弟の涙

教頭から合格の通知を受けたときは、頭が真っ白になってしまった。合格という現実が峰岸の心に重くのしかかってきた。8月に二次試験を受験することになるが、もし、二次試験に合格すれば、軍人にならなければならなくなるのだ。峰岸は、軍人になりたいと思ったことは一度も無く、士官学校に通いたいと思ったことも無かった。晴天の霹靂とはこのようなことを言うのだと、ことわざの意味を心から理解した。

 

教頭が士官学校を勧めた理由には、特に心当たりは無かったが、もしかしたら、弁論大会で話した将来の夢が原因ではないかと秘かに思った。あのとき、「将来、定時制に通いながら、修行を積んで、父のような大工になるのが夢です」と話した。さらに、家族の経済的現状と父親の怪我のことも話した。家庭の経済的理由で働くことを余儀なくされている峰岸を思い、士官学校を勧めたのではないかと推察した。

 

峰岸の頭は混乱していた。教頭の話が本当であれば、特別国家公務員として約20万円もの給料がもらえる。軍人になるための試練を耐え抜けば、弟たちを進学させることができる。弟たちは、今は小学生だから進学のことは考えていないが、きっと、家庭が貧しければ進学をあきらめるに違いないと思えた。エリートになれる二度とないチャンスを逃すことは無いのではないか、弟たちのためにも軍人になるべきではないか、とささやくもう一人の自分がいた。

 

峰岸は軍人になりたいと思ったことも無ければ、軍人になることがどういうことかも考えたことが無かった。教頭は、お金がもらえて、将来、国防軍のエリートになれると言ったに過ぎなかった。ただ、士官学校に入校すれば、軍人になるための厳しい軍隊生活を強いられることは想像できた。でも、お金のため、怪我に苦しむ父親のため、弟たちの進学のためなら、どんなにつらいことでも耐えられる気がした。

 

軍人になるということは、一体どういうことなのか、そのことを誰かに教えてほしかった。そんな時、三島は、核心を突いた質問をした。峰岸は不安な気持ち、混乱した気持ちを三島にぶつけたい衝動に駆られたが、峰岸にはできなかった。士官学校は、教頭の勧めで何気なく受験したとは情けなくて言えなかった。混乱した心は、思いもかけない言葉を吐き出させた。「国を守るために軍人になりたいの」峰岸はどうしてこんなことを口にしたのか自分でも驚いた。

 

その言葉を聴いた三島は、黙ってうつむいてしまった。峰岸は、はっとした。三島を傷つけてしまったに違いないと即座に思った。峰岸が軍人になることに反対していることが、その態度でありありとわかった。峰岸は右手に持っていた学生カバンを三島のお腹に思いっきりぶつけた。ヲ~と悲鳴を上げた三島は、目を丸くして峰岸を見つめた。「何するんだ、お前は何を考えているのか、さっぱり、わかんね~よ。立派な軍人になればいいさ。きっと、お前なら、二次試験も合格するんじゃね~か」三島は落ち込んだ自分を隠したかった。

三島は峰岸の立場をよくわかっていた。父親が怪我で思うように働けず、二人の弟の面倒を見なければならないこという、峰岸は厳しい現状の中にいた。そのことを考えると、三島は、自分が思っていることを口にできなかった。三島は、戦争に反対であった。世界中から軍隊をなくすべきだと思っていた。将来、反戦運動のリーダーとして活動したいとも思っていた。特に、アメリカの核武装を憎んでいた。広島と長崎の原爆による悲惨な被災者のことを思うと、心が煮えたぎるほどアメリカが憎かった。

 

峰岸はこれ以上士官学校のことは話したくなかったが、三島の本心を知りたかった。「思うんだけど、士官学校って、イケメンがたくさん入ってくるじゃないかな~、楽しみなのよね~」峰岸は軍隊生活とはまったく関係ないことを話した。峰岸にとって、軍人になるということをどのように考えていいかわからなかった。当然、軍人になれば戦争に行かなければならない。戦場に行けば、敵を殺さなければならない。言い方を変えれば、殺人だ。そんなことを、現実にやらなくてはならなくなる。

 

さっきまでは、軍人になれば給料がもらえて、国防軍のエリートになれて、日本の英雄になれると思っていた。だが、今、三島を前にすると、マシンガンを抱えて戦場に立っている自分の姿が目の前に現れた。軍人になるということは、殺人者になるということでしかない。これが、現実だ。この現実に、まさに今、向かって歩いている。なぜ、引き返そうとしないのか?峰岸は自分に問いかけていた。

今すぐにでも、教頭のところに跳んで行って、はっきりと断るべきではないか。自分は軍人になんかには向いてないと言うべきではないか。峰岸は自分に何度も問いかけた。だが、それを引き止める醜い自分がいた。“今、ここで断れば、二人の弟の夢が消えてしまうぞ、それでいいのか。家族を見捨ててもいいのか。こんなチャンスは、二度と来ないんだぞ。給料がほしくないのか。エリートになりたくないのか。”こんなことを醜いもう一人の自分が、心の底でささやいた。

 

三島は、戦争も、軍隊も、原爆も、徴兵も、嫌っている。なのに、そのことをはっきりと言わない。峰岸には、合点がいかなかった。竹を割ったような性格の三島が、峰岸の気持ちを避けるように、とんちんかんなことを言っていた。峰岸は大声で三島に言ってほしかった。「軍人なんかに、なるな」その一言を、言ってほしかった。峰岸はじっと待っていた。もし、その一言を三島が言ってくれたならば、どんなに教頭に嫌われようとも、はっきりと、二次試験を断ることができると思った。

 

三島は、どうしても自分の気持ちを素直に言えなかった。峰岸に、戦場に行ってほしくなかった。武器を手にしてほしくなかった。三島は、軍人はダメだ、とその一言がすぐそこまで出掛かっていたが、声になって出てこなかった。「士官学校に行っても、剣道は続けろよ」三島にとって、剣道は峰岸との出会いを作ってくれた赤い糸であった。士官学校に行ってしまえば、二度と会えないような気がした。氷のような不吉な予感が、心臓に突き刺さった。

春日信彦
作家:春日信彦
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