エウメニデス

もう、以前の自分には戻れない。

あのひとときは何だったのだろう。あれほど幸せな時間を一緒に過ごしてくれていた「あのひと」が、なぜ私をどん底に突き落とすようなことをするのだろう。

「あのひと」は私を愛してくれていると思っていた自分は、ものすごい錯誤をおかしたということか。残念ながらそうなのだろう。しかし、それほどの錯誤ならば、もっと早く気がついて私に「あなたは間違えてます」と注意して欲しかったが、これもまた私の身勝手、とんだ勘違いなのか? 解らない。

 

私は、愛されたことなどなかったのだ。

 

私は、愛されていたのではなく、「相手をしてもらっていた」のだ。

憧れと尊敬と愛着と慈しみと、その他もろもろの感情を捧げてもまだ言い足りない、「愛している」という陳腐な言葉では足りないくらいの、あまりにも私の「すべて」であったあの女性は、もはや手の届かないところに行ってしまった。

 

「今日は真面目な話があります……僕と……結婚して頂けますか」

聞いた瞬間、彼女は大きな眼を見開いたが、その瞳に困惑と、そしてなんと、恐怖の色が顕われていたのが忘れられない。そう、私は、彼女の返答を聞く前に、取り返しのつかない失敗をした、と愕然としたのだ。

部屋の中には、私と彼女がいる。決してもう、あい携えることのない二つの魂が、途方に暮れておののいている。

はっきりと彼女は、それはお受け出来ません、と言った。

 

「わたくし、女優としてもっと上に行きたいのです。もっといろいろな役を演じて、自分の幅を広げないと。そのためには、今、結婚すると女優の仕事に専念出来ない。それはどうしても駄目なのです」

 

眼を伏せてから、彼女は私の顔を真っ向から、さも悲しそうに観たが、その視線に真情はなかった。あるのは、「どうして分かってくれないのかしら? わたしは女優であることが人生の最優先事項なのですよ。そもそもあなたは、女優である私を気に入ったんじゃありませんか」という開き直りだった。

そうだ、確かに私は、舞台女優としての彼女に魅せられた。彼女の扮するアンドロマック、フェードル、イフィジェニー、エレクトラ、アリアドネに……運命に翻弄され、最も愛する人からは愛してもらえず、自分のなかの愛が憎悪に変わってゆく苦しみをどうすることもできない、苦しみと迷いと悩みから救われたい、ともがく人間の深刻な姿に。

しかし、いつの頃からか私は劇だけでなく、終わったあとのカーテンコールで、明るい笑顔を振りまく彼女を見るのが、より心がとろける、佳い、美しい時間になった。ブラヴォーを叫ぶ客席に向かって手を振り、ありがとう、と口を動かす彼女には、女優としての風格よりは、何かを成し遂げた人の持つ清涼感があふれていた。それが見たくて私は少ない給料の大半を劇場につぎ込むようになった。それが今年の春のこと。やがて夏になり、劇団のマネージャーから「特別なお客様への御礼」の手紙を受け取った。公演が終わったあとに行なわれる、女優、俳優達とのレセプションの招待状であった。「チケットをたくさん買ってくださる特別なお客様への御礼の気持ちをこめて」との文章がそえてあり、署名は彼女の名前であった。

 

舞台の上の人ではない彼女は、どうしてこのような愛らしい人が、人を憎み、滅ぼす威圧的な役柄をできるのかと思うほど、若々しく快活でよく笑った。だがまぎれもなく声は舞台の上で聞くのと同じ、最高級のピアノの音のように澄んだ歯切れのよい美声だった。

「お目にかかれて嬉しゅうございます」

「うふふ、コニャックは飲んだことがあるけれど、美味しくなかったわ。わたしはまだお子様だから、味わいが分からないのよ」

「エドガー・アラン・ポー? いつかは上演したいですね。脚本家がその気になってくれないかしら」

 

客席からではなく、相対して向かい合った彼女は、思っていたより小柄でほっそりしていたが、弱々しいはかない感じは全くなく、自然な、伸びやかな生命力が匂い立つ風情だった。

目鼻立ちが美しいのは女優だから当然として、物腰や仕草が柔らかく、声のイントネーションが整っていて、語尾を濁したり、話す途中でつっかえたりすることが全くないことに、私は感歎した。そのくせ仕草や声にほんの少しだけ媚

態があり、そんな時は翡翠のような複雑な緑色の瞳がいたずらっぽく強くきらめいて、白い頬にうっすらと桃色が差す。

あの晩の彼女は最も気に入っているという、襟ぐりが丸く開いたシルクタフタの緑のドレスに身を包んでいた。彼女の瞳の色と同じ色であり、艶のある紅茶色の髪ともしっくりと合っていた。

なぜだろう。何を話したのか不思議なことにほとんど覚えていないが、彼女と僕は、2人だけで、会場のバルコニーに出ていたのだ。

下弦の月が出ている夏の夜であった。私と彼女は初対面であるとの礼儀に縛られていても、それ自体を楽しんで、そして互いの心を見通そうとしていた。しかもそれは決して気詰まりではなく、なぜなのかは分からないが、私はそのとき「愛する人」が自分のそばで、しっとりと落ち着いて、平和で優雅に穏やかにいることを、何の不思議もなく受け入れた。

幸福だった。

ふと見ると、彼女は僕を見て、思わせぶりに一歩踏み出し、優美な上半身を心持ち持たせかけるようにした。私は身体を固くしたが、拒むことは思いもよらず、軽くてしなやかな体躯を抱くというよりも支えた。

一瞬、こわばってそして離れた彼女の顔をのぞくと、眉根をしかめているので、どうかなさいましたか? と慌てて訊いた。彼女は顔を背けるようにして、しかしはっきりと言った「お願いがございますの」

「なんですか? なんでもおっしゃってください」

「……また、会って頂けますか? 」

これは夢か、または何かの間違いか、と私はもう一度彼女に訊き直したが、もう彼女は「いいの。あたくし、喉が渇いたから、お水をとりに行きます」

あっけにとられる私を横目に、緑色のドレスの裾をふわりとたなびかせ、彼女は振り向きもせずに歩みさってしまい、僕は、自分は何かまずいことをしたのか、それとも…? と、彼女が残した謎をなんとかして解こうと、あれこれと忖度するのだった。

 

 

ACT TWO

 

私の仕事は、月に6日の夜勤と、18日の日中勤務がある。夜勤は10時開始

【ACT TWO】

で、午前4時30分に終了する。日中勤務は、11時に始まって休憩時間30分を挟み、6時30分に終業だが、引き継ぎ事項が多いので、帰れるのは7時くらいになる。

生命の危険もあるし、きつい仕事だと思うが、10年以上もこの職をやっているのだから、今さら他のことはできない。

できるとすれば、ボディーガードか……もしかすると警察官か……だが、逆に警察官のほうが遥かに重労働であるかもしれない。

なにしろ、警察官は自由に走り回る犯罪者を追うのに対し、私のやっているのはもはや拘束した犯罪者の身柄を監視するだけなのだから、私の仕事のほうが負担は軽い。たとえ受刑者が、秘密に持ち込んだ凶器でわれわれ看守を襲う危険があるにせよ、だ。

この仕事を嫌だなあと思うときは、受刑者が、どこから調達したのか、釘、画鋲、ハサミなどで自殺を図って悶え苦しんでいるのを見るときだ。大抵それは未遂に終わるが、ハサミでも心臓を突けば、あるいは絶命に至ることもあるし、何よりも、24時間見回っているわれわれ看守の目を盗むことができると言うのが、実に気味悪い。

 

3年前ある看守が、脱走を謀った受刑者(強盗殺人で懲役19年の刑を宣告された)の手首を3日間首輪に繋いで食事をさせなかったことが発覚した事件では、さんざんな目に遭った。

うちの刑務所専属の精神科医が、左翼の学者グループに密告し、それからは新聞や雑誌で「シュタットフーヴァー刑務所 受刑者を兵糧攻め」「20世紀とは思えない野蛮な『恐怖政治』はなぜ起きたか」といった見出しを見ない日はなかった……当然、内部調査が行われ、刑務所長も更迭された。それ以降、受刑者には、毎日の食事を摂取させること、毎月最低3冊の本と1冊の雑誌と、毎日の新聞を保証すること、毎日30分のジョギングをさせることが「最低限の人権」として刑法に明記されることになる。全て受刑者は、健康で文化的な生活を送るべきだ、とこの国の議会が、圧倒的多数で決めた法律なんだとか。まあ、「ビールかワインも飲まさなくては、最低限の人権を保証したことにはならない!」と言い出す議員がいないだけ幸運だった。

 

強盗殺人、放火、銀行強盗を冒した犯人どもに、30分もジョギングをさせて
深良マユミ
作家:深良マユミ
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