存在の涯てを物語る

成人したころ、玲子はやっとコンテストに参加することにオーケーした。

大人として豊かな成人として世に出ることを待っていたのだ。周囲の期待を裏切らず、結果は大成功であった。


玲子は彗星のように現れ、スターになるすべての素質を備えていた。(玲子の弱みは、彼女が余りに純粋でひとの悪意や欠点を知らず、またピアニストである以外の、家事能力のような女性的な部分を知らない、かのように、つまり無能な天使のようにみえたことでありましょう。そんな愚かさとは縁遠かったのですが、善意の純粋な女性であることは確かでした。それは人間として危険な事態を招きかねなかったのですね、ま、それはともかく。


どの家系にも、影響力の多少の程度に応じて、恩義を感じて共に働こうとするものたち、逆に恨みをいだき隙あらば怨念を反映させたいと思うものたち、わたしらにもお互いに基本的な感情の動きがあるわけですね。

過去の世界の詳細はもう重要ではなくとも、少しのプラスなりマイナスなりの影響が現世の人間の運命にふりかかるのは避けられません。

生を受けたからには、できるだけ負の攻撃をかいくぐってその人物が幸せになるようわたしらは努力しますが、理の当然と言いますか、計算の結果、運不運の矢が当たってしまいます)



すでにコンサートツアーが告示され、富士玲子のポスターも曲目とともに美しく仕上がっていた。


玲子はおびえたり興奮するでもなく、そんな流れにゆうゆうとやすやすと乗っていった。それは彼女に与えられた運命のように身に添っていたのだ。



珍しくマイナス十五度になったある朝、玲子はコホンと小さな咳をした。


一週間ほど微熱があったり、また引いたりして、風邪ひとつ引いたことの無かった玲子の無知が悪く作用した。

練習していると、右の耳が少し詰ったように感じた。しかしまた気にならなくなった。そうして数日が過ぎた。



ウィーンのあちこちの広告塔には、白いドレスの玲子のポスターが貼られていた。


風の吹き上がる広場のそんなところを通りかかったとき、ポスターを見上げていた若い男が、玲子に気づき、驚いて大きく笑った。そのまま近づいてきて、自己紹介をしサインをもらいたいと言う。

彼のもっていた本に、玲子は少し照れながらローマ字でサインした。お名前は、と尋ね、トーマス ゲルプホーフさんへと書いた。


彼はわら色の髪の小柄でやせた人だった。風に髪が乱れ、大きな笑い顔をまたみせた。



外を歩いたせいか、また耳が詰った感じがした。

翌日起きるともうそれが始まっていた。玲子ははじめてあわてた。


週末だったので月曜日を待ったがその間にもまるでよくなる気配がなくなってしまった。(子供のころ、海に潜って耳に水がはいったことは数知れずあったが、それが遠因であろうとはだれにもわからないことでした。これまで支障がなかったことこそむしろ護られていたわけなのですが)


滲出性中耳炎の悪化で急速に聴覚が衰えていった。


それが演奏家にとって何を意味するか、するべきことはあきらかであった。


玲子は一度だけ、絶望して崩れ落ちて号泣した。弟か恋人か、子供か、大切なもの永遠に喪ったひとのように取り返しの付かない地獄が始まったのである。もはや完璧な演奏は無理だった。専門家ならすぐに気づくだろう。できるだけ傷が広がらないうちにツアーを取りやめにしなければならなかった。少なくとも回復するまでは。


この報はかなりセンセーショナルに広まっていった。

新聞の小さな記事にもなり、玲子の心をわけのわからない不安で充たした。


広告塔からポスターが引き上げられた。シュテファン広場を通っていくとき、誰かが手を振っているような気がした。広告塔の前にあの男が立っていた。手には丸めたポスターを持っていて、それを高く振り回している。



彼は、トーマス ゲルプホーフは近づいてきて、薄蒼いまじめそうな瞳で、玲子の不運に同情の言葉を述べた。そしてポスターを大切にする、きっと再起できると言った。


人前で涙をこぼそうとは玲子自身思ってもみなかったのだが、はらはらと、ちょうど降ってきた白い雪のように若い頬を零れ落ちた。

男は思わず玲子を抱きとめた、彼女が倒れそうにみえたからだ、そうあとで聞いた。

事実彼と知り合ってから、玲子はまともに歩くこともできなくなった。

治療は見込みが無く、ピアノに触ることも出来なくなった。



数ヵ月後、玲子はピアノから離れた。手離した。その隙間にトーマスが入ってきた。


彼は第一印象に似合わぬ確信と自信をみせて、弱った玲子の心を左右した。

ビザが切れそうになったときトーマスは、彼はギムナジウムの理系の教師だったのだが、玲子に結婚を提案した。

長年暮らしたヨーロッパを離れることのできない玲子がいた。


(人間の進化の中には、興味深い示唆がみうけられるものです。同属への帰属と慣れは基本的な心情で、これがあるので弱い人類も生き延びたし、動物一般にもあてはまるのです。

 しかし一方では、チンパンジーのメスはしばしば他のグループへ入り込んで新しい生活を始めたりします。オスも青年になるとしばしば馴染みの場所を去り、冒険と好奇心の旅に出て行きますが、ホモサピエンスも同じ理由、願望、行動を示しています。

 ある意味他民族への好奇心はごく自然なものでありましょう。

 玲子が音楽を通じて他民族の文化に喜んで触れていったこと、トーマスが自国の女性と比して温和にみえる日本人との生活を決心したのも同じ理由ではあります。


 しかしもうひとつ、彼らにそっと触れている指先と情動があったのも事実です。


玲子のおじの一人が第二次世界大戦後ソ連に抑留されていたとき、隣り合うドイツ人収容所の一人のドイツ人と知り合いになりました。言葉は通じなかったのですが、食べ物をお互いにやりとりして飢えをしのぐ仲間になっていったのです。


時には無言の散歩にでかけたりしました。

玲子のおじが先に釈放されることになったとき、着たきりすずめの軍服がぼろぼろになっていたので、そのドイツ人になにか手に入らないかと頼んだのです。

彼は最近亡くなった同僚のコートを持ってきてくれました。それをおじは帰国後長い間着ていました。とても丈夫なものだったのです。そこにもまたもうひとつの心情が絡まっていたことでしょう。


わたしらにはわかるのですが、玲子はこのその後まもなく亡くなったおじの意識に導かれ護られて彼女の道を歩んできたのです。

もうひとつわかっているのは、トーマスの長兄が例のドイツ人であり、玲子とトーマスが近づいたのも彼ら二人の懐かしい気持ちが働いたのです。


しかし、そのコートの持ち主はどう思ったでしょうか。その人物が自分のコートの行く先をどう思ったか、批判的だったか、友好的だったかその小さな心根が、やはり影響を及ぼすはずでした。

その人物はかなりの人種差別主義に染まっていました。たとえアジア人であっても憎悪したのです。


そんないくつかのそれ自体小さな心の渦が玲子とトーマスの間に漂っていたのです。ひとは無力なのではありませんが、影響を非常に受けやすい、ほとんどその意のままともなりやすいのです、残念ながら)



ふたりは戸籍課でのささやかな式をすませた。

手をつないで、見知らぬ人からのささやかな祝福を受けながら、玲子は誓いの言葉に対し、はい、とは言ったもののそれが本心かどうか自分でもわかっていないことに気づいていた。


しかし、頭を振った。そんなことを気にしていても仕方ない、前進するのみだ。


トーマスはこの女が永遠に自分のものだと思うと力がみなぎってくるのを感じた。

普通ならば手の届かない種類の存在だったのだ。


玲子の無垢な美しい顔、そのむだのない引き締まった四肢、とくに脚の美しさは神々しいほどだった。


玲子はトーマスの抱擁とキスとそれ以上の侵入を非常に特別な感覚で受け止め、それを特別な関係と関連付けようとしていた。この初めての接触、それが結婚なのだと解釈した。


しかしそれ以上の感激があったわけではない。経験の無い花嫁には映画のような展開がまっているわけでもなかったし、それで特に不満をもつべきだとも思わなかったのだ。

夫の動き、あえぎ、におい、それらをそんなものなのだと受け止めて、特別に不快でもなく、彼が喜んでいるので充分な気がした。


「どうだった?」

「どうって?」

「いい感じだった?」 「ええ」と玲子は含み笑いした。

「本当に?」

「まあね、いやあね、恥ずかしいわ」

「そのうち、きっと良くなるから」

トーマスは軽く額にキスして立ち上がった。

「キミってほんとに純粋培養だね、そこがいいのさ、ぼくに頼って」

「頼るほかないわね」

「ぼくが引っ張っていくから任せて」



オーストリアに居ることがなんとなくいたたまれない気持ちのある玲子のために、二年後にトーマスはドイツに移ってくれた。


しかしすぐに仕事先が見つからなかったので、トーマスは当分教職の空きを待つことになり、玲子も気晴らしになるというので少し働くことにした。

デュッセルドルフの日本人補習校がドイツ語のできる秘書を探していると日本人会の会報で読んだことから始まった。



一方、結婚生活はしだいにトーマスを苛立たせていた。

 玲子を美しく飾り、超ミニのスカートと高いヒールの靴をはかせて連れまわりたかったのだが、彼女にはあまり自分をひけらかすようで嫌がるのだった。


夫婦生活ではさしたる進展がなく、しだいにトーマスを不機嫌な自信を失うような気分に陥らせた。


すると言葉でしだいにそのことを批判するようになり、玲子の気持ちがトーマスを愛していないとなじるようになった。


事あるごとに玲子の言うことなすことを、失敗と無能だとして嘲笑し批判し、いつまでも笑い馬鹿にし、人間として貶めた。


玲子はますます失敗し、自信を失い、トーマスの強制を苦痛に感じる。しかしどうしたらいいのか考える余裕もなくなった。おどおどと夫の顔と機嫌を伺って過ごし、へつらうように笑うのだった。さすがに子供を作ろうとは思わなかった。まだ母親にはなれない、とまるでキャリアを失ったせいであるかのような言い訳をした。


自分が人間であるという尊厳を次第に失っていき、我慢するばかり、瞳を伏せてばかり、意味のない笑い声をたてるばかりの玲子になってしまった。そのときに週末の二日間だけであれ、外の世界へでかけ、人並みに働いて報酬を得るという可能性が浮かんできたのだ。




麻子クルトは日本語補習校で教え始めてから三年目になっていた。


新しい秘書がはいってきた、と聞いた。教師の半分は留学している大学生であり、後の半分は結婚によりここに住んでいる女性達である。その大部分は、生活に満足しているようだった。数人が鬱屈を抱いている様だった。麻子クルトは後者の一人であり、休み時間には所在投げにタバコを吸う人物であった。


 美しい脚を丸出しにしたハイヒールの秘書を麻子は興味無げに見て、軽く会釈した。

 

 十歳以上若いらしいその秘書は、完璧に振る舞い、事務仕事も挨拶も堂にいったものだったので、そのミニスカートの異常さが際立った。その作ったような元気さも偽者くさかった。それは麻子だけが感じたものだっただろう。


「ゲルプホーフさん、見事なおみあしねえ、ほんとに」

「あのですね、今日ね、夫がちょっといなかったので普通丈のスカートをはいてでようとしたんです。そしたら見つかってしまって、またこんなミニ姿」


玲子は急に事実を喋っている自分に驚いたが、もう言い換えることはできない。


麻子は眉をしかめた。煙を口から静かに吹きだして、ああ、わかるわあ、うちもそんなところよ、とベージュのパンツの脚を伸ばした。でも、と玲子がいいかける。


「大丈夫、でかける時間にはうちは眠ってるから」

「まあ、いいなあ」

「男ってねえ、支配したいのよねえ」


支配欲なのか、と玲子は思った。いやな感じがした。淋しい感じがした。



おはようございます。今日も体操の指導ご立派でした」


麻子がそう話しかけたのは、もう若くはないが学生の飯島徹である。

まじめそうで、めったに笑わない。逆に信頼に値するという感じを与える。

玲子はすでに全教師に関するおおよその情報を校長から聞いていた。校長は日本から派遣されてきている。


飯島はすでに結婚しているのだが、どんな経緯かはわからないが、妻はロシア人で妊娠しており、まだ出国が認められないのを待っているのである。それで少しさびしそうなんだわ、と玲子は思った。


麻子には日本でのキャリアを捨て、たしか子供も置いて再婚してきたという噂のみがあった。

熱烈な恋愛だったのだろうと思う反面、麻子の屈託した様子が気になった。それでいきなり自分のことを喋りだしたのだろうか、玲子は自分に問うた。


「飯島先生、お茶がありますわよ、さあどうぞ」

「これは有難いです。日本茶ですね」

「いかがですか、お淋しいでしょうねえ」


玲子が社交辞令ではなく、率直な性格のせいで問題に切り込んでいく。おや、というように麻子クルトが見ていた。日本人の典型みたいな行動をするかと思うと、これはまた違うわねえ、とひとりごちた。


「まあそうです。でも、妻とはあまり心が通わないような気がして。言葉もほとんど通じないんですよ」

「まあ」 「ええっ」

女性二人にそんな反応をされた飯島は少しあわてた風に付け加えた。


「でもなんとか頑張らなくちゃと思ってますよ、なにしろすぐに子供が出来たのでそれが第一ですから」

「ひょっとして誘惑されたのかな?」

麻子クルトが冷やかしではなく、本気で尋ねた。飯島徹は黙っていた。


鴎外の舞姫ではないが、ひとを哀れと思う心情から関係が生じることもあるし、と麻子クルトは飯島の結婚に危ういものを想像した。玲子はもう隠しようもなく心配そうな顔になってじっと見つめている。



玲子とともに夫のトーマスが仕事場に顔を出すようになったのは、仕事を始めて二ヶ月もたたないころであった。

ワープロやコピー機が事務室に置かれるようになり、トーマスが玲子の仕事を手伝うということであった。校長にも異存はなく、むしろ頼りにしていた。


麻子クルトは、しかし次第にトーマスの言動から夫と似た支配欲を敏感に感じた。


まず相手の無能を笑う、批判する。認めるまでそれを止めない。

玲子が少し操作に手間取っていると、ああ、またか、ほんとに何度教えても覚えないね、君は、と笑って言う。

笑っているのは人前だからであろう。


玲子は緊張してますます手元が危なくなり、ついにギブアップして、はい、あなたの言うとおりよ、と無理に笑いながら言った。

麻子には彼らの結婚生活が、共感や理解や暖かさの決してない、楽しくないものであることを確信した。


トーマスですら、楽しくないのだ。そもそも楽しく生活するには自己中心的過ぎ、他人に厳しすぎるタイプであろう。


玲子が次第に人間として壊れていくであろうことは麻子には目に見えていた。(この麻子と言う人間にも、玲子と同じような人生を断ち切られるという構造が作られていますしね、夫婦間の愛憎が複雑なものとなっていました。

それでも、幸せとは言わないまでせめて我慢できるほどであればよかったのですが、残念ながらそれですらないとすると、なにか目に見えぬ悪意のようなものがどこかで働いているようでした。


わたしらも別にピンポイントで明らかな意思を行使するわけではないのです。いろいろな次元ですこしずつ色が重なっていき、ちょうど日本画で色を重ね重ねして描いていき、ついにはある色がおのずと実現されていくのにも似て、現実の世界が動いていくのです。


玲子の場合は、好事魔多しの典型であるようですね。

その輝かしい才能に嫉妬した誰かが強力な影響を与え、一方トーマスと言う個人がある種のトラウマを抱えるような性格と環境にあった、そういうリアル世界での個人的な事情も影響するのは事実です。


そしてまさにそこでこそ、もうひとつ次元の異なるなんらかの作用がまた働いて、際限もなく影響が積み重なっていく、ということになるのです。

それにして、近い親戚のもつ守護天使のような愛情の影響は侮れません、その力を信じ、安心していいのです。


麻子は彼女を憎むリアルかつ上位の感情に取り囲まれていましたが、強力に護ってくれた彼女の亡き祖父のような意識もあったのです。その力に助けられて、彼女は自分を失わず、冷静に夫の罵声にも動揺せず流れるように未来を信じて生きてきたのです。


二組の、構造の相似した夫婦関係が、二人の女性の関係をすこし親しいものに変えていくわけです)

東天
存在の涯てを物語る
0
  • 150円
  • 購入

3 / 15

  • 最初のページ
  • 前のページ
  • 次のページ
  • 最後のページ
  • もくじ
  • 購入
  • 設定

    文字サイズ

    フォント