黒田二十四騎略伝

本山一城・著

黒田兵庫助利高 一五五四~一五九六 

黒田職高の二男。姫路生まれ。孝高に従って播磨国各地で戦功を挙げ、弟達と共に秀吉の直臣となった。秀吉の九州平定を前に黒田家に戻り、孝高の豊前国入封後は一万石を拝領。
 
文禄役で朝鮮に渡って力戦するも講和休戦となり、和泉国堺で養生中に没した。キリシタンであったと伝える。

黒田修理亮利則(養心)一五六一~一六一二

黒田職隆の三男。姫路生まれ。秀吉・秀長に仕えた後、黒田家に戻って二千石を領した。
また、文禄役の休戦中に頭を丸めて養心と号している。天下分け目の合戦では孝高に従い、豊前国中津城を守備。
 黒田家の筑前国入封後に一万二千石を拝領。

複雑なクルス紋を使用していたからキリシタンであった可能性が高い。

 

黒田惣右衛門直之(図書助)一五六四~一六○九

黒田職隆の四男。姫路生まれ。秀吉・秀長に仕える。黒田家が豊前国に入封すると、四千五百石で呼び戻された。中津城下の教会で夫婦で受洗、ミゲル・マリアと名乗った。

天下分け目の合戦は孝高に従い、久留米の

キリシタン保護に尽力した。筑前国入封直後は秋月で一万二千石を拝領し、同所はキリシタン王国の体をなしたと伝える。

 

栗山四郎右衛門利安(備後守) 一五五一~一六三一

 姫路近郊の郷士。自ら孝高を頼もしい主君と仰いで出仕した。播磨時代から武功を重ね、豊前国入封後、六千石で筆頭家老となる。知略に富み、武勇も優れていた。

筑前国入封後も二万石を領してその地位は揺るがず、孝高の臨終に際してその愛用の甲冑を拝領している。息子の栗山大膳が黒田騒動を起こしたことでも有名。

 

久野四兵衛重勝 一五四五~一五九二 
播磨国加東郡の郷士。孝高の小姓として仕えて後に家老となる。九州平定では筑前国高祖城で一番駆けをした。また、博多の復興を命じられて町割の基礎を作り、肥前国名護屋城の陣屋割りも担当した。

文禄役の平壌攻めで物見に出て戦死。息子の久野外記が筑前国入封後に六千石を拝領している。

 
井上九郎右衛門之房(周防守)一五五四~一六三四
 姫路近郊の郷士。黒田職隆の小姓となり没後、孝高に六千石の家老として迎えられた。
 天下分け目の合戦は孝高に従って先発隊の大将を勤め、豊後国石垣原(いしがきばる)で大友義統の軍と激突。敵の大将吉弘統幸と馬上、槍の一騎打ちとなりこれを倒す。それが契機となって義統は降伏した。筑前国入封後、二万石を拝領。黒田騒動では藩を守るために尽力した。
 

母里多兵衛友信(毛利但馬守)一五五六~一六一五

 母里(ぼり)氏は代々播磨国妻鹿(めが)城主。母里能登守の時、黒田職隆は従弟の小兵衛を養子として送り込んだ。だが討死しため、孝高の又従兄弟に名跡を継がせた。それが母里多兵衛友信である。(太兵衛は二代目以降の通称)鬚が濃くて背も高く、頑固な性格をしていた。あまりの勇猛ぶりに、秀吉が直参の家来にしたいと申し込んだこともあったと伝える。

 豊前国入封後、六千石を拝領して家老職に就任。中津城下で首供養を行なった。当時は首三十三を取ったら、二十一日間精進して八宗の僧を集めて供養した。もっとも、生涯で取った首数は七十六級に及んでいる。

朝鮮役の休戦中、長政の命で伏見城下の福島正則邸へ使者に赴いたことがある。その際、正則に大盃に注がれた酒を勧められ、飲む条件として長押の槍を所望した。結果、見事に一献飲み干して、その槍を持ち帰ってしまう。

 翌日、酔いから覚めた正則は「あの日本号の槍は太閤殿下から頂いた家宝なので、どうかお返し願いたい」と再三使者を寄越したが、友信は応じなかった。これを聞いた秀吉は、友信に陣中における抜き身の槍十五本の携帯を許した。これが筑前今様として、今日まで唄われる「黒田節」の内容である。

筑前国入封後、一万八千石を拝領。没するまで頑固一徹を貫いて周囲を困惑させた。

 

後藤又兵衛基次(隠岐守)一五六○~一六一五

後藤氏は播磨国神崎郡春日山城主であったが、秀吉に敵対したために真っ先に滅んでいる。基次の家系はこの支流で、姫路近郊に小さな城を構えていた。本家の壊滅で父後藤新左衛門は御着(ごちゃく)城主小寺氏を頼ったが没し、伯父の藤岡九兵衛と黒田家に仕官した。

 ところが、孝高が荒木村重に捕らわれた時、この伯父が裏切ったために一族同罪で、基次も追放となっている。

 基次はしばらく仙石秀久に仕えていたが、それを呼び返して高禄で召抱えたのは長政であった。基次もそれによく応え、右腕となって数々の戦いに奮戦した。

 筑前国入封後、一万六千石を拝領したが、忽然と退去した。黒田家のあらゆる裏軍事情報を知っている基次の逐電は大事件である。長政は「奉公構え」という手段で基次を追い詰めた。つまり、他の大名に仕官するのを尽く妨害したのである。

 結果、周知の如く基次は豊臣秀頼の大坂城を枕に、討死することとなったのである。

 

 

黒田三左衛門一成(美作守)一五七一~一六五六

本姓加藤。摂津国伊丹生まれ。父加藤重徳は荒木村重に仕え、番兵であった。孝高が捕らえられた際、手厚く遇したと伝える。

伊丹落城後、重徳は次男を差し出し、自分は姿を消した。孝高はこれに黒田姓を授けて長政の弟のように育てた。以後一成は献身的に長政を補佐して戦い続けている。

 筑前入封後、一万六千石を拝領。子孫は幕末までこの石高を維持し続けた。

 

野村太郎兵衛祐勝 一五六○~一五九七

祐勝は母里友信の異母弟で姫路城下の西城戸(にしきど)に生まれた。長じて妻の実家である野村姓を継いだ。播磨国の局地戦・九州平定でも活躍し、豊前国で三千石を拝領。文禄役に従軍し、野村隊だけで平壌攻めで百七十五級、晋州城攻めで五十七級を挙げた。帰国後、三十八歳の働き盛りで没している。

吉田六郎太夫長利(壱岐守)一五四七~一六二三
 父は八代道慶といい、姫路北の八代山に城を構えていた。十七歳で孝高に出仕した長利は、名門の吉田姓をもらう。父譲りの豪傑で二間半の槍を常に持ち歩き、一度に首二~三を取るのは朝飯前であった。姫路において首供養を行う。取った首数は生涯で五十級。

 天下分け目の合戦は如水に従う。筑前入封後は千五百石を拝領した。

 
桐山孫兵衛信行(丹波守)一五五四~一六二五

 桐山氏は近江国坂田郡の地侍だが、姫路で生まれたともいう。職隆に仕えたためあまり戦功は伝わっていない。温厚で分別のある性格だったと伝える。豊前国中津で千石を拝領。

天下分け目の合戦では孝高の命令で、中津の支城馬ヶ岳を守備している。筑前入封後四千石を拝領。晩年は六千石に加増された。
冷水峠の開拓に貢献し石碑が残っている。

 

小河伝右衛門信章 一五五四~一五九三

小河(おごう)氏は、御着城主小寺家の家老。弟の信章は同家没落後に孝高に仕え、九州平定に出陣して高名する。
 豊前国入封後、五千石を拝領。文禄役では、

明軍に敗れた小西行長を援護して助けた。これを聞いた秀吉は、一万石の加増を約束したが、帰国途中の対馬で没し、恩賞の沙汰は無くなった。

 

菅六之助正利(和泉守)一五六七~一六二五

正利は播磨国越部の生まれ。孝高が一万石の大名になった際に出仕した。剣の達人で新免無二流と疋田新陰流を極め、朝鮮国では虎を斬り殺している。黒田家では唯一朱具を許される。関ヶ原合戦では鉄砲隊を指揮して石田三成の重臣島左近を撃ち倒した。

 筑前入国後に三千石を拝領。異国で受けた毒矢のため右頬に痣があったと伝えている。

 

三宅山太夫家義(若狭守)一五五二~一六一九

 三宅氏は摂津国三宅城主。戦国時代に落城し、一族は四散した。家義は孝高の求めで黒田家臣となり、三百石を拝領。

播磨の局地戦、九州平定でも高名。豊前国入封後千五百石に加増される。

筑前入封後、三千六百石を拝領。一万石を代官して、船手頭を任せられている。

野口左助一成 一五五九~一六四三

 野口左助は播磨国加古郡生まれ。野口念仏で有名な教信寺がある所。父は、黒田孝高の囲碁友達の僧だった。

豊前国中津城で長政が土豪城井(きい)鎮房を暗殺した時、家来七人を切った。

 筑前入封後は二千五百石を拝領。福岡城の石垣奉行を命じられた。また、百人組という足軽猛者を預けられ、三千石に加増。島原乱に出陣後に没している。

 

益田与助正親 一五四二~一六一一

 姫路近郊の生まれ。台所の水汲みだったが、孝高が八十三石で士分に取りたてた。
 九州平定で手柄を立て、城井攻めにも大いに働いた。農家出身のため足軽の扱いが上手く、関ヶ原役でもよく誘導した。
 戦場での働きは一万石にも匹敵したが読み書きができなかったため、筑前入国後に三千石に留められたといわれる。

竹森新右衛門次貞(石見守)一五五○~一六二一

本姓清原氏。父は播磨国加古郡日岡神社の社職であった。戦乱によって社屋を焼かれ、黒田家を頼る。

 次貞は勇猛で数々の武功を立てた。しかし、左手首を切り割られため、孝高の温情で二百石旗奉行を命じられた。その後、この役を見事にこなし、筑前入封後に二千五百石となっている。

 なお、黒田家が流浪時代に竹森家に寄寓し、目薬を売っていたとする俗説は、矛盾だらけで根も葉もない。

 

林太郎右衛門直利(掃部亮)一五六九~一六二九

信濃国軽井沢生まれ。父は武田信玄配下として上野国攻略の先鋒を担っていた松本一族である。播磨国姫路に移って黒田家に仕えた。  

直利は朝鮮国において、槍で虎を仕留めたことが特に有名。史上槍で虎を倒した例は他にない。加藤清正のはこのエピソードのすり替えである。

また、直利は異国の戦災孤児の少女を連れ帰って、養育したことでも知られている。彼女は今でも朝鮮地蔵として祭られている。

 

 

原弥左衛門種良(伊予守)一五五七~一六三九

 筑前国の名門原田氏の一族。戦国期には大内氏や大友氏に属した。

秀吉の九州平定後、三百石で孝高に仕え、原に改姓する。城井攻めで長政が敗北した際、殿で大胆に唄いながら帰陣した。天下分け目の合戦では孝高に従って安岐城攻めに一番懸けした。筑前入封後に二千石を拝領している。

 

堀平右衛門定則(正勝) ?~一六三六

 はじめは身分の低い陪臣であったが、孝高によって士分に取立てられ、百石を拝領する。   

文禄役中、古参の重臣との口論がもとで長政に謹慎を命じられた。しかし、普州城の戦いに一番乗りを果たし、許されて五百石に加増。堀平右衛門と改名した。
 筑前入封後、秋月支藩の筆頭家老五千石となった。晩年は脱藩して小田原藩に仕えたが、不幸な最期を遂げている。

 

衣笠久右衛門景延(因幡守)一五五二~一六三一

 衣笠氏は代々播磨国明石城主である。景延は弟だったため、孝高に仕えた。智謀才覚・歌道にも優れていたと伝える。

朝鮮役では後藤基次と共に先手を務め、引けを取らぬ活躍を見せる。さらに、梁山(ヤンサン)籠城では孝高と共に戦った。

天下分け目の戦いでは豊前国の守備に当たる。筑前入国後三千石を拝領した。

 

毛屋主水正武久(武蔵守)一五五四~一六二八

近江国神崎生まれ。和田・六角・山崎・柴田・前田・池田・佐々の各家を渡り奉公した。そして、最終的には豊前国で黒田家を頼り三百石で召抱えられる。

天下分け目の合戦では長政に従って旗奉行を勤め、家康に直に物見の結果を報告している。聞いた家康は大いに感じ入ったと伝わっている。筑前入封後、七百石に加増された。

 

井口兵助吉次(村田出羽守)一五六五~一六二一

井口(いのくち)氏は播磨国加古郡の名門。吉次はその支流で姫路近郊の生まれ。血気盛んな吉次は三人の兄たちと共に孝高に出仕したが、兄は全員討死にしてしまう。

それを憂えた孝高は、豊前入封後に吉次を宇佐神宮に養子入りさせようとした。だが、吉次はこれを拒んで朝鮮役に従軍。蔚山(ウルサン)城救援において首七つを取り、朱具足を許された。
 筑前国入封後は二千石を拝領。甘木宿の代官を務めた。
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作家:本山一城
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