練り清めた銀 聖書を批判的に読む

【3.イエスの実在、復活、神性は信用できるか】( 1 / 1 )

3.イエスの実在、復活、神性は信用できるか】

 

3-1

 

 新約聖書の成立過程については色々説がありますが、議論の前提としてとりあえず、本書では新約聖書の正典に書いてあることは、初期のキリスト教のイエスにまつわる目撃証言、信仰告白、神学的解釈が入り混じったものとみなします。必ずしも神の言葉とみなさないという事です。部分霊感説に立っていますから。

 

 四福音書の中のイエスの言葉は、一応はイエスが語った言葉とみなします。新約聖書の正典のうちに、教会の証言としてのみ、イエスの言動が残されているからです。

 

 信じるというのは白か黒かでなく、確信度が0%から100%まで変動するものではないでしょうか? これは聖書を読んでいるうちに変化する、あるいは人生で危機的な状況に遭遇した時に変化します。私も人生で深刻な危機的状況に陥った時は、新約聖書も旧約聖書も確信度100%になったこともありますが普段は60%くらいです。

 

3-2

 

≪要約:イエスの処刑後、絶望の中でちりぢりになっていたイエスの同志たちに異変が生じた。殺されたイエスが不可思議な形で「生きている」ことを彼らは体験した。・・・こうした伝承の核となる体験を否定する者もいるが、そうするとかえって説得力を減じる。≫

(②、p61-62

 

 キリスト教について考えるときは常にイエスから考えないといけないと思います。

イエスの復活についての歴史学的な見解は上記の通りです。聖書の記述通りでないとしても、弟子たちがイエスの復活を確信した伝承の核となる体験がないと不自然だということです。

 

 指導者イエスが刑死した後、おびえて閉じこもっていた弟子たちが、突然、命がけで宣教をし始め、文字通り殉教していったのですから、それには何か理由が必要でしょう。イエスの復活を科学的に証明することはできませんし、そして科学的に否定することもできません。しかし、ここに弟子たちに復活を確信させた何らかの体験があってもおかしくないという見解が述べられています。歴史学者が批判的かつ論理的に考えた末にも、その蓋然性が残るのです。

 

 よって何らかの形でのイエスの復活は、最も信憑性が高い奇跡であると言えるかもしれません。イエスの十字架の死と復活を信じるかどうか、これがキリスト教を信じるうえで最も重要なところです。福音派の学者や牧師が書いた本ではもちろん全面的に肯定され、その証拠としてかなり説得力がある説明が挙げられています。これらは物的証拠などではなく、科学的な証明には程遠いと思いますが、一個人がその説明を受け入れ信じるには、十分な説得力があります。ここでは、それらの文献は引用しませんが私もそれを受け入れました、というか、十字架と復活を信じないならキリスト教徒ではないし、キリストによる救いもありません。

 

 しかし、ここで引用したのは福音派的でなく、奇跡や預言などについてはあえて語らずに、あくまで中立的に歴史学的に考察していた著者が、復活のイエスとの遭遇に関して、その時に何か不思議な事があったことが否定できないと書いているのです。中立的な立場からも可能性があると言及されていることに意味があります。

 

3-3

 

≪要約:西暦62年にエルサレム教会の指導者でイエスの兄弟のヤコブがアンナス2世により処刑された。しかし、このことは人々の反感を買い、アンナス2世は更迭されたことが、ヨセフスのユダヤ古代誌に書かれている。≫(②、p94p128) 

 

 イエスの実在を示す同時代の聖書外資料はないといいますが、少し時代が下ったものはあるので、史的イエスの実在性については十分かと考えています。ヨセフスのユダヤ古代誌には、洗礼者ヨハネについての記載とイエスについて記載と、イエスの兄弟ヤコブの記載があります。洗礼者ヨハネの実在を疑う人も、ヤコブの実在を疑う人もいないのに、イエスの実在だけを疑うのは合理的ではありません。確かにイエスの記述には後世のキリスト教徒の加筆があると考えます。しかし、イエスなる人物の実在を確認する程度の役割は果たすでしょう。

 

 ヨセフスは西暦37~100年に生きていた人です。イエスの処刑後に生まれているのでイエスの目撃証言ではありません。しかし、イエスの兄弟ヤコブの処刑はヨセフスと同時代であります。ユダヤ古代誌が書かれたのがもっと後であっても、同時代の目撃証言と考えてよいのではないでしょうか?

 

 イエスの兄弟と名乗る人物がエルサレムで活動していたのです。しかもイエスは神であると信仰告白していたのです。これはユダヤ教からみると冒瀆行為であり処刑されたことは容易に理解できます。しかし処刑がユダヤの人々の反感を買ったという事が不自然です。

 

 もし、イエスが神であるとユダヤの人々が信じていなければ、反感を買うわけがないのです。イエスが実際に奇跡を行って、ユダヤの人々に「神なのではないか」と思われていなかったら、ヤコブは民衆によってすぐさま石打にされるはずであります。イエスの奇跡がなかったならヤコブはただの冒涜者ですから、処刑されたときユダヤの人々は喜んだでしょう。

 

 奇跡があったという確かな物的証拠はなく、同時代の非キリスト教徒の直接の証言もありません。しかしここで上げたような傍証はいろいろあります。

 

3-4

 

16シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。

17すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。」≫

(マタイによる福音書 1616-17)

 

 ユダヤ人にとって神とはいかなる存在であるか、それは旧約聖書を読めばわかります。天地を創造し、天体も動物も人も自然法則もすべて創造した神です。人は神によって造られた存在であり神とは明瞭に違うのです。そして神は神聖不可侵で、特定の人間を神と呼称すると冒瀆に当たるので殺す必要があったのです。

 

 イエスの弟子たちはユダヤ人です。その彼らが、イエスを神の子と呼んだのです。ユダヤ人の伝承の中には奇跡をみせた預言者が何人もいます。しかしイエスの弟子たちは、イエスを預言者とみなさず、神の子とみなしたのです。

 

 ペトロが告白したからと言って、イエスが神であることの証明にはならないでしょう。特にキリスト教徒でない人にとってはそうです。しかしイエスの起こした奇跡が、ユダヤの伝承にある預言者が起こす奇跡を、はるかに凌駕していたことは、ペトロの告白から想像できると思います。イエスは弟子にとって預言者以上のものであったのです。

 

3-5

 

15イエスは彼らに言われた、「わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた。

16あなたがたに言って置くが、神の国で過越が成就する時までは、わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」。

17そして杯を取り、感謝して言われた、「これを取って、互に分けて飲め。

18あなたがたに言っておくが、今からのち神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを、いっさい飲まない」。

19またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。

20食事ののち、杯も同じ様にして言われた、「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。」≫

(ルカによる福音書 2215-20

 

 最後の晩餐でイエスが言った言葉は異様です。イエスの血を飲めというのです。もちろんぶどう酒を血に見立ててのことですが。

 

 続けて、他の箇所も見てみます。

 

3-6

 

 ≪10   イスラエルの家の者、またはあなたがたのうちに宿る寄留者のだれでも、血を食べるならば、わたしはその血を食べる人に敵して、わたしの顔を向け、これをその民のうちから断つであろう。

11肉の命は血にあるからである。あなたがたの魂のために祭壇の上で、あがないをするため、わたしはこれをあなたがたに与えた。血は命であるゆえに、あがなうことができるからである。

12このゆえに、わたしはイスラエルの人々に言った。あなたがたのうち、だれも血を食べてはならない。またあなたがたのうちに宿る寄留者も血を食べてはならない。

13イスラエルの人々のうち、またあなたがたのうちに宿る寄留者のうち、だれでも、食べてもよい獣あるいは鳥を狩り獲た者は、その血を注ぎ出し、土でこれをおおわなければならない。

14すべて肉の命は、その血と一つだからである。それで、わたしはイスラエルの人々に言った。あなたがたは、どんな肉の血も食べてはならない。すべて肉の命はその血だからである。すべて血を食べる者は断たれるであろう。

(レビ記1710-14

 

 ユダヤ人は律法で血を飲んではならないと規定されていました。血の中には命があるからと言うのが理由です。イエスは律法に挑戦したのでしょうか?

 

 続けて他の箇所を見ます。

 

3-7

 

53イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。

54わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。

55わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。

56わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。

57生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。≫

(ヨハネによる福音書 653-57) 

 

 「私の血を飲め」こんなことを言われて、弟子たちは反発しないのでしょうか?

 

 弟子たちはイエスの血を飲むという言葉を受け入れて、キリスト教の教義にしたのです。実際に飲むのはぶどう酒とはいえ、なぜ律法に逆らうような発想を取り入れたのでしょうか? 神に忠実であるユダヤ人がこのようなことを思いつくこと、そして受け入れること自体がおかしいのです。しかしこう考えることもできるでしょう。

 

 「イエスの血には永遠の命がある。これを飲みなさい。そして他のいかなる血も飲んではいけない、そこには滅びゆく肉体の命があるから。」

 

 私は信仰に基づいてこう考えます。律法の血を飲んではいけない規定はユダヤ人を聖別するためにあったのです。いつかイエスの血を飲んで永遠の命を受けるために、そして肉の滅びを受け入れないためにです。一見律法に違反するように見えますが、実はこの律法がイエスの血を飲む日のために用意されていたのです。

 

 イエスの弟子にとって、律法の規定よりもイエスの言葉が優先されたのです。「神の掟より偉大なものがここにある。それがイエスである。」それが弟子たちのイエスに対する評価です。

 

3-8

 

 結論です。

 

(1)十字架の刑死のあとに「イエスが何らかの形で生きている」と

 弟子たちが確信したことは否定できない。

(聖書の記述に従うと、イエスは霊の体で復活した)

 

(2)イエスの実在については傍証がある。

(学者でも完全に否定するひとは少ない)

 

(3)イエスの神性を弟子たちが確信していたことは事実であろう。

 

 とりあえずナザレのイエスの実在性を否定する証拠はないし、実在したという確実な証拠もありません。復活については弟子たちの体験としてはありうるわけです。イエスの神性については弟子たちが確信していたとしか、ここでは言えません。とりあえずいずれも否定はできないというのが結論です。

 

 旧約聖書の記載が、考古学的に否定されていることについて2章で書きましたが、新約聖書では、その中核であるイエスの実在、その十字架と復活を考古学的、歴史学的に否定することはできないのです。

 

 今後、何らかの方法で否定されたらまた検討が必要になりますが、今のところはイエスの復活、実在、神性は未だ科学的には否定されていないという事にしておきます。

【4.奇跡は本当にあったのか】( 1 / 1 )

4.奇跡は本当にあったのか】

 

4-1

 

 「奇跡や預言は本当にあったのか?」という疑問を誰でも持つはずです。キリスト教を信じるには、奇跡や預言の存在を受け入れなければならないのですが、私は、実際は起こらなかった奇跡や実現しなかった預言も聖書に書いてあると考えています。

 

4-2

 

 旧約聖書の成立過程と考古学的信憑性については2章で述べましたが、ここには神話と伝承が組み込まれているうえに、複雑な編集過程をへています。だから旧約聖書を奇跡の目撃証言として取り扱い、奇跡の実在について検証することは適切ではないと思います。

 

4-3

 

 新約聖書は奇跡の目撃証言として用いることが適正か? これについてはある程度の妥当性があると考えます。しかし新約聖書の福音書は複雑な成立過程をへており、著者の信憑性について疑問を持つ人もいます。そこで今回はパウロ書簡から、奇跡や預言があったどうか検討してみます。

 

 パウロ書簡のうち、真筆性が高いとされる、ローマ人への手紙、コリント人への第一の手紙、コリント人への第二の手紙、ガラテヤ人への手紙、ピリピ人への手紙、テサロニケ人への第一の手紙、ピレモンへの手紙の文言をパウロにより伝えられた言葉とみなします。

 

4-4

 

 なぜ、パウロ書簡を持ってくるかと言うと、

 

(1)パウロが実在したことに疑いを持つ人はいません。

 

(2)パウロは使徒です。しかも異邦人伝道のためにつまり、私たちのために特別に選ばれた使徒なのです。

 

(3)上記の7文書がパウロによって書かれたことは概ね合意ができています。

 

(4)新約聖書の成立で最も早いのがテサロニケ人への手紙で、西暦50年から52年成立と言われており、ローマ人への手紙でも西暦58年成立、最も遅いピリピ人への手紙でも62年成立です。イエスの刑死は西暦30年頃なので、その後おおよそ3032年以内に書かれた文書です。イエスの奇跡の目撃者がまだ多数生きていた時代に書いたのですから、嘘偽りがあれば暴かれてしまいます。

 

(5)パウロは復活のイエスに遭いましたが、十字架につけられる前のイエスの活動を目撃したかどうかは不明です。しかし、エルサレム教会の指導者に会い、復活のイエスの教えとエルサレム教会が受け継いでいる教えが、一致していることが確認されました。パウロに働いたのはイエスキリストであると承認されたのです。

 

 上記の理由から、パウロ書簡の7文書は、復活のイエスキリストや奇跡についてのパウロ自身の目撃証言であるとみなせます。そしてそれは伝聞ではない歴史の第一次史料です。

刑死前のイエスについての記述については第二次史料と言うことになります。

 

4-5

 

 パウロ自身の信憑性について、パウロはエルサレム教団に属していたことはないので、彼らに感化されていつの間にか信じるようになったわけではありません。つまり、教団によって洗脳やマインドコントロールを受けたわけではありません。

 

 パウロは何でも信じてしまう人ではありません。伝統的で正統派のユダヤ教徒のラビで、イエス派の信者を迫害していたのです。かつてはキリストの敵であった人の証言でもあるのです。イエスと使徒たちを徹底的に疑ったはずです。復活のイエスに遭ったのちも3年間、じっくり旧約聖書を研究してイエスが救世主なのかどうか確かめたのです。徹底的に疑った挙句の結論なのです。

 

 パウロ書簡のみで構成された証明であれば、誰も信憑性を否定できないはずです。

そして7文書中6文書で、パウロは「イエスがパウロを通して、奇跡を起こした」と証言しています。

 

4-6

 

16このように恵みを受けたのは、わたしが異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を勤め、こうして異邦人を、聖霊によってきよめられた、御旨にかなうささげ物とするためである。

17だから、わたしは神への奉仕については、キリスト・イエスにあって誇りうるのである。

18わたしは、異邦人を従順にするために、キリストがわたしを用いて、言葉とわざ、

19しるしと不思議との力、聖霊の力によって、働かせて下さったことの外には、あえて何も語ろうとは思わない。こうして、わたしはエルサレムから始まり、巡りめぐってイルリコに至るまで、キリストの福音を満たしてきた。

20その際、わたしの切に望んだところは、他人の土台の上に建てることをしないで、キリストの御名がまだ唱えられていない所に福音を宣べ伝えることであった。≫

(ローマ人への手紙 1520)

 

 ローマ人への手紙は58年ごろに書かれたとされています。ここの1518節に言葉とわざ、19節にしるしと不思議の力、聖霊の力によって、(わたしを)働かせてくださったとあります。彼が福音を宣べ伝えたいたるところで、奇跡が彼を通して起こったという証言です。

 

 ローマでも同じように奇跡が起こることを確信していなければ、これから訪問しようという所にこのような手紙を書けないのです。こんなことを書いたらローマに行ったときにしるしを見せてくれと言われるに決まっています。そして彼は奇跡が起こることに確信を持っていたのです。それは過去に奇跡が起こった実績から来る確信なのです。

 

4-7

 

1兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。

2なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。

3わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。

4そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。

5それは、あなたがたの信仰が人に知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった。≫

(コリント人への第一の手紙 21-5)

 

 コリント人への第一の手紙はコリントの信者に向けてエペソで書かれた手紙です。

24節に「霊と力との証明によった」とあります。コリント教会でパウロはかつて奇跡を起こしたことを証言しているのです。もしパウロが奇跡を見せていないのにこんな事を書いたら、コリント教会の人は皆パウロを見限り信仰を失うでしょう。かつて奇跡を見せた人に「そうだったでしょう?」と言っているのです。

 

4-8

 

12わたしは、使徒たるの実を、しるしと奇跡と力あるわざとにより、忍耐をつくして、あなたがたの間であらわしてきた。≫

(コリント人への第二の手紙 1212

 

 これもコリント教会宛ですが、「しるしと奇跡と力ある業」を行ったと証言しています。そしてそれが使徒である証拠だと言っているのです。これが嘘偽りであったなら、コリントの人は彼の教えを何故受け入れたのですか?

 

4-9

 

1ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。

2わたしは、ただこの一つの事を、あなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。

3あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。

4あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか。まさか、むだではあるまい。

5すると、あなたがたに御霊を賜い、力あるわざをあなたがたの間でなされたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。≫

(ガラテヤ人への手紙 31-5

 

 このガラテヤ人への手紙は、パウロによって形成されたガラテヤの共同体にあてて書かれたのですが、45節で「あなたがたの間でイエスが奇跡を起こしたのに、そんな大きな体験が無駄だったのか?」と嘆いています。もしそのような奇跡がなかったら、パウロはどんな顔をして彼らにあったらよいのでしょう?

 

4-10

 

25しかし、さしあたり、わたしの同労者で戦友である兄弟、また、あなたがたの使者としてわたしの窮乏を補ってくれたエパフロデトを、あなたがたのもとに送り返すことが必要だと思っている。

26彼は、あなたがた一同にしきりに会いたがっているからである。その上、自分の病気のことがあなたがたに聞えたので、彼は心苦しく思っている。

27彼は実に、ひん死の病気にかかったが、神は彼をあわれんで下さった。彼ばかりではなく、わたしをもあわれんで下さったので、わたしは悲しみに悲しみを重ねないですんだのである。

28そこで、大急ぎで彼を送り返す。これで、あなたがたは彼と再び会って喜び、わたしもまた、心配を和らげることができよう。≫

(ピリピ人への手紙 225-28

 

 ここでは、瀕死の重症患者エパフロデトを神が癒した事が書いてあります。但し奇跡によるのか、治療によるのか、詳細は不明です。

 

4-11

 

5なぜなら、わたしたちの福音があなたがたに伝えられたとき、それは言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信とによったからである。わたしたちが、あなたがたの間で、みんなのためにどんなことをしたか、あなたがたの知っているとおりである。≫

(テサロニケ人への第一の手紙 15

 

 ここでは「力と聖霊と強い確信」とあります。力と訳されたδυνάμειはマタイによる福音書722では力ある業(口語訳)、奇跡(新共同訳)、wonderful work(KJV)miracles(NIV)

など訳されており、ここでも奇跡のことと考えてもいいでしょう。ここでも「あなたがたの間で奇跡が起こったでしょう?」と記憶を呼び覚まそうとしています。

 

4-12

 

11このようにわたしたちは、主の恐るべきことを知っているので、人々に説き勧める。わたしたちのことは、神のみまえには明らかになっている。さらに、あなたがたの良心にも明らかになるようにと望む。

12わたしたちは、あなたがたに対して、またもや自己推薦をしようとするのではない。ただわたしたちを誇る機会を、あなたがたに持たせ、心を誇るのではなくうわべだけを誇る人々に答えうるようにさせたいのである。

13もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである。

(コリント人への第二の手紙 511-13)

 

 これでイエスの奇跡がパウロを通して働いたという、パウロの証言が多数あることがわかりました。では、パウロは正気だったのでしょうか?

 

 ここで引用したように「自分が布教している相手から正気でないように見えるのでは?」という危惧をパウロ自身が書いています。正直にいってパウロが正気であったという証拠を示すことはできません。

 

 もし私のところに、既存の宗教とは全く異なる神を宣べ伝える人がやって来たとします。おそらく、私はまったく信じずに帰ってもらうでしょう。正気と思えないからです。

 

 使徒の時代も同じことでしょう。既存の宗教と全く異なる神をパウロが宣べ伝えても正気だとは思われないでしょう。信仰に入った人たちはなぜ、パウロのいう事を信じることができたのか?

 

 合理的に考えるなら、パウロが「奇跡が起こる」と宣言して実際に奇跡が起こったからと考えるのが自然ではないでしょうか? そうでなければ、神を冒涜したとして、すぐさま、石打ちにされるはずです。

 

 一見、正気ではないようなことを言っても、宣言したとおりに奇跡が起こるなら、「ひょっとして本当の事なのではないか」という期待を抱かないでしょうか? 非常識かつ非科学的な宣言をしても、それを実際に実行できたなら妄想ではないのです。

 

4-13

 

1 わたしたちの間に成就された出来事を、最初から親しく見た人々であって、

2御言に仕えた人々が伝えたとおり物語に書き連ねようと、多くの人が手を着けましたが、

3テオピロ閣下よ、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、ここに、それを順序正しく書きつづって、閣下に献じることにしました。

4すでにお聞きになっている事が確実であることを、これによって十分に知っていただきたいためであります。≫

(ルカによる福音書 11-4)

 

 聖書にはすべての証言は複数の証言者が必要とあります。パウロの奇跡について、他の人の証言はないのでしょうか?

 

 パウロに従って旅をした福音記者ルカは、記述の正確さが考古学的によく確かめられ、誠実な人であると考えられています。ルカはイエスの直接の目撃者ではなくて、「ルカによる福音書」は伝聞をまとめて成立したと考えられますが、彼は使徒行伝の時代においては直接の証人であります。よって使徒行伝に書かれた一部の奇跡に関して、ルカは目撃したことを書いたはずです。

 

 ルカはパウロの奇跡の目撃者なのです。誠実だと考えられる人の目撃証言があるのです。

「聖書にしか書かれていない、他の証言がない」といって、聖書に書かれたことを信じない人もいます。しかし、聖書は現在では一冊の本にまとめられていますが、もともとばらばらに書かれた文書を集めたものです。たくさんの聖書記者の証言(あるいはそれを編纂したもの)でもあるのです。

 

4-14

 

 3章でイエスが復活したことを肯定するはっきりした証拠もないけれど、弟子たちに何らかの形で、イエスの復活を確信させた事件があった可能性は否定できないと結論しました。また弟子たちはイエスが十字架にかけられる前から、イエスの神性を認めていたことも示しました。

 

 聖書の記述によると、イエスは復活するときは霊の体で復活する(コリント人への第一の手紙 1542-44)と述べています。それで、私はおそらく弟子たちにも霊の体で現れたと考えています。しかしその霊の体での復活が、なぜイエスがキリストである証拠になるのでしょうか? それがただの幽霊であったら、永遠の命ではなく永遠の死です。またイエスが復活すると宣言していたので、その暗示効果で幻覚を見たのではないかと言われたら、どう反論できるのでしょうか? 

 

 復活のイエスは栄光を帯び、神としての威厳があるので、弟子たちはイエスの神性に気づいたのかもしれません。しかし「刑死する前から、弟子たちはイエスを神であると考えていたので、心理学的な効果で幽霊や幻覚を、栄光あるキリストと感じただけかもしれないのではないか」と反論されたらどう答えたらよいでしょうか。

 

4-15

 

 実はパウロを通して起こった奇跡がイエスの神性ともかかわってきます。パウロは復活のイエスに遭ったわけですが、彼はイエスが復活するなどという事は微塵も信じていなかったし、復活に対する期待はゼロです。復活を期待していた弟子たちが幻覚を見たということは考えられますが、そんなことを一切期待しないパウロが幻を見る可能性は低いのです。心理学の実験で幽霊を見たいと期待している人や、幽霊を信じている人ほど、(錯覚や幻覚の)幽霊を見やすいという結果を聞いたことがあります。パウロはこれに当てはまりません。

 

4-16

 

 また「イエスが霊の体で現れたとしても、なぜイエスが神や救世主であるという証拠になるのか? ただの幽霊ではないのか?」という疑問には、伝統的に弟子たちは「復活のイエスには肉や骨があって触ることができ、またイエスは物を食べることができたので幽霊ではない」と結論付けます。しかし、これについては本当に物理的な肉や骨を備えた体であったかどうか、わたしには確信がありません。なぜなら、復活のイエスは現れたり消えたりして、物質の物理的なふるまいを超えているからです。また聖書でイエスは復活した人は新たに霊の体を与えられ天使のような体になると述べています。だから、刑死したイエスの死体が起きあがって現れたというよりも、イエスの霊が実在している物質のような存在感をもって現れたのかもしれません。

 

 もうひとつ付け加えると、復活のイエスがパウロに現れて彼を打倒し、敵対者であるのに回心させたことが、一つの奇跡であると私は考えています。復活のイエスはただの幽霊ではない証拠に奇跡を起こすのです。また、この章で述べたように、回心後のパウロを通して更なる奇跡を起こしていくのです。回心前のパウロは奇跡を起こせなかったのですから、明らかに復活のイエスの力が現れているのです。そしてイエスの霊が神を証しするために奇跡を起こしていくことが、復活のイエスの神性の証明になると思います。

 

4-17

 

 十字架につけられる前のイエスの奇跡も私は信じていますが、四福音書の成立が遅いので直接の目撃証言ではなく信憑性が低いとして、そこに書かれた奇跡を否定する人もいます。しかしこの章で述べた、パウロを通して復活のイエスが起こした奇跡については、そのような否定の仕方は通用しません。

 

 だから、少なくともパウロを通して起こった奇跡については、信じてもよいと私は考えます。もちろん、この章で書いたことは、パウロを通して復活のイエスが奇跡を起こしたという蓋然性の論証をしたのであり、明らかな奇跡の証拠とは言えません。しかし、それでも一個人が信仰を保つには十分な説得力があると思います。

 

4-18

 

 ちなみに、マリヤが本当に処女のまま懐妊したのかどうか? 皆さんはどう考えますか? 私は神が介入したら、処女でも懐妊するだろうなと単純に考えるのですが、ここで「こんなこと科学的にありえない、信じられない」と聖書から離れる人も多いかと思います。信徒からすると「科学的にありえないことが起こったのだから、それは神が介入したしるしなのだ」となるのですが、その辺が理解できない人もいるでしょう。

 

4-19

 

 科学的に納得できる説明をしたらよいのでしょうか?

 もし、ヨセフが寝ている間に天使が彼の精子を採取し、マリヤが寝ている間に子宮に入れたとしたらどうでしょうか? 精子を子宮に入れる方法は性交渉だけではありません。そして性交渉なしなので、その結果として妊娠してもマリヤは処女です。この方法なら現代の科学でも、いや、ひょっとしたら当時の科学水準でも可能かもしれません。そして天使でなく人間の手でも可能かもしれません。しかし、そんなことをしたのなら奇跡でもなんでもないのです。不思議な事が起こり、それを科学で説明できなかったときに、初めて神の介入したしるしになるのです。

 

4-20

 

 奇跡に対して、このように何かしら科学的な解釈を施したものを目にしますが、奇跡を奇跡として素直に受け止めることが一番神に喜ばれると思います。もちろんこんな人工授精が起こったとは私は考えていません。そもそも「マリヤの胎に受精卵あれ」と神が一言、声を発するだけで、処女懐妊は可能なのですから。 

 

 ただ、処女懐妊が心に引っ掛かり、神を信じられないという人がいたら、このような人工授精という解釈や、実はヨセフと婚前交渉があったのだとか(つまり未婚の処女のはずの人が懐妊した)、自分で受け入れることができる解釈をしても良いのではないかと思うのです。他の奇跡についても同様です。個々の奇跡を信じることは救いの要件ではないのです。

 

4-2

 

 イエスを救い主と受入れることと、奇跡においては十字架と復活を信じることが救いの必要条件とされるのです。イエスが、不信仰なものにも与えると宣言した、唯一のしるしである「ヨナのしるし」、つまり、イエスの十字架の死と復活だけは、この様な解釈が許されない部分です。しかし、イエスは天国では霊の体、天使のような体で復活するといっていたので、肉体の体で生き返ったと考える必要はないと思います。確かに墓から死体が消えたのですが、復活のイエスをみても、すぐにはイエスだとわからなかった人が多いので、痛めつけられた死体のまま起き上がって歩いていたわけではないと思います。

 

4-22

 

 私はモーセ五書の記述が考古学的に否定されたことを受け入れていますが、奇跡や預言は信じています。「モーセ五書を否定するなら奇跡や預言も否定するべきではないか?」という意見を持つ人もいると思います。

 

4-23

 

 考古学的に痕跡がないことは歴史の中にその事件がなかったことを意味します。モーセの出エジプトや、ヨセフがエジプトで王に次ぐ地位にあったことなどは痕跡がないので否定できるのです。 一方奇跡がなかったことは考古学では否定できないのです。奇跡の検証は考古学という学問の対象外なのです。病気が治ったり、人が生き返ったりという奇跡があっても考古学的痕跡は残らないからです。

 

 3章でイエスの復活について述べましたが、考古学的には痕跡が残っていません。何せ、復活して墓から消えたイエスには遺体がないのですから、発掘もできません。墓も自分の墓ではないのですから、発掘しても、イエスの墓と書いてあるわけではないでしょう。だから、考古学的に旧約聖書の史実性を否定したのと同じ方法を用いても、奇跡や預言の存在を否定することはできません。

 

 しかし、おびえて逃げ隠れた弟子たちが、急に命を顧みず宣教を始めたという奇跡の痕跡が、歴史にはっきりと残っているのです。パウロを通して働いた復活のイエスの奇跡も、パウロ書簡と異邦人教会の反応という歴史上の痕跡があります。このような形でしか検証できないのです。

 

4-24

 

 また科学的に奇跡はあり得ないという人はこう考えているのではないでしょうか?

何か再現性のある現象や実験結果をもとに理論をつくり、それを積み重ねて、その延長線上に、特定の奇跡(たとえば、2匹の魚と5つのパンが5千人に給食されるとか)が再現できる可能性が示されたときに、真実だと認めようと言うかもしれません。でもよく考えてみてください。それは科学的に適切な判断でありますが、人の手で再現できるので奇跡ではありません。

 

 奇跡の定義をよく考えてください。奇跡とは常識では起こりえないことが起こったり、あるいは統計的にありえない確立で何かの事象が起こったりすることなのです。つまり奇跡を立証するのに必要な事は、「その原因が科学的に説明できないこと」、あるいは「常識的には、ありえない確率の事象が起こったこと」を示すことなのです。そして神が介入した痕跡なのですから、自然の法則を超越していてもいいわけです。

 

 聖書の歴史的な事件のありなしは考古学で調査可能なことがあります。しかし奇跡についてはそのような調査ができません。そして先ほど述べたように、歴史に奇跡の痕跡が残っているのです。

【5.イエスは旧約聖書をどう捉えていたか】( 1 / 1 )

5.イエスは旧約聖書をどう捉えていたか】

 

5-1

 

 2章と3章では自由主義神学的な疑いをもって検討しました。この章では福音派的な「イエスは神の子である」という前提で話します。その蓋然性については3章で話しました。納得できない人も「キリスト教徒にとってイエスは神の子、それが定義」として読んでください。また新約聖書に書いてあることは暫定的に正しいこととして引用します。

 

5-2

 

31 上から来る者は、すべてのものの上にある。地から出る者は、地に属する者であって、地のことを語る。天から来る者は、すべてのものの上にある。

32 彼はその見たところ、聞いたところをあかししているが、だれもそのあかしを受けいれない。

33 しかし、そのあかしを受けいれる者は、神がまことであることを、たしかに認めたのである。

34 神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る。神は聖霊を限りなく賜うからである。

35 父は御子を愛して、万物をその手にお与えになった。

(ヨハネによる福音書 331-35

 

 上記の引用は洗礼者ヨハネによる証です。34節に見るように、イエスは神の言葉を語ります。神により限りなく聖霊を注がれた方であり、31節にあるようにすべてのものの上にあります。イエスの言葉は神の言葉であり、それは真実です。イエスが承認したことは神の権威によって承認されたことになるからです。そして31節を信じるなら、イエスの権威は旧約聖書の権威を超えています。よって旧約聖書の価値を論じるときにもイエスの言葉を根拠にして考察したほうがよいと考えます。

 

5-3

 

 イエスの時代の2000年前のユダヤ人にとって、「旧約聖書は神の言葉である」という事は定義であり揺るぎない事実として受け取れるでしょう。しかし現代に生きる非ユダヤ人の異邦人キリスト教徒にとっては自明なことではないのです。なぜならすでに考古学的、歴史学的あるいは比較宗教学などで旧約聖書の信憑性が揺らいでいるからです。旧約聖書がユダヤ教徒でない私たちにも必要なものであるというなら、どのように旧約聖書を取り扱えばよいのでしょうか?

 

 異邦人キリスト教徒である私が旧約聖書を神の言葉であると受け入れるのは、イエスがそれを保証する限りにおいて受け入れるのです。そして約束によって私たちのうちに住んでくださる聖霊がその正しさを証言することによって、私たちはそれが真実であると初めて実感できるのです。聖霊により霊で知覚できること、つまり、信仰に関する事についてのみ旧約聖書の正しさを主張できるのです。

 

5-4

 

22神はまた、わたしたちに証印をおし、その保証として、わたしたちの心に御霊を賜わったのである。≫

(コリント人への第二の手紙 122

 

11いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない

12ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。

13この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。

(コリント人への第一の手紙 211-13

 

 新約聖書に含まれる文書はキリスト教会が正典性を認めた、つまり、「多くのキリスト教徒の内住の聖霊により、その霊的な正しさが承認された文書である」として、信仰に関して述べた部分を一応は正しい事として取り扱います。したがって、四福音書の中のイエスの言葉を一応はイエスが語った言葉とみなします。(もちろん、西暦7080年代のイエスの教えを信じる一派がキリスト教としてユダヤ教から独立していくときの、イエスに仮託した集団の信仰の告白であるとも考えられるわけです。特にヨハネによる福音書はその傾向が強いと考えます。)

 

 霊に関する事柄は、内住の聖霊によって理解されるというのがキリスト教の見解です。正典とされた新約聖書を正しいものとして議論することは、キリスト教の信仰に関する解釈をするに当たって正しい事とされています。多くのキリスト教徒から長年にわたって正典であると認められた文書はキリスト教の教義に関して正当性があると考えられるからです。この章でもそれに従います。もっとも新約聖書は使徒や初代の聖徒たちの見解を示しているにすぎず、時代によって、あるいは文化によって、聖書解釈や信仰の内容は変化しうるかもしれませんが。

 

 新約聖書が科学的に正しいかどうか判断するという事はまた別の問題ですが、本書では34章の議論の範囲にとどめておきます。

 

 この章の目的は、イエスが旧約聖書についてどう考えていたのか読み取ることです。

 

 ではイエスは旧約聖書についてどのように語ったか、四福音書から見ていきます。

 

5-5

 

34イエスは彼らに答えられた、「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。

35神の言を託された人々が、神々といわれておるとすれば、(そして聖書の言は、すたることがあり得ない)

(ヨハネによる福音書 1034-35

 

 イエスは、旧約聖書が廃れることはないと述べています。

 

5-6

 

18よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。≫

(マタイによる福音書 518

 

 マタイ5章でイエスは旧約聖書の内容を一点一画といえども、変えてはならないとイエスは述べています。しかし、ここに含みがあります。つまり24章で天地は滅びるといっていますから、天地が消え失せた後、つまり天国では旧約聖書は廃れるかもしれません

 

5-7

 

2そのとき、パリサイ人たちが近づいてきて、イエスを試みようとして質問した、「夫はその妻を出しても差しつかえないでしょうか」。

3イエスは答えて言われた、「モーセはあなたがたになんと命じたか」。

4彼らは言った、「モーセは、離縁状を書いて妻を出すことを許しました」。

5そこでイエスは言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、あなたがたのためにこの定めを書いたのである。

(マルコによる福音書 102-5

 

 しかし、マルコ105から、モーセが定めた掟には神の意向に沿わないものが混じっていることがわかります。律法に書かれていることが神の目から見て、すべて正しいわけではないのです。

 

5-8

 

23復活ということはないと主張していたサドカイ人たちが、その日、イエスのもとにきて質問した、

24「先生、モーセはこう言っています、『もし、ある人が子がなくて死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のために子をもうけねばならない』。

25さて、わたしたちのところに七人の兄弟がありました。長男は妻をめとったが死んでしまい、そして子がなかったので、その妻を弟に残しました。

26次男も三男も、ついに七人とも同じことになりました。

27最後に、その女も死にました。

28すると復活の時には、この女は、七人のうちだれの妻なのでしょうか。みんながこの女を妻にしたのですが」。

29イエスは答えて言われた、「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。

30復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。≫

(マタイによる福音書 2223-30

 

 地上の生活のための細則が、天の国でも適用されるような勘違いを当時のユダヤ人はしていました。当時のユダヤ人には旧約聖書や神の力を完全には理解できていなかったとイエスは述べています。

 

5-9 

 

35そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した、

36「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。

37イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。

38これがいちばん大切な、第一のいましめである。

39第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。

40これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。

(マタイによる福音書 2236-40

 

 イエスは、旧約聖書が2つの掟に要約されると考えていました。5-7で述べたようにモーセの律法を守っても神の意向に沿わないことがあります。また律法の不完全な理解から、神の意向に沿わない口伝ができることもあったのですが、それはこの2つの掟に沿っているかどうかで判定されるのです。

 

5-10

 

52そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。

53それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。

54しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」。

55そのとき、イエスは群衆に言われた、「あなたがたは強盗にむかうように、剣や棒を持ってわたしを捕えにきたのか。わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、わたしをつかまえはしなかった。

56しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書いたことが、成就するためである」。そのとき、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。≫

(マタイによる福音書 2652-56

 

 旧約聖書の預言は実現するとイエスが述べています。

 

5-11

 

44それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」

45そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて

46言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。

47そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。

48あなたがたは、これらの事の証人である。≫

(ルカによる福音書 2444-48

 

 しかし、イエスが実現すると保証したのは、旧約聖書でイエスについて書かれた部分のみです。

 

5-12

 

39あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。

40しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。≫

(ヨハネによる福音書 539-40

 

 イエスはそもそも、聖書はイエスキリストを指し示すためのものであると述べています。

 

5-13

 

11あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。

12バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。

13すべての預言者と律法とが預言したのは、ヨハネの時までである。

(マタイによる福音書 1111-13)

 

 この文言は解釈が難しいのですが、ヨハネはイエスの到来を告げたのですから、ヨハネの時=イエスの登場をもって、旧約聖書は役目を終えたとも解釈できます。ヨハネが旧約に属する最後の預言者である、とも解釈できます。いずれにせよ、アブラハム契約と異なったものがくること、イエスが新しい契約をもたらすことを表しています。

 

5-14

 

 引用したイエスの言葉をまとめると

(1) そもそも旧約聖書には父なる神の御心に沿ってない掟もある。

(2) 当時のユダヤ人の聖書や神の力についての理解は不完全であった。

(3) それでも旧約聖書は廃れない。

(4) また一点一画変更してはならない。

(5) そもそも旧約聖書はイエスを証するためのものである。

(6) イエスに関する預言は実現する。

(7) 旧約聖書が預言したのはヨハネの時まで

 

5-15

 

 上記(1)から(7)を、さらに私の見解(A,B)としてまとめると、

 

A; 「旧約聖書はイエスキリストを指し示すことが第一の目的であり、一点一画といえども、変更はできないし、廃れることもない。しかし実現することが保障されているのはイエスに関する部分だけである。」

 

B; 「旧約聖書に書いてある掟については神の御心に沿わないこともある。そして当時のユダヤ人の聖書理解はイエスから見て不完全であった。そしてイエスの登場をもって旧約聖書は役目を終えた。」

 

となります。

 

5-16

 

 イエスの弟子たちは、イエスが旧約の預言にある救世主であるかどうかを、旧約聖書のメシア預言を成就しているかどうかで判定したのです。その結果、イエスが救世主であることが確認されたと彼らは主張しています。なぜ旧約聖書と照らし合わせたのかというと、当時のユダヤ人にとって旧約聖書は神から与えられた言葉なので、絶対的に正しいはずのものだったからです。

 

 ところがイエスの旧約聖書の解釈は驚くべきもので、旧約聖書には神の御心に沿わない掟もあるし、当時のユダヤ人の旧約聖書解釈は間違っているというものです。そしてイエスが救世主であることが示されたらもう、旧約聖書は役目を終えるのだというのです。「私に関する預言は成就する」という発言は、成就しない預言が聖書にあるという含意を感じさせるし、イエスは「旧約聖書のすべてが正しいわけではない」と確かに真実を知っていたように受け取れます。

 

 しかし、イエスもまた旧約聖書を逐語的に引用して、自分の発言の根拠としています。これは、イエスと当時のユダヤ人の議論の前提となる共通の知識は旧約聖書であり、またユダヤ人が旧約聖書に書かれたことはすべて事実であると信じているから、論証するには他に方法がないからでしょう。また旧約聖書の間違いを知っていても、ユダヤ人をつまずかせないために指摘はしないでしょう。もしあなたがイエスであり、かつ旧約聖書の間違いを知っていたとしても、やはり同じことをしたでしょう。

 

5-17 

 

6神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。

7もし石に彫りつけた文字による死の務が栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、その顔を見つめることができなかったとすれば、

8まして霊の務は、はるかに栄光あるものではなかろうか。

9もし罪を宣告する務が栄光あるものだとすれば、義を宣告する務は、はるかに栄光に満ちたものである

10そして、すでに栄光を受けたものも、この場合、はるかにまさった栄光のまえに、その栄光を失ったのである。

11もし消え去るべきものが栄光をもって現れたのなら、まして永存すべきものは、もっと栄光のあるべきものである。

(コリント人への第二の手紙 36-11

 

 イエスが「旧約聖書はいつか消えていく」と考えていたかもしれないことを、先ほど5-6で述べました。使徒たちはどう考えていたのでしょう。上の引用11節を見てください。「消え去るべき者」とは9節の罪を宣告する務め、つまり、律法です。一方で「義を宣告する務め」とは新約の福音です。パウロはイエスの福音は永遠に残るが、旧約聖書は役目を終えたら消えていくと考えていたようです。消えゆくとしても旧約聖書自体は正しいものという認識でしょう。

 

5-18

 

6ところがキリストは、はるかにすぐれた務を得られたのである。それは、さらにまさった約束に基いて立てられた、さらにまさった契約の仲保者となられたことによる。

7もし初めの契約に欠けたところがなかったなら、あとのものが立てられる余地はなかったであろう。

8ところが、神は彼らを責めて言われた、/「主は言われる、見よ、/わたしがイスラエルの家およびユダの家と、/新しい契約を結ぶ日が来る。

9それは、わたしが彼らの先祖たちの手をとって、/エジプトの地から導き出した日に、/彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約にとどまることをしないので、/わたしも彼らをかえりみなかったからであると、/主が言われる。

10わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立て/ようとする契約はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、/彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となるであろう。

11彼らは、それぞれ、その同胞に、/また、それぞれ、その兄弟に、/主を知れ、と言って教えることはなくなる。なぜなら、大なる者から小なる者に至るまで、/彼らはことごとく、/わたしを知るようになるからである。

12わたしは、彼らの不義をあわれみ、/もはや、彼らの罪を思い出すことはしない」。

13神は、「新しい」と言われたことによって、初めの契約を古いとされたのである。年を経て古びたものは、やがて消えていく。

(ヘブル人への手紙 86-13

 

 この引用ではもっとはっきり宣告しています。7節では旧約聖書には欠けたところがあること、13節で旧約聖書はやがて消えていくと述べています。ということは、旧約聖書は不完全でいつか消えていくものという認識が、初代教会にあったかもしれません。

 

5-19

 

 史的イエスという概念があります。福音書に書かれたイエスは誇張、神格化された虚像であり、実際のナザレのイエスは宗教改革を試みた一人の人間であり、奇跡もなかった、というのです。もし、そうであればイエスもまた全知ではないので、当時のユダヤ人と同じように、旧約聖書が完全に正しいと考えていたはずです。また新約聖書を書いた弟子もユダヤ人なのですから、上記で述べたような旧約聖書の無誤性を否定する発言は出てこないはずです。この発言はどこから出てきたのでしょうか?

 

 当時のユダヤ人は旧約聖書を誤りなき神の言葉とみなしていました。しかしイエスの使徒と弟子たちは「旧約聖書は役に立つけれど不完全でいつか消えていくもの」と考えていました。これはイエスから得た知識なのではないでしょうか? イエスは当時のユダヤ人の思想を超えて、なぜか「旧約聖書には正しくない記述が含まれる」という真実を知っていたことになります。私はこれをイエスが人知をこえた知恵を持っていた証拠と考えます。

 

 聖書に考古学的な誤りがあるにも関わらず、もし、イエスが「旧約聖書はあらゆる面で逐語的に誤りがない」と信じていたのなら、少なくとも旧約聖書の真偽について、現代人より劣った知識しか持たない事になるのです。それは聖書に描かれたイエスの神性を否定する事になるのではありませんか? イエスが世界創造の前に存在し、この世がイエスによって造られた(ヨハネによる福音書1章)のであれば、考古学的な誤りも知っていなければなりません。

 

  このパラドックスを解決するには、イエスの神性を肯定して「イエスは聖書の誤りを知っていた」とするか、聖書の無誤性を否定し「イエスも時代相応の知識で生きた人に過ぎない」と認め神性を否定するか、いずれかを選ぶことになります。

 

5-20

 

 イエスの言葉が正しいのなら、旧約聖書の役割はイエスが登場したときに、「イエスは救世主である」ことを当時のユダヤ人に示すためにあったことになります。新約聖書の記述が正しいなら、この役目はすでに果たされたことになります。

 

 すべてのユダヤ人が信じたわけではないですが、確かにイエスの教えが後世に残るほどの効果はあったわけです。この役目を果たすために必要な条件は「当時のユダヤ人が旧約聖書を真実な神の言葉と信じていること」であり、旧約聖書が考古学的に正しいことではなかったのです。

 

 逆にいうと旧約聖書が科学的に正しく書いてあったとしても、当時のユダヤ人に「神の言葉」として理解されなければ無意味であります。旧約聖書が非科学的で神話的な内容に満ち、とても現代人には信じられない内容であったとしてかまわないのです。当時のユダヤ人の知的水準をもって真実であるという合意ができていたら、イエスを救世主として示す十分な役割を果たせるのです。

 

5-21

 

18よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。≫

(マタイによる福音書 518

 

35天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。≫

(マタイによる福音書 2435)

 

 私も一点一画も消え去らないという言葉から「旧約聖書もまた永遠の真理である」とイエスが宣言していると考えていました。しかし、今では考えが少し変わりました。

 

 マタイ福音書2435には天地が滅びると書かれています。またイエスの言葉は永遠であると述べています。

 

 マタイ福音書5182435を比較してみましょう。天地が消え失せるまでは旧約聖書は変更してはならないのですが、天地が消えうせた後は、旧約聖書も廃れることもありうるわけです。一方、イエスの言葉は天地が消え失せても残るのです。旧約聖書には賞味期限があるのです。地上の事はすべて過ぎ去ることなのですから、それでも何の支障もないはずです。そもそも、神の国では新たな神の御言葉が、日々与えられるでしょうから。

 

5-22

 

 現代の私たちが持つ、旧約聖書に誤りがあるという発想と、新約聖書のイエスの言葉に見る「旧約聖書は不完全である」という見解は矛盾しません。そして「旧約聖書が不完全である」という知識をイエスが持っていたことが、イエスの英知を証明するのです。旧約聖書の内容が考古学的に否定され、創作された話が混じっていたとしても、イエスの神性は否定されません。そしてイエスの神性が否定されない限りは、キリスト教の信仰を根底から崩すことにはなりません。

 

 イエスが神であり、救い主であることを証するものは2つあります。一つは旧約聖書の預言です。もう一つは、内住の聖霊であります。当時のユダヤ人にとっては、イエスが救世主であると証明するものは旧約聖書しかありませんでしたが、わたしたち現代の異邦人キリスト教徒にとっては「イエスの神性と約束」は内住の聖霊によって保障されるものなのです。だから旧約聖書の無誤性が崩れても、聖霊の証言に耳を傾けることができるなら、私たちの信仰は堅く立つことができるのです。

 

5-23

 

63人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。≫(ヨハネによる福音書 663

 

 イエスは祈りにおいても賛美においても説教においても、旧約聖書を引用しています。また使徒も弟子もそうです。現代の信徒もそうです。考古学的に間違っていても、あるいは科学的に間違っていても、神との交渉に聖書の言葉が必要なようですね。

 

 引用部を見てください。「イエスの言葉は霊である」とあります。イエスの話した言葉には神の霊が載っているのです。同様にもし、旧約聖書が神の霊感によって書かれたのなら、旧約聖書の言葉にも神の霊が載っているのです。この神の霊は聖霊の一部でしょうから、この霊が私たちと神との意思疎通を図るのです。

 

5-24

 

 聖書に権威を認めない人にとって、聖書の言葉はただの活字に過ぎません。しかし、聖霊が内住する信徒は聖書の言葉に神聖な何かを感じ取れます。これは内住の聖霊が言葉に載った神の霊を受けとるから知覚できるのでしょう。もちろん言葉に載った神の霊を知覚するといっても、何かが見えたり声が聞こえるわけではありません。霊の事は霊によって判断されると聖書に書いてありますから、その人の内面で今自分に必要な言葉であると感じたり、これが真実であるという強い確信を起こさせるという意味です。

 

 聖書が正典化される際には、すでに多くの信徒によって正しいと認められて読まれていた文書から正典が選ばれたのです。つまり、当時の信徒の内住の聖霊により、神聖さを感じ取れる文書が旧約聖書で正典に選ばれたのです。そして、現代のキリスト教徒も旧約聖書に何か神聖な気配を感じているわけです。その重みは歴史の教科書や論文としての論理の重厚さではなく、神の栄光の重みなのです。

 

5-25

 

 古代のイスラエル人やイエス時代のユダヤ人、中世のヨーロッパ人にとっては、聖書は歴史や科学の真実も含んでいると思われたわけですが、私たちはそれが間違いであると科学的に理解できる時代に生きています。信仰も文化的変容を受けてよいのではないでしょうか? 聖書には神についての真実、信仰についての真実が書かれているのであって、歴史書ではないし、科学の教科書でもないと認めるだけです。そして編纂したのが人であるから、間違いが含まれることも。

 

 ある意味、新旧約聖書は神とコンタクトをとるツールであるとみなすことも可能になります。新約聖書は旧約聖書を読んでいることを前提に書かれているのですから、読まずにイエスの話を理解することはできません。比ゆ的に言うと旧約聖書を読まずに、新約聖書だけを読んでいると、神と対話するのに必要な単語(シンボルやエピソード)が不足するわけです。それでは赤子のような喃語になってしまいますし、神のメッセージも理解できません。

 

5-26

 

 イエスは旧約聖書を引用して神学を展開し神に祈りました。そのことから信仰に関して、また祈りや賛美と言う神との接触に関しては、旧約聖書のエピソードやシンボルを用いることが必要であるということがわかります。聖書に歴史や科学的な間違いがあったとしても、少なくともイエスやイエスの父なる神と交渉をするときの共通語は聖書のエピソードやシンボルしかないのです。だから、科学的に正しくなくても考古学的に正しくなくても、創世記がシュメール神話の焼き直しにすぎないとしても、旧約聖書には信仰における有用性はあるのです。それはシンボルによって構成された言語であり意思疎通手段です。そして他の何かで代替できません。

 

 聖書が書かれた時代のように神が直接現れて対話したり、天使がやってきて対話したりという事が起こる可能性も残されますが、現代では新旧約聖書を読むことでメッセージを受け取り、シンボルやエピソードを用いて祈る、それが神との対話です。そのために聖書が書かれたのです。正典化以降、神や天使が直接現れる必要はなくなったのですから、そのようなものが現れたら悪霊の働きやあるいは幻覚なのではないかと返って警戒する必要があるかもしれません。

 

 天国に入って直接神と意思疎通できるようになったら、聖書はいらなくなるかもしれません。しかし天地が滅びるまでは旧約聖書もやはり必要なものです。一点一画も変更してはならないが、何か欠けていて、いずれ滅び去るとはそういう意味だと思います。

 

【6.メシア預言の精度】( 1 / 1 )

6.メシア預言の精度】

 

6-1

 

 2章で旧約聖書は考古学的には正しくないし、史実に合致しない部分も多く、どちらかというと、ユダヤ人の信仰告白や願望が書かれているという科学的視点を述べ、それでもやはり預言と言う現象はあったのではないかと書きました。

 

 初代の聖徒たちは旧約聖書のメシア預言と照らし合わせて、イエスが救世主であると確かめたのです。しかし現代の考古学の知識で旧約聖書の間違いが指摘されたのですから、再びメシア預言の精度についても考えてみる必要があります。彼らが旧約聖書をどのように解釈したのかを検証するのです。

 

6-2

 

22すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、

23「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。

24ヨセフは眠りからさめた後に、主の使が命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた。

25しかし、子が生れるまでは、彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名づけた。≫(マタイによる福音書 122-25)

 

 まず、マタイによる福音書1章から順番に見ていきます。23節は有名なインマヌエル預言です。神が人と共に住むようになるという意味である、インマヌエルという名前でイエスが呼ばれるようになるだろうというのです。名前が本質を表すというのがユダヤ的発想と聞きました。だから、神であるイエスが我々と共に住んだこと、今でも我々と共にいることでこの預言は成就したわけです。しかし、本当にこんな預言があったか調べる必要があります。この預言の引用元のイザヤ書714を見ます。

 

1ユダの王、ウジヤの子ヨタム、その子アハズの時、スリヤの王レヂンとレマリヤの子であるイスラエルの王ペカとが上ってきて、エルサレムを攻めたが勝つことができなかった。

2時に「スリヤがエフライムと同盟している」とダビデの家に告げる者があったので、王の心と民の心とは風に動かされる林の木のように動揺した。

3その時、主はイザヤに言われた、「今、あなたとあなたの子シャル・ヤシュブと共に出て行って、布さらしの野へ行く大路に沿う上の池の水道の端でアハズに会い、

4彼に言いなさい、『気をつけて、静かにし、恐れてはならない。レヂンとスリヤおよびレマリヤの子が激しく怒っても、これら二つの燃え残りのくすぶっている切り株のゆえに心を弱くしてはならない。

5スリヤはエフライムおよびレマリヤの子と共にあなたにむかって悪い事を企てて言う、

6「われわれはユダに攻め上って、これを脅かし、われわれのためにこれを破り取り、タビエルの子をそこの王にしよう」と。

7主なる神はこう言われる、この事は決して行われない、また起ることはない。

8スリヤのかしらはダマスコ、ダマスコのかしらはレヂンである。(六十五年のうちにエフライムは敗れて、国をなさないようになる。)

9エフライムのかしらはサマリヤ、サマリヤのかしらはレマリヤの子である。もしあなたがたが信じないならば、立つことはできない』」。

10主は再びアハズに告げて言われた、

11「あなたの神、主に一つのしるしを求めよ、陰府のように深い所に、あるいは天のように高い所に求めよ」。

12しかしアハズは言った、「わたしはそれを求めて、主を試みることをいたしません」。

13そこでイザヤは言った、「ダビデの家よ、聞け。あなたがたは人を煩わすことを小さい事とし、またわが神をも煩わそうとするのか。

14それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。

15その子が悪を捨て、善を選ぶことを知るころになって、凝乳と、蜂蜜とを食べる。

16それはこの子が悪を捨て、善を選ぶことを知る前に、あなたが恐れているふたりの王の地は捨てられるからである。≫

(イザヤ書71-16

 

 よく聖書解釈の時には文脈を意識して読み、勝手な解釈をしてはならないとされていますが、マタイ福音書記者は文脈を無視してとても自由な引用をしています。

 

 イザヤ書の該当箇所では、ユダのアハズ王の時代に、敵対するスリヤ(新共同訳ではアラム)の王とイスラエルの王が滅びる預言をイザヤから与えられたのですが、その証拠として、おとめが男の子を産み、インマヌエルととなえられるというのです。イエスはスリヤ(アラム)やイスラエルを滅ぼすために生まれてきたわけではありませんし、そしてイエスが生まれたのはアハズ王の治世ではありません。また原文を読むとインマヌエルとは称号や、愛称ではなく、この男の子の名前です。一方イエスの名前はイエスです。公生涯を終えるまで、インマヌエルと呼ばれたこともありません。よって逐語的には預言と一致しません

 

 マリヤが処女のままイエスを身ごもったという主張に合致している一文を見つけて、文脈を無視して結びつけたのではないでしょうか?

 

 こんなことを書くと「揚げ足をとって屁理屈をこね、預言の本質を見ていない」と怒られそうですがそうではありません。私はこの預言がイエスの本質を説明していると認めます。つまり、メシア預言であり成就したと認めます。但し逐語的には正しくないし、文脈も無視しているので、部分的な預言の成就であることも認めるべきだと主張しているのです。

 

 「旧約聖書のメシア預言は成就している」ことを肯定し、「聖書は十全霊感によって書かれ逐語的に正しい」ことを否定しているのです。

 

6-3

 

 マリヤが本当に処女のまま懐妊したかについては4章で述べましたが、そこまで考えなくとも、未婚の女性が婚前に懐妊しただけでも預言は成就したことになると思います。語の解釈の問題です。未婚の女性は処女なのが当然な時代なのですから、「処女が子をもうける」というイザヤの言葉が文学的な修辞である可能性もあるわけです。文学的、象徴的な表現は預言書に多用されていますから。

 

 もし、未婚のマリヤが婚前に身ごもったのなら、このような修辞的、詩的表現がされてもおかしくないでしょう。

 

6-4

 

1イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、

・・・

4そこで王は祭司長たちと民の律法学者たちとを全部集めて、キリストはどこに生れるのかと、彼らに問いただした。

5彼らは王に言った、「それはユダヤのベツレヘムです。預言者がこうしるしています、

6『ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの君たちの中で、決して最も小さいものではない。おまえの中からひとりの君が出て、わが民イスラエルの牧者となるであろう』」。

(マタイによる福音書 21,4-6)

 

 イエスがベツレヘムで生まれることが預言されていたと書かれています。引用元を見てみます。

 

2しかしベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちから/わたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである。

3それゆえ、産婦の産みおとす時まで、主は彼らを渡しおかれる。その後その兄弟たちの残れる者は/イスラエルの子らのもとに帰る。

4彼は主の力により、その神、主の名の威光により、立ってその群れを養い、彼らを安らかにおらせる。今、彼は大いなる者となって、地の果にまで及ぶからである。

5これは平和である。アッスリヤびとがわれわれの国に来て、われわれの土地を踏むとき、七人の牧者を起し、八人の君を起してこれに当らせる。

6彼らはつるぎをもってアッスリヤの地を治め、ぬきみのつるぎをもってニムロデの地を治める。アッスリヤびとがわれわれの地に来て、われわれの境を踏み荒すとき、彼らはアッスリヤびとから、われわれを救う。≫

(ミカ書 52-6)(新共同訳ではミカ書51-5

 

 まず、ミカ書ではベツレヘムは最も小さいとされていますが、マタイでは決して最も小さくないと改変があります。聖書は改変してよいものでしょうか? そうであれば、私たちも初代の聖徒に倣って聖書を改変して引用する事が許されるかもしれません。

 

 ミカ書の続きでは、彼はイスラエルを治めてアッシリアの攻撃から守り、さらにアッシリアを征服するとしています。実際のイエスはイスラエルの指導者にはなれず、アッシリアは既に滅んでおり、アッシリアのあった土地をイスラエルが征服したことは、歴史上ありません。歴史的文脈から考えるとこの預言はイエスと全く関係ありません。

 

 たとえイエスがベツレヘムで生まれたとしても、まだイエスはイスラエルの指導者になっていません。よって預言が成就したとは言えず、客観的にみると外れた預言としか言えません。イエスの弟子たちが「この預言が成就した」と主張した事は、「イエスが再臨し、イスラエルの王になる」という彼らの願望の表れに過ぎないのです。

 

 つまり新約聖書の記述もすべてが歴史の事実ではなく、願望や信仰告白、神学思想の提示が含まれているのです。そのために私は聖書の記述がすべて正しいという立場には立てません。

 

 メシアはダビデの末裔としてベツレヘムで生まれるという発想が、当時のユダヤ人にあり、父ヨセフがベツレヘム出身であるために、イエスがユダヤの王になるだろうという期待が生じ、この引用部分と結び付けてイエスがベツレヘムで生まれた出生譚が創作されたのかもしれません。イエスはナザレで出生した可能性が高いと考えている歴史学者もいます(①p36)。

 

6-5

 

13彼らが帰って行ったのち、見よ、主の使が夢でヨセフに現れて言った、「立って、幼な子とその母を連れて、エジプトに逃げなさい。そして、あなたに知らせるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが幼な子を捜し出して、殺そうとしている」。

14そこで、ヨセフは立って、夜の間に幼な子とその母とを連れてエジプトへ行き、

15ヘロデが死ぬまでそこにとどまっていた。それは、主が預言者によって「エジプトからわが子を呼び出した」と言われたことが、成就するためである。

(マタイによる福音書 213-15)

 

 ここではヨセフが一家でエジプトに逃げ、帰ってきたことが預言されていたと書かれています。引用元を参照しましょう。

 

1わたしはイスラエルの幼い時、これを愛した。わたしはわが子をエジプトから呼び出した。

2わたしが呼ばわるにしたがって、彼らはいよいよわたしから遠ざかり、もろもろのバアルに犠牲をささげ、刻んだ像に香をたいた。≫

(ホセア書111-2

 

 引用元のホセア書では呼び出された「わが子」というのはイスラエル民族全体(2節に彼らと書いてある)ですが、イエスはイスラエルの代表とは言えません。しかも「彼ら」はその後に偶像崇拝を行ったと書いてありますから、イエスに率いられてエクソダスするキリスト教徒の象徴として「彼ら」を用いることもできません。この預言とイエスの生涯はエジプトに滞在し呼ばれたという部分的な一致点があるのみです。そもそもここは預言書の一部ですが、未来を予知する文言ではなく過去の出来事を回想する地の文です。本当にイエスを指すメシア預言と言えるのでしょうか?

 

6-6

 

16さて、ヘロデは博士たちにだまされたと知って、非常に立腹した。そして人々をつかわし、博士たちから確かめた時に基いて、ベツレヘムとその附近の地方とにいる二歳以下の男の子を、ことごとく殺した。

17こうして、預言者エレミヤによって言われたことが、成就したのである。

18「叫び泣く大いなる悲しみの声が/ラマで聞えた。ラケルはその子らのためになげいた。子らがもはやいないので、慰められることさえ願わなかった」。

(マタイによる福音書 216-18)

 

 ベツレヘムの虐殺が預言されていたと書かれています。引用元を参照しましょう。

 

10万国の民よ、あなたがたは主の言葉を聞き、これを遠い、海沿いの地に示して言いなさい、『イスラエルを散らした者がこれを集められる。牧者がその群れを守るようにこれを守られる』と。

11すなわち主はヤコブをあがない、彼らよりも強い者の手から彼を救いだされた。

12彼らは来てシオンの山で声高く歌い、主から賜わった良い物のために、穀物と酒と油および若き羊と牛のために、喜びに輝く。その魂は潤う園のようになり、彼らは重ねて憂えることがない。

13その時おとめたちは舞って楽しみ、若い者も老いた者も共に楽しむ。わたしは彼らの悲しみを喜びにかえ、彼らを慰め、憂いの代りに喜びを与える。

14わたしは多くのささげ物で、祭司の心を飽かせ、わたしの良き物で、わたしの民を満ち足らせると/主は言われる」。

15主はこう仰せられる、「嘆き悲しみ、いたく泣く声がラマで聞える。ラケルがその子らのために嘆くのである。子らがもはやいないので、彼女はその子らのことで慰められるのを願わない」。

16主はこう仰せられる、「あなたは泣く声をとどめ、目から涙をながすことをやめよ。あなたのわざに報いがある。彼らは敵の地から帰ってくると主は言われる。

17あなたの将来には希望があり、あなたの子供たちは自分の国に帰ってくると/主は言われる。

18わたしは確かに、エフライムが/こう言って嘆くの聞いた、『あなたはわたしを懲らしめられた、わたしはくびきに慣れない子牛のように/懲らしめをうけた。主よ、あなたはわたしの神、主でいらせられる、わたしを連れ帰って、もとにかえしてください。』≫

(エレミヤ書3110-18

 

 15節が引用部位です。このエレミヤの預言は、バビロン捕囚にあったイスラエルの民が戻ってくることを預言しています。この預言自体は紀元前538年に歴史上で実現したものです。しかしイエスとは文脈のつながりがありません。15節でラマの子らがいなくなったのは虐殺が原因ではなく捕囚であり、イスラエルの不信仰のゆえにそうなったのです。一方、ベツレヘムの虐殺は不信仰とは何の関係もありません。そして16節ではラマの子らの帰還が書かれていますが、ベツレヘムの子らは帰ってきません。ラマはベニヤミンの土地でベツレヘムはユダの土地です。全く関係ない事象が関連付けられているといってもよいでしょう。

 

6-7

 

19さて、ヘロデが死んだのち、見よ、主の使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて言った、

20「立って、幼な子とその母を連れて、イスラエルの地に行け。幼な子の命をねらっていた人々は、死んでしまった」。

21そこでヨセフは立って、幼な子とその母とを連れて、イスラエルの地に帰った。

22しかし、アケラオがその父ヘロデに代ってユダヤを治めていると聞いたので、そこへ行くことを恐れた。そして夢でみ告げを受けたので、ガリラヤの地方に退き、

23ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちによって、「彼はナザレ人と呼ばれるであろう」と言われたことが、成就するためである。

(マタイによる福音書 219-23)

 

 ナザレ人と呼ばれることに関しては、以下のイザヤ書、ゼカリヤ書、2か所から取られたそうです。引用元を見ます。

 

1エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、

2その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。

3彼は主を恐れることを楽しみとし、その目の見るところによって、さばきをなさず、その耳の聞くところによって、定めをなさず、

4正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの/柔和な者のために定めをなし、その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。≫

(イザヤ書111-4

 

 1節の若枝という語がナザレと同じ表記だそうです。私はこの預言は成就したと考えます。象徴的な表現ですがかえって神秘を感じさせます。但しこの14節の前のイザヤ書10章ではアッシリアに攻め滅ぼされることが、そして1021では残りの者の帰還が預言され、引用部の後の111116節は、アッシリアに捕囚にされた後に帰還するという文脈の中にあり、イエスの公生涯とは歴史的に関係ない時代についての預言であります。よってここもまた部分的な成就です。

 

9主の言葉がまたわたしに臨んだ、

10「バビロンから帰ってきたかの捕囚の中から、ヘルダイ、トビヤおよびエダヤを連れて、その日にゼパニヤの子ヨシヤの家に行き、

11彼らから金銀を受け取って、一つの冠を造り、それをヨザダクの子である大祭司ヨシュアの頭にかぶらせて、

12彼に言いなさい、『万軍の主は、こう仰せられる、見よ、その名を枝という人がある。彼は自分の場所で成長して、主の宮を建てる。

13すなわち彼は主の宮を建て、王としての光栄を帯び、その位に座して治める。その位のかたわらに、ひとりの祭司がいて、このふたりの間に平和の一致がある』。

14またその冠はヘルダイ、トビヤ、エダヤおよびゼパニヤの子ヨシヤの記念として、主の宮に納められる。

15また遠い所の者どもが来て、主の宮を建てることを助ける。そしてあなたがたは万軍の主が、わたしをつかわされたことを知るようになる。あなたがたがもし励んで、あなたがたの神、主の声に聞き従うならば、このようになる」。≫

(ゼカリヤ書69-11

 

 12節で枝(若枝)がナザレという語でイエスの象徴とされています。「自分で主の宮を建てる」「遠いところのものがきて、主の宮を建てることを助ける」などから部分的に預言が成就したと考えます。しかも11節で冠をかぶせられたのは大祭司ヨシュアですが、ヨシュアはイエスのヘブライ語表記と一致していて、かなりの合致点があります。

 

 但し、ここは捕囚からエルサレム帰還を果たし、第2神殿再建に着手したころの話です。後の章でマカバイ記の時代についての預言があり、さらに後の章で有名な銀貨30枚の話が出て来るので、預言として引用した6章はイエスの時代の話ではありません。よってここも文脈上はイエスの時代の出来事を預言したものではありません。

 

6-8

 

1そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教を宣べて言った、

2「悔い改めよ、天国は近づいた」。

3預言者イザヤによって、「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と言われたのは、この人のことである。

(マタイによる福音書 31-3)

 

 洗礼者ヨハネについての預言です。引用元を見ます。

 

1あなたがたの神は言われる、「慰めよ、わが民を慰めよ、

2ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ、そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を/主の手から受けた」。

3呼ばわる者の声がする、「荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。

4もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ、高低のある地は平らになり、険しい所は平地となる。

5こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。これは主の口が語られたのである」。

6声が聞える、「呼ばわれ」。わたしは言った、「なんと呼ばわりましょうか」。「人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。

7主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。

8草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉は/とこしえに変ることはない」。

9よきおとずれをシオンに伝える者よ、高い山にのぼれ。よきおとずれをエルサレムに伝える者よ、強く声をあげよ、声をあげて恐れるな。ユダのもろもろの町に言え、「あなたがたの神を見よ」と。≫

(イザヤ書 401-9)

 

 イエスが神であり救世主であるという前提に立って考えると、洗礼者ヨハネがイエスの道を備えたことは事実なので、預言は成就したといえるでしょう。イザヤ書で「呼ばわる者」のメッセージは「神の言葉は変わらない」「あなたがたの神を見よ」です。一方マタイ福音書のヨハネのメッセージは「神の国は近づいた」「わたしの後からくる方(イエス)」です。逐語的には一致しませんが、神であるイエスキリストの到来を指し示したことが一致しています。

 

 この後6-11で説明しますが、この40章の引用部位はバビロン捕囚後のエルサレム帰還の様子を預言していると考えられます。これもまたイエスの時代についての預言ではなく、部分的な預言の成就という事になります。

 

6-9

 

12さて、イエスはヨハネが捕えられたと聞いて、ガリラヤへ退かれた。

13そしてナザレを去り、ゼブルンとナフタリとの地方にある海べの町カペナウムに行って住まわれた。

14これは預言者イザヤによって言われた言が、成就するためである。

15「ゼブルンの地、ナフタリの地、海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤ、

16暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。

17この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。≫ 

(マタイによる福音書 412-17)

 

引用元を見ます。

 

1しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。

2暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。

3あなたが国民を増し、その喜びを大きくされたので、彼らは刈入れ時に喜ぶように、獲物を分かつ時に楽しむように、あなたの前に喜んだ。

4これはあなたが彼らの負っているくびきと、その肩のつえと、しえたげる者のむちとを、ミデアンの日になされたように折られたからだ。

5すべて戦場で、歩兵のはいたくつと、血にまみれた衣とは、火の燃えくさとなって焼かれる。

6ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。

7そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもって/これを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。≫

(イザヤ書91-7)(新共同ではイザヤ書82396

 

 イエスがガリラヤで宣教を始めたことには異論はないでしょう。イザヤ書94-5節をみると、異邦人の圧政から解放するものがガリラヤから現れる預言です。6節をみるとその者は男の子して生まれ、軍事力を用いて異邦人の支配からユダヤを解き放ち、ユダヤの王となるという預言です。イエスはユダヤ国家の王にはなっていませんし、軍事的にユダヤ人を異邦人支配から解放するのではなく、すべての人を罪から解放しに来たのです。ここが合致しない点です。

 

 6-5で述べたミカ書の預言でも、このイザヤ書の預言でも、軍事的指導者としてユダヤ人を異邦人から開放し、ユダヤの王となるという預言が、イエスにより成就したと使徒や初代の信徒が述べているのですが、ユダヤ人はイエスによってローマ支配から解放されなかったし、イエスは「私の国は地上にない」と言い、ユダヤ国家の王ではないことをイエス自身が宣言しているのです。よって私の目にはこの預言が成就したとはみなせません。ピラトが十字架にユダヤの王と書いたことをもって「イエスがユダヤの王になった」と主張する人もいるかもしれませんが、それでは子供のなぞなぞの答えにしかなりません。実質的にユダヤの統治者ではなかったのですから。

 

 ただし「ガリラヤから男の子が現れ、それが希望の光になる」という部分はあっています。この預言は部分的に成就しています。

 

6-10

 

2さて、ヨハネは獄中でキリストのみわざについて伝え聞き、自分の弟子たちをつかわして、

3イエスに言わせた、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」。

4イエスは答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。

5盲人は見え、足なえは歩き、重い皮膚病にかかった人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。

6わたしにつまずかない者は、さいわいである」。≫

(マタイによる福音書 112-6

 

 イエスの奇跡についての箇所です。引用元はイザヤ書です。

 

1荒野と、かわいた地とは楽しみ、さばくは喜びて花咲き、さふらんのように、

2さかんに花咲き、かつ喜び楽しみ、かつ歌う。これにレバノンの栄えが与えられ、カルメルおよびシャロンの麗しさが与えられる。彼らは主の栄光を見、われわれの神の麗しさを見る。

3あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ。

4心おののく者に言え、「強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、神の報いをもってこられる。神は来て、あなたがたを救われる」と。

5その時、見えない人の目は開かれ、聞えない人の耳は聞えるようになる。

6その時、足の不自由な人は、しかのように飛び走り、口のきけない人の舌は喜び歌う。それは荒野に水がわきいで、さばくに川が流れるからである。

7焼けた砂は池となり、かわいた地は水の源となり、山犬の伏したすみかは、葦、よしの茂りあう所となる。

8そこに大路があり、その道は聖なる道ととなえられる。汚れた者はこれを通り過ぎることはできない、愚かなる者はそこに迷い入ることはない。

9そこには、ししはおらず、飢えた獣も、その道にのぼることはなく、その所でこれに会うことはない。ただ、あがなわれた者のみ、そこを歩む。

10主にあがなわれた者は帰ってきて、その頭に、とこしえの喜びをいただき、歌うたいつつ、シオンに来る。彼らは楽しみと喜びとを得、悲しみと嘆きとは逃げ去る。≫

(イザヤ書351-10

 

 56節で、神が来て民を救うときに起こる奇跡が書かれています。見えない人が見えるように、聞こえない人が聞こえるようになり、歩けない人が歩けるようになる。35章に書かれたすべてが成就したわけではありませんが、それは問題ではありません。

 

 なぜなら、ここは預言が逐一成就したかどうかの検証よりも、イエスがこれと同じ奇跡を起こせた事が重要なのです。なぜならその奇跡はイエスが神である証明とみなせるからです。つまりイエスはこれを引用する事で自分の神性を宣言したのです。

 

6-11

 

14パリサイ人たちは出て行って、なんとかしてイエスを殺そうと相談した。

15イエスはこれを知って、そこを去って行かれた。ところが多くの人々がついてきたので、彼らを皆いやし、

16そして自分のことを人々にあらわさないようにと、彼らを戒められた。

17これは預言者イザヤの言った言葉が、成就するためである、

18「見よ、わたしが選んだ僕、わたしの心にかなう、愛する者。わたしは彼にわたしの霊を授け、そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう。

19彼は争わず、叫ばず、またその声を大路で聞く者はない。

20彼が正義に勝ちを得させる時まで、いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない。

21異邦人は彼の名に望みを置くであろう」。≫

(マタイによる福音書 1214-21)

 

 イエスに関するイザヤ書の預言です。引用元を見ます。

 

1わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。わたしはわが霊を彼に与えた。彼はもろもろの国びとに道をしめす。

2彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに聞えさせず、

3また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす。

4彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。海沿いの国々はその教を待ち望む。

5天を創造してこれをのべ、地とそれに生ずるものをひらき、その上の民に息を与え、その中を歩む者に霊を与えられる/主なる神はこう言われる、

6「主なるわたしは正義をもってあなたを召した。わたしはあなたの手をとり、あなたを守った。わたしはあなたを民の契約とし、もろもろの国びとの光として与え、

7盲人の目を開き、囚人を地下の獄屋から出し、暗きに座する者を獄屋から出させる。

8わたしは主である、これがわたしの名である。わたしはわが栄光をほかの者に与えない。また、わが誉を刻んだ像に与えない。≫

(イザヤ書421-8)

 

 イザヤ書421節は神が選んだ僕(イエス)が異邦人にも道を示すことが成就し、2節は、イエスが大衆に宣教したので合致しません。3-6節は合致しているでしょう。7節はイエスの行った奇跡そのものでしょう。一部を除いてこの預言は成就したといえるでしょう。

 

 しかし、イザヤ書39章でバビロン捕囚が暗示されていて、(バビロン捕囚はイザヤの時代の事ではない)その後に40章から神の言葉が始まり、引用部位の42章の主の僕の預言があり、4428節と451節でペルシャのクロス王(キュロス王)による解放が述べられ、475章でカルデアの娘(アッシリア)の衰退が暗示されています。一連の神の言葉の中にこれだけのエピソードが詰まっていることを考えると、42章の預言の時期はバビロン捕囚の末期を意図していたと考えられます。よって、これもまたイエスの時代についての預言ではありません。

 

 

6-12

 

11そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。

12おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。

13だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。

14こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。

15この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』。

16しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。≫

(マタイによる福音書 1311-16)

 

 イエスがたとえをもって話す理由を示した部分です。14-15節にイザヤ書の引用があります。引用元を見ます。

 

1ウジヤ王の死んだ年、わたしは主が高くあげられたみくらに座し、その衣のすそが神殿に満ちているのを見た。

2その上にセラピムが立ち、おのおの六つの翼をもっていた。その二つをもって顔をおおい、二つをもって足をおおい、二つをもって飛びかけり、

3互に呼びかわして言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」。

4その呼ばわっている者の声によって敷居の基が震い動き、神殿の中に煙が満ちた。

5その時わたしは言った、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。

6この時セラピムのひとりが火ばしをもって、祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、わたしのところに飛んできて、

7わたしの口に触れて言った、「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。

8わたしはまた主の言われる声を聞いた、「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。その時わたしは言った、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。

9主は言われた、「あなたは行って、この民にこう言いなさい、『あなたがたはくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなたがたはくりかえし見るがよい、しかしわかってはならない』と。

10あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためである」。

11そこで、わたしは言った、「主よ、いつまでですか」。主は言われた、「町々は荒れすたれて、住む者もなく、家には人かげもなく、国は全く荒れ地となり、

12人々は主によって遠くへ移され、荒れはてた所が国の中に多くなる時まで、こうなっている。

13その中に十分の一の残る者があっても、これもまた焼き滅ぼされる。テレビンの木またはかしの木が切り倒されるとき、その切り株が残るように」。聖なる種族はその切り株である。≫

(イザヤ書61-13

 

 イザヤ書6章はイザヤの招命です。ここの10節が引用されています。預言者イザヤが遣わされて、民の心を鈍くし、耳を聞こえにくくし、目を閉ざさせると書いてあります。その目的は不信仰な者を取り除き、聖なる種子を残すためです。この預言自体は当時に成就したから、バビロン捕囚が起こったのでしょう。

 

 その後エルサレムに帰還し、ネヘミヤ、エズラにより、再び神に立ち帰るようになったはずですから、心の鈍さ、耳の聞こえなさ、目の見えなさは回復したはずです。ですから、イエスの時代には心が鈍く、耳が聞こえにくく、目を閉ざされた状態ではなかったはずです。

 

 そして神はイザヤに譬え(たとえ)で語れとは命じていません。そうではなく9節に見るように『あなたがたはくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなたがたはくりかえし見るがよい、しかしわかってはならない』と、イザヤが民に語ると10節にあるように民の心が鈍くなるのです。つまり、イザヤの言葉が民の心を鈍くするのです。一方でイエスの言葉は真理であり、人を自由にするのです。イエスの言葉は民を鈍くするために用いられたのではありません。

 

 マタイ福音書では、イエスがたとえを用いると不信仰な者と信じるものが分けられていくと言っています。つまりイザヤの場合と違って預言者(イエス)の言葉が民を鈍くするのではなく、不信仰な人々が元来の心の鈍さのために、イエスの言葉を神の言葉と認識できずにふるいにかけられていくという違いがあります。つまりイエスの時代の民の心の鈍さはイザヤによる予言の成就ではありません。「そのときと同様な篩い分けがおこるよ」と言う意味でイエスがたとえとして用いただけなのです。イエスの言葉が民の心を鈍くするわけではないのですから、イザヤ書の預言が成就したとはみなせないでしょう。イエスはすべてを譬えで語ったとありますが、このイザヤ書の文言もイエスが譬えとして引用しただけです。

 

 譬えに過ぎないイエスの引用を、引用部分の預言が成就したと勘違いしたのは使徒たちなのか、福音記者なのか知りませんが、どっちにしろ、使徒たちにも解釈の間違いがあるのです。人間が十全な霊感を持ちうるとなぜ考えるのでしょうか? 人間の理解力で神の啓示のすべてが正確に言語化できる保証がどこにあるのでしょうか?

 

 イエスのセリフに含まれているけれども、まさかイエスが間違ったのではないと思います。しかし、もしイエスがその通りに語ったのであれば、このような部分的な一致があれば、成就とみなせるという程度の精度でイエスが満足していた事になります。そうであれば、聖書解釈は厳密な論理的な検証は不要であり、個々人の感性で文脈を無視して解釈してもよいという結論になってしまいます。本当にそれでいいのでしょうか? メシアであるかどうかの判定も感性が重視され、論理的な証明を不要とするなら、私たちはλόγοςLogos:論理)ではなく、παθοςpathos:感情)に仕えていることになります。ヨハネ福音書1章は「神はλόγοςLogos:論理)である」と主張しています。

 

6-13

 

1さて、彼らがエルサレムに近づき、オリブ山沿いのベテパゲに着いたとき、イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、

2「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつながれていて、子ろばがそばにいるのを見るであろう。それを解いてわたしのところに引いてきなさい。

3もしだれかが、あなたがたに何か言ったなら、主がお入り用なのです、と言いなさい。そう言えば、すぐ渡してくれるであろう」。

4こうしたのは、預言者によって言われたことが、成就するためである。

5すなわち、「シオンの娘に告げよ、見よ、あなたの王がおいでになる、柔和なおかたで、ろばに乗って、くびきを負うろばの子に乗って」。

6弟子たちは出て行って、イエスがお命じになったとおりにし、

7ろばと子ろばとを引いてきた。そしてその上に自分たちの上着をかけると、イエスはそれにお乗りになった。≫

(マタイによる福音書 211-7

 

 ゼカリヤ書の引用元を参照します。

 

1託宣/主の言葉はハデラクの地に臨み、ダマスコの上にとどまる。アラムの町々はイスラエルのすべての部族のように/主に属するからである。

2これに境するハマテもまたそのとおりだ。非常に賢いが、ツロとシドンもまた同様である。

3ツロは自分のために、とりでを築き、銀をちりのように積み、金を道ばたの泥のように積んだ。

4しかし見よ、主はこれを攻め取り、その富を海の中に投げ入れられる。これは火で焼き滅ぼされる。

5アシケロンはこれを見て恐れ、ガザもまた見てもだえ苦しみ、エクロンもまたその望む所のものが/はずかしめられて苦しむ。ガザには王が絶え、アシケロンには住む者がなくなり、

6アシドドには混血の民が住む。わたしはペリシテびとの誇を断つ。

7またその口から血を取り除き、その歯の間から憎むべき物を取り除く。これもまた残ってわれわれの神に帰し、ユダの一民族のようになる。またエクロンはエブスびとのようになる。

8その時わたしは、わが家のために営を張って、見張りをし、行き来する者のないようにする。しえたげる者は、かさねて通ることがない。わたしが今、自分の目で見ているからである。

9シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、あなたの王はあなたの所に来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る。

10わたしはエフライムから戦車を断ち、エルサレムから軍馬を断つ。また、いくさ弓も断たれる。彼は国々の民に平和を告げ、その政治は海から海に及び、大川から地の果にまで及ぶ。

11あなたについてはまた、あなたとの契約の血のゆえに、わたしはかの水のない穴から、あなたの捕われ人を解き放す

12望みをいだく捕われ人よ、あなたの城に帰れ。わたしはきょうもなお告げて言う、必ず倍して、あなたをもとに返すことを。      

13わたしはユダを張って、わが弓となし、エフライムをその矢とした。シオンよ、わたしはあなたの子らを呼び起して、ギリシヤの人々を攻めさせ、あなたを勇士のつるぎのようにさせる。≫

(ゼカリヤ書91-13

 

 ゼカリヤ書では、ダマスコ、アラム、ツロ、シドン、カナン全域を平定した軍事指導者が、エルサレムに子ろばに乗って凱旋し、その後地の果てまで、支配し、戦争自体をなくしてしまうと書かれています。

 

 イエスは軍事指導者ではありません。この預言で合致するのは、子ろばに乗ってエルサレム入場した部分だけであり、しかも子ろばを連れて来るようイエスが指示しています。これは預言の成就ではなく、自分が救世主であるという宣言にすぎません。もちろんその後もイスラエルの解放を実現できていません。

 

 残りの部分は、イエスの再臨後に成就するのだという見解を持っている方も多いでしょう。しかしまだ実現していないのに、「預言は成就した」と言い張るのは論理的におかしなことです。13節をみるとギリシア(ヤワン)に立ち向かうことが書かれているので、これはハスモン朝時代のヘレニズム傾倒からの解放の文脈にあるのです。だから再臨後にイエスがイスラエルを解放して預言が成就するとしても、この預言は時系列が狂っていることになります。またこの間に起こるはずの、イエスが死んで復活するという人類史上最大の事件を全く予見できなかった預言という事になります。ハスモン朝時代にこの預言が実現しなかったのだから外れた預言としか言えません。

 

 もしこの預言が成就したと強硬に言い張るなら、人々はメシア預言の精度と信頼性に不審しか抱かないでしょう。

 

6-14

 

15しかし、祭司長、律法学者たちは、イエスがなされた不思議なわざを見、また宮の庭で「ダビデの子に、ホサナ」と叫んでいる子供たちを見て立腹し、

16イエスに言った、「あの子たちが何を言っているのか、お聞きですか」。イエスは彼らに言われた、「そうだ、聞いている。あなたがたは『幼な子、乳のみ子たちの口にさんびを備えられた』とあるのを読んだことがないのか」。

(マタイによる福音書 2115-16

 

 先ほどのエルサレム入城の続きです。

 

-         聖歌隊の指揮者によってギテトにあわせてうたわせたダビデの歌

1主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう。あなたの栄光は天の上にあり、

2みどりごと、ちのみごとの口によって、ほめたたえられています。あなたは敵と恨みを晴らす者とを静めるため、あだに備えて、とりでを設けられました。

3わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。

4人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。

5ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉とをこうむらせ、

6これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました。

7すべての羊と牛、また野の獣、

8空の鳥と海の魚、海路を通うものまでも。

9主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう≫

(詩編81-9(新共同訳では詩編81-10)

 

 引用部位は詩編82節にありますが、ここで幼子にほめたたえられているのはなんと、ダビデではなく、ユダヤの王でもなく、神です。そうであれば、これは「イエスは、子なる神である」という宣言なのです。しかし、ユダヤ人には子なる神の概念はないので、イエスが「自分はアブラハム、イサク、ヤコブの神である。」「わたしはあるというもの」と宣言したのと同じです。先ほどの入城と一連の宣言でしょう。つまり、イエスは「自分は救世主にして神である」と宣言したのです。

 

 詩編は預言書ではありません。基本的に未来を予知するために書かれたのではなく、讃美歌として書かれたのです。ダビデの時代に(あるいは詩編8編が書かれた時代に)、神が幼子たちにもほめたたえられているという現状を述べているのです。それはもともと未来におこる事を、メシア預言として書いた文言ではありません。

 

 ユダヤ人大衆は熱狂しました。そして、ユダヤ人の指導者層にとって、これは神を冒涜する行為であり、イエスは排除すべき者となったのです。何せ今まで見てきたようにユダヤの救世主は、軍事的王で領土を回復するものと言うのが定義なのですから、なんの軍事的実績、政治的実績のないイエスが、救世主を主張すること自体がユダヤ教の常識の外にあるのです。

 

 逆に言うと、イエスはユダヤ教において救世主としての資格を持っていないのです。イエスを排除したいという、ユダヤ人指導者層の判断は十分了解できるものです。

 

6-15

 

41パリサイ人たちが集まっていたとき、イエスは彼らにお尋ねになった、

42「あなたがたはキリストをどう思うか。だれの子なのか」。彼らは「ダビデの子です」と答えた。

43イエスは言われた、「それではどうして、ダビデが御霊に感じてキリストを主と呼んでいるのか。

44すなわち『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、わたしの右に座していなさい』。

45このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるなら、キリストはどうしてダビデの子であろうか」。

46イエスにひと言でも答えうる者は、なかったし、その日からもはや、進んでイエスに質問する者も、いなくなった。≫

(マタイによる福音書 2241-46

 

 ここでイエスが、「救世主はダビデの子ではない」「ダビデの主が救世主となる」と宣言しています。逐語霊感説を取る人でもなぜか、「イエスはダビデの子孫であり、かつダビデより優れた者だ」と解釈しますが、なぜここだけは字義どおりに「ダビデの子ではない」とは受け取らないのでしょうか? 引用元を見ます。

 

1主はわが主に言われる、「わたしがあなたのもろもろの敵を/あなたの足台とするまで、わたしの右に座せよ」と。

2主はあなたの力あるつえをシオンから出される。あなたはもろもろの敵のなかで治めよ。

3あなたの民は、あなたがその軍勢を/聖なる山々に導く日に/心から喜んでおのれをささげるであろう。あなたの若者は朝の胎から出る露のように/あなたに来るであろう。

4主は誓いを立てて、み心を変えられることはない、「あなたはメルキゼデクの位にしたがって/とこしえに祭司である」。

5主はあなたの右におられて、その怒りの日に王たちを打ち破られる。

6主はもろもろの国のなかでさばきを行い、しかばねをもって満たし、広い地を治める首領たちを打ち破られる。

7彼は道のほとりの川からくんで飲み、それによって、そのこうべをあげるであろう。≫

(詩編1101-7

 

 原文では1節の「主」はYHWH(ヤハウェ)です。「わたしの主」はアドナイの語がつかわれています。そしてイエスはこの「わたし(ダビデ)の主」こそがイエス自身であると宣言しています。

 

 そうすると1節より、イエスはイスラエルの領土回復のために軍事的に働くことはないことがわかります。これは今まで見てきたメシア預言の救世主像が軍事的リーダーであり、領土回復を約束したことと矛盾します。

 

 4節からイエスがメルキゼデクの位にある祭司であることがわかります。つまりイエスは軍事的リーダーではなく、祭司であることがわかります。ヘブル人への手紙への手紙7章でも、イエスがメルキデゼクと同様な他の祭司であると書かれています。そこではレビ族ではなく、ユダ族から新たな系統の祭司が現れたことが、モーセの教えと矛盾することを解決するためにこの題材を持ち出してきたようです。

 

 もし、聖書が逐語霊感により十全に正しいとすると、この詩編110篇も正しいことになります。またイエス自身がこれは自分自身の事であると宣言しています。そこでイエスがメルキゼデクの地位にあると仮定すると以下のことが言えます。

 

(1)メルキゼデクは、アブラハム契約によらずにいと高き神の祭祀になりました。だからイエスもアブラハム契約によらずに永遠の祭司になったはずです。

 

(2)創世記1418-20にあるように、メルキゼデクはアブラハム契約とは独立して、人を祝福することができます。イエスもアブラハム契約とは独立して、人々を救済できるはずです。

 

(3)メルキゼデグがアブラハムを祝福した時には、レビもユダもまだ生まれていませんでした。だからメルキゼデグはユダの子孫ではありえません。イエスもメルキゼデクと同等の地位にあるとすると、イエスもまた、ユダの子孫ではありません。

 

(4)イエスはユダ、ダビデ系列を通ってくる契約によって建てられた祭司ではなく、「(イエスは)アブラハムが生まれる前から存在している」とイエス自身が宣言しています(ヨハネによる福音書 858)。

 

(5)イエスがユダの子孫でないのにメシア預言の救世主であるとして取り扱えば、ダビデ・ソロモン契約と矛盾してしまいます。

 

 「メシアはダビデの子であろうか?」という、イエスの問いかけは、どれほど意味深いものなのでしょうか?

 

 ここで大きな疑問が出てきます。新約聖書でも一般的な教理でも、イエスの誕生と救いはアブラハム契約の実現であると教えています。しかしこの教理はイエスの発言と矛盾しているのです。これは実に難しい問題なので、次章でアブラハム契約を確認し、イエスが約束の救世主なのかを確かめなくてはなりません。

 

 ここで覚えておいてほしいのは、「新約聖書に書かれた弟子たちの見解(アブラハム契約の成就)」と、「イエスの発言内容から当然に考えられる帰結(メルキゼデクなのでアブラハム契約によらない)」に一部食い違いがあることです。

 

6-16

 

37ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。

38見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。

39わたしは言っておく、『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』とおまえたちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう」。

(マタイによる福音書 2337-39)

 

 39節はユダヤ人が民族としてイエスに立ち帰るという、新約の預言であると考える人もいます。しかしまだ実現したわけではありません。また39節をみても条件節に過ぎず、そうなると断言はしていません。

 

 38節でイエスはユダヤ人が見捨てられると宣告しています。イエスが旧約聖書に預言された、アブラハム契約による救世主であれば、なぜユダヤ人を見捨てるのでしょうか? 創世記176-7のアブラハム契約では、神は永遠の繁栄を無条件で約束しています。

 

ソロモン契約を見ます

 

9このようにソロモンの心が転じて、イスラエルの神、主を離れたため、主は彼を怒られた。すなわち主がかつて二度彼に現れ、

10この事について彼に、他の神々に従ってはならないと命じられたのに、彼は主の命じられたことを守らなかったからである。

11それゆえ、主はソロモンに言われた、「これがあなたの本心であり、わたしが命じた契約と定めとを守らなかったので、わたしは必ずあなたから国を裂き離して、それをあなたの家来に与える。

12しかしあなたの父ダビデのために、あなたの世にはそれをしないが、あなたの子の手からそれを裂き離す。

13ただし、わたしは国をことごとくは裂き離さず、わたしのしもべダビデのために、またわたしが選んだエルサレムのために一つの部族をあなたの子に与えるであろう」。

(列王紀上119-13

 

 ソロモンが背信した結果として王国分裂が起こったとされますが、ダビデのゆえにユダ族は残すと神は宣言しています。このユダ族がイエスの時代のユダヤ人につながるのですが、神が残すと宣言したユダヤ人(ユダの子孫)を、イエスが見捨てると宣言したのはソロモン契約、ひいてはアブラハム契約に違反しています。イエスは神がアブラハムと結んだ契約、ソロモンと結んだ契約を一方的に変更しています。イエスは本当にアブラハム契約に規定された救世主なのでしょうか? それともアブラハム契約とは関係なく存在するのでしょうか?

 

6-17

 

30彼らは、さんびを歌った後、オリブ山へ出かけて行った。

31そのとき、イエスは弟子たちに言われた、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう』と、書いてあるからである。

32しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」。

33するとペテロはイエスに答えて言った、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」。

34イエスは言われた、「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないというだろう」。

35ペテロは言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。弟子たちもみな同じように言った。≫

(マタイによる福音書 2630-35)

 

 一般的に、31節はイエスが刑死したのち、弟子たちが逃げ散ったこととして実現したと説明されます。しかしその解釈には問題があります。引用元を見てみます。

 

1その日には、罪と汚れとを清める一つの泉が、ダビデの家とエルサレムの住民とのために開かれる。

2万軍の主は言われる、その日には、わたしは地から偶像の名を取り除き、重ねて人に覚えられることのないようにする。わたしはまた預言者および汚れの霊を、地から去らせる。

3もし、人が今後預言するならば、その産みの父母はこれにむかって、『あなたは主の名をもって偽りを語るゆえ、生きていることができない』と言い、その産みの父母は彼が預言している時、彼を刺すであろう。

4その日には、預言者たちは皆預言する時、その幻を恥じる。また人を欺くための毛の上着を着ない。

5そして『わたしは預言者ではない、わたしは土地を耕す者だ。若い時から土地を持っている』と言う。

6もし、人が彼に『あなたの背中の傷は何か』と尋ねるならば、『これはわたしの友だちの家で受けた傷だ』と、彼は言うであろう」。

7万軍の主は言われる、「つるぎよ、立ち上がってわが牧者を攻めよ。わたしの次に立つ人を攻めよ。牧者を撃て、その羊は散る。わたしは手をかえして、小さい者どもを攻める。

8主は言われる、全地の人の三分の二は断たれて死に、三分の一は生き残る。

9わたしはこの三分の一を火の中に入れ、銀をふき分けるように、これをふき分け、金を精錬するように、これを精錬する。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『彼らはわが民である』と言い、彼らは『主はわが神である』と言う」。≫

(ゼカリヤ書131-9

 

 引用元のゼカリヤ書では7節に該当しますが、ここの文脈では牧者はユダヤ人指導者であり、散らされるのはユダヤ人であります。裁きの日にユダヤ人指導者が打たれ、民は散らされ、3分の2が死に、残った3分の1も、精錬されるという預言であります。この預言が成就したのは西暦70年のエルサレム陥落でしょう。あるいは、これから来る主の日の光景かもしれません。

 

 そして次の事から、イエスの刑死と弟子のことではないのが明らかです。なぜなら12節では民の偶像崇拝が正されることが宣言され、36節で偶像崇拝をもたらした偽預言者と汚れた霊が罰を避けるために逃げると書かれています。7節で民の牧者を撃つと宣言されますが、いままでの文脈から考えると、偶像崇拝を民にもたらした偽預言者とそれに従った民の指導者を牧者と呼び、これを撃つと解釈するのが妥当でしょう、そして8節で偶像崇拝していた民も3分の2が断たれると宣言されているのです。7節の牧者をイエスと解釈するとイエスが偽預言者のポジションになるので、問題があります。

 

 また羊飼いが打たれたあと、散らされ断たれるのは全地の人でありますが、イエスの刑死の後に全地の人の3分の2が死んだとは聖書に書かれていません。撃たれる羊飼いがイエスなら羊は弟子たちですが、イエスの弟子たちは少数派なのですから、弟子たちを全地の人と表現することはできないでしょう。

 

 仮に8節の全地の人をイエスの弟子たちとしてみます、しかし、イエスの刑死で大部分の弟子は逃げたのであり、散りはしたが8節のように断たれて死んではいないのです。そしてイエスのもとに残った12使徒と500人以上の弟子たち、つまり精錬され残るはずの者たちは逆に宣教で死んでいきました。よって89節にあることがイエスや弟子に起こったことと異なります。

 

 預言自体はエルサレム陥落で成就したとみることができますが、7節をイエスの刑死に適用すると矛盾が生じます。この預言の解釈は、文脈を無視して自分たちに都合がよい一節だけを取り出して、自分たちに当てはめただけではないでしょうか? それとも弟子が間違えたのでしょうか? いずれにせよ、このような解釈が許されるなら、聖書の預言は文脈など無視して任意の一節が何かの事象を想像させたら、預言は成就したとみてよいことになってしまいます。それではキリスト教の信憑性が揺らいでしまいます。

 

6-18

 

3そのとき、イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して

4言った、「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」。しかし彼らは言った、「それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい」。

5そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。

6祭司長たちは、その銀貨を拾いあげて言った、「これは血の代価だから、宮の金庫に入れるのはよくのない」。

7そこで彼らは協議の上、外国人の墓地にするために、その金で陶器師の畑を買った。

8そのために、この畑は今日まで血の畑と呼ばれている。

9こうして預言者エレミヤによって言われた言葉が、成就したのである。すなわち、「彼らは、値をつけられたもの、すなわち、イスラエルの子らが値をつけたものの代価、銀貨三十を取って、

10主がお命じになったように、陶器師の畑の代価として、その金を与えた」。

(マタイによる福音書 273-10

 

 ここはエレミヤの言葉とゼカリヤの言葉が混じっているので両方引用します。

 

9それでわたしは言った、「わたしはあなたがたの牧者とならない。死ぬ者は死に、滅びる者は滅び、残った者はたがいにその肉を食いあうがよい」。

10わたしは恵みというつえを取って、これを折った。これはわたしがもろもろの民と結んだ契約を、廃するためであった。

11そしてこれは、その日に廃された。そこで、わたしに目を注いでいた羊の商人らは、これが主の言葉であったことを知った。

12わたしは彼らに向かって、「あなたがたがもし、よいと思うならば、わたしに賃銀を払いなさい。もし、いけなければやめなさい」と言ったので、彼らはわたしの賃銀として、銀三十シケルを量った。

13主はわたしに言われた、「彼らによって、わたしが値積られたその尊い価を、宮のさいせん箱に投げ入れよ」。わたしは銀三十シケルを取って、これを主の宮のさいせん箱に投げ入れた。

(ゼカリヤ書119-13

 

 どちらも神の値打ちが銀貨30枚と見積もられたことは一致しています。しかしゼカリヤ書で銀貨30枚と見積もられたものは神の労働です。賽銭箱に銀貨を投げ込んだのはゼカリヤです。一方マタイ福音書では、ユダの裏切りの対価として銀貨30枚がユダに支払われます。マタイ福音書ではユダが賽銭箱に投げ込みました。

 

 この預言は成就したと考えていますが、合致しているのは神の評価が銀貨30枚であった事とそれが賽銭箱に投げ入れられたことです。もしも逐語霊感で聖書の言葉が成就するのなら、裏切り者のユダが主なる神の位置に来て神の労働がイエスを売り渡すことになってしまい混乱します。預言が成就したといっても細部には大きな違いがあり、聖書が「逐語霊感により誤りがない」とはとても言えないことがわかるでしょう。

 

25主なる神よ、あなたはわたしに言われました、「銀をもって畑を買い、証人を立てよ」と。そうであるのに、町はカルデヤびとの手に渡されています』」。≫

(エレミヤ書3225

 

 畑を買ったというのはエレミヤ書32章からの引用と言われていますが、陶器師の畑ではなくエレミヤの親戚の畑です。捕囚から帰還できることを保証するために神が命令したことです。しかし、これがどう関係するのかわたしには文脈がわかりません。畑を買ったこと以外には何も関係がありません。

 

1主はこう言われる、「行って、陶器師のびんを買い、民の長老と年長の祭司のうちの数人を伴って、

2瀬戸かけの門の入口にあるベンヒンノムの谷へ行き、その所で、わたしがあなたに語る言葉をのべて、

・・・

10そこで、あなたは、一緒に行く人々の目の前で、そのびんを砕き、

11そして彼らに言いなさい、『万軍の主はこう仰せられる、陶器師の器をひとたび砕くならば、もはやもとのようにすることはできない。このようにわたしはこの民とこの町とを砕く。人々はほかに葬るべき場所がないために、トペテに葬るであろう。≫

(エレミヤ書191-2,10-11

 

 エレミヤ書で陶器師が出て来るのは191節と11節のみです。「エルサレムとユダヤ人に災いを下し、もとのように回復しないほどに砕くこと」を陶器師の瓶を買って砕くことで象徴させています。ひょっとすると陶器師という言葉を入れることで、ユダが回復不能な罰をうけて、滅ぶことを意味しているのかもしれません。あるいはエルサレムが陥落する予兆でしょうか? そうであれば陶器師の畑というのは文学的な修辞に過ぎず、預言ではないとこになります。

 

 この部分のマタイ福音書の引用は「神の値打ちが銀貨30枚に見積もられたこと」が部分的に成就したとしておきます。

 

6-19

 

23さて、兵卒たちはイエスを十字架につけてから、その上着をとって四つに分け、おのおの、その一つを取った。また下着を手に取ってみたが、それには縫い目がなく、上の方から全部一つに織ったものであった。

24 そこで彼らは互に言った、「それを裂かないで、だれのものになるか、くじを引こう」。これは、「彼らは互にわたしの上着を分け合い、わたしの衣をくじ引にした」という聖書が成就するためで、兵卒たちはそのようにしたのである。≫

(ヨハネによる福音書 1923-24)

 

 ヨハネ福音書ではここも預言の成就とされてします。

 

16まことに、犬はわたしをめぐり、悪を行う者の群れがわたしを囲んで、わたしの手と足を刺し貫いた。

17わたしは自分の骨をことごとく数えることができる。彼らは目をとめて、わたしを見る。18彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする。

19しかし主よ、遠く離れないでください。わが力よ、速く来てわたしをお助けください。

20わたしの魂をつるぎから、わたしのいのちを犬の力から助け出してください。

21わたしをししの口から、苦しむわが魂を野牛の角から救い出してください。

22わたしはあなたのみ名を兄弟たちに告げ、会衆の中であなたをほめたたえるでしょう。

23主を恐れる者よ、主をほめたたえよ。ヤコブのもろもろのすえよ、主をあがめよ。イスラエルのもろもろのすえよ、主をおじおそれよ。

24主が苦しむ者の苦しみをかろんじ、いとわれず、またこれにみ顔を隠すことなく、その叫ぶときに聞かれたからである。≫

(詩編2218-24(新共同訳では詩編2217-25)

 

 引用された詩編22編で、ダビデは19節から22節で救い出してくださいと訴え、24節で叫びがきかれた、つまり救い出されたと書いています。一方イエスはゲツセマネでは死を避けることを祈りましたが、その後は死を受け入れ、十字架上では死に至るまで従順で救い出してくださいと求めたりはしていません。

 

 十字架の叫びが詩編22章の冒頭であったのであれば、救いを求めて祈ったと言えるかもしれませんが、イエスは救出されず死んでいます。よって詩編22編とは結末が異なり、これをもって預言が成就したとは言えないでしょう。合致したのは着物がくじで分けられた事と16節にあるように手と足を貫かれたことです。

 

 しかし詩編22編は救世主預言であると意図して書かれたわけではなく、内容もダビデについての話であることは12節から明白です。詩編はダビデの苦難を歌ったもので救世主の話ではありません。そもそも詩編は典礼の歌です。それを預言として扱っていいのでしょうか? 詩編22篇の全体の流れは、イエスの刑死と合致しないのですが、1618節がイエスの刑死の状況と一致したことをもって、預言の部分的な成就としておきます。

 

6-20

 

38同時に、ふたりの強盗がイエスと一緒に、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。≫

(マタイによる福音書 2738

 

57夕方になってから、アリマタヤの金持で、ヨセフという名の人がきた。彼もまたイエスの弟子であった。

58この人がピラトの所へ行って、イエスのからだの引取りかたを願った。そこで、ピラトはそれを渡すように命じた。

59ヨセフは死体を受け取って、きれいな亜麻布に包み、

60岩を掘って造った彼の新しい墓に納め、そして墓の入口に大きい石をころがしておいて、帰った。≫

(マタイによる福音書 275760

 

 上記2つの引用にあるように、イエスが罪人と共に刑死し、金持ちの墓に葬られたことが預言されています。

 

≪主の僕の苦難と死(5213節から5312節)

 

52

13見よ、わがしもべは栄える。彼は高められ、あげられ、ひじょうに高くなる。

14多くの人が彼に驚いたように――彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり、その姿は人の子と異なっていたからである――

15彼は多くの国民を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつむぐ。それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、まだ聞かなかったことを悟るからだ。

 

53

1だれがわれわれの聞いたことを/信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。

2彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。

3彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。

4まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。

5しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。

6われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。

7彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。

8彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。

9彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。

10しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。

11彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。

12それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に/物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした≫

(イザヤ書5213から5312)

 

 イエスは人々に慕われ、威厳もあったので、532-3節はイエスと合致しないと思いますが、全体を読むと誰が見てもイエスのことではないかと思うでしょう。この預言はほぼ成就したと考えます。口語訳のイザヤ書539は誤訳のようです。原文でも英語聖書でも「墓は富める者と共にあった」です。 新共同訳では9節は≪その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。≫と全く合致しています。イザヤ書5253章に渡る主の僕の苦難の部分はイエスの逮捕から十字架の死に至る部分をよく言い表していると思います。しかしここに至る前の51章と52章を見てみましょう。

 

19これら二つの事があなたに臨んだ――だれがあなたと共に嘆くだろうか――荒廃と滅亡、ききんとつるぎ。だれがあなたを慰めるだろうか。≫

(イザヤ書5119

 

1シオンよ、さめよ、さめよ、力を着よ。聖なる都エルサレムよ、美しい衣を着よ。割礼を受けない者および汚れた者は、もはやあなたのところに、はいることがないからだ。

2捕われたエルサレムよ、あなたの身からちりを振り落せ、起きよ。捕われたシオンの娘よ、あなたの首のなわを解きすてよ。

3主はこう言われる、「あなたがたは、ただで売られた。金を出さずにあがなわれる」。

4主なる神はこう言われる、「わが民はさきにエジプトへ下って行って、かしこに寄留した。またアッスリヤびとはゆえなく彼らをしえたげた

5それゆえ、今わたしはここに何をしようか。わが民はゆえなく捕われた」と主は言われる。主は言われる、「彼らをつかさどる者はわめき、わが名は常にひねもす侮られる。

6それゆえ、わが民はわが名を知るにいたる。その日には彼らはこの言葉を語る者がわたしであることを知る。わたしはここにおる」。

7よきおとずれを伝え、平和を告げ、よきおとずれを伝え、救を告げ、シオンにむかって「あなたの神は王となられた」と/言う者の足は山の上にあって、なんと麗しいことだろう。

8聞けよ、あなたの見張びとは声をあげて、共に喜び歌っている。彼らは目と目と相合わせて、主がシオンに帰られるのを見るからだ。

9エルサレムの荒れすたれた所よ、声を放って共に歌え。主はその民を慰め、エルサレムをあがなわれたからだ。

10主はその聖なるかいなを、もろもろの国びとの前にあらわされた。地のすべての果は、われわれの神の救を見る。≫

(イザヤ書521-10)

 

 まず、赤字の部分(5119522,4,9)を見てください。エルサレムがアッシリアに攻撃され捕囚になる、あるいは滅亡することが預言され、エルサレムが荒れ果てた後に神が救うために立てる僕が先ほどの主の僕なのです。だからこの僕が出現する時期はアッシリアにユダが滅ぼされた後という事になりますが、アッシリアの攻撃ではユダは崩壊していません。バビロン捕囚のことを言っているのかと考えてみても、バビロン捕囚でもこのような解放者は出現していません。だからこの預言は外れた預言としか言えません。

 

 この主の僕は文脈上、また歴史背景からイエスの公生涯とは重なりません。ただこの主の僕がイエスと酷似しているという意味で部分的かつ象徴的に成就したことになります。

 

6-21

 

32そこで兵卒らがきて、イエスと一緒に十字架につけられた初めの者と、もうひとりの者との足を折った。

33しかし、彼らがイエスのところにきた時、イエスはもう死んでおられたのを見て、その足を折ることはしなかった。

34しかし、ひとりの兵卒がやりでそのわきを突きさすと、すぐ血と水とが流れ出た。

35それを見た者があかしをした。そして、そのあかしは真実である。その人は、自分が真実を語っていることを知っている。それは、あなたがたも信ずるようになるためである。

36これらのことが起ったのは、「その骨はくだかれないであろう」との聖書の言葉が、成就するためである。

37また聖書のほかのところに、「彼らは自分が刺し通した者を見るであろう」とある。

(ヨハネによる福音書 1932-37

 

 ヨハネ福音書のみに書かれた預言の成就です。引用元を見ます。

 

43主はモーセとアロンとに言われた、「過越の祭の定めは次のとおりである。すなわち、異邦人はだれもこれを食べてはならない。

44しかし、おのおのが金で買ったしもべは、これに割礼を行ってのち、これを食べさせることができる。

45仮ずまいの者と、雇人とは、これを食べてはならない。

46ひとつの家でこれを食べなければならない。その肉を少しも家の外に持ち出してはならない。また、その骨を折ってはならない。

47イスラエルの全会衆はこれを守らなければならない。≫

(出エジプト記1243-47

 

 46節は奇妙な規定なので、何か特別な意味があって霊感として与えられたのかもしれません。イエスが骨を折られなかったことが事実なら預言の成就として見てよいと思います。しかしあくまでも部分的な成就です。なぜならイエスと一致する象徴的な出来事に過ぎず、救世主の預言として明示された部分に書いてあったわけではないからです。

 

 続いて、刺し通した者に関する引用箇所です。

 

1託宣/イスラエルについての主の言葉。すなわち天をのべ、地の基をすえ、人の霊をその中に造られた主は、こう仰せられる、

2「見よ、わたしはエルサレムを、その周囲にあるすべての民をよろめかす杯にしようとしている。これはエルサレムの攻め囲まれる時、ユダにも及ぶ。

3その日には、わたしはエルサレムをすべての民に対して重い石とする。これを持ちあげる者はみな大傷を受ける。地の国々の民は皆集まって、これを攻める。

4主は言われる、その日には、わたしはすべての馬を撃って驚かせ、その乗り手を撃って狂わせる。しかし、もろもろの民の馬を、ことごとく撃って、目をくらませるとき、ユダの家に対しては、わたしの目を開く。

5その時ユダの諸族は、その心の中に『エルサレムの住民は、その神、万軍の主によって力強くなった』と言う。

6その日には、わたしはユダの諸族を、たきぎの中の火皿のようにし、麦束の中のたいまつのようにする。彼らは右に左に、その周囲にあるすべての民を、焼き滅ぼす。しかしエルサレムはなお、そのもとの所、すなわちエルサレムで、人の住む所となる。

7主はまずユダの幕屋を救われる。これはダビデの家の光栄と、エルサレムの住民の光栄とが、ユダの光栄にまさることのないようにするためである。

8その日、主はエルサレムの住民を守られる。彼らの中の弱い者も、その日には、ダビデのようになる。またダビデの家は神のように、彼らに先だつ主の使のようになる。

9その日には、わたしはエルサレムに攻めて来る国民を、ことごとく滅ぼそうと努める。

10わたしはダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈の霊とを注ぐ。彼らはその刺した者を見る時、ひとり子のために嘆くように彼のために嘆き、ういごのために悲しむように、彼のためにいたく悲しむ。

11その日には、エルサレムの嘆きは、メギドの平野にあったハダデ・リンモンのための嘆きのように大きい。

12国じゅう、氏族おのおの別れて嘆く。すなわちダビデの家の氏族は別れて嘆き、その妻たちも別れて嘆く。ナタンの家の氏族は別れて嘆き、その妻たちも別れて嘆く。

13レビの家の氏族は別れて嘆き、その妻たちも別れて嘆く。シメイの氏族は別れて嘆き、その妻たちも別れて嘆く。

14その他の氏族も皆別れて嘆き、その妻たちも別れて嘆くのである。≫

(ゼカリヤ書121-14

 

 10節の刺された者が救世主なのか、あるいは他の誰かなのか、はっきりとは判断できませんが、主の日に神がユダヤ人にその人を見せると大いなる悲しみが起こるのです。「神が主の日に人々に示すのは刺し貫かれたイエスである」というのは未だに信徒の希望でしかなく、実現したとみなすことはできません。だから現時点では、この預言が成就したとみなす事はできません。なぜここを引用して成就したと述べているのでしょうか?

 

 別の解釈ではこれは主の日ではなく、イエスが十字架で貫かれた日に預言が成就したのだとされています。そうすると、12節にある「国中で嘆きが起こる」が事実と矛盾します。また49節はイエスの刑死の頃のエルサレムの状況と一致しません。戦争状態ではなかったからです。イエスの刑死の日にこの預言が成就したのなら、成就したのはイエスが刺し貫かれたという部分のみです。むしろイエスが刑死した日に民全体に嘆きが起こっていないので、外れた預言とすべきでしょう。

 

6-22

 

 「イエスが旧約聖書のメシア預言を成就した」という、キリスト教の教義を検証するために、新約聖書の福音書の中で引用されたメシア預言の検討を行いました。皆さんはどのような印象を持ちましたか?

 

 正直にいうと、私はその論拠が実に曖昧であると感じております。私も洗礼を受けた身ですから、キリストの奇跡、救いを信じています。私もキリストが救世主であって欲しい側でありますから、冷静に預言を検証するといっても中立とは言えず、キリスト教を擁護する傾向にあると思いますが、それでもこれほどの疑問点が出てきます。

 

 今回の預言の検証で抱いた個人的な感想をまとめます。

 

(1)イザヤ書42章、5253章の「主の僕」の記述とイエスがおおむね一致するという印象がある。しかしいずれも、バビロン捕囚からの回復と言う時代におこると預言されていたことで、イエスの時代を意図して書かれた預言ではない。

 

(2)それ以外の引用部分は部分的な一致点はあっても、全体の文脈をみるとその預言が実現していないことも多い。軍事的リーダーとしての救世主像が多いが、それはイエスと一致しない。また各々の預言者の時代にイスラエルを圧迫していた勢力からの解放者として書かれていて、預言された時代がイエスの時代と一致しない。

 

(3)そもそも旧約聖書を引用して自分の主張を権威づけしただけで、肝心の預言の内容が全く考慮されていないこともある。

 

(4)またアブラハム契約とイエスのあり方や発言に乖離があり、イエスが本当にアブラハム契約によって現れた救世主なのか、疑問が生じる。

 

6-23

 

 イエスの初臨に関する預言は3百件以上あるそうです。再臨に関する預言はさらに多く、1000件以上あるそうです。しかし、これらは2000年にわたって聖書学者が調べ上げ、発見したものです。最初期には使徒や初期の弟子、教会は福音書で引用している部分を主に論拠にしたはずです。

 

 今回、検討した預言でも、はっきり預言であるとは明示されていないけれど(例えば過越しの子羊の骨がおられない、手と足を刺されるなど)、象徴的にイエスを予表していると思われる記述があります。300件以上あるという初臨のメシア預言には、こうした象徴的な一致点が預言の成就として多く挙げられているわけです。

 

 しかしこうした部分は、前もって救世主の預言であると明示してないので、「預言が的中した」というよりも、「実際に起こってみないとわからなかったが、イエスを指し示していると思われる象徴的な記述が大量にある」としか言えません。そして、それは文書を書いた人がメシア預言として意識せずに書いた部分に大量にあるわけです。

 

 その一方、明らかに前もって救世主の出現を述べた預言は、イエスの公生涯と一部しか合致せず、全体の文脈から考えて預言が外れたと考えられるものが多くあります。

 

 また1000件以上残っている再臨の預言についてですが、聖書の預言はすべて実現するという前提で考えて、今後成就するはずであると考えているわけです。しかしこの前提は正しいのでしょうか? メシア預言のうちイエスの初臨で実現しなかった預言が成就する保証はそもそもありません。イエスは「私に関する預言はすべて成就する」、また「律法と預言者はヨハネまで」と宣言していますから、1300件以上のメシア預言のうち成就した300件がイエスを指し示す預言であり、残り1000件は外れたメシア預言という可能性もあるからです。

 

 「聖書に書いてあるすべての預言が実現する」という前提は、信仰により、「そうなる」と確信しているだけであり、論理的に考えると、すべての預言が実現する保証はありません。またイエスもすべての預言が成就するとは保証していません。イエスの初臨、再臨のいずれにおいても実現しない預言が含まれているかもしれません。

 

 この章で挙げた預言も含め、預言書に書かれていて、過去に実現するはずであったのに実現しなかった預言はたくさんあるのです。そしてアッシリアの攻撃や、バビロン捕囚などから解放する軍事的リーダーが出現する預言が実現せず、その外れた預言を初期の聖徒たちが、イエスの初臨に結び付けて成就したと主張した事が今回の検討で判明しました。

 

 そしてそれと同様に、前後関係や文脈から考えて明らかに過去の出来事に関する預言であるのに、その時代に実現せず、イエスの初臨でも実現しなかった文言を、イエスの再臨の時に実現するものであると解釈している箇所が注解書をみると多くあります。1000件以上ある再臨の預言がどれだけ実現するのか、私は疑問を持っています。実はイエスと関係がない、外れるメシア預言が多いのではないでしょうか?

 

 預言の成就の様式について、よく聞く説明を、私なりに簡単に模式化してみると、

 「Aという時代にメシアが現れるという預言Bがあり、Aの時代に実現しなかった。そしてイエスが現れたとき、その預言Bの中にイエスの公生涯と合致した一部Cがあるので、これはメシア預言Bの成就であると表明した。そして預言Bの中でイエスの初臨と合致しない部分Dは再臨時に成就する」とこのようになりますが、なぜ聖書無誤説に立っているのに、Aと言う時代に実現しなかった預言を成就したと考えるのでしょうか? 無誤であれば、この預言はAの時代に起こらねばならないはずです。

 

 これに対して「Aという時代に起こらなかった理由として、預言者には未来の出来事がすべて重なって見えるので、Aの時代も、イエスの時代も、再臨の時代の預言も混じっているのだ」などと説明されます。

 

 しかし、この意見に従えば、そもそも、すべての預言は部分的にしか合致せず、または象徴的に一致するのみであり、一つの預言が一連の文章として文脈をもって構成されているとは見做せないという事になります。例えると、Aの時代に起こる事、イエスの公生涯の時代におこる事、イエスの再臨でおこる事をミキサーに入れてぐちゃぐちゃに混ぜてできたのがメシア預言であるという事になります。そうであれば、神の霊感を受け取るとき預言者は、分断され、文脈がなくなった形でしか、書き取れなかったという事になりますから、聖書は神の意図によって逐一霊感を与えられて書かれた文書であるので、順序正しく分脈を意識して読み解釈せねばならないという前提が崩壊します。

 

 つまり、聖書無誤説の人が、「Aという時代に起こらなかった理由として、預言者には未来の出来事がすべて重なって見えるので、Aの時代も、イエスの時代も、再臨の時代の預言も混じっているのだ」という見解に立つならば、旧約聖書にはイエスを予表する象徴が散りばめられているだけで、預言は部分的にしか正しくないし、文脈をおって解釈することはできないという部分霊感の立場と同じことを言っているのです。だから、私は部分霊感に立ちます。

 

 再臨についての1000件以上の預言について4つの可能性があると考えます。

 

 1つ目は文字通り、イエスが再臨するときにすべて成就するというもので、ほとんどのキリスト教徒はこう考えているでしょう。

 

 2つ目はこの章で見てきたのと同じように、再臨時にも部分的に預言が成就するかもしれないという考え方です。

 

 3つ目は先ほど述べたように、初臨で成就しなかったメシア預言は外れたという考え方です。イエスはイエスに関する預言は成就するといいました。そして律法と預言者はヨハネの時までともいいました。だから初臨で成就しなかったメシア預言は、実はイエスを指し示していない誤った預言であった可能性があります。

 

 4つ目は初臨で成就しなかったメシア預言は、イエス以外の別の人物を指している可能性です。この指し示された人物が実際に現れるなら、魂の救済とは無縁な人で、アブラハム契約を成就する地上の軍事指導者になるでしょう。

 

 いずれにせよ、私はこの章での検討から、旧約聖書のすべての預言が成就するわけではないと考えます。そしてイエスの初臨で成就した預言もすべて部分的な成就であったし、再臨時も同様に部分的にしか成就されないであろうと考えます。そして外れた預言が多数残されると推測しています。

 

6-24

 

 こうしたことを考えると、「旧約聖書は全体としてイエスを指し示していたが、メシア預言とイエスの公生涯は一致しない。なぜならメシア預言として書かれた箇所はイエスと一致しない部分が多く、一方でメシア預言として書かれなかった箇所に、イエスを指し示す象徴が多く散りばめてある」と言えるでしょう。言い換えるとメシア預言自体も不完全ながら的中しているわけですが、もっと重要なのは著者が預言であると意識せずに書かれた部分が、イエスを指し示しているという事です。

 

 これは人間の意思でイエスの象徴が散りばめてあるわけではないことを示しています。つまり、伝承通りモーセやサムエルなどが旧約聖書を書いたのだとしても、後世のダビデ王朝の祭司や書記が律法を書いたのだとしても、そこに神の霊が働いてそういう文言を思いつかせ、文章にそのような象徴が紛れ込んだということになります。

 

 預言であると意識していない部分がイエスと合致していたことは、文書を作成した人はその霊感の意味を理解せずに預言とは考えずに文書化したことを意味し、一方、メシア預言の部分は不完全であることから、聖書における神の霊感は十全なものではないことがわかります。

 

 よって旧約聖書全体に神の霊感が働いていたとしても、聖書に書いてあることを字句通りに、完全に正しいとは見做せないとわかります。神の霊の与えた霊感を完全には理解できないままに、著者が文書化し書き連ねたことがはっきりわかるからです。

 

6-25

 

 さて、以上の検討から、もし聖書無誤説に立つなら、メシア預言とイエスの生涯が一致しない部分が多いので、福音書のイエスが旧約聖書で預言されたメシアであるという論拠が崩壊してしまいます。預言では救世主となる人は軍事的リーダーとして描かれていますが、イエスはそうではなく愛の祭司だからです。しかし、この矛盾は聖書が無誤であるという仮定から生じるのです。

 

 聖書が部分的に神の霊感を含むという立場に立てば、こうした矛盾は解決します。つまり神の霊感があっても完全には理解することができず、また完全には言語化することができないので、聖書はおのずと不完全な文書になるという結論です。つまり聖書自体に誤りを含むと認めることです。部分霊感でもメシア預言とイエスの生涯が一致しなければ、イエスはやはり救世主とは言えないかもしれません。しかしメシア預言自体にも誤りがあるなら、そもそも旧約聖書のメシアの概念が、神が与えようとしていた本当の救済のメシアからかけ離れたものに変えられていた可能性があります。メシア預言とイエスが一致していなくても、イエスが「神が本来、意図していた救済のメシア」であり、旧約聖書のメシア像が誤りを含んでいる可能性が出てきます。

 

 「人の知恵で検討するのではなく、信仰の目で見たらメシア預言の成就が全く正しいことがわかる、あなたの霊感が十全でないから理解できないのだ」という意見もあるかもしれません。しかし、もし私が論理的な検証を抜きに使徒以来の伝承だから正しいと考え、科学や論理を否定するなら、私はλόγοςlogos:論理)ではなく、Μύθοςmythos:神話、伝承)に仕えていることになります。「λόγοςは神であった」とはヨハネ福音書11の言葉です。

 

6-26

 

1兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい。

2もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。

3わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、

4そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、

5ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。≫

(コリント人への第一の手紙 151-5

 

 私は部分霊感説に立っていますが、これは伝統的解釈ではないし、これがキリスト教の教義として最善ではないかもしれません。あくまで科学的あるいは考古学的矛盾点をどう吸収するかという観点で論を展開しているだけです。

 

 ここの2節にあるように、使徒たちが伝えた言葉を守るほうがよっぽどよいのかもしれません。カトリックが最善であるのか、福音派が最善であるのか、あるいは他のいずれなのかは私にはわかりません。

 

 しかし、3-5節にみるように、最も大切なことはキリストが私たちの罪のため十字架で死に、葬られ、栄光の体で復活し、私たちに現れたことを信じることなのです。そしてローマ人への手紙109-10にあるようにイエスが主であると信じるなら、救いの中核は達成されているのです。たとえ部分霊感説に立っていても救われるはずです。

 

 あくまでも十全霊感かつ聖書無誤説の立場に立つならば、メシア預言とイエスの公生涯に完全な一致がないのですから、イエス以外のメシア、旧約聖書に預言されたユダヤ人にとってのメシアが他に存在する可能性も否定できなくなります。先に述べたようにイエスがアブラハム契約と関係ない可能性もあるからです。この聖書無誤説の矛盾をどう考えますか?

 

6-27

 

16わたしたちの主イエス・キリストの力と来臨とを、あなたがたに知らせた時、わたしたちは、巧みな作り話を用いることはしなかった。わたしたちが、そのご威光の目撃者なのだからである。

17イエスは父なる神からほまれと栄光とをお受けになったが、その時、おごそかな栄光の中から次のようなみ声がかかったのである、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。

18わたしたちもイエスと共に聖なる山にいて、天から出たこの声を聞いたのである。

19こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。

20聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。

21なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。≫

(ペテロの第二の手紙 116-21

 

 この章で見てきたように、旧約聖書のメシア預言はイエスの公生涯と完全に一致しているわけではありません。それにもかかわらず使徒たちはその預言解釈が正しいと主張し、ここの20節にあるようにそれ以外の解釈を禁じています。またその解釈は21節にあるように聖霊によって示されたという事でしょう。しかしそれは、おおよそ論理的な説得力を持つ言い分ではありません。

 

 1819節を見てください。彼らの解釈が正しいという確信はイエスにまつわる奇跡を見て得られたことがわかります。これは言い換えると次のように言えるでしょう。通常の論理に従って聖書を読んだだけなら、使徒たちがおこなった解釈には行き着くことはないという事です。

 

 通常の文脈ではなく、使徒たちが霊によって示された道筋で解釈することにより、つまり論理ではなく霊感で、初めてイエスがメシアであることがわかるということでしょうか? 彼らがイエスの奇跡を見て、それが神の業であるという強い確信を持った事、それが旧約聖書の文脈を無視してまでもイエスをメシアと主張しなければならなかった理由なのです。

 

 メシア預言とイエスの公生涯の乖離からわかる事で、良いことが一つあります。使徒は旧約聖書をこねくり回して、その預言に合致するイエスという神像を創作したわけではないという事です。そうであれば、もっと旧約聖書のメシア預言と一致する話を造り上げたでしょう。

 

 使徒たちの論理的混乱は、イエスにまつわる神的な現象を、当時の常識である旧約聖書の記述と、何とか結び付けて説明しようと試みたために生じたとしか考えられません。この牽強付会こそが彼らが人知を超える現象に遭遇した痕跡だと私は考えます。

 

6-28

 

37もしわたしが父のわざを行わないとすれば、わたしを信じなくてもよい

38しかし、もし行っているなら、たといわたしを信じなくても、わたしのわざを信じるがよい。そうすれば、父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう。≫

(ヨハネによる福音書 1037-38)

 

 ここに見るように、父のわざ(奇跡)を行う事がイエスの神性の証拠である、とイエスも述べています。「とにかく目の前で起こった奇跡をどうにかして説明しなくては」という切迫した状況が、福音書のメシア預言の解釈の牽強付会さから見えて来るのです。預言が成就したかどうかの判定の正確さよりも目の前の現象を重視したのだと推測できます。メシア預言解釈の混乱ぶりから、かえって、その背景に奇跡の存在を推測できるのです。

仲里 淳
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