宇治の橋姫

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妻への愛は減じたかもしれないが、妻への正当な処遇は変えなかったと、衛門の督はそう信じている。

衛門の督は、愛が冷めたからといって妻を疎略に扱うわけには行かなかったのだ。そこには、極めて封建制度に則した、実際的な理由があった。

 

衛門の督の正妻は今をときめく関白、藤原満長(ふじわらみつなが)の長女であったからだ。関白の次女は、今上帝の女御として宮中の藤壺にあがっており、年が明けると中宮に冊立されることが決定している。

前の主上は、今上帝とは従兄弟にあたる。二年間、帝位にあって、三年前に譲位されて院号を賜ったのだが、母后が衛門の督の父、内大臣の妹なのである。

すなわち、衛門の督の父内大臣は、帝の伯父であったが、その絶頂のときは長くは続かなかった。

 

先帝の譲位には、父、内大臣は反対したが、内裏が四度も火災にあい、人心が収まらなかったため、帝は、自分が帝位にあることを天が喜ばないのだ、と淡々とおっしゃった。これには誰も反論のしようがなかった。

父も兄も、この四度の火事については、「これはできすぎである。どう考えても何やら作為が」と疑っているが。

 

関白と、内大臣との権力闘争は、現状では関白の圧勝なのだが、関白は、やり過ぎを警戒していた。

競争相手を完全に没落させ、絶望させては、後で物の怪となって祟られかねないことを関白は知悉していた。政敵は潰しすぎるとまずいと。そこで、内大臣に対して持ちかけた落としどころが、二十一歳の自分の長女の蓉姫(ようひめ)と、当時二十四歳であった衛門の督との縁談であった。

関白の考えとしては、蓉姫を入内させたかったのだが、年齢が主上より六歳上であったため、即位したばかりの主上には、同い年の次女をと取りはからったのだ。

 

内大臣も、衛門の督の兄である近衛の大将も、関白からのこの縁談を懐柔策、あるいは停戦協定とみなした。実際そうとしか受け取りようがなかった。内大臣は、不審さと諦めとの入り交じる複雑な表情で論評した。「いささか意外であ

った。関白は、上の姫君を入内させるものと思っていたゆえな。年上の后など珍しいものではない……しかし、これは、そなたの将来にとっては良いことかもしれぬ。関白の婿殿になるわけであるから。何分にも私は老い先短い。政を司るには、本当は荷が重いのだ。そなたが一人前になるまではお勤めしなくては、と思っているが」

衛門の督より十六歳離れた兄は、皮肉っぽい口調で言った。「関白はそなたを、婿として飾り立てるであろうが、昇進はさせまいよ。体の良い人質じゃな。世の中、思うようには行かぬものよ。それにしてもそなたは、つまらない女性を妻にはできないと申して、強情にも独り身を長く保っていたのであったが、それが思わぬ形で成就したものだ」衛門の督は、自分は強情なのではなく、よく知らない女性と家庭を持つのが不安を覚える性質なのだ、と一応は反駁したが、二人の耳には届いたかどうか。

 

かくして始まった、関白の姫君との結婚生活であったが、やはりというべきか、打ち解けた間柄とはなり得ないものであった。蓉姫は美しかったし、上品で穏やかで賢かったが、その一見完璧な物腰に、何か冷たいものがほの見えて、衛門の督の頬をこわばらせた。最初は、それが蓉姫の性格によるものか、自分に落ち度があるのかと、衛門の督はかなり悩んだが、結婚して一年後にやっと理解した。

 

蓉姫は、自分は宮中で帝の后となり、周囲にあがめられていたはずなのに、それが「衛門の督」風情の夫人になったことを、いたく腹立たしく思っていたのだった。衛門の督からすれば逆恨みもいいところであった。決めたのは、蓉姫の父関白なのだから。

かくして、「名門同士が結びついて結構なご縁だ」と宮中の人が皆話題にした婚儀は、その成立から間違っていたことが、当人同士にだけは分かっていたのであった。

【衛門の督、姫君の乳母と談判する事】

野分は二日続いた。衛門の督はすぐにでも宇治に駆けつけたかったのであるが、彼の任務は宮城の門を警備する衛門府の長であり、暴風雨で壊れてしまった箇所の復旧と整備に忙殺され、結局、霧姫の逝去から七日後にようやく宇治を訪れることができた。

予想はしていたが、庭の遣り水が泥でせき止められており、衛門の督が着いたときは泥をかき出す作業の最中であった。その種の作業をする男性がここの邸にいたのか、と衛門の督は安堵すると同時に、若干の不思議さも感じた。そのような雇い人を抱える力が霧姫にあったのかと。

 

彼は乳母と文を往復させていたので、すでに霧姫が荼毘に付されたことも承知していた。冷涼の頃とはいえ、遺体を長く放置できないのは至極当然で、野分のために足止めされたことが悔やまれる。そんな彼を、喪服を召した霧姫の乳母の少納言が迎えた。

 

少納言は、乳母とはいっても、まだ四十初めくらいで、年相応に白髪はあるが、声も動作も張りがあってきびきびとしていた。しかしこの日は、主の死と言う大事で疲労していたのであろう、目の下におびただしい隈ができていて、それを化粧で隠す知恵も出てこなかったところが、悲哀を増していた。衛門の督が弔問が遅れたことを詫びてひれ伏すと、少納言は、弱々しい声で答えた。

「衛門の督様、お待ち申し上げておりました。遠いところをまことに恐縮でござります。ようお越しくださいました。このような悲しいことになろうとは、この老女も姫様のお後を追いたいほどでございます」

 

「あなたが空しくなってしまっては、姫の後世を弔う者がいなくなりますぞ。そのことを何とぞお忘れなきよう……ところで、私は一つ、非常に心残りなことがございます。前から気になっていたことでございました」衛門の督は、ここで心持ち間を置き、少納言をひたと見た。

「私と姫君とは、この夏の賀茂の祭りにて近づきになったのですが、それ以来、霧姫との間柄は、まさに玄宗皇帝と楊貴妃とのなからいの如くで、愛する女性と過ごす安らぎを妻と持てなかった私は、これほどの幸せが又とあろうか、な
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深良マユミ
作家:深良マユミ
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