史実ではないし人間の願望が混在しているが、一応預言書としての働きがあり、また神の霊感が部分的に散りばめられているので、神の意志もある程度は反映されていると考えることができるでしょう。

 

7-5

 

 ただし考古学的に、そして歴史的に事実でないことが書かれているのですから、その信憑性は実際に神の契約が実現していくかどうか、預言が実現していくかどうかで判断するしかありません。盲目的に聖書に書いてあるから正しいとすることは危険であります。イエスは真実を知らせるために来たのですから、信徒が自発的に真実から耳目を閉ざしてはなりません。

 

 とりあえず、旧約聖書の各文書の著者が誰であるかは、はっきりとは分からないけれども、一応は霊感に導かれて書かれたと仮定します。そして旧約聖書にある神の契約が、そもそもどのようなものか確認していきます。文中で自由主義神学に基づいて述べたと明示された部分は霊感を考慮していません。

 

 この章の考古学的知識は引用文献①②③から大部分を得ています。

 

7-6 アダム契約

 

15主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。

16主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。

17しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。≫

(創世記215-17

 

11神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。

12人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」。

13そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。

14主なる神はへびに言われた、/「おまえは、この事を、したので、/すべての家畜、野のすべての獣のうち、/最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、/一生、ちりを食べるであろう。

15わたしは恨みをおく、/おまえと女とのあいだに、/おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、/おまえは彼のかかとを砕くであろう」。

16つぎに女に言われた、/「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、/彼はあなたを治めるであろう」。

17更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、/地はあなたのためにのろわれ、/あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。

18地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、/あなたは野の草を食べるであろう。

19あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、/あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。

20さて、人はその妻の名をエバと名づけた。彼女がすべて生きた者の母だからである。

21主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。

22主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。

23そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。

24神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。≫

(創世記311-24

 

 まず、神とアダムとの契約です。アダムとエバは「善悪を知る木の実を食べてはいけない」という命令を守れず、エデンから追い出されます。15節には、いつかエバの子孫がサタンである蛇の頭を踏み砕く約束があり、ここはメシア預言とされています。

 

 もちろん、ユダヤ人だけではなく全人類に対する約束です。もしアダム契約が真実で神の約束が不変であるなら、初めからサタンの滅びは決定していて、どんな変化がこの世にあったとしても最終的には必ず実現することになります。実現に必要な前提条件はありません。この時点では、蛇を滅ぼす者がアブラハムの子孫であるという限定はなされていません。

 

 シュメール神話と比べてみると、人が土で作られたという共通点があり、また「エデン」はシュメールの言葉で「平地」を意味する語が採用され、シュメール神話の影響が見られます。天地創造もアダムの話も私は創作された神話であると考えます。

 

 アダムの話が創作であるとしても、信仰は、その人の世界観や人生に影響を及ぼすのみならず、自我の安定性や言動をも左右するので、「蛇を滅ぼす者がアブラハムの子孫とは限らない」などのような神学的操作を行う事は、潜在意識に重要な影響を与えると考えます。

 

 また科学の範疇では検出できないとしても、神や霊的な影響力の存在はあるかもしれないわけです。少なくとも「神が存在しない」と科学的に証明されたわけではありません。よって考古学的、あるいは歴史的に神との契約を検証するのみならず、それに対応した神学的な提示も並行して行います。

 

7-7 ノア契約

 

1主はノアに言われた、「あなたと家族とはみな箱舟にはいりなさい。あなたがこの時代の人々の中で、わたしの前に正しい人であるとわたしは認めたからである。

2あなたはすべての清い獣の中から雄と雌とを七つずつ取り、清くない獣の中から雄と雌とを二つずつ取り、

3また空の鳥の中から雄と雌とを七つずつ取って、その種類が全地のおもてに生き残るようにしなさい。

4七日の後、わたしは四十日四十夜、地に雨を降らせて、わたしの造ったすべての生き物を、地のおもてからぬぐい去ります」。≫

(創世記71-4

 

 ノア契約で面白いことは、モーセ契約の前に清い動物、清くない動物という概念が出て来ることです。伝承ではモーセが創世記を書いたことになっています。モーセ以前には清い動物、清くない動物の区別は与えられていないのですから、7章に書かれた言葉が、神がノアに与えた啓示とまったく同じであるとは考えられません。

 

 つまり、清い動物、清くない動物の区別は、モーセあるいは後代の祭司による編纂の痕跡です。ノアがもし実在したと仮定しても、創世記ではノアの時代の神の言葉をそのまま伝えているとは言えないわけです。

 

7-8

 

1神はノアとその子らとを祝福して彼らに言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。

2地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、

3すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。

4しかし肉を、その命である血のままで、食べてはならない。

5あなたがたの命の血を流すものには、わたしは必ず報復するであろう。いかなる獣にも報復する。兄弟である人にも、わたしは人の命のために、報復するであろう。

6人の血を流すものは、人に血を流される、/神が自分のかたちに人を造られたゆえに。

7あなたがたは、生めよ、ふえよ、/地に群がり、地の上にふえよ」。

8神はノアおよび共にいる子らに言われた、

9「わたしはあなたがた及びあなたがたの後の子孫と契約を立てる。

10またあなたがたと共にいるすべての生き物、あなたがたと共にいる鳥、家畜、地のすべての獣、すなわち、すべて箱舟から出たものは、地のすべての獣にいたるまで、わたしはそれと契約を立てよう。

11わたしがあなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起らないであろう」。

12さらに神は言われた、「これはわたしと、あなたがた及びあなたがたと共にいるすべての生き物との間に代々かぎりなく、わたしが立てる契約のしるしである。

13すなわち、わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる。

14わたしが雲を地の上に起すとき、にじは雲の中に現れる。

15こうして、わたしは、わたしとあなたがた、及びすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた契約を思いおこすゆえ、水はふたたび、すべて肉なる者を滅ぼす洪水とはならない。

16にじが雲の中に現れるとき、わたしはこれを見て、神が地上にあるすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた永遠の契約を思いおこすであろう」。

17そして神はノアに言われた、「これがわたしと地にあるすべて肉なるものとの間に、わたしが立てた契約のしるしである」。≫

(創世記91-17

 

 ノアとの契約には救世主に関する預言はありませんが、神に従う人を義と認め救済する型とみなせます。そして地を滅ぼす洪水はもう起こさないという約束があります。面白い事は、義と認められたのはノアだけですが、妻や子や子の妻に至るまで滅びを逃れることを赦されたことです。ヨシュア記2章でラハブ一人がイスラエル人を助けることで父母、兄弟、親戚すべてが神の民に加わりました。コリント人への第一の手紙714では夫婦の一方が信者なら、配偶者は信者でなくても聖なるものとされ、子供も聖なるものになると明記されています。ここから、はっきりと論証できる事ではありませんが、神の恵みは信仰義認説よりも広い可能性があります。

 

 3節をみると青草も動物もなんでも食べてよい、4節では血を食べてはいけない事が書かれています。ここから、やはり、清い動物、清くない動物という基準はまだなかったことがわかります。またユダヤ人でなければ、すべての動植物を食べてよいことがわかります。食のタブーは血のみです。血を飲食することがタブーであるという規定が、アブラハム以前よりあることに留意してください。

 

 本書の3-7で「イエスの血には永遠の命がある。これを飲みなさい。そして他のいかなる血も飲んではいけない、そこには滅びゆく肉体の命があるから」と書き、またモーセの律法の中の「血を飲んではいけない」という規定は、ユダヤ人を聖別するためにあったと書きました。イエスの血を飲んで永遠の霊の命を受けるために、肉の命がある動物の血を飲まないように規定してあったという意味です。

 

 この考えを少し修正しなければならないようです。イエスの血を飲んで永遠の命を受けるために、動物の血をのまないという聖別をうけたのは、ユダヤ人だけではないという事です。この創世記9:4を考えると、ユダヤ人だけではなく、すべての人がイエスの血の盃を受け、永遠の命を受けるように整えられる必要があると、ノア契約の時点で既に定められているのです。

 

 血を飲まない規定はアブラハム契約だけにあるのではなく、ノア契約からきたのですから、ユダヤ人でなくとも、ノアの子孫でありイエスを信じさえすれば、イエスの盃に与る権利があるのではないでしょうか? 

 

 さらにいうと、ローマ人への手紙4章でパウロは「異邦人も信仰によってアブラハムの子孫になる」と述べましたが、実はアブラハムの子孫にならなくとも、ノアの子孫なら救いに与る可能性があるのではありませんか?

 

 アブラハム契約にはイエスの血の盃を飲めるという約束はありませんから、当然イエスの盃に与ることは、アブラハム契約から生じた恵みではありません。また同様にノア契約から来たわけでもないのです。これはイエスにより全人類に与えられた恵みです。

 

 ここで言いたいことはアブラハム契約の否定ではありません。アブラハム契約を経由しなくても、イエスの十字架の血潮により永遠の命を受けることができるように、ノア契約という迂回路が存在しているのではないかという可能性を提示したのです。

 

 言い換えると、考古学的な問題を抱えるアブラハム契約に頼らずに、ノアの子孫、つまり現在、地上にいる全人類を救済する神学的な可能性を探索しているのです。

 

7-9 アブラハム契約1

 

1時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。

2わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。

3あなたを祝福する者をわたしは祝福し、/あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、/あなたによって祝福される」。

4アブラムは主が言われたようにいで立った。ロトも彼と共に行った。アブラムはハランを出たとき七十五歳であった。

5アブラムは妻サライと、弟の子ロトと、集めたすべての財産と、ハランで獲た人々とを携えてカナンに行こうとしていで立ち、カナンの地にきた。

6アブラムはその地を通ってシケムの所、モレのテレビンの木のもとに着いた。そのころカナンびとがその地にいた。

7時に主はアブラムに現れて言われた、「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」。アブラムは彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。≫

(創世記121-7

 

14ロトがアブラムに別れた後に、主はアブラムに言われた、「目をあげてあなたのいる所から北、南、東、西を見わたしなさい。

15すべてあなたが見わたす地は、永久にあなたとあなたの子孫に与えます。

16わたしはあなたの子孫を地のちりのように多くします。もし人が地のちりを数えることができるなら、あなたの子孫も数えられることができましょう。

17あなたは立って、その地をたてよこに行き巡りなさい。わたしはそれをあなたに与えます」。≫

(創世記 1314-17

 

アブラハムに神が約束されたことは以下の事です

 

●アブラハム契約1

 

○祝福

(1)アブラハムを大いなる国民とする。名を大きくする。祝福の基となる。

 (創世記122

(2)アブラハムを祝福する者を神が祝福する。アブラハムを呪うものを神が呪う。

 (創世記 123

(3)地のすべてのやからはアブラハムによって祝福される。

 (創世記 123

(4)カナンの見渡す限り、歩き回る限りの土地をアブラハムと子孫に永久に与える。

 (創世記 1314-17

(5)子孫を数えきれないほどに増やす。

 (創世記 1316

 

○命令

(1)父の家をでてカナンの土地に行きなさい。(創世記 121

 

 ここでの注意点は創世記123からとった(3)です。日本語訳では

口語訳≪地のすべてのやからはアブラハムによって祝福される≫

新共同訳≪地上の氏族はすべてあなたによって祝福される≫

「地上のすべての民族、すべての人がアブラハムによって神に祝福される」という解釈が一般的ではないでしょうか?

 

一方、原文は次の通りです。

ונברכו  בך  כל  משפחת  האדמה.

משפחתは家族、親族が一般的な意味で、בךは「あなたの中で」あるいは「あなたによって」ですが「によって」は行為者でなく手段を意味します。(行為者をあらわす前置詞はעל

よって「あなた(アブラハムつまりイスラエル)の内にある地上のすべての家族は、祝福される」あるいは「アブラハムを用いて地上のすべての家族が祝福される」と言う意味になります。祝福されるのはアブラハム、つまり、ユダヤ人のすべての家族でしょうか? それとも地上のすべての家族でしょうか? 英語ではNASは前者に近く、NIVは後者に近いと翻訳が分かれています。

 

70人訳では次の通りです

ενευλογηθησονται εν σοι πασαι αι φυλαι της γης

εν σοιも「あなたの中で」あるいは「あなたによって」ですが「によって」は行為者でなく手段を意味します。Φυλαιは部族(ユダ族などの“族”にも用いられる)などと訳されます。

 

 使徒行伝1045でコルネリウス一同に聖霊が下ると、ペトロと一緒に来た人たちは、異邦人にも聖霊が注がれるのを見て驚いています。ここから考えると、この時点までイエスの弟子も、ユダヤ人以外に祝福が及ぶとは誰も考えていなかったのです。イスラエル民族以外の民にも祝福が及ぶことがアブラハム契約に明記されていたら、異邦人に聖霊が下っても誰も驚かなかったでしょう。またパウロがローマ人への手紙416節で、信仰によりアブラハムの子孫になるという神学を展開する必要もなかったでしょう。それはアブラハムの子孫だけが約束に与れるという前提があったので、異邦人に祝福が及んだときに矛盾が生じ、それを説明する理論としてパウロが導き出した神学理論なのです。だからイエスの時代のユダヤ人は、ここを「イスラエル民族のすべての家族がアブラハムのゆえに祝福される」という解釈をしていたと思います。

 

 「あなた(アブラハムつまりイスラエル)の内にある地上のすべての家族は、祝福される」は、コルネリウスの事件以前のユダヤ教的解釈と言えるかもしれません。また「アブラハムを用いて地上のすべての家族が祝福される」は、その後のキリスト教の教義によって読み換えた解釈と言えるかもしれません。ちなみにいずれの場合も祝福するのは神であって、アブラハムやイスラエル民族ではありません。

 

 また「アブラハムを用いて地上のすべての家族が祝福される」の解釈を選択した場合も、神はユダヤ人だけに祝福を準備していたのではなく、異邦人にも別の祝福を用意していた事になります。アブラハムの祝福が分け与えられるのではなく、アブラハムを用いて神が異邦人を祝福するからです。異邦人キリスト教徒がユダヤ人の祝福を横取りするわけではありません。そもそも神の恵みは測れないほど大きいのですから、取り合いになることはないのです。ただ単に異邦人に神の祝福がもたらされる時にユダヤ人が用いられるだけです。

 

 そう考えるとパウロがローマ人への手紙1111-24で展開した、「アブラハム契約の祝福からユダヤ人が折り取られ、異邦人キリスト教徒が接ぎ木された」というオリーブの木の神学と、私の見解は矛盾します。私の見解では、異邦人にもたらされる祝福の実際の内容は、もともと神が全世界の人にアダム契約、ノア契約で約束していたものなのです。

 

 そしてアブラハム契約で神がユダヤ人に約束した事は、神が全世界に祝福をもたらす時にユダヤ人が用いられ、そのゆえに全民族の中でユダヤ人が高くあげられることです。つまり、祭司の民となることです。これについては後ほどまた述べます。ユダヤ人は本当に祝福から折り取られたのでしょうか? そしてイエスによる全人類の救済は、本当にアブラハム契約に由来するのでしょうか?

 

 「あなた(アブラハムつまりイスラエル)の内にある地上のすべての家族は、祝福される」の解釈をとった場合にも、アブラハムを祝福する者は祝福されるので、異邦人でもアブラハムを祝福したものは神に祝福されます。しかしアブラハムを祝福する者が祝福されることをもって、イエスによって異邦人が救われる約束が、アブラハム契約に書いてあるとすることはできません。アブラハムを祝福することはイエスのいう救いの条件ではなく、アブラハムを信じたものが救われるわけでもないので、これがイエスの救済を意味するとは言えないのです。

 

 それに「アブラハムを祝福した者を祝福する」という原則には疑問も残ります。アブラハムを祝福したメルキゼデクは祝福されるはずですが、モーセもダビデもエブス人を征服することに躍起で、エブス人は滅ぼされてしまいました。バラムもイスラエルを祝福しましたが、イスラエルの人々はバラムを剣で殺しました。どうもこの約束は履行された実績がないようですが大丈夫でしょうか? これが例えばエブス人の不信仰やミディアン人の不信仰によって滅ぼされ、約束が実行されなかったのだとしたら、「(2)アブラハムを祝福する者を神が祝福する。アブラハムを呪うものを神が呪う。(創世記 123)」は無条件契約ではないことになります。

 

 神の契約は一見、人に都合よく見えても、未公開の隠れた条項があり、後でそれを引き合いに出され契約が無効になることがある、そういうことでしょうか? つまり、神の約束は不変かどうかということが問われます。神しか知らない条項、人に伏せられた条件が実は隠れていて、そのせいで約束が取り消しにならないかという事です。

 

7-10 メルキゼデクによる祝福

 

17アブラムがケダラオメルとその連合の王たちを撃ち破って帰った時、ソドムの王はシャベの谷、すなわち王の谷に出て彼を迎えた。

18その時、サレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒とを持ってきた。彼はいと高き神の祭司である

19彼はアブラムを祝福して言った、/「願わくは天地の主なるいと高き神が、/アブラムを祝福されるように。

20願わくはあなたの敵をあなたの手に渡された/いと高き神があがめられるように」。アブラムは彼にすべての物の十分の一を贈った。

21時にソドムの王はアブラムに言った、「わたしには人をください。財産はあなたが取りなさい」。

22アブラムはソドムの王に言った、「天地の主なるいと高き神、主に手をあげて、わたしは誓います。

23わたしは糸一本でも、くつひも一本でも、あなたのものは何にも受けません。アブラムを富ませたのはわたしだと、あなたが言わないように。≫

(創世記 1417-23)

 

 創世記14章には不思議な人が登場します。メルキゼデクは、いと高き神の祝福をアブラハムに与えることができたのです。いと高き神がアブラハムを招命した神(YHWH)と同一であることは22節で分かります。

 

 7-9で引用した創世記123節では、「地のすべての家族がアブラハムを通して祝福される」と神が約束されましたが、アブラハム以外の祝福の源が新たに出現したわけです。契約なしに祝福の源にはなれないでしょうから、メルキゼデクも神と契約を結んでいるでしょう。そしてメルキゼデクは祭司ですから、彼を通して神に祝福される人がたくさんいたことでしょう。これをどう考えたらよいのでしょう? アブラハムによって祝福に入る人と、メルキゼデクによって祝福に入る人という、少なくとも2つの系統の神の祝福が存在することになります。「地のすべての家族がアブラハムによって」はメルキゼデクの存在と矛盾します。

 

 ひょっとすると「アブラハムの祝福はイスラエル民族に限定されている」という可能性もあるかもしれません。なぜなら、その後の聖書の展開を見ると、ほとんどイスラエル民族の祝福について語られるからです。例えば、同じ神と契約を結んだであろう、エブス人の祝福については何も書かれていません。

 

 旧約聖書の契約は神がイスラエル民族と結んだものです。では他の契約書は存在しないのでしょうか? イスラエルに滅ぼされたエブス人にも神との契約書があったかもしれませんが、もし過去に契約書が存在したとしても、エブス人絶滅後に聖絶されたでしょう。そしてイスラエル民族以外の民と神が契約を結ぶ、あるいは過去に結んだ可能性は否定できないのです。

 

 聖書はイスラエルの民族によって、中東や地中海世界で書かれた書物であり、時代と地理的な制約、文化から来る制約のなかで書かれたのです。歴史の一定の期間、一定の地理的範囲で、また科学的知識も歴史的知識も限定された状態で書かれたわけです。

 

 聖書に書いてあることが正しいことのすべてであるという考え方や、聖書に書いてない事は否定すべきという考え方は不健全ではないでしょうか? 自分の信じること以外は「すべて間違っている」と合理的根拠もなく主張する人がいたら、あなたはその人を信用できますか?

 

7-11

 

1これらの事の後、主の言葉が幻のうちにアブラムに臨んだ、/「アブラムよ恐れてはならない、/わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、/はなはだ大きいであろう」。

2アブラムは言った、「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか」。

3アブラムはまた言った、「あなたはわたしに子を賜わらないので、わたしの家に生れたしもべが、あとつぎとなるでしょう」。

4この時、主の言葉が彼に臨んだ、「この者はあなたのあとつぎとなるべきではありません。あなたの身から出る者があとつぎとなるべきです」

5そして主は彼を外に連れ出して言われた、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」。また彼に言われた、「あなたの子孫はあのようになるでしょう」

6アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。

・・・

13時に主はアブラムに言われた、「あなたはよく心にとめておきなさい。あなたの子孫は他の国に旅びととなって、その人々に仕え、その人々は彼らを四百年の間、悩ますでしょう。

14しかし、わたしは彼らが仕えたその国民をさばきます。その後かれらは多くの財産を携えて出て来るでしょう。

15あなたは安らかに先祖のもとに行きます。そして高齢に達して葬られるでしょう。

16四代目になって彼らはここに帰って来るでしょう。アモリびとの悪がまだ満ちないからです」。

17やがて日は入り、暗やみになった時、煙の立つかまど、炎の出るたいまつが、裂いたものの間を通り過ぎた。

18その日、主はアブラムと契約を結んで言われた、/「わたしはこの地をあなたの子孫に与える。エジプトの川から、かの大川ユフラテまで。

19すなわちケニびと、ケニジびと、カドモニびと、

20ヘテびと、ペリジびと、レパイムびと、

21アモリびと、カナンびと、ギルガシびと、エブスびとの地を与える」。

(創世記 151-613-21)

 

 7-9のアブラハム契約の内容が15章で明確になってきます。1節「わたしはあなたの盾である」から神がアブラハムを守ることがわかります。35節でアブラハムに子が生まれ、嗣業を継ぐことがわかります。また子孫が星の数ほどに増えることがわかります。1315節でその子孫が外国で異邦人に仕えて4世代400年を過ごし、カナンに戻ってくること、18節~21節では、アブラハムに与える土地が明白に示されます。本書ではこれ以降、この土地をアブラハムに約束された土地と言う意味で「約束の土地」と呼びます。

 

 21節を見てください。メルキゼデクの部族であるエブス人の土地を、イスラエル民族に渡すと書いてあります。後にダビデが攻め落としエルサレムとして都にします。いと高き神は自分の民(メルキゼデク王とエブス人)の都を、なぜ他の民族(イスラエル)に引き渡したのでしょうか? 聖書的に考えればエブス人もまた悪に染まっていたからです。このことから考えると、いと高き神は導いた民を聖く保つ能力を、元々持っていなかったことになります。そうであるなら、この後に起こるイスラエル民族の偶像崇拝への転落も初めから決まっていたようなものです。

 

 エブス人の土地を与えると言われたら、自分もいつかはエブス人のように捨てられると警戒しないでしょうか? しかしアブラハムは、自ら選んだ民を捨ててしまうYHWHの表裏に気づかなかったようです。YHWHの特徴は、新約聖書にあるイエスの父なる神と一致するでしょうか? それとも後世の祭司や書記の編纂の手が加わり、脚色された神の姿でしょうか?

 

 自由主義神学的には、サレムを陥落させたダビデが、征服したエブス人の神になぜか宗教的権威を認めたと考えることができます。おそらく周辺の住民のエブスのいと高き神への信仰が強かったのでしょう。それで、そのいと高き神とイスラエル人の持っていた山の神を習合させ、一つの神概念として、その宗教的権威を取り込んだのでしょう。そうすると統治しやすくなります。

 

 またはイスラエルが持っていた神概念(エルシャダイ)を、強化するのに都合のいい何らかの特質を、いと高き神(エルエルヨン)が持っていたのです。それで、メルキゼデクからアブラハムに宗教的権威が移行したことを、神話兼歴史書に記載する必要があったのではないでしょうか? それが7-10で引用した創世記1417-23の記述です。

 

 7-9でまとめたアブラハム契約1に新たな約束を加え、7-10の解釈を加味して書きなおします。

 

●アブラハム契約2

 

○祝福

 

(1)アブラハムを大いなる国民とする。名を大きくする。祝福の基となる。(創世記122

 神はアブラハムの盾となる。(創世記 151 )

 

(2)アブラハムを祝福する者を神が祝福する。アブラハムを呪うものを神が呪う。

(創世記 123)(メルキゼデクの民やバラムは殺されたので確実性に疑問がある。)

 

(3)地上のすべての家族はアブラハムを通して神に祝福される。(創世記 123

(あるいは、イスラエルの中にあるすべての家族に神が祝福を与える。)

 

(4)「約束の土地」をアブラハムと子孫に永久に与える。

(創世記 1314-17(創世記 1518-21)

(エジプトの川から、かの大川ユフラテまで。すなわちケニびと、ケニジびと、カドモニびと、ヘテびと、ペリジびと、レパイムびと、アモリびと、カナンびと、ギルガシびと、エブスびとの地と具体的に示された。)

 

(5)アブラハムに実の息子イサクが生まれ、嗣業をつぐ。(創世記 154)

 

(6)子孫を数えきれないほどに増やす。(創世記 1316(創世記 155)

 

(7)子孫は異国で異邦人に400年仕えたのち、多くの財産を得てカナンに帰ってくる。

 (創世記 1513-16)

 

○命令

 

(1)父の家をでてカナンの土地に行きなさい。(創世記 121

 

7-12

 

1アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、/「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。

2わたしはあなたと契約を結び、/大いにあなたの子孫を増すであろう」。

3アブラムは、ひれ伏した。神はまた彼に言われた、

4「わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは多くの国民の父となるであろう。

5あなたの名は、もはやアブラムとは言われず、/あなたの名はアブラハムと呼ばれるであろう。わたしはあなたを多くの国民の/父とするからである。

6わたしはあなたに多くの子孫を得させ、国々の民をあなたから起そう。また、王たちもあなたから出るであろう。

7わたしはあなた及び後の代々の子孫と契約を立てて、永遠の契約とし、あなたと後の子孫との神となるであろう。

8わたしはあなたと後の子孫とにあなたの宿っているこの地、すなわちカナンの全地を永久の所有として与える。そしてわたしは彼らの神となるであろう」。

9神はまたアブラハムに言われた、「あなたと後の子孫とは共に代々わたしの契約を守らなければならない。あなたがたのうち

10男子はみな割礼をうけなければならない。これはわたしとあなたがた及び後の子孫との間のわたしの契約であって、あなたがたの守るべきものである。

11あなたがたは前の皮に割礼を受けなければならない。それがわたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなるであろう。

12あなたがたのうちの男子はみな代々、家に生れた者も、また異邦人から銀で買い取った、あなたの子孫でない者も、生れて八日目に割礼を受けなければならない。

13あなたの家に生れた者も、あなたが銀で買い取った者も必ず割礼を受けなければならない。こうしてわたしの契約はあなたがたの身にあって永遠の契約となるであろう。

14割礼を受けない男子、すなわち前の皮を切らない者はわたしの契約を破るゆえ、その人は民のうちから断たれるであろう」。

15神はまたアブラハムに言われた、「あなたの妻サライは、もはや名をサライといわず、名をサラと言いなさい。

16わたしは彼女を祝福し、また彼女によって、あなたにひとりの男の子を授けよう。わたしは彼女を祝福し、彼女を国々の民の母としよう。彼女から、もろもろの民の王たちが出るであろう」。

17アブラハムはひれ伏して笑い、心の中で言った、「百歳の者にどうして子が生れよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができようか」。

18そしてアブラハムは神に言った、「どうかイシマエルがあなたの前に生きながらえますように」。

19神は言われた、「いや、あなたの妻サラはあなたに男の子を産むでしょう。名をイサクと名づけなさい。わたしは彼と契約を立てて、後の子孫のために永遠の契約としよう。

20またイシマエルについてはあなたの願いを聞いた。わたしは彼を祝福して多くの子孫を得させ、大いにそれを増すであろう。彼は十二人の君たちを生むであろう。わたしは彼を大いなる国民としよう。

21しかしわたしは来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てるであろう」。

22神はアブラハムと語り終え、彼を離れて、のぼられた。≫

(創世記 171-22)

 

 1節で全き者となりなさいという命令があり、5節でアブラムという名前をアブラハムと改名する命令があり、多くの国民の父となること、6節で子孫から多くの王が出ることが約束されています。7節で代々の子孫と永遠の契約を結び、彼らの神となることが訳されています。10節で民のすべてが割礼をうけなければならないとされ、14節で割礼をうけない男子は民から断たれると条件が出されました。15節ではサライがサラと改名するように命令されています。

 

 これをもとにアブラハム契約を書き換えます。

 

●アブラハム契約3

 

○祝福

 

(1)アブラハムを大いなる国民とする。名を大きくする。祝福の基となる。(創世記122

 神はアブラハムの盾となる。(創世記 151)

 

(2)アブラハムを祝福する者を神が祝福する。アブラハムを呪うものを神が呪う。

(創世記 123)(メルキゼデクの民やバラムは殺されたので確実性に疑問がある。)

 

(3)地上のすべての家族はアブラハムを通して神に祝福される。(創世記 123

(あるいは、イスラエルの内にあるすべての家族に神が祝福を与える。)

 

(4)「約束の土地」をアブラハムと子孫に永久に与える。

(創世記 1314-17(創世記 1518-21)

(エジプトの川から、かの大川ユフラテまで。すなわちケニびと、ケニジびと、カドモニびと、ヘテびと、ペリジびと、レパイムびと、アモリびと、カナンびと、ギルガシびと、エブスびとの地と具体的に示された。)

 

(5)アブラハムに実の息子イサクが生まれ、嗣業をつぐ。(創世記 154)

 

(6)子孫を数えきれないほどに増やす。(創世記 1316(創世記 155)

 

(7)子孫は異国で異邦人に400年仕えたのち、多くの財産を得てカナンに帰ってくる。

 (創世記 1513-16)

 

(8)アブラハムの子孫からたくさんの王が出る。多くの国民(גוים複数の民族)の父となる。

 (創世記 175-6)

 

(9)代々の子孫と永遠の契約を結び、彼らの神となる。(創世記 177

 

○命令

 

(1)父の家をでてカナンの土地に行きなさい。(創世記 121

(2)アブラムをアブラハムと改名、サライをサラと改名する。(創世記 175,15 )

(3)アブラハムは全き者となる。(創世記 171

(4)アブラハムの民のすべての男子は割礼をうける。(創世記 1710

 

○条件

(1)割礼をうけない男子は民から断たれる。(創世記 1714

 

 いままで無条件であった契約に初めて条件が追加されました。

 

7-13

 

12神はアブラハムに言われた、「あのわらべのため、またあなたのはしためのために心配することはない。サラがあなたに言うことはすべて聞きいれなさい。イサクに生れる者が、あなたの子孫と唱えられるからです。

13しかし、はしための子もあなたの子ですから、これをも、一つの国民とします」。

14そこでアブラハムは明くる朝はやく起きて、パンと水の皮袋とを取り、ハガルに与えて、肩に負わせ、その子を連れて去らせた。ハガルは去ってベエルシバの荒野にさまよった。≫

(創世記 2112-14)

 

 イシュマエルは民から断たれますが、「これも、一つの国民とする」と約束されました。聖書に出て来るイシュマエル人とはイシュマエルの子孫の事らしいです(ひょっとするとイシュマエルから出た民族の総称かもしれません)。3世代下った後のヤコブの12人の子供たちの時代にはイシュマエル人の隊商が現れます(創世記 3725)。たった3世代で民族になったのでしょうか? ちなみにこのころのヤコブの家族は総数70人です(創世記 4627) 。こうした矛盾も史実性を疑う材料です。

 

7-14

 

1これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた、「アブラハムよ」。彼は言った、「ここにおります」。

2神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。

3アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。

・・・

9彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。

10そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、

11主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。

12み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。

・・・

15主の使は再び天からアブラハムを呼んで、

16言った、「主は言われた、『わたしは自分をさして誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、

17わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、

18また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである』」。≫

(創世記 221-3,9-12,15-18)

 

 神はアブラハムの信仰を試しました。彼が一人息子イサクを生贄として献げるかどうか試みたのです。アブラハムは試練に打ち勝ち、その結果として新たな約束を与えられます。子孫が敵に打ち勝ち、地のもろもろの国民は子孫によって祝福を得る。ということです。

 

  問題は2218節です。

口語訳≪地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るだろう≫

新共同訳≪地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る≫

 

ヘブライ語では以下の通りです。

והתברכו  בזרעך  כל גויי  הארץ

 

בזרעך は「あなたの種の中に」、あるいは「あなたの種によって」です。例のごとく「によって」は手段であって行為者ではありません。גוייは上記の翻訳の通り、すべての異邦人の国々を指していると考えることもできますが、「(8)アブラハムの子孫からたくさんの王が出る。多くの国民(גוים複数の民族)の父となる。(創世記 175-6)」をみると、アブラハムから多くの国々()גויםが出て来るとあるので、アブラハムから出る複数の民族(イシュマエルの子孫の国々、ヤコブからでた12支族)の事と考えることもできます。

 

 つまり、7-9で論じた創世記123と同じで2通りに訳し解釈できます。「アブラハムの種から出たすべての国々の民は神が祝福する」、または「アブラハムの子孫を通して、すべての国々の民が神に祝福される」です。英語ではNASBは前者に近くNIVでは後者に近いと翻訳が分かれています。

 

 7-9でも述べましたが、使徒行伝のコルネリウスの一件まではユダヤ人以外に祝福が与えられるとは考えられていませんでした。(ユダヤ教に改宗し、アブラハムの民に加われば別ですが。)

 

 また17節でアブラハムの子孫が敵の門を打ち取り、18節で「地のもろもろの国民が祝福を受ける」がでてきますが、創世記をはじめ、モーセ五書においては、敵とは結局は周辺の異邦人国家なのですから、異邦人国家は征服される側にあり、祝福を受けることはできません。

 

 12章では「アブラハムが一つの大きな国になる」という約束があり、それが17章で「多くの王が子孫からでて、多くの国々となる」と、約束がより大きくなったので、この多くの国々にも、子孫によって祝福が与えられることが必要になったのではないでしょうか。

 

 このような事を考えると「アブラハムの種から出たすべての国々の民は神が祝福する」の訳も妥当性があります。

 

 これを加味してアブラハム契約を修正します。

 

●アブラハム契約4(最終形)

 

○祝福

 

(1)アブラハムを大いなる国民とする。名を大きくする。祝福の基となる。(創世記122

 神はアブラハムの盾となる。(創世記 151)

 

(2)アブラハムを祝福する者を神が祝福する。アブラハムを呪うものを神が呪う。

(創世記 123)(メルキゼデクの民やバラムは殺されたので確実性に疑問がある。)

 

(3)地上のすべての家族はアブラハムを通して神に祝福される。(創世記 123

(あるいは、イスラエルの内にあるすべての家族に神が祝福を与える。)

 

(4)「約束の土地」をアブラハムと子孫に永久に与える。

(創世記 1314-17(創世記 1518-21)

(エジプトの川から、かの大川ユフラテまで。すなわちケニびと、ケニジびと、カドモニびと、ヘテびと、ペリジびと、レパイムびと、アモリびと、カナンびと、ギルガシびと、エブスびとの地と具体的に示された。)

 

(5)アブラハムに実の息子イサクが生まれ、嗣業をつぐ。(創世記 154)

 

(6)子孫を数えきれないほどに増やす。(創世記 1316(創世記 155)(創世記2217)

 

(7)子孫は異国で異邦人に400年仕えたのち、多くの財産を得てカナンに帰ってくる。

 (創世記 1513-16)

 

(8)アブラハムの子孫からたくさんの王が出る。多くの国民(גוים複数の民族)の父となる。

 (創世記 175-6)

 

(9)代々の子孫と永遠の契約を結び、彼らの神となる。(創世記 177

 

(10)イシュマエルは民から断たれるがこれも一つの国民とする。(創世記 2113)

 

(11)子孫が敵の城門を勝ち取る。(創世記 2217)

 

(12) アブラハムの子孫を通して、すべての国々が神に祝福される。

 (あるいはアブラハムの種から出たすべての国々の民は神が祝福する)(創世記 2218)

 

○命令

 

(1)父の家をでてカナンの土地に行きなさい。(創世記 121

(2)アブラムをアブラハムと改名、サライをサラと改名する。(創世記 175,15 )

(3)アブラハムは全き者となる。(創世記 171

(4)アブラハムの民のすべての男子は割礼をうける。(創世記 1710

 

○条件

(1)割礼をうけない男子は民から断たれる。(創世記 1714) 

 

7-15

 

16さて、約束は、アブラハムと彼の子孫とに対してなされたのである。それは、多数をさして「子孫たちとに」と言わずに、ひとりをさして「あなたの子孫とに」と言っている。これは、キリストのことである。≫

(ガラテヤ人への手紙 316

 

 余談ですが7-14でのべた創世記2218節について、ガラテヤ人への手紙でパウロがここを引用して、子孫זרעが単数形なので、すべての人を祝福するのはユダヤ人全体ではなく、一人の子孫つまり、イエス一人であると論理を展開していますが、次の引用を見てください。

 

7 時に主はアブラムに現れて言われた、「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」。アブラムは彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。≫

(創世記 127

 

 ここの「子孫に」も同じזרעの単数形です。「約束の土地」もユダヤ人全体ではなく、イエス一人に与えられるのでしょうか? いいえ、イエスの公生涯でカナン全土がイエスの領地になったことはありません。またイエスは≪わたしの国はこの世のものではない≫(ヨハネによる福音書 1836)と言っています。種זרעは子孫という意味では単数、複数いずれにも使われる語で他にも用例があります。単数、複数いずれにも使われる語ですから、イエスだけを指すとは必ずしもいえません。

 

 このガラテア人への手紙の箇所で、パウロは自分の意見を権威づけるために、創世記を引用する際に、従来の解釈を変更して利用したのではないでしょうか? メシア預言の精度でも書きましたが、使徒たちも牽強付会な解釈が色々見受けられます。使徒たちのこういう文脈を無視した解釈は、当時の旧約聖書を知っている知識人階層にどう受け取られたでしょうか? ラビたちがイエスを受け入れなかった理由の一端にもなったのではないかと思います。

 

 パウロでさえも、再臨のイエスに遭遇し神の力を実感するまでは反対派でした。他にイエスへの信仰を公にできたラビはニコデモくらいではないですか? 聖書の知識がある人ほどイエスを受け入れなかった。あるいはイエスへの信仰があっても表明できなかったのです。

 

 そしてパウロやニコデモがイエスを信じたのは、預言と一致しているからと言うよりも神の力を目撃したからでしょう。旧約聖書の権威よりも目の前の奇跡の方が「神の力の現れ」として説得力があったので、伝統的な解釈を曲げてでも、メシア預言やアブラハム契約にイエスを接ぎ木したかったのではないでしょうか? こうした経緯から私はパウロの解釈には疑問を持っています。

 

7-16 アブラハム契約の祝福をどう解釈するか

 

1もしあなたが、あなたの神、主の声によく聞き従い、わたしが、きょう、命じるすべての戒めを守り行うならば、あなたの神、主はあなたを地のもろもろの国民の上に立たせられるであろう。

2もし、あなたがあなたの神、主の声に聞き従うならば、このもろもろの祝福はあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。

3あなたは町の内でも祝福され、畑でも祝福されるであろう。

4またあなたの身から生れるもの、地に産する物、家畜の産むもの、すなわち牛の子、羊の子は祝福されるであろう。

5またあなたのかごと、こねばちは祝福されるであろう。

6あなたは、はいるにも祝福され、出るにも祝福されるであろう。

7敵が起ってあなたを攻める時は、主はあなたにそれを撃ち敗らせられるであろう。彼らは一つの道から攻めて来るが、あなたの前で七つの道から逃げ去るであろう。

8主は命じて祝福をあなたの倉と、あなたの手のすべてのわざにくだし、あなたの神、主が賜わる地であなたを祝福されるであろう。

9もし、あなたの神、主の戒めを守り、その道を歩むならば、主は誓われたようにあなたを立てて、その聖なる民とされるであろう。

10そうすれば地のすべての民は皆あなたが主の名をもって唱えられるのを見てあなたを恐れるであろう。

11主があなたに与えると先祖に誓われた地で、主は良い物、すなわちあなたの身から生れる者、家畜の産むもの、地に産する物を豊かにされるであろう。

12主はその宝の蔵である天をあなたのために開いて、雨を季節にしたがってあなたの地に降らせ、あなたの手のすべてのわざを祝福されるであろう。あなたは多くの国民に貸すようになり、借りることはないであろう。

13主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせられないであろう。あなたはただ栄えて衰えることはないであろう。きょう、わたしが命じるあなたの神、主の戒めに聞き従って、これを守り行うならば、あなたは必ずこのようになるであろう。

14きょう、わたしが命じるこのすべての言葉を離れて右または左に曲り、他の神々に従い、それに仕えてはならない。≫

(申命記281-14

 

 アブラハム契約には祝福という言葉が出てきますが、その意味がまだはっきりしません。アブラハム、そしてこれを書いたとされるモーセ(あるいはダビデ王朝関係者)にとって祝福とはどのようなものであったのでしょうか。申命記28章に具体的に書いてありますから引用します。 

 

 ここを見ると祝福は「人や産物、家畜、こね鉢、出入り、手の業などに付いて、物質的な豊かさを与え、雨を豊かに与え、金持ちにし、敵を敗走させ、敵に恐怖を与え、頭とし尾としない、栄えて衰えないこと」のようです。主に地上の物質的な豊かさや、戦いの勝利、支配権や繁栄を意味します。

 

7-17 アブラハム契約の判定

 

 アブラハム契約の最終形がはっきりしたので、約束が果たされたか考えてみましょう。

 

 「約束の土地」について、イスラエルのカナン支配はソロモン時代が最大版図ですが、それでも、「約束の土地」には及びません。また現代のイスラエル国家も、ソロモン以下の領土しかありません。またアブラハムは紀元前2000年頃の人とされていて、600年間はマクペラの洞窟とエフロンの畑だけが領土です。

 

 士師記は紀元前1400年以降の出来事が書かれていると考えられ、ダビデ王朝は紀元前1000年頃、そして紀元前586年には第2次バビロン捕囚でエルサレム陥落です。だから、バビロン捕囚前には800年くらいの期間は、不完全ながらカナンはイスラエルの領土であったとしましょう。

 

 紀元前539年にエルサレム帰還開始で、国家再建され西暦70年エルサレム陥落をもって、ユダヤ国家は崩壊しましたから、帰還後の609年間もユダヤ国家が存続したと言えるでしょう。

 

 西暦1948年にイスラエルが再建国されたので、2013年で65年目になります。これらを合計して仮に1474年間、イスラエルがカナンを支配したとします。4013年のうち、1474年ですから、欠落がいかに大きいかわかります。これでは永久の支配とは言えないでしょう。永久と言うよりも、とぎれとぎれの支配です。

 

 結論をいうと、少なくとも土地を永久に与える約束が果たされたとは認定できません。今後イスラエルが、「約束の土地」すべてを獲得する可能性がありますが、それが実現してもダビデが得た領土を一度失い、西暦70年以降も離散したので聖書の記述通りにはならなかったといえます。

 

 アブラハム契約が成就しなかったのは、子孫がモーセの掟を守らなかったからであるという反論があるかもしれません。しかし、この時点では土地の約束は無条件契約であることを確認してください。もし、ソロモンの背信のせいで「約束の土地」の契約が廃棄されたというのなら、アブラハム契約は一見無条件の恵みに見えても、そうではなかったということになります。そうであれば、YHWHが何かを人類に約束しても、事前に啓示がなかった条件を後から追加で出されて、条件次第で自分の民を見捨てることもあるという事を認めることになります。

 

7-18

 

 物質的な繁栄について、アブラハムが実在したという十全霊感、聖書無誤説に立てば、アブラハムの富と名声、子孫が増えること、子孫はカナンの王たちを打ち破り多くの国を造ること、多くの王が子孫から出ることについては実現したといってもよいのです。

 

 この時代のカナンで王と言うと都市国家の支配者であります。イサクの子孫はイスラエル民族の12部族となりました。その後、統一王朝をへて、イスラエル、ユダに分かれ、多くの王が立ちます。もっとも西暦70年以降にはユダヤ国家は崩壊し王はいません。イシュマエルの子孫は12の部族の首長になりました。しかしこれらの国々が、アブラハムと言う共通の先祖を持つ事が証明されたわけではありません。

 

 考古学的知見や、歴史学的知見、高等批評を受け入れた場合は、モーセ五書はダビデ王朝時代以降に、アブラハム伝承に神話的説明をつけ足しただけということになりますので、実現したというよりも話の辻褄を合わせるように創作したという立場です。紀元前のイスラエル、ユダを周辺の国家と比べると、エジプトやアッシリアに文明の規模や人口、農業生産力、軍事力でおとり、たびたび存亡の危機に立たされました。また大河がなく農耕が降雨に依存するので、たびたび飢饉になったことがわかります。

 

 申命記の祝福の記述にあるように、敵を敗走させ恐怖を与えることはできず、かえって戦いに敗けてイスラエルは消滅し、ユダは捕囚にされたのです。またローマの属国となり反乱した挙句に滅ぼされました。現代のユダヤ教は神殿崩壊前とは異なり、犠牲の献げ物もなく、善行や金銭を献げたらよいと変容してしまい、モーセの教えをそのまま維持することはできませんでした。自由主義神学的に考えると、アブラハム契約の繁栄の約束は実現していません。

 

 そうとはいえ、現代社会を見ると、イスラム国家はイシュマエルの子孫であると主張しています。イスラム国家は石油と言う資源に恵まれる国も多く、豊かで発言力も増しています。現代のユダヤ人は知的能力も高く、芸術、学術の分野で活躍し、私は詳細を知りませんが、政治や経済にも影響力が大きいそうです。そういう意味で現代まで含めて考えると繁栄の約束は守られたのかもしれません。

 

 しかし15世紀から宮廷ユダヤ人がヨーロッパで社会的政治的影響を持ち始め、18世紀にロスチャイルド家が台頭したことを考えると、繁栄が実現しつつあるのはここ500年くらいです。アブラハム契約から3500年間は約束が果たされず、ずいぶん苦難を強いられています。こうした現代のユダヤ人やイスラム国家の反映をもって、繁栄の約束が実現しつつあるということはできるかもしれません。しかし聖書に書いてある通りに発展したわけではないので、繁栄の約束は部分的にしか成就していないと言えます。

 

7-19

 

 出エジプトについては、エジプトに下り奴隷にされて、出エジプトをしてカナンに入る部分は宿営の痕跡が皆無なため、考古学的にほぼ否定されています(引用文献①p27、③p97102)。エジプトで奴隷となり400年仕えたのち、脱出しカナンの土地を得るという約束は、後世に創作したものと言えるでしょう。

 

 その神話の核となりそうな出来事は多数あります。例えばラメセスの実在(引用文献①p29、③104-105)、セム系のヒクソスのエジプトからの追放(引用文献③104-105)、藁を混ぜるレンガがエジプト特有なもの(引用文献①p28)、またミディアンのシャス族がエジプトにたびたび流入した記録があること(引用文献①p28)などです。

 

 しかし、これらは、ばらばらに存在する個々の傍証に過ぎず、すべてを古代イスラエル民族による出来事であると同一視することはできず、民族としての出エジプトが史実である証拠にはなりえないのです。どちらかと言うとこれらのテーマを取り込んで創作されたのが、出エジプト物語なのではないでしょうか? ヨシュア記のカナン征服もモーセ契約の約束にありますが、2章で述べたとおりヨシュア記の記述は史実とはかけ離れていると考えられます。

 

 ペリシテ人に関して、創世記1014節ではペリシテ人はエジプトに住むカフトル人から生まれたと書いてありますが、ペリシテ人はエジプトの住民に由来しません。聖書に考古学的な間違いがあります。創世記21章でアブラハムはペリシテに寄留し、26章でイサクは飢饉のためペリシテ人の王アビメレクのところに行きますが、もちろん彼ら父祖の時代には、カナンにペリシテ人はいませんし、ペリシテという地名もありません(引用文献③p84)。父祖の時代の口承というのは正確さを欠いていて史実とはみなせません。

 

 このような知見からわたしはモーセ五書とヨシュア記は史実ではなく、神の言葉を書記が書き取ったのでもなく、信仰を告白する宗教文学作品としての側面が強いと捉えています。

 

7-20

 

 では霊的な祝福については実現したのでしょうか? ここからはまた、旧約聖書に書いてあることが事実と仮定して論を進めます。

 

 いままで見てきたようにアブラハムに約束された祝福は、ほとんどが地上における繁栄と関係があります。「地にある諸国民がアブラハムの子孫によって祝福を受ける」という文言は、「アブラハムから出た多くの国々がアブラハムの子孫を通して祝福される」と解釈されうるという事も指摘しました。

 

 とりあえず、アブラハム契約をまとめたものを見てください。ここには地上的な祝福が書かれています。しかし、ここには救世主や、罪からの解放、贖い、天国、神の国に入るといった、イエスが提唱した救いに関することは一切約束されていません。霊的な祝福はYHWHがイスラエルの神となり、契約を代々の子孫と結ぶということ、地上生活において神の守りが得られることだけです。アブラハム契約にはイエスに関する約束が一切ないのです。

 

 先ほど7-97-142通りに翻訳できると書きましたが、異邦人に及ぶ祝福がアブラハム契約にあるというのは本当でしょうか? 代々の子孫と契約が更新される際に、異邦人への祝福が残っているかどうか? そして、イエスが与えられる約束が追加されるのでしょうか? もし異邦人へ及ぶ祝福がアブラハム契約に含まれるなら、代々の子孫と神との間で更新される契約にも異邦人への祝福が含まれるはずです。もし異邦人への祝福が更新されないなら、それは一代限りの祝福と言うことになります。

 

 イサク、ヤコブ、モーセの契約も確認します。

 

7-21

 

1アブラハムの時にあった初めのききんのほか、またききんがその国にあったので、イサクはゲラルにいるペリシテびとの王アビメレクの所へ行った。

2その時、主は彼に現れて言われた、「エジプトへ下ってはならない。わたしがあなたに示す地にとどまりなさい。

3あなたがこの地にとどまるなら、わたしはあなたと共にいて、あなたを祝福し、これらの国をことごとくあなたと、あなたの子孫とに与え、わたしがあなたの父アブラハムに誓った誓いを果そう。

4またわたしはあなたの子孫を増して天の星のようにし、あなたの子孫にこれらの地をみな与えよう。そして地のすべての国民はあなたの子孫によって祝福をえるであろう。

5アブラハムがわたしの言葉にしたがってわたしのさとしと、いましめと、さだめと、おきてとを守ったからである」

6こうしてイサクはゲラルに住んだ。

・・・

23彼はそこからベエルシバに上った。

24その夜、主は彼に現れて言われた、「わたしはあなたの父アブラハムの神である。あなたは恐れてはならない。わたしはあなたと共におって、あなたを祝福し、わたしのしもべアブラハムのゆえにあなたの子孫を増すであろう」。

25それで彼はその所に祭壇を築いて、主の名を呼び、そこに天幕を張った。またイサクのしもべたちはそこに一つの井戸を掘った。≫

(創世記 261-6,23-25)

 

 イサクのもとに神があらわれ、アブラハム契約を更新しました。5節を見ると、アブラハムは神の命令を守り、神の目に適ったと書かれています。そして、アブラハムの故に、神の約束はイサクにも与えられたことが24節からわかります。ですからイサク契約はアブラハム契約の更新です。その内容は以下の通りです。4節は創世記2218と同じ文章のため、2通りの意味があります。アブラハム契約よりシンプルになりましたが基本は同じです。しかし、イサクを祝福した者を神が祝福する約束はありません。

 

●イサク契約

○祝福

(1)神がイサクと共にいる。(創世記 263)

(2)神がイサクを祝福し、これらの国(「約束の土地」)をことごとくイサクと子孫に与える

  (創世記 263,4)

(3)神がイサクの子孫を天の星のように増やす。(創世記 264)

(4)イサクの子孫を通してすべての国々が神に祝福される あるいはイサクの種から出たすべての国民は神が祝福する(創世記 264)

 

○条件

(1)飢饉であるがエジプトに下らず、ゲラルにとどまる。(創世記 262)

 

7-22

 

●イサク契約の判定

 

 イサクの子エサウはエドム人の祖先です。申命記23章ではエドム人を厭ってはならないとありますが、サムエル記上14章ではサウルはエドム人と戦うようになり、サムエル記下8章ではダビデはエドム人18千を討ち殺し、全エドムを隷属させ、列王記上11章ではダビデ配下のヨアブ将軍が6カ月にわたって駐留しエドムの男子をことごとく打ち殺して滅ぼし、エドムの王子ハダドは家臣数人とエジプトに亡命しました。列王記上22章ではダビデ配下の役人がエドムを治めて、エドムに王はなかったと書いてあります。列王記下8章でエドムはユダ王ヨラムから独立して王をたてました。列王記下14章ではアマツヤが1万人のエドム人を討ちました。イザヤ書34章ではエドムは絶滅に定められた民と神の言葉があり、主がエドムで大いなる殺戮を行うと宣告されています。ヨエル書4章ではエドムが滅びの荒れ野になると宣告されています。

 

 歴史上はユダヤ人やエジプト人に吸収され、その中からイドマヤ人ヘロデ大王が現れ、ユダヤを支配します。イエスが誕生したころの王です。彼は自分の親族も含めて粛清を繰り返します (引用文献①p284)

 

 「(4)イサクの子孫を通してすべての国々が神に祝福される あるいはイサクの種から出たすべての国民は神が祝福する」の約束はエサウの子孫を見る限り、神がその約束は果たさなかったことがわかります。(2)の「約束の土地」もイサクの時代は与えられていません。聖書にある約束がすべて果たされるという、無誤説に反する証拠がひとつ見つかりました。

 

7-23

 

10さてヤコブはベエルシバを立って、ハランへ向かったが、

11一つの所に着いた時、日が暮れたので、そこに一夜を過ごし、その所の石を取ってまくらとし、そこに伏して寝た。

12時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。

13そして主は彼のそばに立って言われた、「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが伏している地を、あなたと子孫とに与えよう。

14あなたの子孫は地のちりのように多くなって、西、東、北、南にひろがり、地の諸族はあなたと子孫とによって祝福をうけるであろう

15わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」。

16ヤコブは眠りからさめて言った、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。

・・・

22またわたしが柱に立てたこの石を神の家といたしましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます」。≫

(創世記 2810-16,22)

 

 次はヤコブです。旅の途中で神が現れ契約を更新します。ヘブライ語では14節は創世記123に「あなたの種を通して」の語が追加になった文です。22節で十分の一のものを献げると誓っていますが、これはあくまでも自発的な行為であり、神の契約の項目にはありません。

 

●ヤコブ契約1

○祝福

(1)「約束の土地」を、ヤコブと子孫に与える。(創世記 2813)

 

(2)子孫は地のちりのように多くなって広がる。(創世記 2814)

 

(3)ヤコブとその子孫を通してすべての家族が神に祝福される あるいはヤコブの種から出たすべての家族を神が祝福する。(創世記 2814)

 

(4)どこにいても神がヤコブといて、ヤコブを守り、ヤコブをこの地に連れ帰る。

 (創世記 2815)

 

(5) 神はヤコブを捨てず、語ったことを行う。(創世記 2815)

 

7-24

 

1ときに神はヤコブに言われた、「あなたは立ってベテルに上り、そこに住んで、あなたがさきに兄エサウの顔を避けてのがれる時、あなたに現れた神に祭壇を造りなさい」

2ヤコブは、その家族および共にいるすべての者に言った、「あなたがたのうちにある異なる神々を捨て、身を清めて着物を着替えなさい。

3われわれは立ってベテルに上り、その所でわたしの苦難の日にわたしにこたえ、かつわたしの行く道で共におられた神に祭壇を造ろう」。

4そこで彼らは持っている異なる神々と、耳につけている耳輪をことごとくヤコブに与えたので、ヤコブはこれをシケムのほとりにあるテレビンの木の下に埋めた。

・・・

10神は彼に言われた、「あなたの名はヤコブである。しかしあなたの名をもはやヤコブと呼んではならない。あなたの名をイスラエルとしなさい」。こうして彼をイスラエルと名づけられた。

11神はまた彼に言われた、/「わたしは全能の神である。あなたは生めよ、またふえよ。一つの国民、また多くの国民があなたから出て、/王たちがあなたの身から出るであろう。

12わたしはアブラハムとイサクとに与えた地を、/あなたに与えよう。またあなたの後の子孫にその地を与えよう」。

13神は彼と語っておられたその場所から彼を離れてのぼられた。

14そこでヤコブは神が自分と語られたその場所に、一本の石の柱を立て、その上に灌祭をささげ、また油を注いだ。

15そしてヤコブは神が自分と語られたその場所をベテルと名づけた。≫

(創世記 351-4,10-15)

 

 ここで初めて神が祭壇を造ることを要求しています。他の神々や耳飾りを捨てたのは自発的な行為で、神の命令ではありません。イスラエルと改名する指示もあります。これを加えてヤコブ契約を書き直します。

 

●ヤコブ契約2

 

○祝福

(1)「約束の土地」を、ヤコブと子孫に与える。(創世記 2813)(創世記 3512)

 

(2)子孫は地のちりのように多くなって広がる。(創世記 2814)

 

(3)ヤコブとその子孫を通してすべての家族が神に祝福される あるいはヤコブの種から出たすべての家族を神が祝福する。(創世記 2814)

 

(4)どこにいても神がヤコブといて、ヤコブを守り、ヤコブをこの地に連れ帰る。

 (創世記 2815)

 

(5)神はヤコブを捨てず、語ったことを行う。(創世記 2815)

 

(6)ヤコブからたくさんの民族(国々)がおこり、たくさんの王がでる。(創世記 3511)

 

○命令

(1)ベテルに住み祭壇を造りなさい。(創世記 351)

(2)ヤコブをイスラエルと改名する( 創世記 3510)

 

7-25

 

2この時、神は夜の幻のうちにイスラエルに語って言われた、「ヤコブよ、ヤコブよ」。彼は言った、「ここにいます」。

3神は言われた、「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下るのを恐れてはならない。わたしはあそこであなたを大いなる国民にする。

4わたしはあなたと一緒にエジプトに下り、また必ずあなたを導き上るであろう。ヨセフが手ずからあなたの目を閉じるであろう」。≫

(創世記 462-4

 

●ヤコブ契約の判定

 

 ヨセフがエジプトを管理していた頃に、ヤコブにエジプトに下る命令が出ました。そこでイスラエルを大いなる国民にする約束です。ヤコブはエジプトで死んだので「(4)どこにいても神がヤコブといて、ヤコブを守り、ヤコブをこの地に連れ帰る。(創世記 2815)」の約束は神により変更され、エジプトで死んで遺体がカナンに持ち帰られることになりました(創世記50章)。よってヤコブ契約の一部の約束が守られていません。

 

 創世記に出て来る、神との契約はヤコブで最後です。ヤコブの子の世代では、契約の更新がありませんでした。また400年の時を超えモーセが契約を更新するまで、代々の子孫が契約を更新した記録がありません。よってアブラハム契約(最終形)の「(9)代々の子孫と永遠の契約を結び、彼らの神となる。(創世記 177)」は履行されていないことがわかります。

 

 「代々の子孫と契約は更新されているけれども、聖書では省略され書かれていないだけだ」と主張する人もいるかもしれませんが、その場合は「誰かが神と契約を結んでも聖書に書かれないこともある、聖書に書かれていない神の契約が存在する」と認めることになります。わたしは部分霊感説に立つので、確かに聖書に書かれていない事実もあることに同意します。

 

 そして聖書無誤説に立つ人が、もし、「聖書に書かれていないだけである」と主張するなら、聖書に書いてある事以外にも、神の真実が存在すると認めることになり、ルターに始まる聖書信仰の信条の一つである「聖書のみ」を否定することになります。

 

7-26

 

23多くの日を経て、エジプトの王は死んだ。イスラエルの人々は、その苦役の務のゆえにうめき、また叫んだが、その苦役のゆえの叫びは神に届いた。

24神は彼らのうめきを聞き、神はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚え、

25神はイスラエルの人々を顧み、神は彼らをしろしめされた。

(出エジプト記 223-25)

 

 7-25でヤコブ以降モーセまで、神の契約更新がないと述べましたが、この24節を見てください。苦役の叫びが届くまで、神はイスラエル民族のことを気にかけなかったことがわかります。正確にいうと、記憶はあり覚えているけれど、思い起こすことがなかったという意味になります。「アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を」という部分も、ヤコブの後からモーセと契約するまでの間は、契約更新がなかったことを示唆します。

 

 もっとも自由主義神学ではアブラハム、イサク、ヤコブと併記される理由として、12支族はもともと血縁になく、それぞれ異なる父祖伝説を持っていて、主要な3つの父祖に物語上の血縁関係を持たせることで、民族としての結束を固めたという見解があります(引用文献③p91)。

 

7-27 モーセ契約

 

1モーセは妻の父、ミデヤンの祭司エテロの羊の群れを飼っていたが、その群れを荒野の奥に導いて、神の山ホレブにきた。

2ときに主の使は、しばの中の炎のうちに彼に現れた。彼が見ると、しばは火に燃えているのに、そのしばはなくならなかった。

3モーセは言った、「行ってこの大きな見ものを見、なぜしばが燃えてしまわないかを知ろう」。

4主は彼がきて見定めようとするのを見、神はしばの中から彼を呼んで、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼は「ここにいます」と言った。

5神は言われた、「ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」。

6また言われた、「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。モーセは神を見ることを恐れたので顔を隠した。

7主はまた言われた、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っている。

8わたしは下って、彼らをエジプトびとの手から救い出し、これをかの地から導き上って、良い広い地、乳と蜜の流れる地、すなわちカナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとのおる所に至らせようとしている。

9いまイスラエルの人々の叫びがわたしに届いた。わたしはまたエジプトびとが彼らをしえたげる、そのしえたげを見た。

10さあ、わたしは、あなたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう」。

11モーセは神に言った、「わたしは、いったい何者でしょう。わたしがパロのところへ行って、イスラエルの人々をエジプトから導き出すのでしょうか」。

12神は言われた、「わたしは必ずあなたと共にいる。これが、わたしのあなたをつかわしたしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたがたはこの山で神に仕えるであろう」。

13モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。

14神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。

(出エジプト記 31-14)

 

 神が初めてモーセに顕現した、柴の炎の箇所です。モーセに民と共にエジプトを出て、ホレブ山で礼拝し、また約束の地に連れていく命令が出されます。また神の名が告げられます。

 

●モーセ契約1

 

○祝福

(1)イスラエル民族をエジプトの労役から救いだし、「約束の土地」に連れていく。

 (出エジプト記 38,10)

(2)モーセを遣わしたしるしとして神がモーセと共にいる。(出エジプト記 312)

(3)エジプトを出たのちホレブ山で神に仕える。(出エジプト記 312)

(4)神の名を告げられる(出エジプト記 314)

 

○命令

(1)聖なる土地なので靴を脱ぐこと(出エジプト記 35)

(2)モーセはパロのところにいって民をエジプトから去らせる交渉をする。

 (出エジプト記 310)

(3)モーセはイスラエル民族のところに神によって遣わされる(出エジプト記 314)

 

7-28

 

1主はエジプトの国で、モーセとアロンに告げて言われた、

2「この月をあなたがたの初めの月とし、これを年の正月としなさい。

3あなたがたはイスラエルの全会衆に言いなさい、『この月の十日におのおの、その父の家ごとに小羊を取らなければならない。すなわち、一家族に小羊一頭を取らなければならない。

4もし家族が少なくて一頭の小羊を食べきれないときは、家のすぐ隣の人と共に、人数に従って一頭を取り、おのおの食べるところに応じて、小羊を見計らわなければならない。

5小羊は傷のないもので、一歳の雄でなければならない。羊またはやぎのうちから、これを取らなければならない。

6そしてこの月の十四日まで、これを守って置き、イスラエルの会衆はみな、夕暮にこれをほふり、

7その血を取り、小羊を食する家の入口の二つの柱と、かもいにそれを塗らなければならない。

8そしてその夜、その肉を火に焼いて食べ、種入れぬパンと苦菜を添えて食べなければならない。

9生でも、水で煮ても、食べてはならない。火に焼いて、その頭を足と内臓と共に食べなければならない。

10朝までそれを残しておいてはならない。朝まで残るものは火で焼きつくさなければならない。

11あなたがたは、こうして、それを食べなければならない。すなわち腰を引きからげ、足にくつをはき、手につえを取って、急いでそれを食べなければならない。これは主の過越である。

12その夜わたしはエジプトの国を巡って、エジプトの国におる人と獣との、すべてのういごを打ち、またエジプトのすべての神々に審判を行うであろう。わたしは主である。

13その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。わたしがエジプトの国を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう。

14この日はあなたがたに記念となり、あなたがたは主の祭としてこれを守り、代々、永久の定めとしてこれを守らなければならない。

15七日の間あなたがたは種入れぬパンを食べなければならない。その初めの日に家からパン種を取り除かなければならない。第一日から第七日までに、種を入れたパンを食べる人はみなイスラエルから断たれるであろう。

16かつ、あなたがたは第一日に聖会を、また第七日に聖会を開かなければならない。これらの日には、なんの仕事もしてはならない。ただ、おのおのの食べものだけは作ることができる。

17あなたがたは、種入れぬパンの祭を守らなければならない。ちょうど、この日、わたしがあなたがたの軍勢をエジプトの国から導き出したからである。それゆえ、あなたがたは代々、永久の定めとして、その日を守らなければならない。

18正月に、その月の十四日の夕方に、あなたがたは種入れぬパンを食べ、その月の二十一日の夕方まで続けなければならない。

19七日の間、家にパン種を置いてはならない。種を入れたものを食べる者は、寄留の他国人であれ、国に生れた者であれ、すべて、イスラエルの会衆から断たれるであろう。

20あなたがたは種を入れたものは何も食べてはならない。すべてあなたがたのすまいにおいて種入れぬパンを食べなければならない』」。

21そこでモーセはイスラエルの長老をみな呼び寄せて言った「あなたがたは急いで家族ごとに一つの小羊を取り、その過越の獣をほふらなければならない。

22また一束のヒソプを取って鉢の血に浸し、鉢の血を、かもいと入口の二つの柱につけなければならない。朝まであなたがたは、ひとりも家の戸の外に出てはならない。

23主が行き巡ってエジプトびとを撃たれるとき、かもいと入口の二つの柱にある血を見て、主はその入口を過ぎ越し、滅ぼす者が、あなたがたの家にはいって、撃つのを許されないであろう。

24あなたがたはこの事を、あなたと子孫のための定めとして、永久に守らなければならない。

25あなたがたは、主が約束されたように、あなたがたに賜る地に至るとき、この儀式を守らなければならない。

26もし、あなたがたの子供たちが『この儀式はどんな意味ですか』と問うならば、

27あなたがたは言いなさい、『これは主の過越の犠牲である。エジプトびとを撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越して、われわれの家を救われたのである』」。民はこのとき、伏して礼拝した。

28イスラエルの人々は行ってそのようにした。すなわち主がモーセとアロンに命じられたようにした。

29夜中になって主はエジプトの国の、すべてのういご、すなわち位に座するパロのういごから、地下のひとやにおる捕虜のういごにいたるまで、また、すべての家畜のういごを撃たれた。

30それでパロとその家来およびエジプトびとはみな夜のうちに起きあがり、エジプトに大いなる叫びがあった。死人のない家がなかったからである。

31そこでパロは夜のうちにモーセとアロンを呼び寄せて言った、「あなたがたとイスラエルの人々は立って、わたしの民の中から出て行くがよい。そしてあなたがたの言うように、行って主に仕えなさい。

32あなたがたの言うように羊と牛とを取って行きなさい。また、わたしを祝福しなさい」。

33こうしてエジプトびとは民をせき立てて、すみやかに国を去らせようとした。彼らは「われわれはみな死ぬ」と思ったからである。

34民はまだパン種を入れない練り粉を、こばちのまま着物に包んで肩に負った。

35そしてイスラエルの人々はモーセの言葉のようにして、エジプトびとから銀の飾り、金の飾り、また衣服を請い求めた。

36主は民にエジプトびとの情を得させ、彼らの請い求めたものを与えさせられた。こうして彼らはエジプトびとのものを奪い取った。

37さて、イスラエルの人々はラメセスを出立してスコテに向かった。女と子供を除いて徒歩の男子は約六十万人であった。

38また多くの入り混じった群衆および羊、牛など非常に多くの家畜も彼らと共に上った。

39そして彼らはエジプトから携えて出た練り粉をもって、種入れぬパンの菓子を焼いた。まだパン種を入れていなかったからである。それは彼らがエジプトから追い出されて滞ることができず、また、何の食料をも整えていなかったからである。

40イスラエルの人々がエジプトに住んでいた間は、四百三十年であった。

41四百三十年の終りとなって、ちょうどその日に、主の全軍はエジプトの国を出た。

42これは彼らをエジプトの国から導き出すために主が寝ずの番をされた夜であった。ゆえにこの夜、すべてのイスラエルの人々は代々、主のために寝ずの番をしなければならない。

43主はモーセとアロンとに言われた、「過越の祭の定めは次のとおりである。すなわち、異邦人はだれもこれを食べてはならない。

44しかし、おのおのが金で買ったしもべは、これに割礼を行ってのち、これを食べさせることができる。

45仮ずまいの者と、雇人とは、これを食べてはならない。

46ひとつの家でこれを食べなければならない。その肉を少しも家の外に持ち出してはならない。また、その骨を折ってはならない。

47イスラエルの全会衆はこれを守らなければならない。

48寄留の外国人があなたのもとにとどまっていて、主に過越の祭を守ろうとするときは、その男子はみな割礼を受けてのち、近づいてこれを守ることができる。そうすれば彼は国に生れた者のようになるであろう。しかし、無割礼の者はだれもこれを食べてはならない。

49この律法は国に生れたものにも、あなたがたのうちに寄留している外国人にも同一である」。

50イスラエルの人々は、みなこのようにし、主がモーセとアロンに命じられたようにした。

51ちょうどその日に、主はイスラエルの人々を、その軍団に従ってエジプトの国から導き出された。≫

(出エジプト記 121-51)

 

 1節から20節で過ぎ越しの祭りと種入れぬパンの祭りの起源と方法を、神が説明しています。その後、モーセが長老に説明し、主がエジプトの初子を打ち、イスラエル民族はエジプトを出ます。さらに42節から49節まで、神による過ぎ越しの祭りに参加できるかどうかの補足説明があります。

 

 神による祭りの説明が長く詳細過ぎることがとても不自然です。そのせいで、エジプトを命がけで脱出するエピソードに臨場感が欠けています。そして、祭りについての説明が1節から20節にあり、その由来が21節以降にかいてあるという文章は、史実の記録として不自然で、いかにも祭りの手順に由来を付記した祭祀の手引書として作成されたような構成です。

 

 15節から20節で、主の過ぎ越しの記念として、パン種を入れないパンを7日間食べなくてはならないと、神の指示があります。その後、21節でモーセが長老に過ぎ越しの準備の説明をしました。「急いで子羊を屠り、入口の柱と鴨居にその血を塗り、朝まで戸外に出てはならない」と述べています。そして29節をみるとその日の夜中に主の過越しがありますから、1節から20節の説明は正月の14日に神から、モーセに与えられたことになります。

 

 そしてこの14日の夕方から21日まで、パン種を入れないパンを7日間食べる指示も神により与えられていますから、14日にパン種のない練り粉をイスラエルの各家庭で準備したはずです。つまり、過ぎ越しとエジプト脱出がくることは前もってわかっていたので、出エジプト時点では7日間の祭りのために、前もってパン種を入れない練り粉を準備していたはずです。

 

 ところが34節と39節では出エジプトの際に、時間がなくてパン種を入れない練り粉しか持ち出せなかったという説明があり、矛盾しています。パン種を入れていないのは主の指示で前もって準備した結果であり、準備する時間がなかったからではないのです。なぜなら前もって神が通知していたのだから、過越しの子羊を準備して屠り、その血を柱と鴨居に塗り、種入れぬパンの祭りの準備をするほどの時間はあったからです。

 

 その準備の時間がなかったなら、いつもの食事のために用意してあった、通常通りのパン種で発酵済みの練り粉しかなかったでしょう。つまり、時間がないなら、パン種を入れない練り粉は用意できず、練る前の小麦粉しか持ち出せなかったはずです。

 

 逆にこう考えた方が良いかもしれません。2つの可能性があります。

 

 神による事前の警告はなかったけれど、出エジプトが本当にあったと仮定するなら、逃走の際に時間がなくて、食料さえ十分に持ち出せないという体験が先にあり、その後にこれを記念して種入れぬパンの祭りをおこなうようになったと考えるのです。上記の通り、通常は小麦を練るとすぐにパン種を入れて発酵させるわけですから、逃走の際にパン種を入れない練り粉を持ち出すことは考えにくいわけです。だから、種入れぬパンの使用は儀式におけるパンがなかったという象徴であり、実際にそれを持ち歩いたとは考えにくいです。出エジプトの時に時間がなくて急いでいるなら、持ち出すのは未加工で袋詰めの小麦粉が優先されたでしょう。そして、急いでいるのでパン種までは気が回らずに忘れてしまい、しばらく、発酵しないパンしか食べられなかったのではないでしょうか? 

 

 その理由を後に文書にする時に、神の指示で祭りを始めたと権威づけしたかったので、出エジプトのエピソードの前に挿入してしまい、こうした矛盾が生じたと考えるのが妥当でしょう。つまり1節から20節は神の言葉ではなく、後世の祭司や書記が挿入した人の言葉と見た方が理解しやすいのです。

 

 出エジプトがなかったと仮定して考えてみましょう。考古学的には出エジプトの痕跡が確認できない(引用文献①p27p97102)のですから、由来がわからない子羊の血を家の入口に塗る魔よけの儀式と、出エジプトとは関係のない種入れぬパンを食べる儀式がまずあって、これの起源神話として出エジプト物語に結び付けられたと考えるほうが私には理解しやすいです。血を鴨居と柱に塗る魔よけの習慣は日本でも沖縄にありますし、生贄の血が清めになるというのは古代においては普遍性をもつ思考なのではないでしょうか? イスラエル民族も血を清めに用いていた民族ですから、同じような野生の思考をすることは考えられます。

 

 ここで追加された命令を加えて書き直します。

 

●モーセ契約2

 

○祝福

(1)イスラエル民族をエジプトの労役から救いだし、「約束の土地」に連れていく。

 (出エジプト記 38,10)

(2)モーセを遣わしたしるしとして神がモーセと共にいる。(出エジプト記 312)

(3)エジプトを出たのちホレブ山で神に仕える。(出エジプト記 312)

(4)神の名を告げられる(出エジプト記 314)

(5)出エジプトの際にエジプト人からたくさんの金銀、衣服などを得させた。

 (出エジプト記 1236)

○命令

(1)聖なる土地なので靴を脱ぐこと (出エジプト記 35)

(2)モーセはパロのところにいって民をエジプトから去らせる交渉をする。

 (出エジプト記 310)

(3)モーセはイスラエル民族のところに神によって遣わされる (出エジプト記 314)

(4)正月の決定 (出エジプト記 31)

(5)過ぎ越しの祭りの義務化 (出エジプト記 1214)

(6)種入れぬパンの祭りの義務化 (出エジプト記 1217)

 

 今までの契約と違い義務が多いという事に気づきませんか? 私は宗教的な祭りと言うのは、通常は何かに感謝した民が自発的に行うようになるか、何かを恐れる民がそれを鎮めるために行うものと解釈していましたが、イスラエルの神は自分で祭りを要求するところが気になります。先ほどのパン種の矛盾などから考えると、後世の祭司たちが神を持ち出して祭りの権威づけに利用した可能性が考えられます。

 

7-29

 

1主はモーセに言われた、

2イスラエルの人々のうちで、すべてのういご、すなわちすべて初めに胎を開いたものを、人であれ、獣であれ、みな、わたしのために聖別しなければならない。それはわたしのものである」。

3モーセは民に言った、「あなたがたは、エジプトから、奴隷の家から出るこの日を覚えなさい。主が強い手をもって、あなたがたをここから導き出されるからである。種を入れたパンを食べてはならない。

4あなたがたはアビブの月のこの日に出るのである。

5主があなたに与えると、あなたの先祖たちに誓われたカナンびと、ヘテびと、アモリびと、ヒビびと、エブスびとの地、乳と蜜との流れる地に、導き入れられる時、あなたはこの月にこの儀式を守らなければならない。

・・・

14後になって、あなたの子が『これはどんな意味ですか』と問うならば、これに言わなければならない、『主が強い手をもって、われわれをエジプトから、奴隷の家から導き出された。

15そのときパロが、かたくなで、われわれを去らせなかったため、主はエジプトの国のういごを、人のういごも家畜のういごも、ことごとく殺された。それゆえ、初めて胎を開く男性のものはみな、主に犠牲としてささげるが、わたしの子供のうちのういごは、すべてあがなうのである』。≫

(出エジプト記 131-5,14-15)

 

 今度は動物も、人も初子を神に献げる命令です。献げなさいという勧奨ではなく、すべての初子は自分のものであるという宣言です。理由が15節にあります。神がエジプト人の初子をことごとく殺したので、イスラエルはすべての初子を犠牲として献げよと言うのです。但し人間の子供は殺さずに贖い金で買い戻すのです。

 

 はっきりいうと、通常のロジックが成り立っていません。神に逆らうエジプト人の初子を神がことごとく殺したことは理解できます。しかし神に従うイスラエルの初子を、なぜ犠牲として殺して献げるのか? わたしにはよくわかりません。片方は聖絶して永久に滅ぼし、片方は聖別して神の用に用いるという意味でしょうか?

 

 出エジプトは初めから約束されていたことです。パロが神に逆らうようにかたくなにしたのも神です。初めから神が計画し、アブラハムの時には無条件で約束したことに対して、モーセの時には後出しで、次々と新たな義務が課せられていくことに対して、私は疑問を感じるのです。

 

 創世記にみる、気前がよく無条件で祝福の約束をする神と、出エジプト記にみる、細かく介入し、無条件で約束した契約に事後に義務を課していく神、なぜ、創世記と出エジプト記では神の気質が異なるのか? 出エジプト記では神があまりにも具体的な法律を決めていくので、話の流れがとても不自然になってしまいます。これもやはり、パン種をいれない練り粉と同様に、後世に祭司集団が法律に権威づけするために作った物語なのではないかと勘繰ってしまいます。

 

 神への献げものと言っても、実際は神殿と祭司へ与えられるのですから、動物も穀物も、人の初子の贖い金も祭司のものになります。だから、祭司集団がそれを神の言葉として書き加えたのではないかと考えるのです。そうであれば、創世記で自発的であった献げ物が、出エジプト記以降では義務化されていくこと、一方で新約聖書では、献金は具体的な義務としてよりも、勧奨であり、自発性が重んじられている事との差異が理解しやすいのです。

 

○命令

(7)すべての初子を神に犠牲として献げる。ただし、人間の初子は贖い金で買い戻す。

 (出エジプト記 1315)

 

7-30

 

1さて、モーセのしゅうと、ミデアンの祭司エテロは、神がモーセと、み民イスラエルとにされたすべての事、主がイスラエルをエジプトから導き出されたことを聞いた。

2それでモーセのしゅうと、エテロは、さきに送り返されていたモーセの妻チッポラと、

3そのふたりの子とを連れてきた。そのひとりの名はゲルショムといった。モーセが、「わたしは外国で寄留者となっている」と言ったからである。

4ほかのひとりの名はエリエゼルといった。「わたしの父の神はわたしの助けであって、パロのつるぎからわたしを救われた」と言ったからである。

5こうしてモーセのしゅうと、エテロは、モーセの妻子を伴って、荒野に行き、神の山に宿営しているモーセの所にきた。

6その時、ある人がモーセに言った、「ごらんなさい。あなたのしゅうと、エテロは、あなたの妻とそのふたりの子を連れて、あなたの所にこられます」。

7そこでモーセはしゅうとを出迎えて、身をかがめ、彼に口づけして、互に安否を問い、共に天幕にはいった。

8そしてモーセは、主がイスラエルのために、パロとエジプトびととにされたすべての事、道で出会ったすべての苦しみ、また主が彼らを救われたことを、しゅうとに物語ったので、

9エテロは主がイスラエルをエジプトびとの手から救い出して、もろもろの恵みを賜わったことを喜んだ。

10そしてエテロは言った、「主はほむべきかな。主はあなたがたをエジプトびとの手と、パロの手から救い出し、民をエジプトびとの手の下から救い出された。

11今こそわたしは知った。実に彼らはイスラエルびとにむかって高慢にふるまったが、主はあらゆる神々にまさって大いにいますことを」。

12そしてモーセのしゅうとエテロは燔祭と犠牲を神に供え、アロンとイスラエルの長老たちもみなきて、モーセのしゅうとと共に神の前で食事をした。

(出エジプト記 181-12)

 

 以前から気になっていたことですが、出エジプト2章でモーセはエジプトから逃れ、エトロ(エテロ)のもとに滞在しています。エジプトから導きだした神の前で、エトロは犠牲を献げて神を賛美し、モーセや他の長老と神の前で食事を共にしています。あたかもエトロもイスラエルの神を信じている人のようです。しかし民数記1029を見るとホバブというモーセの義兄のミディアン人がでてくるので、モーセの妻もエトロもホバブもミディアン人であるとわかります。

 

 民数記25章では、主がミディアン人を討つように命じています。理由はミディアン人の女たちがイスラエルの民を惑わして、カナン人の神々ペオルのバアルを拝ませたためです。だからミディアン人の神はバアルであったことがわかります。モーセはミディアン人の祭司エトロのもとに何十年も滞在し妻をめとっていたのですが、その期間において、モーセはバアルの祭司エトロと共にバアルに仕えていたのでしょうか? それともエトロは初めからYHWHを礼拝していたのでしょうか?

 

 モーセは成人したころエジプトを逃げ、祭司エトロ(レウエル)のもとで羊を飼って暮らします。YHWHが初めてモーセに顕現したのはモーセが80歳になる頃です。モーセがエトロのもとに寄留している何十年もの間に、モーセがエトロを感化してYHWHの祭司にしたわけではありません。なぜなら、モーセはエトロに油注いで祭司にする権威を、まだ神から与えられていないからです。

 

 エトロがイスラエルと共にYHWHを礼拝できるなら、エトロが初めからYHWHの祭司でないと辻褄が合わないのです。エトロはバアルを拝むミディアン人の中で、珍しくYHWHを信仰していた特殊なミディアン人であったかもしれません。ミディアン人は創世記25章によるとアブラハムとケトラに生まれたミディアンの子孫です。しかしアブラハム契約はイサクが受け継いだので、ミディアン人はアブラハム契約の継承者ではありません。

 

 そうであるなら、メルキゼデクに続いて、アブラハム契約によらない第2のいと高き神の祭司の出現です。アブラハム(イスラエル人)、メルキゼデク(エブス人)、エトロ(ミディアン人)という3つの民族にYHWHの祭司系統があることになります。YHWHと契約した民は本当にイスラエルだけなのでしょうか?

 

「エトロがミディアン人ならアブラハムの子孫なので、YHWHの祭司でもおかしくない」という反論があるかと思います。しかしケトラとその子供たちと、ハガルとその子イシュマエルは創世記256によるとすべてアブラハムの生きている間に東の地に移住させられ、255ではイサクが全財産を受けついでいます。つまり、ミディアンの子孫であるエトロも、ヘブライの民から断たれた存在なのです。

 

 そしてミディアンはレビの子孫ではありません。またレビ人が祭司職に定められたのは出エジプト記32章であり、モーセがレビ族を祭司職に任じたのです。エトロはそれ以前に既に祭司であり、モーセに任命されたのではありません。だからエトロがYHWHの祭司であるなら、アブラハム契約と独立して、別の契約をYHWHと結んだはずです。

 

 民数記31章では、ミディアン人の男子を皆殺しにして、女と子供は捕虜にし、家畜財産富のすべてを奪い取り、町々村落宿営地に火をつけ、ことごとく焼き払っています。モーセの妻やエトロ、ホバブは殺害されたという記載がないので、イスラエル民族集団に取り込まれて殺害を免れたはずです。もし、YHWHを信仰していなければ、殺害されたでしょう。

 

 歴史学的にミディアン地方の「シャス」という民が、飢饉でエジプトに何度も流入した記録がエジプトにあります(引用文献①p28)。ミディアンの祭祀エトロ(エテロ)はこの「シャス」だったのではないかと思います(シャスはミディアン人やイシュマエル人と同定される様子)。シャスはYHWと言う名の神を信仰していたそうです。ここでシャスの神概念がイスラエルに取り入れられたのではないでしょうか。創世記と出エジプト記の神の気質の差異にも、このシャスの神概念の取り込みが、なにか関係あるかもしれません。

 

 もっとも出エジプトがなかった立場に立てば、初めからシャスであったモーセとその率いる集団がイスラエルの集団に取り込まれる際に、神概念の習合が起こったというだけの話ですが。

 

7-31

 

1イスラエルの人々は、エジプトの地を出て後三月目のその日に、シナイの荒野にはいった。

2すなわち彼らはレピデムを出立してシナイの荒野に入り、荒野に宿営した。イスラエルはその所で山の前に宿営した。

3さて、モーセが神のもとに登ると、主は山から彼を呼んで言われた、「このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げなさい、

4『あなたがたは、わたしがエジプトびとにした事と、あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの所にこさせたことを見た。

5それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。

6あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう』。これがあなたのイスラエルの人々に語るべき言葉である」。

7それでモーセは行って民の長老たちを呼び、主が命じられたこれらの言葉を、すべてその前に述べたので、

8民はみな共に答えて言った、「われわれは主が言われたことを、みな行います」。モーセは民の言葉を主に告げた。≫

(出エジプト記 191-8)

 

 シナイ山で主が顕現し、モーセに、ある条件付き祝福が与えられました。それは「民族全体がある契約を守ると聖別されて神の祭司の民とされ、すべての民にまさってYHWHの宝となる」というものです。これに対して民の長老たちがこれを守ることを誓いました。

 

 いままでの創世記に出た、アダム、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブと結んだ契約とは著しい違いがあります。創世記では個人と神の契約でしたが、モーセ契約では民族と神との契約になったという事です。いままでは、ある人が契約を結び、祝福が周りに及んでいくという形式をとっていたものが、モーセ契約以降は、集団が契約を結び、祝福が集団で共有されるという形式に変化が起こっています。

 

 またモーセ契約では周りの国々に祝福が及ぶという項目がないことも、創世記の契約との違いです。7-20で述べたこと、つまり異邦人への祝福が更新の際に契約から外されたということが確認できます。アブラハム契約に「すべての国々に祝福が及ぶ」とありますが、この「国々」とは、やはりアブラハムの子孫が造る国々を指していたのではないでしょうか? あるいは異邦人への祝福は、創世記の父祖時代に限った約束だったのかもしれません。

 

○条件付き祝福

(1)a民全体がある契約を守るなら、イスラエル民族を聖別してすべての民に勝る神(YHWH)の祭司の民とする。すべての民にまさってYHWHの宝となる。

 (出エジプト記 195-6)

 

7-32

 

1神はこのすべての言葉を語って言われた。

2「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。

3あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。

4あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。

5それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、

6わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。

7あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。

8安息日を覚えて、これを聖とせよ。

9六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。

10七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。

11主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。

12あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。

13あなたは殺してはならない。

14あなたは姦淫してはならない。

15あなたは盗んではならない。

16あなたは隣人について、偽証してはならない。

17あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」。

18民は皆、かみなりと、いなずまと、ラッパの音と、山の煙っているのとを見た。民は恐れおののき、遠く離れて立った。

19彼らはモーセに言った、「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞き従います。神がわたしたちに語られぬようにしてください。それでなければ、わたしたちは死ぬでしょう」。

20モーセは民に言った、「恐れてはならない。神はあなたがたを試みるため、またその恐れをあなたがたの目の前において、あなたがたが罪を犯さないようにするために臨まれたのである」。

21そこで、民は遠く離れて立ったが、モーセは神のおられる濃い雲に近づいて行った。

22主はモーセに言われた、「あなたはイスラエルの人々にこう言いなさい、『あなたがたは、わたしが天からあなたがたと語るのを見た。

23あなたがたはわたしと並べて、何をも造ってはならない。銀の神々も、金の神々も、あなたがたのために、造ってはならない。

24あなたはわたしのために土の祭壇を築き、その上にあなたの燔祭、酬恩祭、羊、牛をささげなければならない。わたしの名を覚えさせるすべての所で、わたしはあなたに臨んで、あなたを祝福するであろう。

25あなたがもしわたしに石の祭壇を造るならば、切り石で築いてはならない。あなたがもし、のみをそれに当てるならば、それをけがすからである。

26あなたは階段によって、わたしの祭壇に登ってはならない。あなたの隠し所が、その上にあらわれることのないようにするためである』。≫

(出エジプト記 201-26)

 

 20章はいわゆるモーセの十戒です。モーセの宣べ伝えた神以外のなにものをも神としてはならないここと、刻んだ像を造ってはならないことが強く主張されています。また祭壇を築き、献げ物をすることが規定されました。祭司の民となる条件が列挙されていきます。

 

○条件付き祝福

(1)a民全体がある契約を守るなら、イスラエル民族を聖別してすべての民に勝る神(YHWH)の祭司の民とする。すべての民にまさってYHWHの宝となる。(出エジプト記 195-6)

(1)bモーセの宣べ伝えた神を愛し、戒めを守る者に千代にわたって恵みを施す。モーセの宣べ伝えた神を憎むものには4代にわたって、その罪に報いる。

 

○その条件

①モーセに現れた神以外のなにものも神としてはならない。拝む像を造ってはならない。他の神にひれ伏してはならない。(出エジプト記 203-5,23)

②みだりに神の名を唱えてはならない。(出エジプト記 207)

③祭壇を造り献げ物をする義務。(出エジプト記 2024)

 

 ここも、いままでのアダム、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブと結んだ契約とは著しい違いがあります。創世記の契約では、個人に顕現した神に対しての素朴な信頼という、個人の信仰の問題であったものが、出エジプトの契約では、モーセ以外は接触できないにも関わらず、神と民全体との間に契約が結ばれるという形態へと変化しています。つまり創世記では個人の信仰であったものが、出エジプト記以降は宗教に変化してしまうのです。

 

 そして創世記にみられる、素朴な神への信頼という関係ではなく、出エジプト記では他の神とかかわりを持たないことでしか、YHWHとの関係を保てない形態に変化してしまいます。またホレブ山で民全体に神が顕現した際にも、恐れのためモーセ以外は神と会見ができません、つまり、モーセ以外の民は神と直接交渉できないのです。個人の信仰から集団の宗教への変化、それが律法の細則であるモーセの掟が必要となった理由なのです。

 

 個人の信仰であれば、神が個別に示されたことを実行していたらそれで充分なのです。従わなければ個別に罰が下るでしょう。しかし民族集団の宗教となってしまうとそうはいきません。モーセ以外は神と接触できないのですから、モーセが民族集団に適用するルールを提示しなければなりません。そしてサムエル記下24章にみるように、指導者が問題を起こすと民全体に災いが及ぶという、理不尽に見える裁きがなされるようになっていきます。

 

 神は何故、指導者を直接罰しないのでしょうか? ここが創世記と出エジプト紀以降の差異です。もし個々人が神に誠実でも、指導者の罪で民が滅ぼされるなら、モーセ契約の条件付き祝福である「(1)bモーセの宣べ伝えた神を愛し、戒めを守る者に千代にわたって恵みを施す。モーセの宣べ伝えた神を憎むものには4代にわたって、その罪に報いる。」と矛盾が生じます。

 

 指導者の罪のゆえに、神を愛する民に神が罰を与えるなら、出エジプトの神の言動は自己矛盾を起こします。なぜ神は指導者の罪のゆえに、民を罰する必要があるのでしょうか? 神が罰を与えるのではなく、指導書の軍事や政治の判断ミスで民が巻き添えになり、ただ敵に滅ぼされるだけではないでしょうか? サムエル記下24章のダビデが民の数を数えたせいで神が怒り、疫病をもたらしたという解釈は正しいのでしょうか?

 

 自由主義神学的にいうと、この理不尽な裁きは後付の理由に過ぎないとされます。災難や捕囚を体験した、のちの世代がその原因として指導者の背信を持ち出して、因果論を構築しただけであるというのです。

 

7-33

 

20主のほか、他の神々に犠牲をささげる者は、断ち滅ぼされなければならない。

(出エジプト記 2220) 

 

13わたしが、あなたがたに言ったすべての事に心を留めなさい。他の神々の名を唱えてはならない。また、これをあなたのくちびるから聞えさせてはならない。

14あなたは年に三度、わたしのために祭を行わなければならない。

15あなたは種入れぬパンの祭を守らなければならない。わたしが、あなたに命じたように、アビブの月の定めの時に七日のあいだ、種入れぬパンを食べなければならない。それはその月にあなたがエジプトから出たからである。だれも、むなし手でわたしの前に出てはならない。

・・・

31わたしは紅海からペリシテびとの海に至るまでと、荒野からユフラテ川に至るまでを、あなたの領域とし、この地に住んでいる者をあなたの手にわたすであろう。あなたは彼らをあなたの前から追い払うであろう。

32あなたは彼ら、および彼らの神々と契約を結んではならない。

(出エジプト記 2313-15,31-32)

 

 以降20章から23章まで具体的な契約の内容が列挙されます。ここの引用に見るように、

とにかく他の神々と契約を結んではならないことが繰り返し出てきます。こんな注意は創世記には出てきません。そのことをどう考えたらよいでしょうか? ひょっとすると神とイスラエルの民の間には、信頼関係が成立していないのかもしれません。神は民を疑い、民は神を疑う、そういう状態でなければこのような注意は不要です。

 

 ホレブ山で民全体が神の顕現を体験したにも関わらず、神との信頼関係が成立していない事は、創世記における神顕現の物語とは大きく異なる要素です。創世記では神に会った人たちは、声であれ、幻であれ、夢であれ、それが神であることを疑う余地もないほど、はっきりした確信を体験から得ることができたのです。一方で出エジプト記のホレブ山では驚異的な神的現象を伴い、しかも民全体で体験し複数の証人がいるので、神の権威は疑う余地もないはずなのに、なぜ創世記のような素朴な神への信頼を持つに至らなかったのでしょう?

 

 創世記では、そのような奇跡的な現象をもって神が顕現することはありません。創世記の神と出エジプト記の神は出現する様式も違いがあるし、顕現したのちにその人に与える信頼感にも大きな違いがあります。創世記の神は祝福と確信を与え、自発的に神に従うようにさせる能力を持っています。しかし出エジプト記の神は、法律で縛り、従わない者を殺し、追放する神です、そしてそこまで掟で縛っても民は神に背信しつぶやきます。その違いはどこから来るのでしょうか?

 

 この違いを自由主義神学的に考察すると、創世記は父祖伝承がベースにあって、後世の解釈にて編纂したのですが、テーマが世界の成り立ちを説明する目的なので素朴です。しかし出エジプト記から申命記は、ダビデ王朝で成立していた法体系や社会制度に、神話的権威づけをするために書かれた文書であると考えられ、そのために、司法制度や、国家権力のもつ強制的、強権的、権威主義的、絶対王政的なものが反映されているので、神の性格もおのずと異なるのでしょう。出エジプト記で神と民に相互不信が見られるのはそのためではないかと思います。つまり、為政者の言葉を、神とモーセに代弁させているのです。これでは神の言葉に不純物が混入してしまいます。ホレブ山の神顕現の物語が後付の創作であるならば、出エジプト後も神との自然な相互の信頼関係が生じなかった理由が説明できます。

【7.アブラハム契約と律法】( 2 / 2 )

7-34~7-77

7-34

 

1また、モーセに言われた、「あなたはアロン、ナダブ、アビウおよびイスラエルの七十人の長老たちと共に、主のもとにのぼってきなさい。そしてあなたがたは遠く離れて礼拝しなさい。

2ただモーセひとりが主に近づき、他の者は近づいてはならない。また、民も彼と共にのぼってはならない」。

3モーセはきて、主のすべての言葉と、すべてのおきてとを民に告げた。民はみな同音に答えて言った、「わたしたちは主の仰せられた言葉を皆、行います」。

4そしてモーセは主の言葉を、ことごとく書きしるし、朝はやく起きて山のふもとに祭壇を築き、イスラエルの十二部族に従って十二の柱を建て、

5イスラエルの人々のうちの若者たちをつかわして、主に燔祭をささげさせ、また酬恩祭として雄牛をささげさせた。

6その時モーセはその血の半ばを取って、鉢に入れ、また、その血の半ばを祭壇に注ぎかけた。

7そして契約の書を取って、これを民に読み聞かせた。すると、彼らは答えて言った、「わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います」。

8そこでモーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った、「見よ、これは主がこれらのすべての言葉に基いて、あなたがたと結ばれる契約の血である」。≫

(出エジプト記241-8)

 

 この引用部分をもって、神と民との契約が成立したことがわかります。ここまで延々と列挙された(実際は申命記まで続く)法律的な掟をわたしは、これ以降「モーセの法律、社会制度的な掟」と呼びます。(律法と言うとモーセ五書全体になってしまうので法律と言う語を用います)

 

 今までの情報をもとにモーセ契約を書き直します。

 

●モーセ契約3

 

○無条件な祝福

(1)イスラエル民族をエジプトの労役から救いだし、「約束の土地」に連れていく。

 (出エジプト記 38,10)

(2)モーセを遣わしたしるしとして神がモーセと共にいる。(出エジプト記 312)

(3)エジプトを出たのちホレブ山で神に仕える。(出エジプト記 312)

(4)神の名を告げられる(出エジプト記 314)

(5)出エジプトの際にエジプト人からたくさんの金銀、衣服などを得させた。

 (出エジプト記 1236)

 

○条件付き祝福

(1)a民全体がモーセ契約を守るなら、イスラエル民族を聖別してすべての民に勝る神(YHWH)の祭司の民とする。すべての民にまさってYHWHの宝となる。

  (出エジプト記 195-6)

 bモーセの宣べ伝えた神を愛し、戒めを守る者に千代にわたって恵みを施す。モーセの宣べ伝えた神を憎むものには4代にわたって、その罪に報いる。

 

(1)の条件

 ①モーセに現れた神以外のなにものも神としてはならない。(出エジプト記 203)

  拝む像を造ってはならない。 (出エジプト記 2042023)

  他の神と契約を結んではならない。(出エジプト記 2052332)

   他の神々の名を唱えてはならない(出エジプト記 2313)

 ②みだりに神の名を唱えてはならない。(出エジプト記 207)

 ③祭壇を造り献げ物をする義務 (出エジプト記 2024) 

   祭りを行う義務 (出エジプト記 2314)

 ④他の神々に犠牲をささげる者は断ち滅ぼさねばならない。(出エジプト記 2220)

 ⑤そのほかの「モーセの法律、社会制度的な掟」の細則に至るまで民全体が守る。

   (出エジプト記 20章から23章、レビ記、申命記の掟)

 

○命令

(1)聖なる土地なので靴を脱ぐこと (出エジプト記 35)

(2)モーセはパロのところにいって民をエジプトから去らせる交渉をする。

 (出エジプト記 310)

(3)モーセはイスラエル民族のところに神によって遣わされる (出エジプト記 314)

(4)正月の決定 (出エジプト記 31)

(5)過ぎ越しの祭りの義務化 (出エジプト記 1214)

(6)種入れぬパンの祭りの義務化 (出エジプト記 1217)

(7)すべての初子を神に犠牲として献げる。ただし、人間の初子は贖い金で買い戻す。

 (出エジプト記 1315)

 

 これをアブラハム契約、イサク契約、ヤコブ契約と比較すると、まず第1には4つの契約に共通するのは、エジプトを出て「約束の土地」に連れていく約束のみであることがわかります。第2にモーセ契約にはイスラエル民族が他の民族を祝福する約束がないこと、そしてモーセの家族以外にもイスラエルのすべての家族には恵みが与えられる約束(条件付き祝福(1)bがあることに気づくでしょう。

 

 これをもとに考えると、モーセが確かにアブラハム契約の更新者であるなら、アブラハム契約にある約束は、「子孫によってすべての民族が祝福に入る」という訳よりも、「アブラハムから出たすべての家族が祝福される」という訳の方がモーセ契約との相関性が高いことになります。

 

 ほかの違いをまとめると(1)の「約束の土地」に連れていくことだけが、無条件祝福としてイスラエル民族に残り、後の祝福は条件付き祝福となったということがまず挙げられます。

 

 そして今までなかった命令が追加になりました。他の神々と交渉を断つこと、祭壇をつくること、献げ物をすること、祭りを行う事など、創世記では自発的に行っていた事を、出エジプト以降は民に強制するようになりました。また生活上の細かい規則まで、神が干渉してきます。それに対し、創世記の神は一方的に無条件の恵みを与える神であったのです。

 

7-35

 

 アブラハム契約では、代々の子孫と契約が更新されるとなっていましたが、モーセ契約で大幅な改定があり、一方的に法律を含む細かい条項が突然に追加されました。自由主義神学的に理由を考えると、後世の為政者が自己正当化のために、現行の法や習慣を神とモーセにしゃべらせることで、権威づけを行った痕跡であるということになるでしょう。

 

 そして、こうも考えることができるでしょう。イエスは、為政者が自分の見解を神の言葉であると、民に対して偽っていた事を暴露したのです。つまりモーセ宗教から、創世記の時代の個人の信仰に戻そうとしたのではないでしょうか?

 

 神を礼拝できるのは神殿のみであり、民が宗教指導者に従い、大祭司のみが神と接触できるというモーセ宗教を否定し、神殿だけではなくどこででも神を礼拝でき、だれでも個人的に神と直接接触でき、個々人が神と契約を結び、心に示された神の掟に従う本来の信仰に戻したのです。

 

7-36

 

≪わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。≫

(マタイによる福音書 517)

 

 マタイ福音書では、イエスは律法を廃止するためではなく、成就するためにきたと言っています。先ほど7-35で、私はイエスがモーセ宗教を否定したと書きました。モーセ宗教を否定することがなぜ律法の成就になるのでしょうか?

 

 先ほど引用した出エジプト記19章の中に「モーセの法律と社会制度的な掟」の目的があります。

 

5それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。

6あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう』。これがあなたのイスラエルの人々に語るべき言葉である」。≫

(出エジプト記 195-6)

 

 条件付き祝福の部分です。律法を守らないといけない理由は次の祝福(1)a(1)bを神から受けるためでしたね。

 

7-37

 

○条件付き祝福

(1)a民全体がモーセ契約を守るなら、イスラエル民族を聖別してすべての民に勝る神(YHWH)の祭司の民とする。すべての民にまさってYHWHの宝となる。

 (出エジプト記 195-6)

 bモーセの宣べ伝えた神を愛し、戒めを守る者に千代にわたって恵みを施す。モーセの宣べ伝えた神を憎むものには4代にわたって、その罪に報いる。

 

 「モーセの法律と社会制度的な掟」は、民を聖別して祭司民族にするため必要だったという事になります。モーセ契約を守り、宗教祭祀を行い続けるなら、イスラエル民族全体がYHWHの祭司の民であり続けるわけですが、735で述べたように「モーセの法律と社会制度的な掟」自体が、為政者による人為的な産物である可能性があるわけです。当時の法制度を正当化するために、モーセに仮託して権威づけたのかもしれません。イエスはこの神殿体制が真の礼拝ではないと考えていたのです。次の引用から明らかです。

 

21イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。

22あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。

23しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。

24神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。≫

(ヨハネによる福音書 421-24)

 

 21節ではエルサレム神殿での一極体制が否定され、23節では「モーセの法律と社会制度的な掟」に則った礼拝が真の礼拝ではないと、イエスが考えていることが窺えます。つまり、当時のユダヤ人は「モーセの法律と社会制度的な掟」を守っているので、すでに神の祭司の民になり、すべての民に勝るものだと考えていたのですが、一方でイエスは「そこには人為的な意図が混入していて、正しい礼拝になっていない」と考えていたのではないでしょうか?

 

 このヨハネによる福音書4章の引用部位から、第一位格の神の概念に揺らぎがあり、当時のユダヤ人が考えていたYHWHとイエスの父なる神に差異があると考えられます。つまり、当時のユダヤ人は神(YHWH)の宝の民、祭司の民になっていたが、未だ神(イエスの父なる神)の祭司の民にはなっていなかったとも言えるかもしれません。ではYHWHとイエスの父なる神は、どちらが真の第一位格の神なのかと質問がでるかもしれませんが、私は神概念に違いがあるだけで、同じ存在を言い表していると思います。同じものを見ていても、視点や、捉え方、価値観に相違があれば、ずいぶん違った表現になるでしょう。

 

 「モーセの法律と社会制度的な掟」に従っていては、真の礼拝にならないのですが、民の一人ひとりがイエスに従えば、民のすべて一人ひとりが神(イエスの父なる神)の祭司になります。そしてイエスと共に、神の子とされ、高く上げられます。神の恵みも最大限受けられます。だから、イエスについていけば祭司の民となるので「モーセの法律と社会制度的な掟」を行う目的であった祝福(1)a(1)bがすべて成就してしまうのです。

 

 つまりイエスについていくこと自体が、律法の成就なのです。イエスを受け入れた後は条件①~⑤はもう守らなくてよいはずです。つまり律法の目的が達成されたので不要になった「モーセの法律と社会制度的な掟」には従わなくてよい、つまり、律法が成就したがゆえに今後「モーセの法律と社会制度的な掟」に従うことが否定されるわけです。

 

 福音派的な解釈をするなら、キリスト教の教義ではイエスは神の子であり、三位一体によりYHWHと一体であります。ですからイスラエル民族がイエスに仕えることは、モーセ契約「(1)a祭司の民となる」という事と一致します。イエスの公生涯でユダヤ民族がイエスを公式に神であると認めたら、この祝福(1)aが成就したのです。そして「モーセの法律と社会制度的な掟」の目的は、イエスをユダヤの民に来らせることであって、これが達成されたら、「モーセの法律と社会制度的な掟」がいらなくなり廃棄されます。

 

 一方で、イエスによると、律法の目的はイエスによる救済を指し示す事であります。イエスが現れた結果として「モーセの法律と社会制度的な掟」が廃棄されたら、イエスこそが神であると指し示されたことになり、律法の目的が成就されます。もしイエスを神であると認めないなら、「モーセの法律と社会制度的な掟」を廃棄できず継続する事になります。それはユダヤ教と比較したらわかりやすいでしょう。

 

 イエスが救世主でないという立場、つまり、ユダヤ教徒にとっては、もちろん「モーセの法律と社会制度的な掟」は有効なものとみなされるでしょう。救世主がまだ来ていないなら、救世主を招くために、「モーセの法律と社会制度的な掟」を継続する必要があります。キリスト教徒にとってはそうではないでしょう。

 

7-38

 

 一方自由主義神学的視点から見ると、「モーセの法律と社会制度的な掟」が後世の制度の反映とみた場合、モーセ宗教の否定に見えるという事です。言い換えると、為政者によって神の言葉が捻じ曲げられた部分を、モーセ宗教から取り除くことがイエスの目的であったのです。為政者が自分の定めた法律を守れば神の祝福を得ることができるとし、宗教国家を作ってしまったのをみて、創世記にみられるような、直接に個人が神と接触する信仰に立ち帰る必要を説いたのです。だから、イエスの信仰では神殿もいらなくなり、「モーセの法律と社会制度的な掟」は、原則的な「神を全力で愛し、隣人を自分のように愛せ」というシンプルなものに変更されます。

 

 イエスから見ると、このシンプルなものが本来の神の律法であり、為政者がモーセに語らせた「モーセの法律と社会制度的な掟」の細則が、人の手による不純物を含んでいると考えるべきなのかもしれません。モーセ宗教を否定するとは、この不純物を取り除くこと、つまり、本来の神の律法を取り戻すことです。この立場に立てば、モーセ宗教の否定が律法の成就になります。

 

 ここで私が言いたいことは、上記の2つの相反する考え方である、

 

A;「モーセの法律と社会制度的な掟」は神の言葉であるが(福音派的解釈)、その目的はイエスを到来させることである。

 

B;「モーセの法律と社会制度的な掟」はそもそも後世の為政者が挿入したもの(自由主義神学的解釈)で神の言葉でない。

 

のいずれをとっても、イエスの到来は「モーセの法律と社会制度的な掟」を不要にするという事です。「モーセの法律と社会制度的な掟」が廃棄され、イエスが神であり、また救世主である事が承認されたら、律法の目的である「イエスを指し示すこと」も達成され、旧約聖書自体が役目を終えます。

 

 旧約聖書が考古学的に間違いを多く含み、為政者の考えが混入し、神からの預言が的中せず、約束が実行されないとしても、律法が神の言葉を書き取ったものではなく、人間が書いた文書の集まりに過ぎなかったとしても、そんなことはイエスの権威には影響しないのです。イエスはそんな旧約聖書を終了させ、神の正しい意志を伝えるために来たのですから。

 

 旧約聖書に嘘偽り、人為が混入していたら、キリスト教の権威は消滅するのでしょうか? 旧約聖書にどのような嘘偽り、過ちが混入していたとしても、そのような肉的な罪はイエスと共に十字架につけられて滅び、旧約聖書の時代は終了しました。そして復活のイエスという土台の上に築かれたものがキリスト教のはずです。

 

7-39

 

18よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。

19それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。≫

(マタイによる福音書 518-19

 

 ここで反論が出て来ると思います。マタイによる福音書519でイエスが律法を守れと言っています。

 

「イエスが『モーセの法律と社会制度的な掟』を否定もせず廃棄もせず、小さな戒めでも守るように言っているではないか!

 ごもっともな反論です。

 

 しかし、この言葉はユダヤ人に向けられた言葉であることを認めてください。これはおそらく、異邦人キリスト教徒の救済には関係しないことなのです。

 

7-40

 

36「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。

37イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。

38これがいちばん大切な、第一のいましめである。

39第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。

40これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。

(マタイによる福音書 2236-40

 

 まず、イエスはマタイ福音書2240で律法と預言者つまり、旧約聖書は2つの戒めにかかっていると述べています。「かかっている」は新共同訳では「基づいている」と訳されています。神を愛する事、人を愛する事、この2つが、旧約聖書の基盤であるというのです。旧約聖書はこの2つを全うするために書かれているとイエスは考えています。

 

7-41

 

25するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。

26彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。

27彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。

28彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。≫

(ルカによる福音書 1025-28

 

 そして平行箇所のルカによる福音書 1028では、この二つを行えば永遠の命が得られると述べています。

 

7-42

 

28すなわち、聖霊とわたしたちとは、次の必要事項のほかは、どんな負担をも、あなたがたに負わせないことに決めた。

29それは、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、避けるということである。これらのものから遠ざかっておれば、それでよろしい。以上」。≫

(使徒行伝 1529

 

 異邦人が「モーセの法律と社会制度的な掟」を守るべきかどうかは、使徒たちも悩んでいます。使徒行伝1529にその結論が書かれています。しかしこれもまた異邦人がユダヤ人に不快感を与えないようにするために、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」という原則に基づいて、「モーセの法律と社会制度的な掟」の極一部を遵守するように勧告したにすぎません。

 

 なぜなら、コリント人への第一の手紙1025で、パウロは市場で売っているものは何でも詮索せずに食べなさいと言っているので、売られている偶像への供え物や、絞めころしたものは、食べることが許されているからです。だから、これらは絶対守るべき法律ではなく、勧告にすぎません。さらにいうとコリント人への第一の手紙612で、すべての事が許さされていると宣言しています。

 

 そして、「モーセの法律と社会制度的な掟」を守らない異邦人が永遠の命を得て救われるのだから、「モーセの法律と社会制度的な掟」は救いの必要条件ではない事が明らかです。

 

 では、なぜイエスはユダヤ人に「モーセの法律と社会制度的な掟」の小さな戒めまでも守るように言ったのか? 私は、これがまさにユダヤ人社会を維持する法律と慣習であるからだと思います。

 

7-43

 

13あなたがたは、すべて人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい。主権者としての王であろうと、

14あるいは、悪を行う者を罰し善を行う者を賞するために、王からつかわされた長官であろうと、これに従いなさい。

15善を行うことによって、愚かな人々の無知な発言を封じるのは、神の御旨なのである。

16自由人にふさわしく行動しなさい。ただし、自由をば悪を行う口実として用いず、神の僕にふさわしく行動しなさい。≫

(ペテロの第一の手紙 213-16

 

 ペテロによると、社会制度には従うのがキリスト教の務めであります。「モーセの法律と社会制度的な掟」の細々とした細則が神の救済に必要なかったとしても、これらはユダヤ人社会を成立させている制度そのものなのです。だから、ユダヤ人はこれを守る必要があり、異邦人には守る必要がなかったのです。

 

 そして私が書いた「イエスが『モーセの法律と社会制度的な掟』を否定した」と言う言葉は、「『モーセの法律と社会制度的な掟』の細々とした細則が救済の必要条件であるという当時の常識を否定した」と言い換えることができます。

 

 そしてイエスが「『モーセの法律と社会制度的な掟』を守れと言っている」とは、救済のためにそういっているのでなく、「法律や慣習といったユダヤ人の社会秩序を破壊してはならない」という、イエスと使徒たちの判断が表れていると考えます。

 

7-44

 

1民はモーセが山を下ることのおそいのを見て、アロンのもとに集まって彼に言った、「さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセはどうなったのかわからないからです」。

2アロンは彼らに言った、「あなたがたの妻、むすこ、娘らの金の耳輪をはずしてわたしに持ってきなさい」。

3そこで民は皆その金の耳輪をはずしてアロンのもとに持ってきた。

4アロンがこれを彼らの手から受け取り、工具で型を造り、鋳て子牛としたので、彼らは言った、「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」。

5アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そしてアロンは布告して言った、「あすは主の祭である」。

6そこで人々はあくる朝早く起きて燔祭をささげ、酬恩祭を供えた。民は座して食い飲みし、立って戯れた。

7主はモーセに言われた、「急いで下りなさい。あなたがエジプトの国から導きのぼったあなたの民は悪いことをした。

8彼らは早くもわたしが命じた道を離れ、自分のために鋳物の子牛を造り、これを拝み、これに犠牲をささげて、『イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である』と言っている」。

9主はまたモーセに言われた、「わたしはこの民を見た。これはかたくなな民である。

10それで、わたしをとめるな。わたしの怒りは彼らにむかって燃え、彼らを滅ぼしつくすであろう。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とするであろう」。

11モーセはその神、主をなだめて言った、「主よ、大いなる力と強き手をもって、エジプトの国から導き出されたあなたの民にむかって、なぜあなたの怒りが燃えるのでしょうか。

12どうしてエジプトびとに『彼は悪意をもって彼らを導き出し、彼らを山地で殺し、地の面から断ち滅ぼすのだ』と言わせてよいでしょうか。どうかあなたの激しい怒りをやめ、あなたの民に下そうとされるこの災を思い直し、

13あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルに、あなたが御自身をさして誓い、『わたしは天の星のように、あなたがたの子孫を増し、わたしが約束したこの地を皆あなたがたの子孫に与えて、長くこれを所有させるであろう』と彼らに仰せられたことを覚えてください」。

14それで、主はその民に下すと言われた災について思い直された。

(出エジプト記 321-14

 

 わたしは説教の中や注解書で、今まで「神は忍耐強い」「契約を果たす」「神の愚かさは人よりも賢い」ことが神の性質であるという説明を受けてきました。そのため、この引用部位を読むとわたしはいつも違和感を覚えます。ここでは神は短気です。10節で約束を変えて民を滅ぼそうとし、モーセをアブラハムのようにみなして、モーセの子孫から新たな民族を立ち上げようと変心します。しかも14節でモーセに説得されて、あっさり方針転換しました。どう見ても「短気で」「約束を違え」「愚かな」性質です。「これはモーセを試しただけである。本当にそうしようと思っていたのではなく演技だった」という解説を聞いたこともあります。しかしわたしにはそう思えません。続きを見ましょう。

 

7-45

 

26モーセは宿営の門に立って言った、「すべて主につく者はわたしのもとにきなさい」。レビの子たちはみな彼のもとに集まった。

27そこでモーセは彼らに言った、「イスラエルの神、主はこう言われる、『あなたがたは、おのおの腰につるぎを帯び、宿営の中を門から門へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ』」。

28レビの子たちはモーセの言葉どおりにしたので、その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた。

29そこで、モーセは言った、「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らって、きょう、主に身をささげた。それで主は、きょう、あなたがたに祝福を与えられるであろう」。

30あくる日、モーセは民に言った、「あなたがたは大いなる罪を犯した。それで今、わたしは主のもとに上って行く。あなたがたの罪を償うことが、できるかも知れない」。

31モーセは主のもとに帰って、そして言った、「ああ、この民は大いなる罪を犯し、自分のために金の神を造りました。

32今もしあなたが、彼らの罪をゆるされますならば――。しかし、もしかなわなければ、どうぞあなたが書きしるされたふみから、わたしの名を消し去ってください」。

33主はモーセに言われた、「すべてわたしに罪を犯した者は、これをわたしのふみから消し去るであろう。

34しかし、今あなたは行って、わたしがあなたに告げたところに民を導きなさい。見よ、わたしの使はあなたに先立って行くであろう。ただし刑罰の日に、わたしは彼らの罪を罰するであろう」。

35そして主は民を撃たれた。彼らが子牛を造ったからである。それはアロンが造ったのである。≫

(出エジプト記 3226-35

 

 出エジプト記3214で神が思い直したのは災いの規模だけです。あっさり方針転換しても妬み深く復讐する性質はそのままです。モーセが主に逆らった3000人を殺し「自分を命の書から消してもいいから民を滅ぼさないで」と頼んだけれど、3435節で神は、今は撃たないが、刑罰の日に罰すると答え、後の日に民を撃っています。

 

 確かにイスラエルを滅ぼすことは避けましたが、「神は忍耐強い」「契約を果たす」「神の愚かさは人よりも賢い」神でしょうか? これは本当に神の言葉でしょうか? 単に後世の祭司集団や為政者が、他の神を礼拝する者に発した警告に過ぎないのではないでしょうか?

 

 もしこれが神の言葉であると主張するなら、神はアブラハム契約を破棄して、その子孫とあたらしい契約を結ぶことを持ちかけるような存在という事になってしまします。これは子孫と契約を更新する事とは意味が異なります。モーセ以外の同世代のアブラハムの子孫が祝福を受けずに断たれるのですから契約違反です。

 

 モーセが承諾しないことを見越して、そのようなことを持ちかけたのだという人もいるでしょう。しかしそれもまた聖書に書いていないことを想像したに過ぎないのです。字義どおりに読むといいつつ想像を付け加えています。聖書の記述が逐語的に正しいのなら、神は契約をいつでも破棄して振り出しに戻し、誰かと新しい契約を結ぶ可能性があるという事になってしまうのです。いと高き神を崇拝したにも関わらず滅ぼされたエブス人を思い出してください。

 

 もっとも、私も部分霊感に立つので、聖書に書かれたことがすべてであるとは考えていませんが。

 

7-46

 

1イスラエルよ、いま、わたしがあなたがたに教える定めと、おきてとを聞いて、これを行いなさい。そうすれば、あなたがたは生きることができ、あなたがたの先祖の神、主が賜わる地にはいって、それを自分のものとすることができよう。

2わたしがあなたがたに命じる言葉に付け加えてはならない。また減らしてはならない。わたしが命じるあなたがたの神、主の命令を守ることのできるためである。≫

(申命記41-2

 

 出エジプト記のモーセの掟に続き、レビ記、民数記でも次々掟が追加されていきます。

そして、民数記4章でまた契約の一方的な変更を神がします。いままで「約束の土地」に入る契約は無条件で達成されるはずでした。ところがここで新たに与える掟に従わなければ、「約束の土地」に入れないと変更されました。それどころか掟を守らねば生きられないのです。

 

○条件つき祝福

(2)私の掟に従えば生きられ、また「約束の土地」に連れていく。

 (出エジプト記 38,10) (申命記41-2

 

 無条件祝福が条件付きに変更になりました。神は約束を変えることがない誠実な方であると、よく説教で耳にしますが、聖書をよく調べてみると、契約内容を何度も相手方に不利なように改定します。まるでヤコブの報酬を10回も勝手に変更したラバンのようです。

 

 十全霊感説に立てば、神は不誠実なことを行ったと認めざるを得ませんが、私は神が不誠実なのだとは考えません。その代り、モーセ五書は神の言葉をモーセが書き取ったのではなく、後世の為政者や祭司たちが自らの権威づけのために、モーセや神の名を用いて書いた文書であるという、自由主義神学的意見を受け入れざるを得ません。そうであればイエスの高潔な人格と旧約聖書に描かれた神の姿の差異の理由がわかります。

 

 また2節を見てください。この「モーセの法律と社会制度的な掟」に付け加えても、減らしてもいけないと書かれています。しかし、イエスは「モーセの法律と社会制度的な掟」を2つに集約しました。イエスは律法の申命記42を守っていないように見えます。イエスは本当にモーセ契約の継承者でしょうか? 

 

 それでもなおイエスが律法を成就したというなら、イエスの言う律法の成就とは、「モーセの法律と社会制度的な掟」を逐一遵守することではないということになります。先ほど述べたように、イエスの到来自体が律法の成就なのであると考えたら、この矛盾は消失します。そしてイエスの到来自体が律法の成就であるなら、イエス以外に律法を成就できる人は誰もいなかったという真の理由が理解できます。

 

7-47

 

15しかし、あなたの神、主の声に聞き従わず、きょう、わたしが命じるすべての戒めと定めとを守り行わないならば、このもろもろののろいがあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。≫

(申命記2815

 

 ついに契約に、条件付き呪いまで追加されました。4章では掟を守れば祝福が得られることになっていたのですが、28章では掟を守らなければ呪われるに変更です。

 

 出エジプトから申命記までの経過をまとめると、神は無条件な祝福を与えると約束して民をエジプトから誘い出したのに、荒野で掟を提示して、これを守らなければ祝福を与えないと一方的に契約を変更しました。そして民が不平をいうと、掟を守らないなら呪って滅ぼすと、更に契約が変更されました。神は祝福を呪いに変更したのです。

 

 もし十全霊感、聖書無誤説に立つならば、神は契約を守らず民を呪う方であると認めなくてはなりません。私はそんな不敬なことはできません。モーセ五書は決して純粋な神の言葉ではなく、後世の為政者が自分の権威を高めるために、自分の言葉を混ぜていると考えます。そして神の名を持ち出して「掟を守らねば、その者は殺す」と警告を発したと解釈しています。

 

 神と聖書、どちらかが間違っているとしたら、どちらに付きますか? 人の手で書かれた聖書よりも真実の神に信頼すべきではないでしょうか?

 

もしイエスの言動と、キリスト教の教義が一致しないならば、どちらに付いていきますか?

 

7-48

 

●モーセ契約4(最終形)

 

○無条件な祝福

(1)イスラエル民族をエジプトの労役から救いだし、「約束の土地」に連れていく。

 (出エジプト記 38,10)

(2)モーセを遣わしたしるしとして神がモーセと共にいる。(出エジプト記 312)

(3)エジプトを出たのちホレブ山で神に仕える。(出エジプト記 312)

(4)神の名を告げられる(出エジプト記 314)

(5)出エジプトの際にエジプト人からたくさんの金銀、衣服などを得させた。

 (出エジプト記 1236)

 

○条件付き祝福

(1)a民全体がモーセ契約を守るなら、イスラエル民族を聖別してすべての民に勝る神(YHWH)の祭司の民とする。すべての民にまさってYHWHの宝となる。

  (出エジプト記 195-6)

 bモーセの宣べ伝えた神を愛し、戒めを守る者に千代にわたって恵みを施す。モーセの宣べ伝えた神を憎むものには4代にわたって、その罪に報いる。

 

(1)の条件

 ①モーセに現れた神以外のなにものも神としてはならない。(出エジプト記 203)

  拝む像を造ってはならない。 (出エジプト記 2042023)

  他の神と契約を結んではならない。(出エジプト記 2052332)

   他の神々の名を唱えてはならない(出エジプト記 2313)

 ②みだりに神の名を唱えてはならない。(出エジプト記 207)

 ③祭壇を造り献げ物をする義務 (出エジプト記 2024) 

   祭りを行う義務 (出エジプト記 2314)

 ④他の神々に犠牲をささげる者は断ち滅ぼさねばならない。(出エジプト記 2220)

 ⑤そのほかの「モーセの法律、社会制度的な掟」の細則に至るまで民全体が守る。

   (出エジプト記 20章から23章、レビ記、申命記の掟)

 

○条件つき祝福

(2)私の掟に従えば生きられ、また「約束の土地」に連れていく。

 (出エジプト記 38,10) (申命記41-2

 

○条件付き呪い

(1)掟に従わねば呪う。(申命記2815

 

○命令

(1)聖なる土地なので靴を脱ぐこと (出エジプト記 35)

(2)モーセはパロのところにいって民をエジプトから去らせる交渉をする。

 (出エジプト記 310)

(3)モーセはイスラエル民族のところに神によって遣わされる (出エジプト記 314)

(4)正月の決定 (出エジプト記 31)

(5)過ぎ越しの祭りの義務化 (出エジプト記 1214)

(6)種入れぬパンの祭りの義務化 (出エジプト記 1217)

(7)すべての初子を神に犠牲として献げる。ただし、人間の初子は贖い金で買い戻す。

 (出エジプト記 1315)

 

 モーセ契約の判定は難しいです。聖書の記述が正しく、出エジプトがあったと考えれば、無条件契約の(1)(5)と条件付き祝福(2)は成就したことになりますが、考古学的知見から出エジプトが否定されているので、そもそも約束はなかったので判定不能としか言えません。

 

 7-37で述べたように、条件付き契約の(1)aはイエスと弟子たちによって部分的に達成されました。(1)bについて、旧約聖書でもっとも祝福されているのは、ダビデ王朝であることに異論はないでしょう。そしてダビデ王朝が1000代続かなかったので、(1)bは成就しなかったとしか言えません。ダビデはバトシェバと姦淫し掟を破ったので、(1)bの条件を満たしていないから、判定に用いるのは不適切であるという人もいるでしょう。しかし、私はダビデ王朝を用いる以外の判定方法は思いつきません。そういう人には「モーセの律法を完全に達成できたのはイエスだけであるという解釈をよく聞くが、イエスの子孫が1000代続いたわけではない」としか言えません。

 

 条件付き呪いである「(1)掟に従わねば呪う。(申命記2815)」について考えます。7-16で引用した申命記28章から旧約聖書における祝福と呪いは地上的なものであるとわかります。祝福と呪いがあくまで地上的なものであると考えたときに、悪が栄えることを嘆く詩編や箴言を参照すると、神から逐次的に賞罰が与えられることはなかっただろうということは推測できます。

 

7-49 ダビデ契約

 

1さて、王が自分の家に住み、また主が周囲の敵をことごとく打ち退けて彼に安息を賜わった時、

2王は預言者ナタンに言った、「見よ、今わたしは、香柏の家に住んでいるが、神の箱はなお幕屋のうちにある」。

3ナタンは王に言った、「主があなたと共におられますから、行って、すべてあなたの心にあるところを行いなさい」。

4その夜、主の言葉がナタンに臨んで言った、

5「行って、わたしのしもべダビデに言いなさい、『主はこう仰せられる。あなたはわたしの住む家を建てようとするのか。

6わたしはイスラエルの人々をエジプトから導き出した日から今日まで、家に住まわず、天幕をすまいとして歩んできた。

7わたしがイスラエルのすべての人々と共に歩んだすべての所で、わたしがわたしの民イスラエルを牧することを命じたイスラエルのさばきづかさのひとりに、ひと言でも「どうしてあなたがたはわたしのために香柏の家を建てないのか」と、言ったことがあるであろうか』。

8それゆえ、今あなたは、わたしのしもべダビデにこう言いなさい、『万軍の主はこう仰せられる。わたしはあなたを牧場から、羊に従っている所から取って、わたしの民イスラエルの君とし、

9あなたがどこへ行くにも、あなたと共におり、あなたのすべての敵をあなたの前から断ち去った。わたしはまた地上の大いなる者の名のような大いなる名をあなたに得させよう。

10そしてわたしの民イスラエルのために一つの所を定めて、彼らを植えつけ、彼らを自分の所に住ませ、重ねて動くことのないようにするであろう。

11また前のように、わたしがわたしの民イスラエルの上にさばきづかさを立てた日からこのかたのように、悪人が重ねてこれを悩ますことはない。わたしはあなたのもろもろの敵を打ち退けて、あなたに安息を与えるであろう。主はまた「あなたのために家を造る」と仰せられる。

12あなたが日が満ちて、先祖たちと共に眠る時、わたしはあなたの身から出る子を、あなたのあとに立てて、その王国を堅くするであろう。

13彼はわたしの名のために家を建てる。わたしは長くその国の位を堅くしよう。

14わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう。もし彼が罪を犯すならば、わたしは人のつえと人の子のむちをもって彼を懲らす。

15しかしわたしはわたしのいつくしみを、わたしがあなたの前から除いたサウルから取り去ったように、彼からは取り去らない。

16あなたの家と王国はわたしの前に長く保つであろう。あなたの位は長く堅うせられる』」。

17ナタンはすべてこれらの言葉のように、またすべてこの幻のようにダビデに語った。≫

(サムエル記下71-17

 

 やっとダビデ契約です。約束を抜書きします。

 

●ダビデ契約1

 

(1) わたしはまた地上の大いなる者の名のような大いなる名をあなたに得させよう。

 (サムエル記下79

(2) そしてわたしの民イスラエルのために一つの所を定めて、彼らを植えつけ、

  彼らを自分の所に住ませ、重ねて動くことのないようにするであろう。

  (サムエル記下 710)

(3) 悪人が重ねてこれを悩ますことはない。わたしはあなたのもろもろの敵を打ち退けて、あなたに安息を与えるであろう。主はまた「あなたのために家を造る」と仰せられる。

 (サムエル記下 711)

(4) わたしはあなたの身から出る子をあなたのあとに立てて、その王国を堅くするであろう。

 (サムエル記下 712)

(5) 「彼」はわたしの名のために家を建てる。わたしは長くその国の位を堅くしよう。

 (サムエル記下 713)

(6) わたしは「彼」の父となり、「彼」はわたしの子となるであろう。もし「彼」が罪を犯すならば、わたしは人のつえと人の子のむちをもって彼を懲らす(サムエル記下 714)

(7)神の慈しみを、「彼」からは取り去らない。(サムエル記下 715)

(8) あなたの家と王国はわたしの前に長く保つであろう。あなたの位は長く堅うせられる

(サムエル記下 716)

 

7-50

 

3その夜、神の言葉がナタンに臨んで言った、

4「行ってわたしのしもべダビデに告げよ、『主はこう言われる、わたしの住む家を建ててはならない。

5わたしはイスラエルを導き上った日から今日まで、家に住まわず、天幕から天幕に、幕屋から幕屋に移ったのである。

6わたしがすべてのイスラエルと共に歩んだすべての所で、わたしの民を牧することを命じたイスラエルのさばきづかさのひとりに、ひと言でも、「どうしてあなたがたは、わたしのために香柏の家を建てないのか」と言ったことがあるだろうか』と。

7それゆえ今あなたは、わたしのしもべダビデにこう言いなさい、『万軍の主はこう仰せられる、「わたしはあなたを牧場から、羊に従っている所から取って、わたしの民イスラエルの君とし、

8あなたがどこへ行くにもあなたと共におり、あなたのすべての敵をあなたの前から断ち去った。わたしはまた地の上の大いなる者の名のような名をあなたに得させよう。

9そしてわたしはわが民イスラエルのために一つの所を定めて、彼らを植えつけ、彼らを自分の所に住ませ、重ねて動くことのないようにしよう。

10また前のように、すなわちわたしがわが民イスラエルの上にさばきづかさを立てた時からこのかたのように、悪い人が重ねてこれを荒すことはないであろう。わたしはまたあなたのもろもろの敵を征服する。かつわたしは主があなたのために家を建てられることを告げる。

11あなたの日が満ち、あなたの先祖たちの所へ行かねばならぬとき、わたしはあなたの子、すなわちあなたの子らのひとりを、あなたのあとに立てて、その王国を堅くする。

12彼はわたしのために家を建てるであろう。わたしは長く彼の位を堅くする。

13わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。わたしは、わたしのいつくしみを、あなたのさきにあった者から取り去ったように、彼からは取り去らない。

14かえって、わたしは彼を長くわたしの家に、わたしの王国にすえおく。彼の位はとこしえに堅く立つであろう』」。

15ナタンはすべてこれらの言葉のように、またすべてこの幻のようにダビデに語った。≫(歴代誌上173-15

 

 歴代誌上にも平行箇所がありますので引用し、書き加えます。

 

●ダビデ契約2

 

(1) わたしはまた地上の大いなる者の名のような大いなる名をあなたに得させよう。

 (サムエル記下79)(歴代誌上 178

 

(2) そしてわたしの民イスラエルのために一つの所を定めて、彼らを植えつけ、

  彼らを自分の所に住ませ、重ねて動くことのないようにするであろう。

  (サムエル記下 710)(歴代誌上 179

 

(3) 悪人が重ねてこれを悩ますことはない。わたしはあなたのもろもろの敵を打ち退けて、 

  あなたに安息を与えるであろう。主はまた「あなたのために家を造る」と仰せられる。

 (サムエル記下 711)(歴代誌上 1710

 

(4) わたしはあなたの身から出る子を、あなたのあとに立てて、その王国を堅くする

  であろう。(サムエル記下 712)

 わたしはあなたの子、すなわちあなたの子らのひとりを、あなたのあとに立てて、

  その王国を堅くする。(歴代誌上 1711

 

(5) 「彼」はわたしの名のために家を建てる。わたしは長くその国の位を堅くしよう。

  (サムエル記下 713)(歴代誌上 1712

 

(6) わたしは「彼」の父となり、「彼」はわたしの子となるであろう。

 (サムエル記下 714)(歴代誌上 1713

 

(7) もし「彼」が罪を犯すならば、わたしは人のつえと人の子のむちをもって彼を懲らす。   

  (サムエル記下 714)

 

(8)神の慈しみを、「彼」からは取り去らない。

 (サムエル記下 715) (歴代誌上 1713

 

(9) あなたの家と王国はわたしの前に長く保つであろう。あなたの位は長く堅うせられる

 (サムエル記下 716)

  わたしは彼を長くわたしの家に、わたしの王国にすえおく。彼の位はとこしえに

 堅く立つであろう(歴代誌上 1714)

 

 ここで問題なのはダビデの子である「彼」が誰かという事でしょう。直接的に言うとソロモンであるけれど、イエスキリストの預言であるという解釈が一般的ですね。さてこの契約は無条件契約なので神が誠実なら実現するはずです。

 

 ダビデは一応実在したと考えられていますし、聖書の登場人物として、大いなる名を得ました。(1)は成就したといってよいでしょう。(2)(3)はバビロン捕囚や西暦70年のエルサレム陥落があったので実現しなかった約束です。(4)(5)はソロモンの事と考えると一応実現したと考えられるでしょう。あの不安定な地域で500年の王朝を維持できたのですから。

 

 (6)から(9)はソロモンの事でしょうかそれともイエスの事でしょうか?

次の引用を見てみます。

 

7-51

 

6そして彼はその子ソロモンを召して、イスラエルの神、主のために家を建てることを命じた。

7すなわちダビデはソロモンに言った、「わが子よ、わたしはわが神、主の名のために家を建てようと志していた。

8ところが主の言葉がわたしに臨んで言われた、『おまえは多くの血を流し、大いなる戦争をした。おまえはわたしの前で多くの血を地に流したから、わが名のために家を建ててはならない。

9見よ、男の子がおまえに生れる。彼は平和の人である。わたしは彼に平安を与えて、周囲のもろもろの敵に煩わされないようにしよう。彼の名はソロモンと呼ばれ、彼の世にわたしはイスラエルに平安と静穏とを与える。

10彼はわが名のために家を建てるであろう。彼はわが子となり、わたしは彼の父となる。わたしは彼の王位をながくイスラエルの上に堅くするであろう』。

11それでわが子よ、どうか主があなたと共にいまし、あなたを栄えさせて、主があなたについて言われたように、あなたの神、主の家を建てさせてくださるように。

12ただ、どうか主があなたに分別と知恵を賜い、あなたをイスラエルの上に立たせられるとき、あなたの神、主の律法を、あなたに守らせてくださるように。≫

(歴代誌上 226-12

 

 ここの910節を見ると、ダビデ契約の「彼」とはソロモンの事であるとはっきりわかります。ソロモンは神の子となると書いてありますから。もう一度(6)から(9)を検討します。

 

(6) わたしは「彼」の父となり、「彼」はわたしの子となるであろう。」

 

 これについては預言が実現と言うよりも、ダビデがそう宣言したとしか言えません。

 

(7) もし「彼」が罪を犯すならば、わたしは人のつえと人の子のむちをもって彼を懲らす。」 

 

 この一文から「彼」とは明らかにソロモンの事でイエスの事ではないとわかります。イエスは罪を犯さないこと、「彼」が人の子(イエス)の鞭で懲らしめられると書いてあるのでイエスではありません。

   

(8)神の慈しみを、「彼」からは取り去らない。」

 

 ソロモンの治世の間はイスラエルが安定するという意味でしょう。ソロモン契約にあるように、ダビデとエルサレムの故にダビデ王朝にユダ族を残すことが、神の慈しみの内容であるなら実現したと言っていいでしょう。その場合はダビデに約束された王座を永遠に継承させるとか、「約束の土地」に居続けることができるという恵みではありません。

 

(9) あなたの家と王国はわたしの前に長く保つであろう。あなたの位は長く堅うせられる」

 

 これは500年間王朝を維持できたのですから実現したと言えるでしょう。

 

 しかし「(9)わたしは彼を長くわたしの家に、わたしの王国にすえおく。彼の位はとこしえに堅く立つであろう(歴代誌上 1714)」という歴代誌上の表現は永遠という部分が否定されます。

 

 ダビデの家はイスラエルとユダに分裂し、イスラエルでは何度もクーデターで王朝が入れ替わり、アッシリアに滅ばされ、一方ユダも、バビロン、ヘレニズム、ローマと支配におかれ、エルサレムは最終的に破壊されユダヤ人は離散したからです。だからダビデ契約(9)が実現したとは言いづらいです。また「彼」がイエスでないのは明らかです。

 

7-52

 

 「彼」をソロモンとして読んだとき意味が明瞭に理解でき、他の人物は示唆されていないので、文書を作成した人が「彼」をソロモンとして扱っていたことが明らかです。これを「イエスが神の右の座に着いて永遠に支配する」と解し、メシア預言とみなし成就したと考える人もいるでしょう。しかしその人は「彼」が罪を犯したら人の子の鞭で懲らしめるという一文を無視しています。仮に「彼」をイエスであるとしても、また信者にとってはそれが霊的な事実であったとしても、対外的に示せる客観的な証拠は皆無です。

 

 ただし、神の霊感により、イエスを暗示する象徴が散りばめてあった可能性は否定はできません。なぜなら、サムエル記下の文章を改変して、歴代誌上にわざわざこの文言を入れてあるからです。しかし、その場合は文書を作成した人がその自覚をもって、イエスを書き表そうしたわけではないので預言ではありません。ただ旧約聖書がイエスを指し示すと言えるだけです。

 

 ここだけではなく、旧約聖書全体にわたり、イエスを暗示する象徴的な言葉やエピソードが散りばめてあることだけは事実であります。意図してイエスを書き表そうとしていたわけではないのに、そういうものが混じってくることが、何らかの超自然的介入を考慮する根拠になるわけです。そして6章でも提示しましたがイエスを明確に表した預言よりも、こうした散りばめられたイエスの象徴が圧倒的に多いのです。そして新約聖書で成就したメシア預言とされたものでも、イエスの公生涯に合致しない部分が必ずあり、文脈上では、イエス以外の時代を意図して書いたとわかるものがほとんどです。

 

 文書を作成した人に神の意志が霊感として働いて、そうした文章や語句を組み込ませた可能性はありますが、その場合でも神の意図を記者が理解できていないことがわかります。

神の言葉が一語一句示され、その意図を理解して書き取ったと考えることはできません。これはわたしが部分霊感説に立つ理由になります。聖書のすべての文言が神の言葉なのではなく、人が書いた聖書の中に神の意志が紛れ込んでいるのです。

 

7-53 ソロモン契約

 

1ソロモン王はエジプトの王パロと縁を結び、パロの娘をめとってダビデの町に連れてきて、自分の家と、主の宮と、エルサレムの周囲の城壁を建て終るまでそこにおらせた。

2そのころまで主の名のために建てた宮がなかったので、民は高き所で犠牲をささげていた。

3ソロモンは主を愛し、父ダビデの定めに歩んだが、ただ彼は高き所で犠牲をささげ、香をたいた。

4ある日、王はギベオンへ行って、そこで犠牲をささげようとした。それが主要な高き所であったからである。ソロモンは一千の燔祭をその祭壇にささげた。

5ギベオンで主は夜の夢にソロモンに現れて言われた、「あなたに何を与えようか、求めなさい」。

6ソロモンは言った、「あなたのしもべであるわたしの父ダビデがあなたに対して誠実と公義と真心とをもって、あなたの前に歩んだので、あなたは大いなるいつくしみを彼に示されました。またあなたは彼のために、この大いなるいつくしみをたくわえて、今日、彼の位に座する子を授けられました。

7わが神、主よ、あなたはこのしもべを、わたしの父ダビデに代って王とならせられました。しかし、わたしは小さい子供であって、出入りすることを知りません。

8かつ、しもべはあなたが選ばれた、あなたの民、すなわちその数が多くて、数えることも、調べることもできないほどのおびただしい民の中におります。

9それゆえ、聞きわける心をしもべに与えて、あなたの民をさばかせ、わたしに善悪をわきまえることを得させてください。だれが、あなたのこの大いなる民をさばくことができましょう」。

10ソロモンはこの事を求めたので、そのことが主のみこころにかなった。

11そこで神は彼に言われた、「あなたはこの事を求めて、自分のために長命を求めず、また自分のために富を求めず、また自分の敵の命をも求めず、ただ訴えをききわける知恵を求めたゆえに、

12見よ、わたしはあなたの言葉にしたがって、賢い、英明な心を与える。あなたの先にはあなたに並ぶ者がなく、あなたの後にもあなたに並ぶ者は起らないであろう。

13わたしはまたあなたの求めないもの、すなわち富と誉をもあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちのうちにあなたに並ぶ者はないであろう。

14もしあなたが、あなたの父ダビデの歩んだように、わたしの道に歩んで、わたしの定めと命令とを守るならば、わたしはあなたの日を長くするであろう」。

15ソロモンが目をさましてみると、それは夢であった。そこで彼はエルサレムへ行き、主の契約の箱の前に立って燔祭と酬恩祭をささげ、すべての家来のために祝宴を設けた。≫

(列王紀上31-15

 

1ソロモンが主の宮と王の宮殿およびソロモンが建てようと望んだすべてのものを建て終った時、

2主はかつてギベオンでソロモンに現れられたように再び現れて、

3彼に言われた、「あなたが、わたしの前に願った祈と願いとを聞いた。わたしはあなたが建てたこの宮を聖別して、わたしの名を永久にそこに置く。わたしの目と、わたしの心は常にそこにあるであろう。

4あなたがもし、あなたの父ダビデが歩んだように全き心をもって正しくわたしの前に歩み、すべてわたしが命じたようにおこなって、わたしの定めと、おきてとを守るならば、

5わたしは、あなたの父ダビデに約束して『イスラエルの王位にのぼる人があなたに欠けることはないであろう』と言ったように、あなたのイスラエルに王たる位をながく確保するであろう。

6しかし、あなたがた、またはあなたがたの子孫がそむいてわたしに従わず、わたしがあなたがたの前に置いた戒めと定めとを守らず、他の神々に行って、それに仕え、それを拝むならば、

7わたしはイスラエルを、わたしが与えた地のおもてから断つであろう。またわたしの名のために聖別した宮をわたしの前から投げすてるであろう。そしてイスラエルはもろもろの民のうちにことわざとなり、笑い草となるであろう。

8かつ、この宮は荒塚となり、そのかたわらを過ぎる者は皆驚き、うそぶいて『なにゆえ、主はこの地と、この宮とにこのようにされたのか』と言うであろう。

9その時人々は答えて『彼らは自分の先祖をエジプトの地から導き出した彼らの神、主を捨てて、他の神々につき従い、それを拝み、それに仕えたために、主はこのすべての災を彼らの上に下したのである』と言うであろう」。≫

(列王紀上91-9

 

最後のソロモン契約です。ソロモンに約束されたものは以下の通りです。

 

●ソロモン契約1

(1)後にも先にも並ぶもののない賢い英明な心を与える。(列王紀上 312)

(2)ソロモン存命中は他の王たちでも並ぶものもないほどの富と誉れを与える。

  (列王紀上 313)

(3)「ダビデのように神に従うなら、ソロモンの日が長くなる」(列王紀上 314)

  条件付き契約です。列王紀 95から寿命の事とわかります。

(4)エルサレムの神殿に永久にYHWHの名を置く。YHWHの目と心もおく。

  (列王紀上 93)

(5)ソロモンやその子孫がYHWHに従わず、掟を守らず、他の神々に仕えるなら、イエラエルを地の表から断ち、エルサレム神殿を投げ捨てる。(列王紀上96-7)

 

 ダビデ契約では後継者がソロモンであることが強調され、彼はダビデ契約の継承者なのは文中から明らかです。そのために後で、ダビデとソロモンの契約をまとめて成就の成否を判定するので、ダビデ契約だけにある約束も追加しておきます。

 

(6)そしてわたしの民イスラエルのために一つの所を定めて、彼らを植えつけ、

  彼らを自分の所に住ませ、重ねて動くことのないようにするであろう。

  (サムエル記下 710)

(7)悪人が重ねてこれを悩ますことはない。わたしはあなたのもろもろの敵を打ち退けて、あなたに安息を与えるであろう。主はまた「あなたのために家を造る」と仰せられる。

 (サムエル記下 711)

(8)わたしはあなたの身から出る子を、あなたのあとに立てて、」 

 その王国を堅くするであろう。(サムエル記下 712)

 子孫が絶えず王位を保つ。(列王紀上 95)

 

7-54

 

4ソロモンが年老いた時、その妻たちが彼の心を転じて他の神々に従わせたので、彼の心は父ダビデの心のようには、その神、主に真実でなかった。

5これはソロモンがシドンびとの女神アシタロテに従い、アンモンびとの神である憎むべき者ミルコムに従ったからである。

6このようにソロモンは主の目の前に悪を行い、父ダビデのように全くは主に従わなかった。

7そしてソロモンはモアブの神である憎むべき者ケモシのために、またアンモンの人々の神である憎むべき者モレクのためにエルサレムの東の山に高き所を築いた。

8彼はまた外国のすべての妻たちのためにもそうしたので、彼女たちはその神々に香をたき、犠牲をささげた。

9このようにソロモンの心が転じて、イスラエルの神、主を離れたため、主は彼を怒られた。すなわち主がかつて二度彼に現れ、

10この事について彼に、他の神々に従ってはならないと命じられたのに、彼は主の命じられたことを守らなかったからである。

11それゆえ、主はソロモンに言われた、「これがあなたの本心であり、わたしが命じた契約と定めとを守らなかったので、わたしは必ずあなたから国を裂き離して、それをあなたの家来に与える。

12しかしあなたの父ダビデのために、あなたの世にはそれをしないが、あなたの子の手からそれを裂き離す。

13ただし、わたしは国をことごとくは裂き離さず、わたしのしもべダビデのために、またわたしが選んだエルサレムのために一つの部族をあなたの子に与えるであろう」。

14こうして主はエドムびとハダデを起して、ソロモンの敵とされた。彼はエドムの王家の者であった。≫

(列王紀上114-14)

 

29そのころ、ヤラベアムがエルサレムを出たとき、シロびとである預言者アヒヤが道で彼に会った。アヒヤは新しい着物を着ていた。そして彼らふたりだけが野にいた。

30アヒヤは着ている着物をつかんで、それを十二切れに裂き、

31ヤラベアムに言った、「あなたは十切れを取りなさい。イスラエルの神、主はこう言われる、『見よ、わたしは国をソロモンの手から裂き離して、あなたに十部族を与えよう。

32(ただし彼はわたしのしもべダビデのために、またわたしがイスラエルのすべての部族のうちから選んだ町エルサレムのために、一つの部族をもつであろう)。

33それは彼がわたしを捨てて、シドンびとの女神アシタロテと、モアブの神ケモシと、アンモンの人々の神ミルコムを拝み、父ダビデのように、わたしの道に歩んで、わたしの目にかなう事を行い、わたしの定めと、おきてを守ることをしなかったからである。

34しかし、わたしは国をことごとくは彼の手から取らない。わたしが選んだ、わたしのしもべダビデが、わたしの命令と定めとを守ったので、わたしは彼のためにソロモンを一生の間、君としよう。

35そして、わたしはその子の手から国を取って、その十部族をあなたに与える。

36その子には一つの部族を与えて、わたしの名を置くために選んだ町エルサレムで、わたしのしもべダビデに、わたしの前に常に一つのともしびを保たせるであろう。

37わたしがあなたを選び、あなたはすべて心の望むところを治めて、イスラエルの上に王となるであろう。

38もし、あなたが、わたしの命じるすべての事を聞いて、わたしの道に歩み、わたしの目にかなう事を行い、わたしのしもべダビデがしたように、わたしの定めと戒めとを守るならば、わたしはあなたと共にいて、わたしがダビデのために建てたように、あなたのために堅固な家を建てて、イスラエルをあなたに与えよう。

39わたしはこのためにダビデの子孫を苦しめる。しかし永久にではない』」。

40ソロモンはヤラベアムを殺そうとしたが、ヤラベアムは立ってエジプトにのがれ、エジプト王シシャクのところへ行って、ソロモンの死ぬまでエジプトにいた。

41ソロモンのそのほかの事績と、彼がしたすべての事およびその知恵は、ソロモンの事績の書にしるされているではないか。

42ソロモンがエルサレムでイスラエルの全地を治めた日は四十年であった。

43ソロモンはその先祖と共に眠って、父ダビデの町に葬られ、その子レハベアムが代って王となった。≫(列王紀上 1129-43)

 

 ソロモンは晩年に神の契約に背いてしまいました。その結果、ユダ族とエルサレムだけがソロモンに残されました。1139節では、YHWHがダビデの子孫を苦しめるが永遠ではないと書いてあります。これを考慮に入れてソロモン契約を書き直します。

 

●ソロモン契約2(最終形)

 

(1)後にも先にも並ぶもののない賢い英明な心を与える。(列王紀上 312)

 

(2)ソロモン存命中は他の王たちでも並ぶものもないほどの富と誉れを与える。

  (列王紀上 313)

 

(3)「ダビデのように神に従うなら、ソロモンの日が長くなる」(列王紀上 314)

  条件付き契約です。列王紀 95から寿命の事とわかります。

 

(4)エルサレムの神殿に永久にYHWHの名を置く。YHWHの目と心もおく。

  (列王紀上 93)

 

(5)ソロモンやその子孫がYHWHに従わず、掟を守らず、他の神々に仕えるなら、イエラエルを地の表から断ち、エルサレム神殿を投げ捨てる。(列王紀上96-7)

 

(6)そしてわたしの民イスラエルのために一つの所を定めて、彼らを植えつけ、

  彼らを自分の所に住ませ、重ねて動くことのないようにするであろう。

  (サムエル記下 710)

 

(7)悪人が重ねてこれを悩ますことはない。わたしはあなたのもろもろの敵を打ち退けて、  あなたに安息を与えるであろう。主はまた「あなたのために家を造る」と仰せられる。

 (サムエル記下 711)

 

(8)わたしはあなたの身から出る子を、あなたのあとに立てて、」 

 その王国を堅くするであろう。(サムエル記下 712)

 子孫が絶えず王位を保つ。(列王紀上 95)

 

(9) ソロモンが他の神々に仕えたが、(列王紀上114)

 ダビデの家からすべてを取りさらずユダ族をエルサレムに残す。(列王紀上 1136)

 ダビデの家をYHWHが苦しめるが永遠ではない。(列王紀上 1139)

 

 以降でソロモン契約が成就したのか検証です。

 

7-55

 

29神はソロモンに非常に多くの知恵と悟りを授け、また海べの砂原のように広い心を授けられた。

30ソロモンの知恵は東の人々の知恵とエジプトのすべての知恵にまさった。

31彼はすべての人よりも賢く、エズラびとエタンよりも、またマホルの子ヘマン、カルコル、ダルダよりも賢く、その名声は周囲のすべての国々に聞えた。

32彼はまた箴言三千を説いた。またその歌は一千五首あった。

33彼はまた草木のことを論じてレバノンの香柏から石がきにはえるヒソプにまで及んだ。彼はまた獣と鳥と這うものと魚のことを論じた。

34諸国の人々はソロモンの知恵を聞くためにきた。地の諸王はソロモンの知恵を聞いて人をつかわした。

(列王紀上429-34)(新共同訳では列王記上59-14

 

1シバの女王は主の名にかかわるソロモンの名声を聞いたので、難問をもってソロモンを試みようとたずねてきた。

2彼女は多くの従者を連れ、香料と、たくさんの金と宝石とをらくだに負わせてエルサレムにきた。彼女はソロモンのもとにきて、その心にあることをことごとく彼に告げたが、

3ソロモンはそのすべての問に答えた。王が知らないで彼女に説明のできないことは一つもなかった。

4シバの女王はソロモンのもろもろの知恵と、ソロモンが建てた宮殿、

5その食卓の食物と、列座の家来たちと、その侍臣たちの伺候ぶり、彼らの服装と、彼の給仕たち、および彼が主の宮でささげる燔祭を見て、全く気を奪われてしまった。

6彼女は王に言った、「わたしが国であなたの事と、あなたの知恵について聞いたことは真実でありました。

7しかしわたしがきて、目に見るまでは、その言葉を信じませんでしたが、今見るとその半分もわたしは知らされていなかったのです。あなたの知恵と繁栄はわたしが聞いたうわさにまさっています。

8あなたの奥方たちはさいわいです。常にあなたの前に立って、あなたの知恵を聞く家来たちはさいわいです。

9あなたの神、主はほむべきかな。主はあなたを喜び、あなたをイスラエルの位にのぼらせられました。主は永久にイスラエルを愛せられるゆえ、あなたを王として公道と正義とを行わせられるのです」。

10そして彼女は金百二十タラントおよび多くの香料と宝石とを王に贈った。シバの女王がソロモン王に贈ったような多くの香料は再びこなかった。

11オフルから金を載せてきたヒラムの船は、またオフルからたくさんのびゃくだんの木と宝石とを運んできたので、

12王はびゃくだんの木をもって主の宮と王の宮殿のために壁柱を造り、また歌う人々のために琴と立琴とを造った。このようなびゃくだんの木は、かつてきたこともなく、また今日まで見たこともなかった。

13ソロモン王はその豊かなのにしたがってシバの女王に贈り物をしたほかに、彼女の望みにまかせて、すべてその求める物を贈った。そして彼女はその家来たちと共に自分の国へ帰っていった。

14さて一年の間にソロモンのところに、はいってきた金の目方は六百六十六タラントであった。

15そのほかに貿易商および商人の取引、ならびにアラビヤの諸王と国の代官たちからも、はいってきた。

16ソロモン王は延金の大盾二百を造った。その大盾にはおのおの六百シケルの金を用いた。

17また延金の小盾三百を造った。その小盾にはおのおの三ミナの金を用いた。王はこれらをレバノンの森の家に置いた。

18王はまた大きな象牙の玉座を造り、純金をもってこれをおおった。

19その玉座に六つの段があり、玉座の後に子牛の頭があり、座席の両側にひじ掛けがあって、ひじ掛けのわきに二つのししが立っていた。

20また六つの段のおのおのの両側に十二のししが立っていた。このような物はどこの国でも造られたことがなかった。

21ソロモン王が飲むときに用いた器は皆金であった。またレバノンの森の家の器も皆純金であって、銀のものはなかった。銀はソロモンの世には顧みられなかった。

22これは王が海にタルシシの船隊を所有して、ヒラムの船隊と一緒に航海させ、タルシシの船隊に三年に一度、金、銀、象牙、さる、くじゃくを載せてこさせたからである。

23このようにソロモン王は富も知恵も、地のすべての王にまさっていたので、

24全地の人々は神がソロモンの心に授けられた知恵を聞こうとしてソロモンに謁見を求めた。

25人々はおのおの贈り物を携えてきた。すなわち銀の器、金の器、衣服、没薬、香料、馬、騾馬など年々定まっていた。

26ソロモンは戦車と騎兵とを集めたが、戦車一千四百両、騎兵一万二千あった。ソロモンはこれを戦車の町とエルサレムの王のもとに置いた。

27王はエルサレムで、銀を石のように用い、香柏を平地にあるいちじく桑のように多く用いた。

28ソロモンが馬を輸入したのはエジプトとクエからであった。すなわち王の貿易商はクエから代価を払って受け取ってきた。

29エジプトから輸入される戦車一両は銀六百シケル、馬は百五十シケルであった。このようにして、これらのものが王の貿易商によって、ヘテびとのすべての王たちおよびスリヤの王たちに輸出された。≫

(列王紀上 101-29

 

 ソロモン契約の(1)英知と(2)富と誉れについて検証しましょう。ここで引用した列王記4(新共同訳5)と列王紀10章を信用するなら、この約束は実現したことになります。

 

7-56

 

 しかし、自由主義神学や考古学的知見からソロモン契約を検証すると違った結果になります。

 

(1)後にも先にも並ぶもののない賢い英明な心を与える。(列王紀上 312)

 

 (1)ですが、まず考古学的にソロモンのいた痕跡がないのです。存在確認ができない者について論じるのは無駄でありますが、少なくとも周辺国家に知れ渡る存在ではなかったことがわかります。また偶像崇拝したのですから、賢く英明とは言い難いことになります。「ソロモンは後にも先にも並ぶものがない智者」という事になると、神の知恵をもつイエスと両立せず、矛盾が生じます。(1)は無条件契約なのに実現していません。

 

(2)ソロモン存命中は他の王たちでも並ぶものもないほどの富と誉れを与える。

  (列王紀上 313)

 

 その頃、周辺の国々は、大きく、強く、富んでいたことは考古学的に事実であります。ダビデ・ソロモン時代の宮殿跡とされてきた遺跡が、もっと後の時代のものではないかと議論があります(引用文献③p148)。またダビデやソロモンの存在は周辺の国家の記録からは見つかりません(引用文献③p151)。よって周辺の王たちよりも富と誉れで勝っていたことは考古学的にありえない事です。また「ダビデの家」について言及があるテル・ダン碑文はもっと後の時代のもので(引用文献③151-155)、ソロモンの名前はありません。ソロモンの名は碑文にも聖書外資料にもないのです。よって(2)は否定されます。無条件契約なのに実現していません。

 

7-57

 

(3)ダビデのように神に従うなら、ソロモンの日(寿命)が長くなる(列王紀上 314)

 

 (口語訳も新共同訳にも、ヘブル語聖書にもないですが、)70人訳聖書列王紀上212節でソロモンが12歳で即位したと書いてあります。列王紀上1142では40年間王位にあったことがわかり、またソロモンが死んだあと次の王が立ちました。ということは52歳で死んだという事になります。

 

 考古学的に検討した当時の平均寿命と比べたら、長生きだったのかもしれませんが、旧約聖書に記載されている寿命は常識よりも長いことが多いので、旧約聖書の登場人物と比較するべきでしょう。ダビデは30歳で王になり40年間王位にありました。だからダビデは70歳で死にました。ソロモンはダビデより長生きできなかったのです。偶像崇拝をしたから長生きできなかったのでしょうか? いや偶像崇拝をしたのは老年なので、長生きして老年に達していないと辻褄があいません。

 

 寿命が52歳であれば、偶像崇拝をしたのは40歳代後半ということになります。当時の40代後半は老年だったのでしょうか? よく考えてみると偶像崇拝の原因は積極的に側室を受け入れたことですから、40代後半のソロモンはまだ若々しく、老年とは言い難かったはずです。

 

 老年になって偶像崇拝という記述が誤りなのではないでしょうか? ソロモンの寿命が長くなるという契約を意識して、偶像崇拝の時期が老年であると後世の人が書き変えたのではないでしょうか? すると辻褄があわなくなるので、ヘブル語聖書から12歳で即位と言う文言が消されたのではないかと思います。

 

 この契約(3)は判定不能ですが、この引用部分は辻褄が合わないので、なにか作為的なものが感じられます、つまり都合がいいように内容を修正した疑いがあります。聖書の文言は変えてはいけない神の言葉という前提が揺らいできます。

 

7-58

 

(4)エルサレムの神殿に永久にYHWHの名を置く。YHWHの目と心もおく。

  (列王紀上 93)

(5)ソロモンやその子孫がYHWHに従わず、掟を守らず、他の神々に仕えるなら、イエラエルを地の表から断ち、エルサレム神殿を投げ捨てる。(列王紀上96-7)

(6)そしてわたしの民イスラエルのために一つの所を定めて、彼らを植えつけ、

  彼らを自分の所に住ませ、重ねて動くことのないようにするであろう。

  (サムエル記下 710)

(7)悪人が重ねてこれを悩ますことはない。わたしはあなたのもろもろの敵を打ち退けて、  あなたに安息を与えるであろう。主はまた「あなたのために家を造る」と仰せられる。

 (サムエル記下 711)

(8)わたしはあなたの身から出る子を、あなたのあとに立てて、」 

 その王国を堅くするであろう。(サムエル記下 712)

 子孫が絶えず王位を保つ。(列王紀上 95)

 

 (4)(5)(6)(7)(8)についてはソロモンの契約違反のために本来なら、ソロモン契約(5)にあるようにイスラエルはすべて立ち滅ぼされ、神殿も捨て去られることになります。しかし、YHWHは考えを変えて

(9) ソロモンが他の神々に仕えたが、(列王紀上114)

 ダビデの家からすべてを取りさらずユダ族をエルサレムに残す。(列王紀上 1136)

 ダビデの家をYHWHが苦しめるが永遠ではない。(列王紀上 1139)」としました。

 

7-59

 

 そういうことなので、(4)から(9)については次のようにまとめられそうです。

 

(4)(9) ソロモンの契約違反のため一時的にイスラエルに敵が起こされる。また国が分裂し、ユダ族のみがダビデ王朝に残され、神殿も捨てられるが、この状態は永遠には続かず回復される。

 

 歴史はその通りに進み、エドム人のハダド(ハダデ)やエルヤダ(エリアダ)の子レゾン、ネバト(ネバデ)の子ヤロブアム(ヤラベアム)がおこされ、ユダに攻撃をします。ダビデの家はイスラエルとユダに分裂し、ダビデ王朝にはユダのみが残されます。その後バビロン捕囚があり、ユダの有力者も連れ去られました。そして神殿は破壊されました。しかし、キュロス王により帰還許可がでて、エルサレムに帰還が始まります。第2神殿も建設が始まります。

 

 ここまでであれば、約束が成就したとしても良いのですが、教会の伝承では、エズラが列王記を書いたことになっています。つまり、書かれたのはエルサレム帰還後です。神との約束が成就したのか、歴史の流れを経験した後世の人が、契約の文言を聖書に挿入しただけ(事後預言)なのかはわからないのです。

 

 そしてその後の経過を見ると、イスラエルの10支族は失われ、ユダのみの状態がその後も続きます。また西暦70年には、エルサレム陥落でユダヤ人は離散しました。離散せずにとどまったユダヤ人が多いとの意見を聞いたこともありますが、離散しなかったユダヤ人はアイデンティティーを失い、他の民に同化しユダヤ人ではなくなっていきます。YHWHはユダを残すと言いましたが、最終的にはイスラエルは散らされ神殿も破壊されました。

 

 ダビデ・ソロモン契約では、ソロモンの背信があってもユダとエルサレムが残される約束と、イスラエルが回復する約束が実現されていません。つまり約束(9)を実行すると神は約束したのに、約束(5)が実行されました。これは契約違反です。つまりソロモンの背信後の契約変更を含めて考えても、結果的にソロモン契約は成就しなかったことになります。

 

7-60 

 

 注目したいことは、ダビデと子孫は王国を長く維持し、「約束の土地」に長く住むことを約束されますが、他の国々の民がダビデによって祝福される約束はありません。ダビデがアブラハム契約の更新者であるなら、アブラハム契約にある「すべての国々の民がアブラハムの子孫を通して祝福される」はどうして契約から消えたのでしょうか? やはり、「アブラハムから出る多くの国々の民はアブラハムの子孫を通して祝福される」と解釈した方が妥当ではないでしょうか?

 

 またダビデ契約には天上の霊的祝福を受ける要素がありません。罪が赦される約束も、天国に関する約束もなく、あくまで地上でダビデ王朝が、領土を守って長く存続するという地上的な祝福しかないのです。そして異邦人の救いに関する約束は皆無です。イエスがダビデ契約の「彼」であれば、イエスは「約束の土地」を守るために王として生まれ、軍事指導者にならないといけなかったはずです。

 

 そもそも当時はイドマヤ人のヘロデが王であり、ユダヤ人は王位につけなかったから、イエスがダビデの血を引いていても、王になれなかったのは当然であるという反論もあるでしょう。しかしヘロデが王であることは、ダビデ王朝が永続しなかったことを意味するので、アブラハムからソロモンに至る契約の約束が破棄された証拠にしかなりません。

 

7-61

 

 旧約聖書にある、神が人類と結んだ契約をアダムから始めて、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ダビデ、ソロモンと見てきました。それで気づいたことをまとめてみます。

 

(1)アダム契約にあった蛇(サタン)の頭を踏む砕く約束が、ノア契約には見られない。

アブラハム以降の契約にもない。

 

(2)アブラハム、イサク、ヤコブ契約で無条件だった「約束の土地」を与える契約が、モーセ契約の時に変更され、膨大な掟に従わねば「約束の土地」を与えないという条件を付けられた。またその条件を守れば祝福するが、守らねば神が呪い、民が滅びてしまうことになった。

 

(3)モーセ契約では創世記の契約にあったはずの「異邦人を祝福する約束」がなくなった。ダビデ、ソロモン契約をみると、ソロモンが王位を継いで王朝が長く続き、カナンを支配する約束が契約の主体となった。そしてやはり、創世記の契約にあった「異邦人を祝福する約束」がない。また天上の霊的祝福については記載がなく、地上の祝福のみが約束されている。

 

(4)ソロモンの背信で祝福は一時的に取り消され、ダビデ王朝にはユダ族とエルサレムだけが残される事になった。これは永久ではなく回復されるはずだったが、バビロン捕囚で神殿は破壊され、エルサレム帰還後も紀元前140年にはユダ族ではないレビ族のハスモン朝に支配された。また紀元前7年にはエドム(イドマヤ)人ヘロデ大王に支配され、西暦70年にはエルサレム陥落し、ユダヤ人は離散した。つまり神の約束は守られなかった。

 

(5)アブラハムの子孫以外にも、メルキゼデクという、いと高き神の祭司がいる。またモーセの義父のミディアンの祭司エトロはイスラエルの民ではないのにYHWHを崇拝していた可能性がある。

 

(6)アブラハム契約からソロモン契約にいたるまで、救世主イエスを明示する部分がない。

 

7-62

 

 各々について検討します。

 

(1)アダム契約にあった蛇(サタン)の頭を踏む砕く約束は、ノア契約に見られない。

アブラハム以降の契約にもない。」

 

 サタンの頭を踏み砕く約束は誰が引き継いだのでしょうか? キリスト教の文脈にできるだけ沿って考えてみます。

 

 アダム契約に出て来る、その使命を人の子イエスが果たすことは歴史の初めから決まっていたことです。しかし、サタンの頭を踏み砕く使命は、アブラハム契約に出てこないので、アブラハムにより継承されたものではないのです。一方、アブラハム契約で約束されたのは神の祭司の民になる事です。

 

 イエスがユダヤの母を持ちユダヤ人として現れたのは、神がイスラエルを(イエスを補佐する)祭司の民として選んだ証拠になります。しかしユダヤ人が民族全体としてはイエスを拒んだので、一部の弟子たちと異邦人キリスト教徒がその役目を果たすこととなりました

 

 アダム契約とアブラハム契約の乖離から次のことが考えられます。「イエスはサタンの頭を踏み砕いて人類を罪から救う救世主ではあるが、旧約の預言に出て来る「約束の土地」を得させるために現れる救世主ではない」ということです。実際にアブラハムからソロモンまでの契約にイエスは明示されず、メシア預言とイエスの公生涯も完全には一致しません。言い換えると、イエスはアブラハム契約の完全な実現は志向しておらず、モーセ契約の「祭司の民となる」という部分の実現のためにイスラエルの民に現れたようです。アブラハム契約にあるイスラエルの領土の回復や独立には、まったく興味を示さず、働きもありません。

 

 もっとも自由主義神学の立場に立てば、これらの契約はそもそも神と実際に契約したのか、あるいは文書を書いた人の願望なのか、そこが問題点になります。そして6章のメシア預言の精度の検証や、この章でおこなった神との契約が実現したかの検証を通して、旧約聖書自体は「必ず実現する神の約束」ではなくて、ユダヤ人の信仰を表しているという見解を受け入れざるを得ません。

 

 神との契約が、すべてユダヤ人の願望にすぎないと仮定します。それでも、イエスがユダヤ人に現れ、彼らを優先して弟子にし、また奇跡もユダヤ人を優先した事、旧約聖書は一字一句変えてはならないと言った事などを考えると、ユダヤ人が契約と呼んでいたものが実は願望に過ぎないとしても、やはりイエスはユダヤ人の願望を許容できる範囲で実現しようとしたのではないでしょうか? しかしイエスは「ユダヤ人が期待していた神との契約」の内容の一部のみしか実現させず、領土回復を否定し、「モーセの法律と社会制度的な掟」は真の礼拝ではないと断言したのです。

 

 これはイエスの目から見ると、モーセ契約、ダビデ契約が、神の御心を反映していなかった、つまり、そこに人為が混入していたから生じた帰結ではないでしょうか? もし、アブラハムからソロモンにいたるすべての契約が真実に神と結ばれた契約であるとしたら、イエスがこれらの実現を目指さなかったのはなぜでしょうか? そして、歴史上、どうして実現しなかったのでしょうか?

 

7-63

 

 もういちど福音派的な解釈を考えます。再臨のイエスが、旧約の預言に出て来る「約束の土地」を得させるために現れる救世主の役目を果たす可能性があります。前千年王国説などもこの考え方で、旧約の成就されていない預言を、再臨時にイエスが成就すると考えています。救世主預言にも、イスラエルを解放する軍事的リーダー的な姿、へりくだった主の僕である祭司的な姿の2つの姿があり、初臨のイエスが後者、再臨のイエスが前者の姿を取ると考えられています。

 

 しかし別の考え方も成り立つと思います。先ほど述べたように、イエスはサタンを踏む砕く霊的な救世主であるが、イスラエルに地上のカナンを与えて守護するYHWHの約束した別の救世主が現れるという考え方です。預言とイエスの公生涯の一致の精度が高くないなら、他の救世主の存在も考えねばなりません、といってもサタンと罪から人類を解放するのはイエスの仕事です。他の救世主とは、つまり、アブラハム契約を成就し、イスラエルを解放してカナンを占領し、他の国を支配する軍事的政治的リーダーです。イエスと一致しない部分の預言は、この軍事救世主と一致するでしょう。もっとも、これらは旧約聖書が霊的に正しく、預言と約束が成就するという前提で考えた場合の話です。

 

7-64

 

 次に本書の部分霊感説の立場ですが、旧約聖書にイエスの象徴が随所にちりばめてあり、預言も部分的に成就しているので、神の霊感はある程度は聖書の中に入っていることがわかります。しかし根本的に旧約聖書は、後世の為政者が自分の権威づけのために書いた文書として成立したと考えると、そもそも、神の意志を捻じ曲げ、神の権威を利用したことになります。

 

 そこで神(イエス)が真意を確かめに、また本来の計画を成就するために、イスラエル民族を試しに来ることは十分考えられます。この考えにしたがうと、旧約聖書に書いてあった預言とイエスの公生涯が合致しない部分があることや、イエスの語る神の国がユダヤ人の考える死後の世界と異なる理由が説明できます。

 

 この場合は、律法も預言者もヨハネまでの事である(マタイによる福音書 1113)とイエスが宣言し、ユダヤ人は見捨てる (マタイによる福音書 2337)