練り清めた銀 聖書を批判的に読む

【1.はじめに】( 1 / 1 )

1.はじめに】

 

1-1  

 

 私は基本的に部分霊感説に立っています。そして聖書は信仰に関する真実が書かれていると信じています。そのゆえ聖書の記述が歴史や考古学、科学の知見と一致しない部分について、日常生活においては科学的な知見の方を優先し、信仰に関する考察や話をするときは聖書を引用します。

 

1-2

 

 使徒たちや初期のキリスト教徒たちは、旧約聖書は誤りがない神の言葉と信じていたと思います。現在でも新約、旧約を含め、聖書無誤説に立つ教会は多いと思います。そして聖書に書かれたことをすべて事実と信じる立場こそ、使徒たちと同じ立場であり、こうした信仰こそが初代の聖徒たち、初期の教会の信仰と一致するものである。そう主張する人も多いでしょう。いわゆる、十全霊感説に立つ聖書信仰の立場です。

 

 私も伝統的な解釈の方法は十全霊感かつ聖書無誤説に立つことであると思います。しかし問題点もあります。それは考古学的、歴史学的研究が進むにつれ、聖書の記載に明らかな間違いがあることがわかって来たからです。

 

1-3

 

 一方、自由主義神学という立場もあり、その定義は私にははっきり言えませんが、ここでは歴史や考古学、比較宗教学など科学的な考察をするときに必要になる態度であると考えてこの言葉を用います。私にとって安全装置としても必要なものです。信仰以外の用途でキリスト教概念を扱うときに、自由主義神学の立場に立つとも言えます。私は、これらの立場を適宜切り替えつつ、信仰生活と、日常生活を両立しているのです。

 

1-4

 

 聖書無誤説を強く主張すると、未信者に不信感を与え、かえってつまずきを与えてしまうことが一つあります。 私はすでに洗礼を受けていますが、明らかに科学的知見と異なることを真実であると強く主張されると、私でも胡散臭く感じます。

 

 もう一つには聖書無誤説を押し通すと、職業生活、日常生活に直ちに支障が出て、生きられないということがあります。牧師や神父にでもならない限り、この立場を生活のすべての局面で主張することは無理です。とはいえ自由主義神学を全面的に受け入れると、そもそも、キリスト教徒になる意味がなくなるような印象があり、いわゆる恵みが得られない状態になってしまいます。

 

1-5

 

 私は解説書を読んだ程度の知識しかありませんが、カールバルトから始まる新正統派、弁証法神学の立場に私は近いのだと思います。しかし聖書の言葉を一律に神の言葉とせずに取捨選択して、科学的な知見を取り入れ、弁証的な統一された神学体系を構築するというのは実に壮大な構想であり、大多数のキリスト教徒が納得するような新正統派の見解を造り上げるには至っていないでしょう。

 

 私は心情的には新正統派よりであっても、信仰的に考えるときは福音派の十全霊感の聖書信仰を持つ者のように、普通に聖書を引用して自分の言動を裏付けたりします。そうしないと、他の信徒と共通の認識に立った会話にならないことも多いですから。しかし一方では、考古学的、あるいは歴史学的な知見も正しいものであると考えていますので、信仰以外については極めて現実的な発想もします。

 

1-6

 

35 さてその日、夕方になると、イエスは弟子たちに、「向こう岸へ渡ろう」と言われた。

36 そこで、彼らは群衆をあとに残し、イエスが舟に乗っておられるまま、乗り出した。ほかの舟も一緒に行った。

37 すると、激しい突風が起り、波が舟の中に打ち込んできて、舟に満ちそうになった。

38 ところが、イエス自身は、舳の方でまくらをして、眠っておられた。そこで、弟子たちはイエスをおこして、「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と言った。

39 イエスは起きあがって風をしかり、海にむかって、「静まれ、黙れ」と言われると、風はやんで、大なぎになった。

40 イエスは彼らに言われた、「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」。

41 彼らは恐れおののいて、互に言った、「いったい、この方はだれだろう。風も海も従わせるとは」。≫

(マルコによる福音書 435-41

 

 科学の法則に反しているから、預言や奇跡などはあり得ないと主張する人はいます。これに対してよく言われることですが、自然法則は神が造り維持しているので、神には変更可能です。神はすべてを従えているのだから、自然法則も神に従っています。神が自然法則にしたがうのではありません。

 

 よって、神が介入したら奇跡や預言は起こると考えます。だから自然法則で説明できないことが起こったなら、それは神が介入した傍証になります。あとでそれを説明する科学的な発見がおこるかもしれませんが、その科学的説明ができるまでは、自然法則で説明不能な出来事は「暫定的に奇跡の可能性あり」として取り扱ってもよいのではありませんか?

 

1-7

 

 科学的に説明できない事については、今の時点ではわからないとしておくのが科学的な態度であると思います。「科学的に説明できない事は存在しない」という命題は証明できないはずです。

 

 その一方で信徒としては、考古学的に明確に否定されたことを、聖書の間違いとして受け入れる謙遜な信仰を持つべきではないでしょうか? 「与えられた信仰を超えて誇ってはならない」はずです。御霊に酔うのではなく、しらふの信仰も必要です。

 

1-8

 

 この本で述べる解釈は、必ずしも正統的なキリスト教的解釈ではありません。聖書と矛盾する考古学的知見や歴史学的視点を受け入れつつ聖書を再解釈し、その上で信仰を保つことが可能であるかという思考実験のようなものです。

 

 したがって、十全霊感に基づく聖書信仰の立場にある人に、解釈の変更を迫るようなものではありません。但しそのような立場の人であっても、信仰が攻撃にさらされたときに、こうした解釈が役に立つ可能性があります。

 

1-9

 

 自由主義神学を受容しつつ、信仰を維持するためにはどうしたらよいか? また考古学的知見を提示され、聖書は間違っていると攻撃を受けるとき、どのような解釈をもって信仰を守るのか? このような目的のために本書は書かれています。

 

 そのため、信仰を維持できるぎりぎりのところまで、考古学的解釈や自由主義神学を受容しつつ論理を展開しています。よって、この本で示された解釈は伝統的な解釈からはおそらく遠いものでしょう。緊急避難的な護教用の解釈なのだということは初めに断わっておきます。 

【2.旧約聖書を歴史学的また考古学的視点から考える】( 1 / 1 )

2.旧約聖書を歴史学的また考古学的視点から考える】

 

2-1 

 

≪聖書の記述を無批判に史料として用いて書かれた族長時代の歴史や土地取得時代の歴史は、今や大筋で否定されていることは、これまで見てきたとおりである。≫(③、p213

 

 私が考古学的知見や歴史学的知見から、また自由主義神学の高等批評から受け入れるべきだと思っているのは、福音派で教えられた「聖書は全く誤りがない神の言葉」とする見解を捨てざるを得ないという事です。まず聖書考古学、聖書歴史学の一般書から引用して考察します。引用文献からは総論的な結論のみを引用してみます。詳しく知りたい方は各文献を読んでください。彼らは中立的な視点で語っていると私は考えています。

 

 考古学的知見は創世記、出エジプト記、ヨシュア記の記述と一致しないようです。但し彼らは考古学者なので、奇跡や預言については判断を保留しています。それらについては彼らの学問の範疇外なのです。

 

2-2

 

≪現在の研究によれば、「モーセ五書」や「ヨシュア記」は、一人の著者により、一気に書き下ろされたものではなく、長い複雑な編集過程を経て段階的に発展したものであり、最終的に現にある形になるのはバビロン捕囚(前6世紀)以後の事だったと考えられている。≫

(①、p13

 

 アラム語から文字を借用して、ヘブライ語が書かれるようになったのは、ダビデ王朝時代だったそうですから、それまではすべて口承だったのです。また創世記にはシュメール神話の影響が見られます。当時事実であると思われていた神話や伝承に、彼らの独自の神学的意味づけをして成立したのでしょう。もちろん編集の際に神の霊感が働いたかもしれませんが。

 

 また古代イスラエル宗教がユダヤ教に変わったのは、バビロン捕囚以降のこと(引用文献③p194)であり、それ以前の古代イスラエル宗教では国家神ヤハウェを崇拝しながら、他の神々の存在を前提としていた(引用文献③p194)と考えられています。そして「民の不信仰の結果から捕囚という裁きが生じた」というヤハウェ崇拝者の発想から一神教化していったのかもしれません。

 

 だから旧約聖書に描かれた一神教の姿が実際の古代イスラエル宗教の実態と一致していない可能性もあるのです。その頃は多神教だった可能性もあるのです。

 

 一方で使徒たちが引用したギリシア語70人訳聖書は、翻訳されたのが紀元前3世紀から前1世紀ですから、イエスが生まれる前には完成していました。だからイエス時代のユダヤ人は、旧約聖書に描かれた一神教の姿が古来からのイスラエルの宗教のあり方であると考えていたでしょうが、現代のキリスト教徒がそれに縛られる必要はないと思います。

 

2-3

 

≪旧約聖書の歴史書の多くは、部分的に古い伝承や資料を用いているものの、語られる出来事よりもかなり後になってからまとめられたものであり、起こったと信じられている出来事や経過についての後代の信念と解釈を伝えるものなのである。≫

(①、まえがきⅷ)

 

 使徒をはじめ、イエス時代のユダヤ人たちは旧約聖書の内容を、真実であると考えたはずです。しかし旧約聖書の編纂はこのような経過をたどっていますから、私は旧約聖書の内容のすべてが史実であるとは思っていません。

 

 ヨシュア記のように一気にカナンを征服したのではなく、士師記のように近隣の民に苦しめられ、長い時間をかけてカナンに定着したことが定説になっているようです(引用文献③p119-120)。またヨシュア記と士師記で同じ都市を占領した記事があったり(引用文献③p116)、ヨシュア記で滅ぼしたと記された都市がその時代には存在しなかったり(引用文献③p117)と色々な矛盾があり、ヨシュア記のすべてを史実とは言えません。しかしヨシュア記の著者は神の力、神の守り、選ばれた民としての誇りを表現しようとして、そのような表現になったのでしょう。旧約聖書の最も重要な役割は神を表現することであり、それは正確な歴史記述に優先されるのです。士師記よりもヨシュア記の方が、彼らの神概念をよりよく表現しているから、後から追加されたのでしょう。

 

 また創世記のヨセフは義人で、欠陥がほぼないイエスの型になるような人として書かれています。エジプト史を見ても記載がなく、考古学的にもヨセフの存在が確認できず(引用文献③p71)、実在性に疑問があるわけですが、救い主の性質を指し示すためにヨセフの話は必要だったので、ヨセフ物語が書かれたと考えるわけです。

 

2-4

 

16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。≫

(テモテへの第二の手紙 316

 

 一方でパウロは面白いことを言っています。すべて聖書は神の霊感を受けて書かれたというのです。ということは、一見歴史的記述かと思われることも、神からのインスピレーションにより加工されていることになりますね。史実性を失ってでも神の霊感を表現することが重要だったのです。それは人を教え、戒め、正しくするためです。

 

 つまり旧約聖書はユダヤ人の神概念を表現したもの、あるいは選びの民としての信仰告白という性質が強くて、歴史資料としてはすべてを信用するわけにはいかないのです。史実の記録ではなく霊感の記録なのですから。

 

2-5

 

21 あなたは心のうちに『われわれは、その言葉が主の言われたものでないと、どうして知り得ようか』と言うであろう。

22 もし預言者があって、主の名によって語っても、その言葉が成就せず、またその事が起らない時は、それは主が語られた言葉ではなく、その預言者がほしいままに語ったのである。その預言者を恐れるに及ばない。≫

(申命記 1821-22

 

 キリスト教信仰を育むために旧約聖書は必要不可欠なものです。イエスと使徒たちの言葉と行動を理解するには旧約聖書が必要なのですから。この旧約聖書が真実でなかったら、私たちの信仰はどうなるのでしょうか? 旧約聖書をどうとらえたらよいでしょう。答えは「歴史資料としては信用できない」という事、もう一つは「旧約聖書には信仰の真実が書かれている」です。

 

 「信仰の真実が書かれている」とはどういう事でしょうか? それはどのように確認できるのでしょうか? 私は旧約聖書が単独で価値があるとは考えていません。私にとって、「旧約聖書に信仰の真実が書かれている」と考える根拠は、イエスが旧約聖書の価値を保証したことです。

 

 旧約聖書が歴史資料としては信用できないとしても、預言者なる概念は実際に「預言」という現象があったから生まれてきたと私は考えます。旧約聖書に預言が書かれていて、それが成就した、しかも中心となる救世主についての預言が成就したと、初代の聖徒たちは証言しています。そうであれば信仰に関することについては、真実が書いてあると考えてもよいのではないかと思います。前述の聖書考古学や聖書歴史学の本は、奇跡や預言については真偽を評価していません。彼らの手法では奇跡や預言を否定することはできないのです。

 

2-6

 

22しかしあなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、

23天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、

24新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。

25あなたがたは、語っておられるかたを拒むことがないように、注意しなさい。もし地上で御旨を告げた者を拒んだ人々が、罰をのがれることができなかったなら、天から告げ示すかたを退けるわたしたちは、なおさらそうなるのではないか。

26あの時には、御声が地を震わせた。しかし今は、約束して言われた、「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」。

27この「もう一度」という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。

28このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。そして感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。≫

(ヘブル人への手紙 1222-28

 

 聖書の言葉を吟味して正しいかどうか判定することは、神に対する冒涜になるでしょうか? 私はそうは思いません。

 

 ここで引用しているように神の国、神の真理とは震われずに残るものなのです。震われて消えていくものは、真理でも神の言葉でもありません。神の言葉は科学的な検証に耐えるはずです。科学的な検証で消えていく部分は聖書の中の真理でないものなのです。検証の結果、残ったもの、震われずに残るもの、これが真理なのです。

 

2-7

 

25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。≫

(コリント人への第一の手紙 125

 

 聖書が否定されかねないから科学的な検証をしてはならないというなら、それは神を矮小化しています。神の力を人よりも弱いもの、神の真理を科学より劣るものと考えているから、聖書を検証したら聖書が否定されると感じるのです。神は人よりも賢く、神は人よりも強かったはずではありませんか。科学的検証を恐れる必要はないはずです。

 

2-8

 

6主のことばは清き言葉である。地に設けた炉で練り、七たびきよめた銀のようである。≫

(詩編 126)(新共同訳では7節)

 

 試練のなかで練り清められ、純粋とされたもの、それが神の御言葉であります。科学的な検証は信仰にとっては試練であります。しかし、むしろ、科学的に聖書を検証して私たちの信仰を練り清めるべきです。

 

 旧約聖書に科学的に否定される部分が多くあっても、イエスによる救いの保証が確かなら十分であると思うのです。

【3.イエスの実在、復活、神性は信用できるか】( 1 / 1 )

3.イエスの実在、復活、神性は信用できるか】

 

3-1

 

 新約聖書の成立過程については色々説がありますが、議論の前提としてとりあえず、本書では新約聖書の正典に書いてあることは、初期のキリスト教のイエスにまつわる目撃証言、信仰告白、神学的解釈が入り混じったものとみなします。必ずしも神の言葉とみなさないという事です。部分霊感説に立っていますから。

 

 四福音書の中のイエスの言葉は、一応はイエスが語った言葉とみなします。新約聖書の正典のうちに、教会の証言としてのみ、イエスの言動が残されているからです。

 

 信じるというのは白か黒かでなく、確信度が0%から100%まで変動するものではないでしょうか? これは聖書を読んでいるうちに変化する、あるいは人生で危機的な状況に遭遇した時に変化します。私も人生で深刻な危機的状況に陥った時は、新約聖書も旧約聖書も確信度100%になったこともありますが普段は60%くらいです。

 

3-2

 

≪要約:イエスの処刑後、絶望の中でちりぢりになっていたイエスの同志たちに異変が生じた。殺されたイエスが不可思議な形で「生きている」ことを彼らは体験した。・・・こうした伝承の核となる体験を否定する者もいるが、そうするとかえって説得力を減じる。≫

(②、p61-62

 

 キリスト教について考えるときは常にイエスから考えないといけないと思います。

イエスの復活についての歴史学的な見解は上記の通りです。聖書の記述通りでないとしても、弟子たちがイエスの復活を確信した伝承の核となる体験がないと不自然だということです。

 

 指導者イエスが刑死した後、おびえて閉じこもっていた弟子たちが、突然、命がけで宣教をし始め、文字通り殉教していったのですから、それには何か理由が必要でしょう。イエスの復活を科学的に証明することはできませんし、そして科学的に否定することもできません。しかし、ここに弟子たちに復活を確信させた何らかの体験があってもおかしくないという見解が述べられています。歴史学者が批判的かつ論理的に考えた末にも、その蓋然性が残るのです。

 

 よって何らかの形でのイエスの復活は、最も信憑性が高い奇跡であると言えるかもしれません。イエスの十字架の死と復活を信じるかどうか、これがキリスト教を信じるうえで最も重要なところです。福音派の学者や牧師が書いた本ではもちろん全面的に肯定され、その証拠としてかなり説得力がある説明が挙げられています。これらは物的証拠などではなく、科学的な証明には程遠いと思いますが、一個人がその説明を受け入れ信じるには、十分な説得力があります。ここでは、それらの文献は引用しませんが私もそれを受け入れました、というか、十字架と復活を信じないならキリスト教徒ではないし、キリストによる救いもありません。

 

 しかし、ここで引用したのは福音派的でなく、奇跡や預言などについてはあえて語らずに、あくまで中立的に歴史学的に考察していた著者が、復活のイエスとの遭遇に関して、その時に何か不思議な事があったことが否定できないと書いているのです。中立的な立場からも可能性があると言及されていることに意味があります。

 

3-3

 

≪要約:西暦62年にエルサレム教会の指導者でイエスの兄弟のヤコブがアンナス2世により処刑された。しかし、このことは人々の反感を買い、アンナス2世は更迭されたことが、ヨセフスのユダヤ古代誌に書かれている。≫(②、p94p128) 

 

 イエスの実在を示す同時代の聖書外資料はないといいますが、少し時代が下ったものはあるので、史的イエスの実在性については十分かと考えています。ヨセフスのユダヤ古代誌には、洗礼者ヨハネについての記載とイエスについて記載と、イエスの兄弟ヤコブの記載があります。洗礼者ヨハネの実在を疑う人も、ヤコブの実在を疑う人もいないのに、イエスの実在だけを疑うのは合理的ではありません。確かにイエスの記述には後世のキリスト教徒の加筆があると考えます。しかし、イエスなる人物の実在を確認する程度の役割は果たすでしょう。

 

 ヨセフスは西暦37~100年に生きていた人です。イエスの処刑後に生まれているのでイエスの目撃証言ではありません。しかし、イエスの兄弟ヤコブの処刑はヨセフスと同時代であります。ユダヤ古代誌が書かれたのがもっと後であっても、同時代の目撃証言と考えてよいのではないでしょうか?

 

 イエスの兄弟と名乗る人物がエルサレムで活動していたのです。しかもイエスは神であると信仰告白していたのです。これはユダヤ教からみると冒瀆行為であり処刑されたことは容易に理解できます。しかし処刑がユダヤの人々の反感を買ったという事が不自然です。

 

 もし、イエスが神であるとユダヤの人々が信じていなければ、反感を買うわけがないのです。イエスが実際に奇跡を行って、ユダヤの人々に「神なのではないか」と思われていなかったら、ヤコブは民衆によってすぐさま石打にされるはずであります。イエスの奇跡がなかったならヤコブはただの冒涜者ですから、処刑されたときユダヤの人々は喜んだでしょう。

 

 奇跡があったという確かな物的証拠はなく、同時代の非キリスト教徒の直接の証言もありません。しかしここで上げたような傍証はいろいろあります。

 

3-4

 

16シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。

17すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。」≫

(マタイによる福音書 1616-17)

 

 ユダヤ人にとって神とはいかなる存在であるか、それは旧約聖書を読めばわかります。天地を創造し、天体も動物も人も自然法則もすべて創造した神です。人は神によって造られた存在であり神とは明瞭に違うのです。そして神は神聖不可侵で、特定の人間を神と呼称すると冒瀆に当たるので殺す必要があったのです。

 

 イエスの弟子たちはユダヤ人です。その彼らが、イエスを神の子と呼んだのです。ユダヤ人の伝承の中には奇跡をみせた預言者が何人もいます。しかしイエスの弟子たちは、イエスを預言者とみなさず、神の子とみなしたのです。

 

 ペトロが告白したからと言って、イエスが神であることの証明にはならないでしょう。特にキリスト教徒でない人にとってはそうです。しかしイエスの起こした奇跡が、ユダヤの伝承にある預言者が起こす奇跡を、はるかに凌駕していたことは、ペトロの告白から想像できると思います。イエスは弟子にとって預言者以上のものであったのです。

 

3-5

 

15イエスは彼らに言われた、「わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた。

16あなたがたに言って置くが、神の国で過越が成就する時までは、わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」。

17そして杯を取り、感謝して言われた、「これを取って、互に分けて飲め。

18あなたがたに言っておくが、今からのち神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを、いっさい飲まない」。

19またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。

20食事ののち、杯も同じ様にして言われた、「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。」≫

(ルカによる福音書 2215-20

 

 最後の晩餐でイエスが言った言葉は異様です。イエスの血を飲めというのです。もちろんぶどう酒を血に見立ててのことですが。

 

 続けて、他の箇所も見てみます。

 

3-6

 

 ≪10   イスラエルの家の者、またはあなたがたのうちに宿る寄留者のだれでも、血を食べるならば、わたしはその血を食べる人に敵して、わたしの顔を向け、これをその民のうちから断つであろう。

11肉の命は血にあるからである。あなたがたの魂のために祭壇の上で、あがないをするため、わたしはこれをあなたがたに与えた。血は命であるゆえに、あがなうことができるからである。

12このゆえに、わたしはイスラエルの人々に言った。あなたがたのうち、だれも血を食べてはならない。またあなたがたのうちに宿る寄留者も血を食べてはならない。

13イスラエルの人々のうち、またあなたがたのうちに宿る寄留者のうち、だれでも、食べてもよい獣あるいは鳥を狩り獲た者は、その血を注ぎ出し、土でこれをおおわなければならない。

14すべて肉の命は、その血と一つだからである。それで、わたしはイスラエルの人々に言った。あなたがたは、どんな肉の血も食べてはならない。すべて肉の命はその血だからである。すべて血を食べる者は断たれるであろう。

(レビ記1710-14

 

 ユダヤ人は律法で血を飲んではならないと規定されていました。血の中には命があるからと言うのが理由です。イエスは律法に挑戦したのでしょうか?

 

 続けて他の箇所を見ます。

 

3-7

 

53イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。

54わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。

55わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。

56わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。

57生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。≫

(ヨハネによる福音書 653-57) 

 

 「私の血を飲め」こんなことを言われて、弟子たちは反発しないのでしょうか?

 

 弟子たちはイエスの血を飲むという言葉を受け入れて、キリスト教の教義にしたのです。実際に飲むのはぶどう酒とはいえ、なぜ律法に逆らうような発想を取り入れたのでしょうか? 神に忠実であるユダヤ人がこのようなことを思いつくこと、そして受け入れること自体がおかしいのです。しかしこう考えることもできるでしょう。

 

 「イエスの血には永遠の命がある。これを飲みなさい。そして他のいかなる血も飲んではいけない、そこには滅びゆく肉体の命があるから。」

 

 私は信仰に基づいてこう考えます。律法の血を飲んではいけない規定はユダヤ人を聖別するためにあったのです。いつかイエスの血を飲んで永遠の命を受けるために、そして肉の滅びを受け入れないためにです。一見律法に違反するように見えますが、実はこの律法がイエスの血を飲む日のために用意されていたのです。

 

 イエスの弟子にとって、律法の規定よりもイエスの言葉が優先されたのです。「神の掟より偉大なものがここにある。それがイエスである。」それが弟子たちのイエスに対する評価です。

 

3-8

 

 結論です。

 

(1)十字架の刑死のあとに「イエスが何らかの形で生きている」と

 弟子たちが確信したことは否定できない。

(聖書の記述に従うと、イエスは霊の体で復活した)

 

(2)イエスの実在については傍証がある。

(学者でも完全に否定するひとは少ない)

 

(3)イエスの神性を弟子たちが確信していたことは事実であろう。

 

 とりあえずナザレのイエスの実在性を否定する証拠はないし、実在したという確実な証拠もありません。復活については弟子たちの体験としてはありうるわけです。イエスの神性については弟子たちが確信していたとしか、ここでは言えません。とりあえずいずれも否定はできないというのが結論です。

 

 旧約聖書の記載が、考古学的に否定されていることについて2章で書きましたが、新約聖書では、その中核であるイエスの実在、その十字架と復活を考古学的、歴史学的に否定することはできないのです。

 

 今後、何らかの方法で否定されたらまた検討が必要になりますが、今のところはイエスの復活、実在、神性は未だ科学的には否定されていないという事にしておきます。

【4.奇跡は本当にあったのか】( 1 / 1 )

4.奇跡は本当にあったのか】

 

4-1

 

 「奇跡や預言は本当にあったのか?」という疑問を誰でも持つはずです。キリスト教を信じるには、奇跡や預言の存在を受け入れなければならないのですが、私は、実際は起こらなかった奇跡や実現しなかった預言も聖書に書いてあると考えています。

 

4-2

 

 旧約聖書の成立過程と考古学的信憑性については2章で述べましたが、ここには神話と伝承が組み込まれているうえに、複雑な編集過程をへています。だから旧約聖書を奇跡の目撃証言として取り扱い、奇跡の実在について検証することは適切ではないと思います。

 

4-3

 

 新約聖書は奇跡の目撃証言として用いることが適正か? これについてはある程度の妥当性があると考えます。しかし新約聖書の福音書は複雑な成立過程をへており、著者の信憑性について疑問を持つ人もいます。そこで今回はパウロ書簡から、奇跡や預言があったどうか検討してみます。

 

 パウロ書簡のうち、真筆性が高いとされる、ローマ人への手紙、コリント人への第一の手紙、コリント人への第二の手紙、ガラテヤ人への手紙、ピリピ人への手紙、テサロニケ人への第一の手紙、ピレモンへの手紙の文言をパウロにより伝えられた言葉とみなします。

 

4-4

 

 なぜ、パウロ書簡を持ってくるかと言うと、

 

(1)パウロが実在したことに疑いを持つ人はいません。

 

(2)パウロは使徒です。しかも異邦人伝道のためにつまり、私たちのために特別に選ばれた使徒なのです。

 

(3)上記の7文書がパウロによって書かれたことは概ね合意ができています。

 

(4)新約聖書の成立で最も早いのがテサロニケ人への手紙で、西暦50年から52年成立と言われており、ローマ人への手紙でも西暦58年成立、最も遅いピリピ人への手紙でも62年成立です。イエスの刑死は西暦30年頃なので、その後おおよそ3032年以内に書かれた文書です。イエスの奇跡の目撃者がまだ多数生きていた時代に書いたのですから、嘘偽りがあれば暴かれてしまいます。

 

(5)パウロは復活のイエスに遭いましたが、十字架につけられる前のイエスの活動を目撃したかどうかは不明です。しかし、エルサレム教会の指導者に会い、復活のイエスの教えとエルサレム教会が受け継いでいる教えが、一致していることが確認されました。パウロに働いたのはイエスキリストであると承認されたのです。

 

 上記の理由から、パウロ書簡の7文書は、復活のイエスキリストや奇跡についてのパウロ自身の目撃証言であるとみなせます。そしてそれは伝聞ではない歴史の第一次史料です。

刑死前のイエスについての記述については第二次史料と言うことになります。

 

4-5

 

 パウロ自身の信憑性について、パウロはエルサレム教団に属していたことはないので、彼らに感化されていつの間にか信じるようになったわけではありません。つまり、教団によって洗脳やマインドコントロールを受けたわけではありません。

 

 パウロは何でも信じてしまう人ではありません。伝統的で正統派のユダヤ教徒のラビで、イエス派の信者を迫害していたのです。かつてはキリストの敵であった人の証言でもあるのです。イエスと使徒たちを徹底的に疑ったはずです。復活のイエスに遭ったのちも3年間、じっくり旧約聖書を研究してイエスが救世主なのかどうか確かめたのです。徹底的に疑った挙句の結論なのです。

 

 パウロ書簡のみで構成された証明であれば、誰も信憑性を否定できないはずです。

そして7文書中6文書で、パウロは「イエスがパウロを通して、奇跡を起こした」と証言しています。

 

4-6

 

16このように恵みを受けたのは、わたしが異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を勤め、こうして異邦人を、聖霊によってきよめられた、御旨にかなうささげ物とするためである。

17だから、わたしは神への奉仕については、キリスト・イエスにあって誇りうるのである。

18わたしは、異邦人を従順にするために、キリストがわたしを用いて、言葉とわざ、

19しるしと不思議との力、聖霊の力によって、働かせて下さったことの外には、あえて何も語ろうとは思わない。こうして、わたしはエルサレムから始まり、巡りめぐってイルリコに至るまで、キリストの福音を満たしてきた。

20その際、わたしの切に望んだところは、他人の土台の上に建てることをしないで、キリストの御名がまだ唱えられていない所に福音を宣べ伝えることであった。≫

(ローマ人への手紙 1520)

 

 ローマ人への手紙は58年ごろに書かれたとされています。ここの1518節に言葉とわざ、19節にしるしと不思議の力、聖霊の力によって、(わたしを)働かせてくださったとあります。彼が福音を宣べ伝えたいたるところで、奇跡が彼を通して起こったという証言です。

 

 ローマでも同じように奇跡が起こることを確信していなければ、これから訪問しようという所にこのような手紙を書けないのです。こんなことを書いたらローマに行ったときにしるしを見せてくれと言われるに決まっています。そして彼は奇跡が起こることに確信を持っていたのです。それは過去に奇跡が起こった実績から来る確信なのです。

 

4-7

 

1兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。

2なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。

3わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。

4そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。

5それは、あなたがたの信仰が人に知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった。≫

(コリント人への第一の手紙 21-5)

 

 コリント人への第一の手紙はコリントの信者に向けてエペソで書かれた手紙です。

24節に「霊と力との証明によった」とあります。コリント教会でパウロはかつて奇跡を起こしたことを証言しているのです。もしパウロが奇跡を見せていないのにこんな事を書いたら、コリント教会の人は皆パウロを見限り信仰を失うでしょう。かつて奇跡を見せた人に「そうだったでしょう?」と言っているのです。

 

4-8

 

12わたしは、使徒たるの実を、しるしと奇跡と力あるわざとにより、忍耐をつくして、あなたがたの間であらわしてきた。≫

(コリント人への第二の手紙 1212

 

 これもコリント教会宛ですが、「しるしと奇跡と力ある業」を行ったと証言しています。そしてそれが使徒である証拠だと言っているのです。これが嘘偽りであったなら、コリントの人は彼の教えを何故受け入れたのですか?

 

4-9

 

1ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。

2わたしは、ただこの一つの事を、あなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。

3あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。

4あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか。まさか、むだではあるまい。

5すると、あなたがたに御霊を賜い、力あるわざをあなたがたの間でなされたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。≫

(ガラテヤ人への手紙 31-5

 

 このガラテヤ人への手紙は、パウロによって形成されたガラテヤの共同体にあてて書かれたのですが、45節で「あなたがたの間でイエスが奇跡を起こしたのに、そんな大きな体験が無駄だったのか?」と嘆いています。もしそのような奇跡がなかったら、パウロはどんな顔をして彼らにあったらよいのでしょう?

 

4-10

 

25しかし、さしあたり、わたしの同労者で戦友である兄弟、また、あなたがたの使者としてわたしの窮乏を補ってくれたエパフロデトを、あなたがたのもとに送り返すことが必要だと思っている。

26彼は、あなたがた一同にしきりに会いたがっているからである。その上、自分の病気のことがあなたがたに聞えたので、彼は心苦しく思っている。

27彼は実に、ひん死の病気にかかったが、神は彼をあわれんで下さった。彼ばかりではなく、わたしをもあわれんで下さったので、わたしは悲しみに悲しみを重ねないですんだのである。

28そこで、大急ぎで彼を送り返す。これで、あなたがたは彼と再び会って喜び、わたしもまた、心配を和らげることができよう。≫

(ピリピ人への手紙 225-28

 

 ここでは、瀕死の重症患者エパフロデトを神が癒した事が書いてあります。但し奇跡によるのか、治療によるのか、詳細は不明です。

 

4-11

 

5なぜなら、わたしたちの福音があなたがたに伝えられたとき、それは言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信とによったからである。わたしたちが、あなたがたの間で、みんなのためにどんなことをしたか、あなたがたの知っているとおりである。≫

(テサロニケ人への第一の手紙 15

 

 ここでは「力と聖霊と強い確信」とあります。力と訳されたδυνάμειはマタイによる福音書722では力ある業(口語訳)、奇跡(新共同訳)、wonderful work(KJV)miracles(NIV)

など訳されており、ここでも奇跡のことと考えてもいいでしょう。ここでも「あなたがたの間で奇跡が起こったでしょう?」と記憶を呼び覚まそうとしています。

 

4-12

 

11このようにわたしたちは、主の恐るべきことを知っているので、人々に説き勧める。わたしたちのことは、神のみまえには明らかになっている。さらに、あなたがたの良心にも明らかになるようにと望む。

12わたしたちは、あなたがたに対して、またもや自己推薦をしようとするのではない。ただわたしたちを誇る機会を、あなたがたに持たせ、心を誇るのではなくうわべだけを誇る人々に答えうるようにさせたいのである。

13もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである。

(コリント人への第二の手紙 511-13)

 

 これでイエスの奇跡がパウロを通して働いたという、パウロの証言が多数あることがわかりました。では、パウロは正気だったのでしょうか?

 

 ここで引用したように「自分が布教している相手から正気でないように見えるのでは?」という危惧をパウロ自身が書いています。正直にいってパウロが正気であったという証拠を示すことはできません。

 

 もし私のところに、既存の宗教とは全く異なる神を宣べ伝える人がやって来たとします。おそらく、私はまったく信じずに帰ってもらうでしょう。正気と思えないからです。

 

 使徒の時代も同じことでしょう。既存の宗教と全く異なる神をパウロが宣べ伝えても正気だとは思われないでしょう。信仰に入った人たちはなぜ、パウロのいう事を信じることができたのか?

 

 合理的に考えるなら、パウロが「奇跡が起こる」と宣言して実際に奇跡が起こったからと考えるのが自然ではないでしょうか? そうでなければ、神を冒涜したとして、すぐさま、石打ちにされるはずです。

 

 一見、正気ではないようなことを言っても、宣言したとおりに奇跡が起こるなら、「ひょっとして本当の事なのではないか」という期待を抱かないでしょうか? 非常識かつ非科学的な宣言をしても、それを実際に実行できたなら妄想ではないのです。

 

4-13

 

1 わたしたちの間に成就された出来事を、最初から親しく見た人々であって、

2御言に仕えた人々が伝えたとおり物語に書き連ねようと、多くの人が手を着けましたが、

3テオピロ閣下よ、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、ここに、それを順序正しく書きつづって、閣下に献じることにしました。

4すでにお聞きになっている事が確実であることを、これによって十分に知っていただきたいためであります。≫

(ルカによる福音書 11-4)

 

 聖書にはすべての証言は複数の証言者が必要とあります。パウロの奇跡について、他の人の証言はないのでしょうか?

 

 パウロに従って旅をした福音記者ルカは、記述の正確さが考古学的によく確かめられ、誠実な人であると考えられています。ルカはイエスの直接の目撃者ではなくて、「ルカによる福音書」は伝聞をまとめて成立したと考えられますが、彼は使徒行伝の時代においては直接の証人であります。よって使徒行伝に書かれた一部の奇跡に関して、ルカは目撃したことを書いたはずです。

 

 ルカはパウロの奇跡の目撃者なのです。誠実だと考えられる人の目撃証言があるのです。

「聖書にしか書かれていない、他の証言がない」といって、聖書に書かれたことを信じない人もいます。しかし、聖書は現在では一冊の本にまとめられていますが、もともとばらばらに書かれた文書を集めたものです。たくさんの聖書記者の証言(あるいはそれを編纂したもの)でもあるのです。

 

4-14

 

 3章でイエスが復活したことを肯定するはっきりした証拠もないけれど、弟子たちに何らかの形で、イエスの復活を確信させた事件があった可能性は否定できないと結論しました。また弟子たちはイエスが十字架にかけられる前から、イエスの神性を認めていたことも示しました。

 

 聖書の記述によると、イエスは復活するときは霊の体で復活する(コリント人への第一の手紙 1542-44)と述べています。それで、私はおそらく弟子たちにも霊の体で現れたと考えています。しかしその霊の体での復活が、なぜイエスがキリストである証拠になるのでしょうか? それがただの幽霊であったら、永遠の命ではなく永遠の死です。またイエスが復活すると宣言していたので、その暗示効果で幻覚を見たのではないかと言われたら、どう反論できるのでしょうか? 

 

 復活のイエスは栄光を帯び、神としての威厳があるので、弟子たちはイエスの神性に気づいたのかもしれません。しかし「刑死する前から、弟子たちはイエスを神であると考えていたので、心理学的な効果で幽霊や幻覚を、栄光あるキリストと感じただけかもしれないのではないか」と反論されたらどう答えたらよいでしょうか。

 

4-15

 

 実はパウロを通して起こった奇跡がイエスの神性ともかかわってきます。パウロは復活のイエスに遭ったわけですが、彼はイエスが復活するなどという事は微塵も信じていなかったし、復活に対する期待はゼロです。復活を期待していた弟子たちが幻覚を見たということは考えられますが、そんなことを一切期待しないパウロが幻を見る可能性は低いのです。心理学の実験で幽霊を見たいと期待している人や、幽霊を信じている人ほど、(錯覚や幻覚の)幽霊を見やすいという結果を聞いたことがあります。パウロはこれに当てはまりません。

 

4-16

 

 また「イエスが霊の体で現れたとしても、なぜイエスが神や救世主であるという証拠になるのか? ただの幽霊ではないのか?」という疑問には、伝統的に弟子たちは「復活のイエスには肉や骨があって触ることができ、またイエスは物を食べることができたので幽霊ではない」と結論付けます。しかし、これについては本当に物理的な肉や骨を備えた体であったかどうか、わたしには確信がありません。なぜなら、復活のイエスは現れたり消えたりして、物質の物理的なふるまいを超えているからです。また聖書でイエスは復活した人は新たに霊の体を与えられ天使のような体になると述べています。だから、刑死したイエスの死体が起きあがって現れたというよりも、イエスの霊が実在している物質のような存在感をもって現れたのかもしれません。

 

 もうひとつ付け加えると、復活のイエスがパウロに現れて彼を打倒し、敵対者であるのに回心させたことが、一つの奇跡であると私は考えています。復活のイエスはただの幽霊ではない証拠に奇跡を起こすのです。また、この章で述べたように、回心後のパウロを通して更なる奇跡を起こしていくのです。回心前のパウロは奇跡を起こせなかったのですから、明らかに復活のイエスの力が現れているのです。そしてイエスの霊が神を証しするために奇跡を起こしていくことが、復活のイエスの神性の証明になると思います。

 

4-17

 

 十字架につけられる前のイエスの奇跡も私は信じていますが、四福音書の成立が遅いので直接の目撃証言ではなく信憑性が低いとして、そこに書かれた奇跡を否定する人もいます。しかしこの章で述べた、パウロを通して復活のイエスが起こした奇跡については、そのような否定の仕方は通用しません。

 

 だから、少なくともパウロを通して起こった奇跡については、信じてもよいと私は考えます。もちろん、この章で書いたことは、パウロを通して復活のイエスが奇跡を起こしたという蓋然性の論証をしたのであり、明らかな奇跡の証拠とは言えません。しかし、それでも一個人が信仰を保つには十分な説得力があると思います。

 

4-18

 

 ちなみに、マリヤが本当に処女のまま懐妊したのかどうか? 皆さんはどう考えますか? 私は神が介入したら、処女でも懐妊するだろうなと単純に考えるのですが、ここで「こんなこと科学的にありえない、信じられない」と聖書から離れる人も多いかと思います。信徒からすると「科学的にありえないことが起こったのだから、それは神が介入したしるしなのだ」となるのですが、その辺が理解できない人もいるでしょう。

 

4-19

 

 科学的に納得できる説明をしたらよいのでしょうか?

 もし、ヨセフが寝ている間に天使が彼の精子を採取し、マリヤが寝ている間に子宮に入れたとしたらどうでしょうか? 精子を子宮に入れる方法は性交渉だけではありません。そして性交渉なしなので、その結果として妊娠してもマリヤは処女です。この方法なら現代の科学でも、いや、ひょっとしたら当時の科学水準でも可能かもしれません。そして天使でなく人間の手でも可能かもしれません。しかし、そんなことをしたのなら奇跡でもなんでもないのです。不思議な事が起こり、それを科学で説明できなかったときに、初めて神の介入したしるしになるのです。

 

4-20

 

 奇跡に対して、このように何かしら科学的な解釈を施したものを目にしますが、奇跡を奇跡として素直に受け止めることが一番神に喜ばれると思います。もちろんこんな人工授精が起こったとは私は考えていません。そもそも「マリヤの胎に受精卵あれ」と神が一言、声を発するだけで、処女懐妊は可能なのですから。 

 

 ただ、処女懐妊が心に引っ掛かり、神を信じられないという人がいたら、このような人工授精という解釈や、実はヨセフと婚前交渉があったのだとか(つまり未婚の処女のはずの人が懐妊した)、自分で受け入れることができる解釈をしても良いのではないかと思うのです。他の奇跡についても同様です。個々の奇跡を信じることは救いの要件ではないのです。

 

4-2

 

 イエスを救い主と受入れることと、奇跡においては十字架と復活を信じることが救いの必要条件とされるのです。イエスが、不信仰なものにも与えると宣言した、唯一のしるしである「ヨナのしるし」、つまり、イエスの十字架の死と復活だけは、この様な解釈が許されない部分です。しかし、イエスは天国では霊の体、天使のような体で復活するといっていたので、肉体の体で生き返ったと考える必要はないと思います。確かに墓から死体が消えたのですが、復活のイエスをみても、すぐにはイエスだとわからなかった人が多いので、痛めつけられた死体のまま起き上がって歩いていたわけではないと思います。

 

4-22

 

 私はモーセ五書の記述が考古学的に否定されたことを受け入れていますが、奇跡や預言は信じています。「モーセ五書を否定するなら奇跡や預言も否定するべきではないか?」という意見を持つ人もいると思います。

 

4-23

 

 考古学的に痕跡がないことは歴史の中にその事件がなかったことを意味します。モーセの出エジプトや、ヨセフがエジプトで王に次ぐ地位にあったことなどは痕跡がないので否定できるのです。 一方奇跡がなかったことは考古学では否定できないのです。奇跡の検証は考古学という学問の対象外なのです。病気が治ったり、人が生き返ったりという奇跡があっても考古学的痕跡は残らないからです。

 

 3章でイエスの復活について述べましたが、考古学的には痕跡が残っていません。何せ、復活して墓から消えたイエスには遺体がないのですから、発掘もできません。墓も自分の墓ではないのですから、発掘しても、イエスの墓と書いてあるわけではないでしょう。だから、考古学的に旧約聖書の史実性を否定したのと同じ方法を用いても、奇跡や預言の存在を否定することはできません。

 

 しかし、おびえて逃げ隠れた弟子たちが、急に命を顧みず宣教を始めたという奇跡の痕跡が、歴史にはっきりと残っているのです。パウロを通して働いた復活のイエスの奇跡も、パウロ書簡と異邦人教会の反応という歴史上の痕跡があります。このような形でしか検証できないのです。

 

4-24

 

 また科学的に奇跡はあり得ないという人はこう考えているのではないでしょうか?

何か再現性のある現象や実験結果をもとに理論をつくり、それを積み重ねて、その延長線上に、特定の奇跡(たとえば、2匹の魚と5つのパンが5千人に給食されるとか)が再現できる可能性が示されたときに、真実だと認めようと言うかもしれません。でもよく考えてみてください。それは科学的に適切な判断でありますが、人の手で再現できるので奇跡ではありません。

 

 奇跡の定義をよく考えてください。奇跡とは常識では起こりえないことが起こったり、あるいは統計的にありえない確立で何かの事象が起こったりすることなのです。つまり奇跡を立証するのに必要な事は、「その原因が科学的に説明できないこと」、あるいは「常識的には、ありえない確率の事象が起こったこと」を示すことなのです。そして神が介入した痕跡なのですから、自然の法則を超越していてもいいわけです。

 

 聖書の歴史的な事件のありなしは考古学で調査可能なことがあります。しかし奇跡についてはそのような調査ができません。そして先ほど述べたように、歴史に奇跡の痕跡が残っているのです。

仲里 淳
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