弟の涙

峰岸はこれからどうしていいかわからなくなっていた。峰岸は教頭に言われるままに受験したものの、合格を喜んでいいものか悩んでいた。確かに、もし二次試験も合格すれば、特別国家公務員として給料がもらえ、将来は幹部としての役職が約束される。だが、父親は軍人になることを認めてくれるか不安であった。峰岸も、自分が軍人としてやっていけるか、まったく自信が無かった。

 

書類審査では、成績、部活、授業態度、賞罰、家庭環境などが審査された。峰岸は剣道部に所属していたが、県大会でベスト8に2年のときに入った程度で、特別他の生徒に比べて秀でているところは無かった。成績も、平均3.7で特に優秀なほうではなかった。ただ、2年のときに“家族”というテーマの中学生弁論大会で優秀賞を受賞したことが唯一の自慢であった。峰岸は、なぜ、高倍率の超難関校に自分が合格したのか、信じられなかった。何かの、間違いではないかとさえ思ったりもした。

 

6月25日()、帰宅した峰岸は、すぐに夕食の準備に取りかかった。三年前に母親をなくしてからは、家事のほとんどをやっていた。弟二人と食事を済ますと二階の自室に駆け上がった。峰岸は小学校のころから日記をつけていた。宿題がどんなにたくさんあっても、日記を欠かしたことは無かった。日記には、家族のこと友達のことを事細かく書いた。日記を書いているときが一番楽しかった。学校でどんなに嫌なことがあっても、日記に書いてしまうと気分がすっきりした。日記帳にペンを走らせ始めると三島のことで頭がいっぱいになった。

今日は、はじめての出来事があった。三島から話しかけられたことだった。試験前は部活が無いため、早く帰って試験勉強をする予定だったが、校門を出たところで三島に声をかけられた。三島を含む男女数人で帰宅したことはあったが、三島と二人きりで帰宅したことは無かった。小学校のときから糸島練成館で一緒に稽古していたが、なぜか二人だけで帰宅したことは無かった。

 

峰岸は南部地区大会の試合についての話を持ちかけてくると思ったが、意外にも峰岸の士官学校一次合格の話であった。三島は峰岸の軍人志望がどうしても納得がいかなかったのだ。二人は並んでしばらく歩いていたが、三島が小さな声で口火を切った。「峰岸、お前、軍人になりたいのか?」三島は少し照れくさそうに話しかけた。峰岸はしばらく返事をしなかった。この件に関しては家族にも話していないことであり、士官学校に合格したことに戸惑っていたからだ。

 

士官学校は教頭の勧めで受験したものであり、合格するとは夢にも思っていなかった。今でも合格したことが信じられないでいた。峰岸は、なぜ教頭が士官学校の受験を勧めたのか改めて考え始めていた。勧められた当初は、そのことに関してはまったく考えても見なかった。というのも、まったく合格するはずが無いと思い込んでいたのと、合格すれば、特別国家公務員として給料がもらえ、幹部としてのすばらしい未来が待っていると、教頭が熱弁したからだった。

教頭から合格の通知を受けたときは、頭が真っ白になってしまった。合格という現実が峰岸の心に重くのしかかってきた。8月に二次試験を受験することになるが、もし、二次試験に合格すれば、軍人にならなければならなくなるのだ。峰岸は、軍人になりたいと思ったことは一度も無く、士官学校に通いたいと思ったことも無かった。晴天の霹靂とはこのようなことを言うのだと、ことわざの意味を心から理解した。

 

教頭が士官学校を勧めた理由には、特に心当たりは無かったが、もしかしたら、弁論大会で話した将来の夢が原因ではないかと秘かに思った。あのとき、「将来、定時制に通いながら、修行を積んで、父のような大工になるのが夢です」と話した。さらに、家族の経済的現状と父親の怪我のことも話した。家庭の経済的理由で働くことを余儀なくされている峰岸を思い、士官学校を勧めたのではないかと推察した。

 

峰岸の頭は混乱していた。教頭の話が本当であれば、特別国家公務員として約20万円もの給料がもらえる。軍人になるための試練を耐え抜けば、弟たちを進学させることができる。弟たちは、今は小学生だから進学のことは考えていないが、きっと、家庭が貧しければ進学をあきらめるに違いないと思えた。エリートになれる二度とないチャンスを逃すことは無いのではないか、弟たちのためにも軍人になるべきではないか、とささやくもう一人の自分がいた。

 

峰岸は軍人になりたいと思ったことも無ければ、軍人になることがどういうことかも考えたことが無かった。教頭は、お金がもらえて、将来、国防軍のエリートになれると言ったに過ぎなかった。ただ、士官学校に入校すれば、軍人になるための厳しい軍隊生活を強いられることは想像できた。でも、お金のため、怪我に苦しむ父親のため、弟たちの進学のためなら、どんなにつらいことでも耐えられる気がした。

 

軍人になるということは、一体どういうことなのか、そのことを誰かに教えてほしかった。そんな時、三島は、核心を突いた質問をした。峰岸は不安な気持ち、混乱した気持ちを三島にぶつけたい衝動に駆られたが、峰岸にはできなかった。士官学校は、教頭の勧めで何気なく受験したとは情けなくて言えなかった。混乱した心は、思いもかけない言葉を吐き出させた。「国を守るために軍人になりたいの」峰岸はどうしてこんなことを口にしたのか自分でも驚いた。

 

その言葉を聴いた三島は、黙ってうつむいてしまった。峰岸は、はっとした。三島を傷つけてしまったに違いないと即座に思った。峰岸が軍人になることに反対していることが、その態度でありありとわかった。峰岸は右手に持っていた学生カバンを三島のお腹に思いっきりぶつけた。ヲ~と悲鳴を上げた三島は、目を丸くして峰岸を見つめた。「何するんだ、お前は何を考えているのか、さっぱり、わかんね~よ。立派な軍人になればいいさ。きっと、お前なら、二次試験も合格するんじゃね~か」三島は落ち込んだ自分を隠したかった。

春日信彦
作家:春日信彦
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