小説 「直人伝」

小説 「直人伝」
             作 若月 明峰

第0章 まえがき

本作は、日本人なら誰でも知っている、
あの政治家「直人氏」のプロフィールの一部をベースに、
心に染み入る英雄譚風に、小説を仕立てました。
現実社会の「直人氏」の社会的評価がどうであれ、
本作は小説と割り切ってお楽しみください。


第1章 生誕編

1946年10月10日、嵐の夜だった。
田園地帯の一角に「宇部苛曹工業社宅」
と屋根の下に黒いペンキで書かれた、トタン造りの灰色の集合住宅の一世帯。
ブリキの薄板で作った表札に「菅原」と書かれた6畳2間の一室に、菅原寿雄は、
座布団の上に正座をして「その時」を待っていた。
ザーザー・カラカラ・ギシギシと、風雨が容赦なくトタンを叩く音が最高潮に達した。
バリバリと空気を引き裂く音の後にドーーンと鈍い地響きが走る。
直ぐに寿雄を照らしている裸電球の光が途絶えた。落雷による停電だった。
それでも、寿雄は動じず、正座を崩さずに合掌して静かに唱え始めた。
「南無妙法蓮華経・・」「南無妙法蓮華経・・」
裸電球の光が通電を告げるように戻ってきた、その時だった。
「オギャー」と産声の後に「生まれたんじゃか」と寿雄の低い声が響いた。
「おお、よちよち。」産婆が隣の部屋から、産着に包んだ赤子を抱いて、
満面の笑みで寿雄の前に現れた。 「想いの通り、男の子でちゅよ。」
出産した当人の菅原翔子は全身のエネルギーを
使い切ったかのようにすやすやと寝ていた。
既に誕生していた、長女の真子は、弟の誕生に興奮して夜も寝ずに、
お湯を沸かすなど、産婆と一緒に出産の手伝いをしていたが、
生まれた弟の顔を見て、安心して寝てしまったようだ。
裸電球が揺れながら、ゆくりと赤ん坊の顔を照らす。 
「翔子、でかしたな。男に決め打ちで、名前はきまっとるんじゃ。 
直人、お前は今日からワシの息子、菅原直人じゃ。」
「おつかれさんじゃ、上手に取り上げてくれて、ありがとう。ありがとう。」
寿雄は姿勢を正し、産婆にも感謝と労いの声をかけた。
嵐は去り、登る朝日が、寿雄の頭上に掲げられた直人の神々しい姿を照らす。
その朝、同じ宇部苛曹の社宅仲間達が、生まれたばかりの直人の顔を出勤前に
代わる代わる眺めていった。
律義者の寿雄は、出産祝いとして和紙に包んだ紅白の餅を社宅仲間達に配った。
直人の出生を祝ってくれた仲間へのささやかなお礼の品だった。
「おう、真子、直人、労働に行ってくるぞ!」寿雄は翔子に抱かれて乳を飲んでいる
直人の頭と姉の真子の頭を順にざらついた手で撫でると、作業着に着替え、自転車に跨り、
ペダルを漕いで港の工場を目指す。
社宅仲間も同じように、作業着に自転車姿で出勤していく。
勿論、行き先は水酸化ナトリウムを製造する宇部苛曹の工場だった。
臨海部に位置する工場は、空襲でかなりの損害があったが、
技術者達が力を合わせて少しずつ、建屋や機械を直して操業を始め、
出荷も伸び始めていた。
翔子は寿雄の出勤の見送りが終わると、社宅の裏の小川に洗濯に向かった。
タライに水を汲み、洗濯板に衣類を貼り付けて、石鹸でゴシゴシと擦る。
洗濯物の大半は、直人のオムツや姉の真子の衣類であった。
小川には色々な「獲物」が流れてきた。翔子はウナギやスッポン、コイ、食用カエルなど
精のつくものを見つけると、川に腰まで浸かって、両腕で抱えるくらいの大型のザルで
追い回して捕獲する。捕った人の早い者勝ちだが、隣近所におすそ分けもした。 
「獲物」は概ね、その日の夕食の食卓に並んだ。
直人と真子は、両親の愛情と、精のつく食べ物に恵まれて、すくすくと元気に成長した。
時は敗戦直後、空爆で焼け野原になった市街地に、バラック建ての工場が点々と
操業を再開していた。
物資は無くて皆貧しかったが、心だけは錦のように輝いていた。


第2章 最初の記憶

直人は4歳の誕生日を迎えた。10月10日は快晴の一日だった。
寿雄は自分で歩けるようになった直人を連れて、宇部港の方に足を向けた。
直人は帽子を被り、寿雄に手を引かれてトコトコ歩いていく。
「父ちゃん、歩くのはやい。」
「そうか、そうか、もっとゆっくり歩くじゃよ。」
片言の会話ぐらいは出来るようになった。
道程は、菅原一家の住んでいるトタン作りの社宅のある田園地帯を抜けて、市街地に入る。
戦災の復興で新しい綺麗な家もぽつぽつと建ち始めたが、まだまだ焼け野原のままの
土地が多かった。
生後3年あまり、ずっと田圃に囲まれた、のどかな農村部の一角に建つ社宅で暮らしていた
直人にとって、色々な構造物が密集し、大勢の人が行き来する「街」は、まるで別世界のようだった。
直人の歩いている道の左右には、いろいろな露店が軒を連ねていた。
金魚を売る店、仏具を売る店、米や野菜などを
売る店、肉を売る店、魚を売る店、そしてヒロポン、トルエン、サッカリンと書かれた
なんとも怪しげな薬を売る店や、裸の人の絵を貼り付けた紙の束を売る店が並ぶ。
「ヘイラッシャイ!」「マイドアリ!」「コレイクラ」「コレクダサイ」
「マケテヨ」「ショウガネエナア」の掛け声と共に、お爺さんが印刷された紙切れ(紙幣)と
金属の小さな円盤(硬貨)が品物と交換される。
直人は初めて見る「市場」の活気に目を輝かせていた。
「じゃあ、直人もこうて見るか」寿雄はニコリと笑い、直人を抱き上げて、露店の前に歩み寄る。
直人は、内心ドキドキした。「あの怪しげな薬や裸の人の絵を貼り付けた紙だったらどうしよ。」
しかし、直人の不安は杞憂に過ぎなかった。青地ののれんに赤で大きく「鼈甲飴」と書かれた、
甘い香りの立ち込めた店の前に、直人を抱いた寿雄が立っていた。 
店主は家庭用ガスコンロの上に小型の鍋を載せ、褐色のザラメ糖を茶色い袋からザラザラっと鍋に入れ、
炎で加熱していく。ザラメ糖が溶けて芳醇な香りを発し始める。
泡を立ててグズグズに煮沸しているザラメに
緑色の液体を入れて色をつけて、像、虎、達磨の型に流し込んでいく。そして、冷えたら完成だ。
「お客さん、いらっしゃい。うちのベッコアメは割高だけど、
本物のザラメと天然香料にこだわってるんだ。
黒いのが小豆、緑が蓬で色をつけてる。」
寿雄は水酸化ナトリウムを作る化学工場の主任だけに、人工合成物の知識は豊富であり、
人体に及ぼす影響にも敏感であった。
「さあ、どれがいい。」
直人は「あれ」といって、ダルマの形をした緑色のベッコアメを指差した。
寿雄は直人に5円硬貨を握らせた。真ん中に穴の開いた黄色い光を放つ硬貨だった。 
今度は、それを直人が店主に渡す。 店主は丁寧に直人から硬貨を受け取り、
紙に包んだベッコアメを直人に握らせた。 
アメは舐めると、ザラメ糖の純粋な甘さと、ヨモギの芳醇な香りと独特の渋みが
口いっぱいに広がった。
直人の生涯の記憶に残る、始めての「買い物」と「甘い体験」だった。
直人は寿雄に抱かれたまま、ダルマのベッコアメを舐めながら市街地を後にした。
道程は市街地を抜けて、臨海部の工場地帯に入る。
大きな工場が何件も建ち並び、社宅の何十倍も高い位置にある巨大な煙突から、黒い煙が
雲のように吐き出されている。 工場もまた市街地と同様に、米軍の空爆のダメージがあちこちに
残っている。爆弾が屋根で炸裂したのか、真上からすり鉢状に大きく抉られている工場。
壁に無数の弾痕の残る工場。鉄筋の骨組みだけ残った工場。
碁盤の目のように道が通り、四角四面に整備された区画に、
復旧した工場と、復旧せず、あるいは復旧途上で潰れて瓦礫状態の工場の凹凸があちこちに点在する。
ここで直人は衝撃的なものを目撃することになる。
機械類の解体工場だった。敷地内には、解体を待つトラックや小型船などが整然と並べられていた。
敷地内の一角に事務所らしき小さな赤い屋根の平屋があり、平屋の玄関にはポールが立ち、
2つの大きな旗が掲揚されていた。一つは、白地に赤い丸のついた、「日章旗」
もう一つは、その赤い日の丸から16本の赤い線が放射状に放たれている「旭日旗」であった。
寿雄が玄関の扉をコンコンとノックすると、寿雄の2周りも大きい、髭を生やした「大男」が
現れ、ドスの利いた声で寿雄と親しそうに話している。 大男は意外にも礼儀正しく、
立っている直人の目線にあわせて大きくしゃがみこんだ。
直人にとっては、圧倒的な迫力を持つ巨大男が、天から降りてきたような感覚だった。
大男は満面の笑みで直人の両手を握り
「ナオトクン、ボクハ、トウサンノトモダチ ダヨ、イラッシャイ」
と言葉をかけた。
直人は「トモダチ」っていう響きがとても気に入った。

「山田、あれ、零はまだあるか?」寿雄が大男に尋ねた。どうやら大男の名前は「ヤマダ」らしい。
「あれな、進駐軍の奴らがケチつけて、スクラップにしろってウルサいから今日解体だ。」
「息子を乗せてやってもええかな。」
「どうせ現役引退して動かない廃棄機械だから、どうぞ、どうぞ」
敷地内の奥のほうに「あれ」はあった。緑色に塗られた体躯に2つの大きな羽と3つの小さな羽、
羽と胴体には大きな赤い丸が描いてある。大きな羽から突き出した2つの突起、格子で覆われた
1人分の座席。
寿雄は直人を抱いたまま、格子を開けて、1人掛けの席にゆっくりと座った。 
そして席の真正面にある大きなレバーをそっと、直人に握らせた。 
直人が載っている物体、それは零式艦上戦闘機、通称零戦だった。
既に現役を退き、エンジンとプロペラは下ろして分解され、機関砲は潰され、
燃料や油脂類を全部抜かれ、2度と離陸できない、解体を待つだけの
元最新鋭戦闘機。
幼少の直人は、そんなことは知る由も無かったが、誕生祝いに、父親から普段乗れない
「ひこおき」という乗り物に乗せてもらい、
なんだか緊張する空間で金属の棒を握っただけで満足だった。
零戦を降り、寿雄と山田は事務所でお茶を啜っていた。 
直人は事務所の椅子の上で昼寝をしていた。
何やらドロドロという音がこちらに近づいてくる。 
どんどん大きくなる。直人も音で目を覚ました。
ドロドロという音が一段と大きくなったところで、ピタリと止んだ。 
何秒か後に、ドンドンと乱暴に足で事務所の扉を蹴る音が響き渡った。
先ほどまで優しかった山田の形相が突然険しくなった。
ドロドロは進駐軍のジープ、事務所に米兵達がやってきた。
3人の真っ白い肌をした青い瞳の男達が、山田をジロリと睨む。
「Hey!Jap!」(おい、日本人)
「Did you dispose of that dirty fighter?」(あの汚い戦闘機は、もう処分したんだろうな?)
「Sorry, It now.」 (ごめんなさい、これからです。)
「Please crush fast and we have seen before!」(俺達が見ている前で早く潰せ!)
訳の判らない言葉で、自分達とは違う人種と話す山田を、
直人はダルマのベッコアメを舐めながら、キョトンとして見ている。
山田は幾度と無く、米軍艦載機の機銃掃射から、宇部地域の住民達を護る
零戦の活躍を見ていた。空襲警報と共に現れ、無抵抗で武器も持たない民を標的に
機銃を掃射し、武力とは無縁の工場や住宅地を爆弾で焼け野原にする新品同様で
無傷の米軍機。それに対して、物資が無く、傷だらけの日の丸を背負った
戦闘機が命を賭して防戦に出て行く。 
被弾して鮮血でキャノピーを真っ赤に染めた機が、炎を吹きながら最後の力を振り絞って
米軍の大型爆撃機に体当たりをして散華する様子も見ていた。
そして、終戦。解体工場に1機の零戦が運ばれてきた。 住民達も運ばれてくるのを
見ている。 すぐに跡形も無くバラバラにして良いのか。 悩んだ末に、錆にまみれた
機体の外側だけペンキで緑に塗り、日の丸の部分も赤く染めた。
宇部の街を護った英雄が解体されるまでの、ささやかな死に装束だった。
住民達は幾度となく、やってきて英雄の姿を眺めたり触ったりしていた。
戦争に負けても心の拠り所はすぐに変えられるものではなかった。
そんな思い出がよぎる中、山田は解体用の大型破砕機のスイッチを入れる。
金属刃の擦れ合う唸り音が四角に切った吸い込み口から聞こえる。
零戦は機首の方からグシャグシャと金切り音を立てながら破砕機に吸い込まれていく。
山田は両手を合わせて幾度と無く「ごめんよ、ごめんよ」と心の中で叫んでいた。
周囲で展開される「大人の事情」を知らない直人は
「さっき乗った大きな乗り物が四角の穴に吸い込まれて消えていく」
としか見ていなかったが
「あめとひこおき」はしっかりと記憶に残った。


第3章 小学校の入学式騒乱

直人は7歳になり、小学校に入学することになった。
小学校というものがどんなものか、姉の真子が既に4年間通っていたので
直人もおぼろげながら、勉強しに行く騒々しいところと判っていた。
4月2日、母親の翔子に手を引かれて「にゅうがくしき」に向かった。
「母ちゃん、ぼく、せいせきいちばんになるから、みててね。」
子供ながらになんとも心強い一言である。
「直人、頑張るのよ。」と息子に期待の言葉をかける翔子。
市街地の一角に立つ、神原小学校の大きな門をくぐる。
住んでいる宇部苛曹工業の社宅の門の何倍もある大きく立派な門ではあったが、
向かって左側の門柱は焼夷弾の直撃跡が生々しく、上半分が真っ黒に焦げていた。
広い校庭の先に校舎があり、初めて見る大きな庭と建物に感銘する直人。
そして、校庭には同じように親に連れられ、これから勉学を共にする仲間達がいた。
「すがわら なおと」と大きく書いた名札を胸につけ、入学する生徒の中に溶け込んで
整列する直人。父兄席で見守る翔子。
入学式が始まった。入学式と言えば国歌斉唱である。この当時、進駐軍によって
日の丸掲揚、君が代斉唱は禁止されていた。 
しかし、校長は少年少女の精神の健全な発育の為に、
拠り所となる国家の尊厳を否定することは
断じてできぬと、祝辞の際に言い放って、いつものように強行した。
「きいみーがあーよおは ちよにーいいやちよに さあざあれーいしの 
いわおとなーりて こおけえのーむーすーまああで」
直人達新入生が初めて歌う歌だったが、教員や父兄達の歌い声に
合わせて何とか、歌えた。歌と共に、
日章旗と旭日旗がポールの先端に向かってスルスルと掲揚されていく。
青い空に堂々とたなびく日章旗と旭日旗。 
当然、お決まりの万歳三唱はセットでついてくる。
「神原小学校万歳!」「バンザーイ!」
「新入生万歳!」「バンザーイ!」 
「大日本帝國万歳!」「バンザーイ!」
万歳三唱が済んだところで、入学式を根底から覆す「大事件」が起こった。
また、あのドロドロという不気味な音を立てる進駐軍のジープが
校庭の真ん中に割って入った。
「ピーーーツ」という耳を劈(つんざ)くような警笛と共に、
4人の青い瞳の意味不明の言葉を
吐くごつい男達=米兵が、校長を取り囲み、激しい口調で責め立てる。
「Hey!Jap!」(おい、日本人)
「Japanese flag and anthem have been prohibited by law, Should have known?」
(日章旗と君が代は法律で禁止されている、判っている筈だ。)
校長が反論する。
「Here, in the school's. Therefore, the law of the school that I make.」
(ここは、学校の中だ。従って、学校の中の法律は私が作る。)
「In law school, the Japanese flag and anthem has not been banned.」
(学校の法律では、日章旗や国歌は禁止していない。)
 「Therefore, we are right.」
(よって、私達は正しいのだ。)
しかし、反論もここまでだった。
「Do not say a quibble. To arrest you!」
(屁理屈を言うな。お前を逮捕する!)
「MP」と書いてあるヘルメットを被った男が校長の両腕に手錠をかけ、
乱暴にジープの荷台に載せた。
そして、米兵達は掲揚されている日章旗と旭日旗を降ろし、
ライターで火を付けて燃やした。
直人は想定外の捕り物を目の前にして、何をしていいのか判らなかったが、
校長先生が酷い目に合ったり、日の丸が燃やされる事は、
間違っていると直感的に感じた。
「なんとかしよう。」しかし、7歳の少年では、交渉力も腕力も及ばない。
苦し紛れに、校庭の石を拾って、米兵の方に力いっぱい投げた。
石は1メートル先をコロコロ転がるだけで、どうにもならない。
「Japanese boy is so miserable. Hahaha.」 (日本の少年はとても悲惨だ。ははは。)
直人の渾身の行為を嘲り嗤う米兵達。 しかし、次の瞬間、
「帰れ!帰れ!」の大合唱と共に、父兄たちが投げた何十発もの石が米兵達
に命中した。 投石のカンカン・バラバラという音が校庭に響き渡る。
直人の小さな力が、皆を勇気付け、反響して大きな力になる。
直人も興奮して「ばんざい、ばんざい」とエールを送っていたが、
反攻もここまでだった。 「ズドーン」という轟音が校庭を駆け巡る。
米兵が拳銃を空に向けて威嚇発砲した音だった。
すぐ後に、Stand Back!! (立ち去れ!)とキレ気味の甲高い声が拡声器を通して流れる。
皆、雲の子を散らすように逃げる。
父兄たちは我が子を連れて一目散に逃げる。
教員一同も逃げる。 
翔子も直人の手を引いて校庭から脱出し、家路を急ぐ。
この時、直人の市民運動家としての能力が、早くも覚醒したのかもしれない。
その後、10日間に渡って神原小学校は閉鎖された。
11日目に校長は釈放され、学校の閉鎖も解かれ、児童達の授業も再開された。


第4章 星に願いを

神原小学校の入学式の騒乱から、およそ3ヶ月、直人小学校に慣れてきた。
直人誕生の際に、取り上げてくれた産婆は、白石澄子といった。 
近所一帯では「産婆の白石」で名が通っていた。
産婆といっても「ババア」といわれる年齢ではなく28歳、若手の助産婦である。
白石はお節介好きで、直人のいる菅原一家に手作りの贈り物を、と考えていた。
季節は、梅雨真っ只中の6月の末、白石は竹林の脇を通りがかった時に
ひらめいた。生育の良い青竹が1本、枝つきで欲しい。
早速、白石は竹林の管理人に交渉して、1本分けて貰う事になった。
白石は「宇部婦人会竹槍隊」の竹槍調達と訓練隊長を兼務していた事もあり、
竹の調達は手馴れたものだった。 生育の良い竹は、養分の多い、肥溜めの近く
に生えている。 案の定、肥溜めのすぐ隣に立派な青竹が聳えていた。
しかし、肥溜めの近くは糞尿の発酵で非常に臭い。 
口と鼻を手拭いで覆って作業に取り掛かる。
もんぺの腰紐に括り付けている鉈を取り出し、節に対して平行に刃を当てていく。
肥溜めの近くは、ハエが多い。 ハエたちは人間の臭いも好きで、顔によく止まる。
今回も例外でなく、白石の顔めがけて
カラフルなキンバエ・ギンバエ達がブンブンと羽音を立てて殺到する。
竹が垂直に割れてしまわないように、
慎重に鉈を入れていく白石。 邪魔をするキンハエと達と格闘しながら、
お目当ての竹はカサッと乾いた音を立てて倒れた。 
伐採成功だった。
ふと伐採した竹の隣に目をやると、真っ直ぐで節目の揃った、
手持ちの良さそうな竹が生えている。
「それも持っていくかい。」鼻をつまんだ竹林の管理人が後ろから声をかける。
「冗談はよしてくださいよっ。婦人竹槍隊は、終戦で解散したんですからねっ。」
「産婆さんが、米軍を竹槍でブスリとやるところも見たかったんだけどな。」
白石が突然、遠くを見る目で深いため息をつく。
「おっと、ごめんごめん不謹慎なこと言っちゃって。申し訳ない。」
一礼して管理人がそそくさと戻っていく。
白石の夫は海軍の雷撃機のパイロットで、先の海戦で戻らぬ人となった。
白石は婦人会の仲間達と、一緒に本土決戦のときに米軍に突撃して死のうと
決意を固めていた。
空襲で仲間の何人かは亡くなり、仲間の為にもと、
決戦に備えて訓練していたあの日々、
そして真夏の暑い「あの日」に突然、決戦の目標は消えて無くなった。 
そして「あの日」があと1ヶ月と少しでやってくる。
そんな事を考えながら、自分の背丈の2倍ほどある青竹をかついで、
のしのしと宇部苛曹工業の社宅目指して歩く。
菅原家の呼び鈴をチリンチリンと鳴らすと、翔子、真子、直人の順に出てくる。
何やら母親の翔子と白石が女同士の話をしている。
「真子、直人、産婆・・・いや、白石のおば・・・いやお姉さんが七夕祭りやるって。」
「たなぼたってなに?」直人が訊き返す。
「タ・ナ・バ・タ、竹の枝に願い事を書いた短冊を下げて、
天にお祈りするお祭りなのっ。ねえ。」
「本当は、7月7日なんだけど、今日から飾り付けてもいいよね。」
白石が応えると、翔子と真子が合わせて、うんうんと首を縦に振って頷く。
問題は短冊の調達だった。紙は貴重品でふんだんに使うわけにはいかない。
真子の案で、灰色でごわごわした便所の拭き紙を、朝顔の絞り汁で染めて短冊を
作ることになった。 庭に生えている朝顔の咲き終わった花びらを集めて、
ブリキの洗面器の中で汁をギュギュッと絞り出す。赤紫色の絞り汁が溜まり、
短冊の大きさに切った拭き紙を入れると、少し暗めの赤紫色に染まっていく。
真子が染めた短冊を、直人が縁側に張った紐に括り付けて乾かしていく。
乾いた短冊は、翔子が穴を開け、竹の枝に吊るしやすいように糸を通す。
白石は竹を社宅の軒下に固定する。
子供達が書いた短冊を枝から下げた時に見栄えが良い様に、
斜め40度くらいに調整した。
そして、皆が短冊に毛筆で願い事を書き始めた。
翔子が硯に墨を磨り、筆を準備してくれたのだが、
直人はまだ筆を使いこなせなかったので、鉛筆で書くことになった。
七夕まつりの竹と短冊を見つけて、社宅の住人、主婦や子供達がわらわらと集まり、
思い想いに短冊に願い事を書いて竹の枝に吊るしていく。
竹の葉の間から赤紫色の短冊が下がり、見栄えのある
七夕飾りに仕上がった。
「おいしいごはんが食べられますように 菅原真子」 
「皆が健康でつつがなくすごせますように 菅原翔子」
「進駐軍が早くいなくなりますように・・・
日本が早く復興しますように・・・社宅の皆が元気に明るく過ごせますように・・・」
「そおりだいじんになれますように すがわらなおと」
「夫が星になって私を見守ってくれますように 白石澄子」
直人の書いた短冊を見て、白石が声をかけた。
「直人君、そおりだいじんって、何か判るの?」
「うん。父ちゃんがおしえてくれたんだ。この国でいちばんえらいひとだって。」
「おばちゃ・・・いや、えっと」
「すみこねえと呼んでねっ。」
「すみこねえはなんて書いたの、字がむずかしいから、話して。」
白石は、話していいものかと戸惑ったが、まだ世相も判らない直人と2人きりだからと、
割り切って話し始めた。
「おねえには夫・・・母ちゃんから見た父ちゃんのことね、
がいたんだけど、この国、いや、おねえや直人君の父ちゃん、母ちゃん、
日本に住むみんなを護る為に、飛行機に乗って戦いに行って、もう帰ってこないの。
だから星になって、おねえやみんなを
見守ってくれるように、天の神様にお願いしたの。ロマンチストでしょ。」
「ろまんち? ろまんちと、そおりだいじんはどっちがえらいの?」
「いいのっ、子供は黙って聞いてなさい。」
その日の夜は梅雨のさなかには珍しく快晴で、瞬く天空に、天の川が一段と綺麗に見えた。
想いを短冊に書いて、願いや夢をみんなと共有するお祭り。
白石さんの贈った七夕祭りは、直人にとって、ひときわ楽しく、実入りの大きいお祭りであった。


第5章 新しい家族

直人は8歳、小学2年生になっていた。
4歳年上の真子は小学校6年生で、もうすぐ卒業だった。
直人も真子も成績は優秀で学級で1、2位を争っていた。
特に直人の国語の成績はダントツに良く、真子の教科書を読み漁り、
設問に全部回答してしまうほどの秀逸さを誇った。
師走(12月)のある日・・・
その日は、瀬戸内の温暖な宇部には珍しく、厳しい冷え込みが襲い、みぞれ交じりの氷雨が
止むことなく降り注いでいた。
直人は翔子の手作りの、布を縫い合わせて作った柿渋染めの鞄を、肩からたすきがけにして
いつもの通り、学校から家に帰る。
雨合羽を羽織った直人の耳に、雨の叩きつける音に混じって、
何やら、ミャー、ミャーと鳴き声が入ってきた。
「何だろう。」
ふと田圃の真ん中の空き地に目をやると、
子猫が新聞氏に包まれ、放置されていた。
容赦なく降り注ぐ氷交じりの冷たい雨。
裸で氷水の風呂に漬けられているような寒さだった。
雨に混じった氷の粒がどんどん子猫の体温を奪い、
子猫はブルブルと震えて今にも息が絶えそうだった。
ミャー、ミャーという鳴き声もかすれて小さくなっていく。
「これじゃあ、寒さで死んじゃうよ。」
直人は反射的に子猫を抱き上げ、持っていた手拭いで、
ずぶ濡れで冷たくなりかけた子猫の身体を拭いた。
白・黒・茶に彩られた三毛猫の雄だった。
雨合羽の中に子猫を大事にしまって家路を急いだ。
家に帰ってすぐさまダルマストーブの隣に子猫を座らせ、新聞紙で保温する。
すると子猫は、みるみる生気が蘇ってきた。
キョロキョロ辺りを見回すしぐさがとても可愛らしい。
煮干を与えるとバリバリと力強く噛み砕く。
子猫とはいえ、既に乳離れしていて、体長は20センチ近くあり、成長期の猫だった。
真子も翔子も突然の来訪者が気になり、額を撫でたり、背中を摩ったりしている。
直人はすぐに父親の寿雄に相談した。
「父ちゃん、この猫捨てられていたんだ。何とかして助けたい。」
嘆願する直人を前に、寿雄は悩んだ。
成長の過程で避けては通れない道であることは間違いない。
心優しい直人の事だから、捨てられて死にそうな子猫を見過ごす事などできなかったのだろう。
「だめだ」といっても、何らかの行動を起こすことは目に見えている。
「まずは、飼ってくれる人を探してみよう。そこそこ成長しているし、捨てた人も考え直して
名乗り出てくれるかもしれん。 それまでは、うちで預かろう。 
餌や世話はちゃんとするんだぞ。」
「うん、ありがとう。」
直人は、子猫を自分のものにしたい気持ちをぐっと堪えて、翌日から飼い主探しに精を出した。
学校が終わると、子猫をかごに入れて持ち出し、町中の家を訪ねて回った。
「菅原直人といいます。 突然の訪問ですみません。この猫を飼ってくれる人を探しています。」
「ごめんね、うちでは飼えないよ。」
そんなやり取りが300軒近く繰り返された。 子猫より直人の方が
<一匹の子猫の飼い主を探す優しき少年>として、町中で有名になった。
しかし、2週間経っても、子猫を飼ってくれる里親は現れなかった。
ある晩、仕事から帰ってきた寿雄は、直人を前に切り出した。
「直人、その子猫を飼ってくれる人は現れたのか。」
「いや、まだなんだ。明日、廻田町の方の別の家を当たってみようと思う。そこで見つかるかもしれない。」
「だけど、正直、不安じゃろ。」
黙って頷く直人。 
年端も行かぬ息子から、面識の無い人々との、取り留めの無いやりとりで、
狼狽しきった表情が読み取れる。 寿雄は父親として本当に苦痛だった。
「直人、飼ってくれる人が現れないのは、お前や子猫のせいではないのじゃよ。
人同士、互いに心を通わせる関係になっていねえからだ、そうなるまでに時間や手間隙がかかるのじゃ。」
「じゃあ、その関係を」
「今から作りに行くのか、ちょっと話が大人過ぎるが、それをやっている間にその子猫は大人の猫
になってしまうじゃろ。」
「だから、うちで飼いたいか。今、正直に言うんじゃ。」
「飼いたい。」直人は正直に言った。
「飼ってもいい。家族の一員として迎えよう。 但し、3つの約束を守れ。」
直人は目を輝かせて頷いた。
「1つ目は、猫は家畜だ。家族やこの社宅のみんなの為に、役に立つ事を、してもらう。」
「2つ目は、飼い主として責任を持つということだ。 餌や掃除やしつけをきちんとやること。」
「最後に、猫の寿命は人間よりずっと短い。お別れが来ることも充分肝に銘じて覚悟しておけよ。
以上3つ、約束できるか。」
「3つ、必ず約束を守るよ。父ちゃん、ありがとう。 よかったな。」
子猫の額を撫でながら直人が笑みを浮かべる。
「名前、つけなきゃ。この子猫、いつもキョロキョロしてるから、キョロにしよう。」
この日から、直人とキョロの名コンビが誕生する。
「キョロ、いくぞ。」「ニャンニャン」という具合に、
お供のように直人の後をついていくキョロ。
直人は、キョロの躾や毛の掃除など非の打ち処がない程、完璧に行った。
キョロは魚の骨や残りご飯などを食べて、すくすくと成長した。
そのうちに、キョロは社宅の天井裏や縁の下に住むネズミ達を狩で仕留めて食べるようになった。
今まで、天井裏で夜な夜なガサゴソ、ガリガリと大運動会を行い、社宅内の家々の壁に穴を開けて
食糧を食い漁り、代わりに糞尿をバラ撒く害獣ネズミ達は、キョロが数ヶ月で絶滅させた。
社宅に住む寿雄の同僚達も、口々にネズミが姿を消したことを喜んでいた。
直人は、父親との1つ目、2つ目の約束については、何とか守れている状態だった。
3つ目の約束は、遠い遠い未来のことで、正直忘れてもいいと思っていた。
毎晩、直人の隣にはキョロが丸くなって眠っていた。

 

第6章 真鍮のブレスレット

キョロが菅原家の家族に加わってから1年半が過ぎ、直人は10歳、
小学4年生になっていた。
ある日、キョロは町内の「縄張り」の散策に出かけた。
三毛猫としては堂々たる体躯に成長したチョロに
他の動物からの脅威は殆どなかった。小さな虎のようにのしのし歩く。
いつも通る道端の端にあるドブ川の中に、
黄色く光る金属のワッカを見つけた。早速キョロは、
光るワッカを咥えて直人の所に戻ってきた。
直人の前で咥えたワッカを離すキョロ。
「キョロ、何これ? 小さな輪の割には重くて頑丈にできているぞ。」
真鍮製のブレスレットがくすんだ黄金色の鈍い輝きを放っていた。
大人用のブレスレットなので、直人の腕にはめても、輪が大きすぎて抜け落ちてしまう。
ブレスレットにドブの臭いが残っていたので、直人は手動ポンプで井戸水をバケツに汲み上げ、
バケツの中で洗う。 黄色味を帯びたブレスレットがバケツの水面に吸収された太陽の光を
帯びてキラキラと輝いている。
直人はブレスレットの内側に刻まれた何かに気がついた。
「何か書いてあるぞ。でもミミズが這ったような字だ。日本語じゃないな。
英語っていう言葉かな。」
ブレスレットには、こう記されていた。
The Force Of Yours, Justice and Order. Never Give Up!! (正義と秩序が君の力だ。諦めるな!)
「誰かが落としたのかもしれない。お巡りさんに届けよう。 キョロ、駐在所に行くぞ。」
直人はキョロを連れて駐在所を訪ねた。
「お巡りさん、これ、落し物です。」直人はいきさつを正直に話した。
「それで、おそらくドブ川に落ちていたワッカを君の猫が咥えてきたと言う訳か。
内側に刻まれている文字から察すると、進駐軍のかもしれない。 
菅原直人君、ご苦労さん。」
直人は届出書に氏名・住所を書いて駐在所を出た。
翌日、直人に、「落とし主が現れたので駐在所に来るように」と、警察から連絡があった。
保護者として花親の翔子、そしてキョロが直人と共に駐在所に向かった。
駐在所に着くと、駐在所の隣には、米軍のジープが停まっていた。
入学式の騒乱の記憶が蘇り、何やら不安が募る翔子と直人。
駐在所の中に入ると、お巡りさんの隣に背広を着た青い瞳、金髪の男が一人、立っていた。
しかし、今まで見てきた、軍服を着て威圧的で乱暴な米兵の雰囲気とは全く違う。
背広を来た男は、直人を見ると、しゃがみこんで、直人の目線に合わせて、お巡りさんの
同時通訳付きで話し始めた。
「My name is George. That the commander of military police in the region.」
(私の名前はジョージ。 この地域の憲兵隊の隊長をしている。)
「僕の名前は、菅原直人。神原小学校の4年生だ。」
(My name is Naoto Sugawara. Kambara's fourth grade elementary school.)
「Thanks for picking up my bracelet. It's transmitted to the treasure house.」
(私の腕輪を拾ってくれてありがとう。これは、我が家に伝わる宝物なのだ。)
「宝物が元に戻ってよかったね。」
(It is good to go back and treasure.)
「Yes. But, but・・・・・You」
(その通りだ、しかし、しかし、君は・・・・)
直人の瞳をじっと見つめるジョージ憲兵隊長。
そして、ニコリと微笑んで、直人の頭を撫でた。
「This bracelet is for you today. This bracelet will choose the owner.
Owner's man in charge of the nation's future. The qualities that you are well.」
(この腕輪は今日から君のものだ。この腕輪は持ち主を選ぶ。持ち主は国家の将来を任される人間だ。
君にはその資質が充分にある。)
ジョージはブレスレットを両手で丁寧に直人に手渡し、直人の何倍もある大きな手で、
ブレスレットを受け取った直人の手を優しく包んだ。
「Previous owner of this bracelet was the Vice President of the United States.
 This bracelet is a few days ago, rolling down from my hand, It chose you.」
(この腕輪の前の持ち主は、米国の副大統領だった。この腕輪は、数日前、私の手元から転がり落ち、
君を選んだのだ。)
「ありがとう。この腕輪を大切にします。」
(Thank you. To cherish this bracelet)

最後にジョージは、直人と一緒に、ブレスレットの内側に刻まれた言葉を復唱した。
<The Force Of Yours, Justice and Order. Never Give Up!!>
 (正義と秩序が君の力だ。諦めるな!)

直人・翔子・キョロはジョージと固い握手とハグを交わし、駐在所を後にした。
帰り道、キョロを抱えた直人は翔子に声をかけた。
「母ちゃん、米軍って威張り散らして乱暴な人ばかりじゃないんだね。
ジョージさんのように優しくていい人もいる。」
「そうね、なんか凄いもの貰ったわね。ジョージさんの言っていることは、
直人にはちょっと、難しすぎたかも。」
「将来を任されるとか副大統領とか難しい話はあったけど、
結局、この腕輪は僕が持つことが一番いいらしい。」
真鍮のブレスレットは、白人サイズの為、大きすぎて、大人でも腕に着けることは不可能だった。
翔子は、ブレスレットをゴム紐に括り付けて首から下げるように仕立てた。
その日から直人は、真鍮のブレスレット肌身離さず身につけるようになった。


第7章 父親の職場見学

直人が小学5年生に進級した春、神原小学校の教育要領で
父親・母親の「職場見学」が推奨されていた。 実際には、大東亜戦争で
親を失くした子供や家庭に配慮する為、家庭内学習の範囲内で、
可能な人だけの自己学習にとどめられていた。、
よって、殆どの家庭で「職場見学」は実施されなかった。 
しかし、菅原家では、実施することになった。
理由は2つあった。母親の翔子が教育熱心であること、
それと、父親の寿雄が今年技術部長に昇進し、体裁よく職場が見せられることだった。
菅原家の「職場見学」は土曜日に設定された。土曜日は、午後1時に授業が終わる。
既に中学3年に進級している真子が、自転車を校門の前まで乗りつけ、
直人を待っていた。
白いリボンのセーラー服の上衣にもんぺを穿いた装いが児童達の気を引くらしく、
校舎の窓から好奇の視線が真子に注がれる。
キーン・コーン・カーンと手動の鉄琴チャイムが神原小学校の校舎に
据え付けられたスピーカーから鳴り響き、数分もすると、帰宅する児童達がわらわらと
校舎の玄関口から出てくる。眞子はすぐに校門から出てくる直人を見つけた。
「直人、父ちゃんの職場見学にいくよっ。さあ、後ろに乗って。」
「うん。姉ちゃんよろしく。」自転車の荷台部分に跨る直人。
姉弟2人を乗せた自転車が校門の前の坂道を下り、市街地を抜けて、
臨海部の工場地帯に入る。
「宇部苛曹工業」と書かれたレンガ造りの円筒形の門の前で、キキキッとブレーキをかけて
停まる自転車。
2人は自転車から降りて、門をくぐり、詰め所のような小さい建物のカウンターで
「菅原です。」と一言うと、仏頂面をしていた担当のおじさんが、突然ニッコリ笑い、
「ああ、あの菅原部長のね。聞いているよ。案内するから、どうぞどうぞ。」
と2人を工場の中に案内する。
「立派な工場なんだな。」「そうね。」
直人・真子が歩きながら工場を見上げる。工場は2棟に分かれていて、
1棟は4階建ての真四角のビルで、屋上から「宇部苛曹工業」と
白地に青で書いた垂れ幕が降ろされている。
もう1棟は、緑色に塗らた2階建ての建屋から2本の大きな白い円筒がそびえ立ち、
円筒の頂上には、黒光りする機械が置いてあり、白い煙がたなびいている。
円筒の高さは直人達の住んでいる社宅の屋根の10倍を優に超えていた。
直人があっけに取られていると、担当のおじさんからの工場の説明が始まった。
「この工場は水酸化ナトリウムを作っている。水酸化ナトリウムといっても、
その言葉に、なじみがないかも知れないが、実は普段の私達の生活を支える大切な薬品だ。
水道の消毒や下水道・工場の排水をきれいにする為に使われたり、
紙や石鹸を作るときにも使われる。薬屋さんでは苛性ソーダという薬品名で売られている。
劇薬だから、取り扱いには充分注意してね。」
「実際にはあの建物が製造工場で、そこで作られているんだ。」
2本の大きな白い円筒が立っている方の建物を指して言った。
「どうやって作るんですか?」直人が訊いた。
「いい質問だねえ。あれを見てごらん。 あの2つの大きな丸い柱の中はタンクになっていて、
1つは真水、1つは塩水がタップリ入っている。両方に電気を流すと、真水のほうからは
水酸化物イオン、塩水のほうからは、ナトリウムというものが取れるんだ、
それを合成すると、水酸化ナトリウムというものができる。」
得意気になって応えるおじさん。
何やら難しそうだと腕組みする直人。真子は既に電気分解とイオン発生の仕組みを
中学校の理科で勉強済みだったので、説明に大きく頷き、概ね理解していた。
「君達のお父さん、菅原部長は、こっちの建物にいるからね。」
製造工場には行かず、もう一方の4階建ての真四角のビルの中に、直人・真子は案内される。
「製造工場は見学できるんですか。」直人が訊いた。
「ごめんね。あそこは危険なものがいっぱいあって、関係者以外立ち入り禁止になっている。
空襲で壊れたり傷んたりしている機械もあるから、君達に安全に見せられるようになるにはもう少し
時間がかかるかな。」
話している間に、父親の寿雄が働いている「職場」に案内された。「技術第一部門」
と書かれた木のプレートが貼られた引き扉をガラガラと開ける。 
室内には40人くらいの人が机に向かっていたり、薬品の実験をしたりしている。
一番奥にある、ひときわ大きな机に座っているのが、父・寿雄だった。
机の上に「菅原技術部長」と書かれた、白地に黒文字の三角プレートが見える。
部下に忙しそうに指示を出し、皆から慕われる部長、威厳ある上司、家では見せない、
職場では部長の役割である父の姿が垣間見えた。
近づいてくる直人と真子に気づく寿雄。
「職場見学といっても、こねーなもんかな。」
「父ちゃんって、偉いんだね、こんなに大勢の人を使うなんて。」
「経験が多いから、そういう役割になっとるに過ぎんよ。」
「技術第一部門ということは、第二部門とかもあるの。」真子が聞いた。
「うん。第一が、水酸化ナトリウムそのものを作る部門で、
第二が作ったものを商品にする部門に別れとる。
向こうの生産工場の設備も、いずれは見学できるように準備をすすめとるよ。
直人、真子はそっちも、見たいじゃろ。」
「うん、見たい見たい。」
「この工場自体、海水の塩や天然水といった、輸入に頼らない、豊富な自然の恵みから、
国の産業を支える重要な薬品を作りだしていることに大きな意義があるのじゃ。
大東亜戦争で壊滅した産業を復興するための大きな足掛かりになる。
次回の職場見学、いや誰にでも公開して見せられるようにしよ。」
菅原家の「職場見学」は、これにて終了となった。
「宇部苛曹工業」の門を出て、家路につく2人。
自転車を漕ぐ真子に直人が話しかけた。
「父ちゃんって偉いんだね、すごく驚いた。」
「普段の社宅では普通の父親なのにね。」
「豊富な自然の恵みか・・・・自然の恵み、自然の恵み・・・」
直人は、次第に小さくなっていく2本の大きな白い円筒を、
自転車の荷台からずっと眺めていた。


第8章 秘密基地で緊急事態、佳ちゃんを守れ

直人は11歳、小学5年生の11月末のことだった。
直人達の住む「宇部苛曹工業社宅」の敷地内には、「ひみつ基地」
があった。元々は防空壕で、空襲の時に壕の中に避難してやり過ごす為のものだった。
終戦で空襲はなくなったが、防空壕の中の気温が常に一定だったので、漬物などを置く
貯蔵庫として使われていた。 しかし、これを直人達「子供」が見逃す手はない。
すぐに廃材ベニヤ板て作った「ひみつきち」の看板が立ち、チャンバラや戦争ごっこが始まる。
チャンバラは「鞍馬天狗」戦争ごっこは「日本軍対米軍」がネタになった。
直人はチャンバラでは斬られ役、日本軍対米軍では、銃撃戦で負けて降参する米兵の役を
進んでやっていた。皆が面白ければ、自分が悪役でも構わなかった。
その日は木枯らしが吹き荒れ、肌寒い一日だった。
社宅の隣の一軒家に住む女の子、佳ちゃんが「ままごと」をやり始め、
周りに住む男子達5、6人がチャンバラ用の
新聞紙を丸めた刀を準備し、直人は釣りに行く為に釣竿に糸をと仕掛けを結び付けている時に
「事件」は起こった。
秘密基地の入り口から、見慣れない褐色の大きな影が現れた。
垂れた耳、皺だらけの顔、直人達の3倍もある
大きな体格。4本の足で歩く動物、土佐犬、闘犬用の犬だった。 
飼い主の姿はない。
ガルル・・・と唸り声を上げる犬。飛び掛られたら子供など、ひとたまりもない。
直人は、石を投げて犬の注意を自分に向ける。
「みんな、逃げて大人を呼びに行くんだ。」
直人の一声で、子供達が一斉に秘密基地から飛び出す。
犬は一瞬、直人の方に敵意を向けたが、奥にいて、逃げ遅れて漬物樽の上で怖さで震えている
佳ちゃんに興味を示した。
「佳ちゃん、樽を足場にして上の方に逃げろ。」
佳ちゃんは直人の言った通りに、漬物樽の積みあがっている方向に逃げる。
ウウウと低い唸り声を上げて追い詰める犬。 
「ウエェェェェーン」という女の子の鳴き声が秘密基地の中で反響する。
ますます興奮して佳ちゃんに食いつこうとにじり寄る犬。
仲間が大人を呼びに行ったけど、
腕力のある男達は働いている時間だから駆けつけられない。
このままではやられる。
どうすればいいんだ。手元にあるものは、竹の釣竿と釣り糸と釣り針の仕掛け一式。
直人の足元に、キョロが銀色に輝くフォークを咥えてやってきた。
「わかった。これだ。」
直人は竹の釣竿を分解し、釣り糸の仕掛けを結びつけて即席の弓矢を作った。
矢の先には竹の節穴があり、キョロが持ってきたフォークがピッタリと填まった。
矢は1本だけ、絶対に外せない。
キョロは全身の体毛を逆立て、普段は隠している両足のかぎ爪と口の両脇の牙を剥き出しにして、
攻撃態勢を取り犬を威嚇し始めた。 
普段は直人に絶対に見せない姿だった。
直人は、矢をつがえて、弓の弦を思い切り引く。キリッキリキリッと竹のしなる音が耳に入ってくる。
本で読んだ事がある。犬の弱点は鼻先だ。
「こっちを向け!向かって来い!」直人は足元の石を蹴り飛ばした。
カラン、コロンと石が転げる音が秘密基地の乾いた空間にこだます。
これ以上、佳ちゃんを危険に晒すわけにはいかない。
犬の緑色に光る目が直人のほうを向いた。
緑色の2つの点の間に、僅かに光る鼻先が見えた。
矢の先にあるフォークの先端を鼻先に向けて、矢を放った。距離約8メートル。
真っ直ぐに矢は飛んで行き、でグサリとフォークが黒光りする鼻に突き刺さる。
前足を蹴って突進しようとした時のカウンターで、子供の腕力の数倍の力が鼻から脳に向かって突き抜ける。
「グウオオオオ」と叫び声を上げ、鼻から血を噴き出す犬。
両前足で刺さったフォークを引き抜こうとするが
フォークのカーブが「反し」となって引き抜けない。
体勢を崩し、後ろを見せた犬の延髄に、隙を突いて飛び掛ったキョロの牙が食い込む。
飼い猫とはいえ、元の遺伝子は草原のハンターである。
本能的に、獲物や敵の視野の死角から急所を刺すように攻撃する。
猫の牙だけに、厚い毛皮と筋肉に守られている大型犬の延髄を完全に破壊することは出来なかったが、
一部を破損させ、半身麻痺状態に持ち込めた。 
ヒットアンドアウエイで直人の足元に戻るキョロ。
犬は「ギャャオーーンギャャオーーーン」と苦痛の
叫び声を上げて、半身を引きずりながら秘密基地から逃げていく。
「佳ちゃん、もう大丈夫だよ。」直人は佳子の手を取り、救い出した。
「怖かったよ。でも、直人君とキョロ、カッコ良かったよ。ありがとう。」
キョロも攻撃態勢を解いて、いつものキョロに戻っている。
直人、佳ちゃん、キョロが秘密基地から外に出ると、大人達が駆けつけて、
動きの鈍った土佐犬を縛り上げ、
警察のパトカーに乗せているのが見える。
「ひみつきち」の看板の隣に腰を下ろし、空を見上げる2人と1匹。
西の空は夕焼けで茜色に染まり、白く棚引く線が水平線の先まで伸びていた。
棚引く線を指差して「あれは何?」の佳ちゃんの問いに、
すかさず「ひこうき雲って言うんだって。」と応える直人。
2人の影の上を横切って先に家に帰ろうとするキョロ。
四肢の爪の先から出血していた。先ほどの攻撃で、犬の延髄を牙で捉える為に突き立てた爪に、
大きな負荷がかかっていた。キョロは傷を直人に気づかれぬよう、そっと帰路につく。
2人は遠く左手をかざして、夕日に吸いこまれていく飛行機を見送っていた。
直人がふと、自分の胸に手をやると、ペンダント風に首から提げた、
ゴム紐の輪に括られた真鍮のブレスレットも夕日を浴びて輝いていた。
ジョージさんの言っていた、内側に刻まれた意味、「正義」「秩序」「力」「諦めない」
がおぼろげながら、実感として掴めてきたように直人は思った。
その晩、佳ちゃんの両親が、菅原家を訪ねてきた。 
娘を危機から救い出した直人へ、お礼を言う為だった。


第9章 あとがき

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本編はここで終了ですが、
この小説「直人伝」は、モデルにした「直人氏」のプロフィールに沿った形で、
フィクションのイベントを組んで、次回作以降、順次ストーリーを進めていく予定です。
大前提として、主人公「菅原直人」は苦難の道に打ち克って、活路を開く、不屈の闘志を持った
ヒーローとして描きます。
お読み読いただいた感想や、本作のアイディア等アップしてもらえると、
嬉しいです。 

 


 

若月明峰
小説 「直人伝」
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