言葉の手前で

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 十六

 このシッターの時思い出してもおかしいのは、おむつを替えるとき尻を高く上げていわ
ゆるモウモウのポーズでふいて貰うのを待っていたことだ。これなど英子を世話人の一人
と見ているからの行動なのだろう。
 両親にそのポーズをしたのを見たことが無い。ワアワア泣いて嫌がるのを絵本を手に持
たされてつい気をそらされるのが常だ。

 ところで、それから五十日くらい経過したときのシッター仕事では、おむつをはずした
あと、二人でおむつ入れの手提げを探し回るはめになった。

 いつも保育園に持って行くピンクの大事な手提げだ。朝はまずこれを友理が手に提げ、
準備を待っているのだそうだ。
 英子が少し大げさにゆうりと相談しながら探すと、ゆうりも行動を共にする。それは
やっと玄関に置きっぱなしだったのを見つけた。するとゆうりはひとことも発せず、自分
でお座りしておむつを履こうとした。
 ああ、自分で履くのね、英子は言って少し手伝い、立っちさせる。ゆうりが自分で前を
ウンとひきあげるので、素早くうしろを引上げて手伝ってやったのである。
 そのあとの服のぼたんかけに少し手間取ったが、まあ上々の協力関係であった。

 最初のふたりきりのお留守番以来、二度目のお留守番ではやはり成長がこんな風にそこ
ここで見られる。当然のことだが。


 十七

 ゆうりの小さな布団セットがあるのを出してやると、喜んで倒れ込む。啓司が寝かした
時はしつこく背中をとんとんしてやっと深い眠りに入るのをみたことがあったが、英子が
最初に昼寝当番をしたときは、まあ何とか眠ってくれた。昔啓司に歌ったうたなどを歌っ
て。

 そして今回四月末以来六月半ばという時の経過の中で、ゆうりはうれしそうにその上に
バスタオルとともに倒れて、英子もそばに寝転がり、背中を叩こうとするとそれをはねの
け、ときどき自分の右手で自分の腰をとんとんした。そうしてすぐにうつむけに眠り込ん
だ。これも保育園のしつけのひとつらしい。もうひとつ、しつけに関しておどろいたこと
がある。

 この昼寝から目覚め、ゆうりは両親ではなく英子を、つまりシッターを認識したので、
少し恥ずかしそうに寝ぼけ眼で笑い、立ち上がったのだが、その手には、彼の小さな枕が
ぶらさがっていた。それを押し入れにいれようという気持がありありだった。

 英子はそれを上の段に放り上げてやる、ゆうりがバスタオルをかかえて来るのでそれも
放り上げてやる。つぎはしきぶとんだが、これをゆうりがたたもうとしたとき、あ、と叫
んで、その下に絵本があるのに気づいた。
 それをまず取ろうとするらしいので、英子はじゃ、おふとんたたむよ、というとウンと
うなづく、押し入れの下にいれるよ、というとうんと許可した。

 一番最初のシッターの時すでに、英子は本当に驚いたのだが、ふたつに畳んだ敷き布団
をゆうりが自分でずるずる押して運び、押し入れに立てていれ、最後に脚でぽいとけって
正しい位置に立ててから、扉を閉めたのだった。
 それはおとうさんのまねだろう、そうするものだと思っているらしいとさとみさんは
笑って言った。しかしおそらくおおもとは保育園の行動のしつけを基本にしているのだろ
う。
 

 十八

 ところで最初のシッター勤務に、英子は自前の小さなビデオカメラでゆうりが本を見な
がら指差したり、両手をブラブラさせルラルラと舌を出しながら流音を聞かせるのを撮影
していた。

 それはテレビ番組の登場キャラクターを使った雑誌であったので英子にはまだ、ちんぷ
かんぶんの世界であった。それでいい加減に反応しつつカメラに収めていたのだった。
 その後三回程それを見てみると、ゆうりは同じことを何回もしている。どうしても何か
わかってほしかった、あるいはお話ししたかったのだ。あるいはお話ししているつもり
だったのだ。ただシッターがどうしてもアホなことばかり言っているのでくり返したらし
い。

 その椅子のようなキャラクターが両手を振ってルラルラとダンスだか唄だか歌うのだろ
う。今でもわからないが。そしてわかってあげられなくて申し訳なかったと思われるの
だった。
 思い出して可愛さに思わず笑ってしまう場面はたくさんある。始めてクローバーの野原
に靴で入ったとき、それを踏んでいいのかわからずにとまどった。花を摘んだり踏んだり
するのは勿論禁じられて来たのだろう。三分後には盛大にクローバーを引きちぎって
回った。

 十九

 どんどん進化するので、どうしても今までの経過をかいておかねばならないのはジャン
グルジムの話だ。
 これは、ゆうりの母方の叔父が、これまでとうってかわっていい人になってしまったと
いう話で、まだゆうりが歩きもしない時期にこれを買って来たと言う。あるいはパチンコ
で勝って、とか。

 最近二週間合わないでいるうちにとてもこれで楽しくあそべるようになった。そのころ
は、ジャングルジムの一部である滑り台もブランコもほとんどつかえなかった。ただよじ
上りだけはある程度上達していた。

 かなり上まで登ったが、また足を下の段にのせて降りるということができずに、途中で
手だけでぶらさがってしまう。下まで落ちると危ないので誰かが地上に降ろした。四角く
柱に囲まれている。
 そこをくぐって外に出るということには思い至らず、わーと泣き出した。少し上から引
き出そうとしても抵抗する。
 一番下からズルズル引き出そうとしても大泣きする。よく見ると、絶対引きずり出され
まいと下の柱に両手でしがみついているのだ。これでは大人はどうしようもない。
 泣いているので、どうしなさいという指示にも反応しないし、まずは最初の自分のプラ
ンを実行したいのだ。それがどんなものかはわからないが。

 ついに、父親らしく啓司が、腕を上から床まで伸ばしてゆうりを引きずり出した、力任
せである。怒って大騒動するかと思いきや、数秒後には他に気が移っていた。


 二十 

 これが前回のジャングルジム事件だった。
 ところが二週間の間に、実は風邪がながびいて食欲不振のため三キロもやせたらしいが、
力は強くなっていた。
 丸いプラスチックの柱を握る力がいかにも安心して見ていられる。脚はやっと届くくら
いの感じなのだが、バランスよくよじのぼり、可能な限りの段まで登ると真っすぐに立ち、
どうだ、というようにこちらを見下ろした。
 そして中をずるずる落ちて行き、下からははいはいで出口になっている棒をくぐって出
て来てにたっと笑った。そこにはじゃまな布も垂らしてあったのにもめげず脱出したのだ。

 それを何回か練習し、満足したらしく、すべりだいもお腹でするするとすべり、さて、
懸案のぶらんこである。

 その前にゆうりはじっと立っていた。しばらく観察して、多分考えていた。ぶらんこの
座席のまえには落ちないように股とお腹のシートベルトがついていて、それを越えるか、
横から脚を差し入れるか、後ろから大人に抱き入れて貰うかしかない、というように見え
た。
 英子がまずはどう反応するのか待ち構えていると、驚いたことに、ゆうりはそのシート
ベルトが充分緩いと見抜いたらしく上にするっと持ち上げてそこをくぐって自分でブラン
コに座ってしまった。思わず、
「あたまいいねえ~ゆーくん」
とみんな叫んだ。
 ゆうりは少々得意そうに澄ましていた。母親が少しゆすってやったが、どうもゆれは気
に入らないらしくベルトをあげてまた出て来た。


 二十一

 そう言えば、最後にあった時には見なかったが、それまでよく見かけた「もういちど」
を意味する仕草がある。
 右の人差し指をたてて「うー」と「おー」の間のような音を立てる。どうしてももう一
度、のように見える。

 二回目に英子がビデオを回していたときのこと。
 啓司とさとみさんがが部屋の両はしに座っていた。ゆうりは楽しくてたまらずふたりの
せなかにおんぶされて回った。
 なんどもなんどもおんぶされて回った。そのたびに背中に軽くかみついた。途中でつか
まえられたり、撮影中の英子にもおんぶしてもらいなさい、と言われて少しこちらに来か
けたが首を振ってターンした。

 疲れた両親はゆうりをねかせ、おなかをくすぐり始めた。
 キャッキャッと幼児特有の可愛い声を上げて笑った。そして「もう一度」のサインを出
した。またくすぐられキャッキャッと笑った。やめるともう一度のサイン、指を立て口を
とがらせ「うー」と「おー」との間の音を発した。
 そんなふうに五回くらいはくすぐられて幸せこの上ないゆうりとなった。

 ただカメラには容量の関係で最初のキャッくらいしかはいっていない。
 英子はそれを自分の眼で見たのをよかったとも思った。

 二十二

 ゆうりの思っていることと大人のさせようとすることが違うことがおおいにあるわけで、
たとえば最近ゆうりの子ども椅子の場所が変わっていた。
 親たちがいないとき、ゆうりは大きな椅子をずらそうとし英子に伝えた。
 そしてゆうりの椅子をつついて元の位置に戻させた。

 「だから」というスポーツドリンクをボトルごと与えてみた、ほんの少し残っていたの
で。飲んでからおいしい?と尋ねるとオイチイのような反応があった。
 指差してもっと欲しいという仕草をした。

 またペットボトルのふた開け訓練も行った。親がさせないようにしているものなのだが、
オランウータンの子ですらできるのにゆうりはできない、方向すらわからないのだ。

 これをメモし損なってはいけないと英子が執着している、微笑ましくも意味の分からな
い行動がある。

 キッチンの端っこと、ダイニングのカーテン下にちょうどゆうりが座るくらいの段がで
きている。サッシドアの都合であろう。
 ゆうりはそこに行きちょこんと座り、右と左を触って何か取り出すような仕草を必ずす
る。車のチャイルドシート? あるいは英子の考えでは保育園のおすわり椅子、そこでや
や気取ってゆうりくーん、と呼ぶと恥ずかし気に声にならない「はあい」とともに右手を
上げる。母親がしても同じなので或は正しいかも。    

 それにしても、木製の車が最近また出現したのだが、今度はこれにまたがって脚でこいで
進むことを祖母が教えた。まだ非常に危なっかしいのだが一応前進したりバックしたりして、
例の場所にまで来る。すると車から降り、その椅子?にちょこんと座って満足そうにする。
 ちょっと身体を前屈みにして嬉しそうな顔をする。
 これは何の意味なのか、いつか知りたいものだ。


 二十三

 言葉を発しないゆうりの頭の中には、概念化できない概念がはっきり具体化している。
 どの子も懸命に育って適応しているのだが、頭の中と言葉による表現の間に、ゆうりに
は特異な早期な乖離があるような気がして、そのせいで哀れにも可哀想に思われるのだ。
 本人にはそんなことすら意識に無いだけに一層いじらしく思われた。

 最新の子守りのときの話だ。ゆうりは英子を見るとギャーと笑って喜びを示した。米粒
のような真っ白い歯が見えた。だいたいゆうりの表情はかなり異なった様相を呈する。
 印象的なのはなにか考えているか、本を見ているかしているときの眉と伏せた眼の曲線
の静かさだ。それが一人目のゆうり。
 次はすこし垂れ目の眼を大きく開け黙って人々を観察している眼だ。黒目も大きいが白
目が澄んで目立っている。
 それからご飯を食べようとして思い切り開けた口だ。
 それから何かをほしがって手を伸ばして叫ぶゆうりだ。この時は凄い大声なのでみんな
が反応せざるをえない。
 次には、うまく要求が理解してもらえて思ったとおりのことがおこるとき。こっくり
こっくりしてそうそう、と言っているかのような満足顔だ。
 ごちそうさま、のときはからだをまげて両手を三角に合わせ、にかっとする。

 おとうさんから注意を受けた時、もちろん怒っていうわけではないのに、神妙そうな、
不満なような、様子見のような、可哀想なくらい静かな「待ち」の瞳をする。
 叱られているのがどうしてわかるのだろう。
 してはいけないこと、ダメという言葉をゆうりはいつどんな風に理解したのだろう。

 二十四

 なにかをしようと意見が一致したものの、英子があれこれわからずに困っているとき、
ゆうりも一緒に探してくれる。
 帽子なのヘルメットなのというようにさわってみせる。
 ちがう、自転車はおばあちゃん乗せられないのよ、もうそれでわかっている。

 普段履きの靴にはNOというサイン。上等の靴を探すと喜んで叫んだ。
 バギーをさわってこれは、というサイン。歩いて行くのよ、これで了解。

 遊んでいる時のアッタ、とかアリ?とかさまざまな似たような発音、プーさえ言えない
のが可哀想だが、言っているつもりなのだろう。

 長い昼寝から目覚めた時、この日は午前中も何か不機嫌、というか気分が優れないとい
うか、シッターが来たということは両親がいなくなるということだと関係がわかっている
のか、さだかではないが、起きた時も泣いて起きた。

 ふとんの片付けも忘れていたので、あとから一緒に片付けた。ともかくそれまでは悲し
そうに泣くので、おとうさんたち、すぐ帰るからちょっと待っててね、わかった、大丈夫
よ、ちょっと待ってようね、と抱いてやった。
 それから、ドアまでいき、隙間に指を入れようとするので開けてやろうとすると、乱暴
に(これはゆうりの唯一の欠点だ、ノーの反応が大きすぎる、余りに嫌そうな顔をする)
それをとめた。
 だれかが禁じたのを認識しているのだろうか。

 布団を片付けてからも、電動のゆりかごにすわった。そこに先に陣取っていた大きなぬ
いぐるみを乱暴に捨てた、ぬいぐるみは余り好まないようだ。揺らしてやると歯を見せて
笑ったが、何かを背中に欲しいらしい。
 クッションがあったのでそれを裏表おかまいなく入れてやると満足していた。しばらく
するとわざわざ振り返って、その柄を見た。
 否定的な様子なので、表面の柄にしてやるとにやっとした。それは美しい模様だった。
 きれいね、きれいな柄ね、というとこっくりした。
 

 二十五

 トイレでおむつを替え、おむつ用のバケツをもとうとするので、それはしなくて大丈夫
よといい、すぐに理解したので、自分からおむつを履き立ってからぐいとひきあげる、こ
れはもう二度目なので英子も理解が早い。

 このあと、英子自身がちょっとおしっこするね、とそこに座り、ドアは明けっ放しにし
た。子育ての経験からいうと、子どもはある期間トイレに母と一緒にいるものなのだ。
 ところが、ゆうりはさっと姿を消した。遊びの部屋で少し考え深い困ったような顔をし
て、いいのかな、悪かったのかなみたいな顔をしてゆりかごの電動ボタンをいじっていた。
 英子は全体の意味をそのボタンに託して、あ、これが消せなかったのね、と言いかちっ
と消した。余りにしつけが成功している、そうも言えた。
 それほど理解力がいいということだが、まあそうなのだが。

 雨が降って公園に行けなくなったが、かわりに玄関で道路を通る車を見ることでゆうり
はまったく異存がなかった。
 疲れて祖母がしゃがんでいると、ゆうりもにや、として隣にしゃがんだ。
 ゆうくんも疲れたの、といって祖母はまた力を込めて数日で背丈が伸びた感じのゆうり
を抱き上げ、バス、タクシー、トラックー、タンクローリー、救急車と叫んだ。
 
 ゆうりもきっと叫んでいたのだ。
 最初の瞬間に喜んで叫んでくれたことがその日の喜びだった。
 丸い胴体はいつものように可愛かった。

 ゆうりの表情をもうひとつ英子は思い出して、かわいそうでたまらなかった。
さとみさんが、彼女にも分からないダンスがあり、それを英子の前で踊ってみせた。ツン
ツンツン、と人差し指を尖らして左右に腕を突き上げる。
 そのあとを英子は思い出せないのだが、要するに手遊び唄のようなものだった。それを保育園でするのだという。
 それを見ていたゆうりの恥ずかしそうな照れたような表情もひとつ追加の表情集だ。

 ちょうどそのとき、あろうことかパトカーがゆっくりと前を走っていた。
「パトカーがきたよ」
と英子が叫ぶと、ゆうりは ぱ、と囁いた。
「そうね、パパパパトカー」

 ゆうりは着ていた新しいTシャツの柄のパトカーを指先でつんつんつついた。
                     了

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東天
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