九
震災のその日と重なってしまった引っ越しを堪え、夫婦共にそれなりに落ち着いた頃、
風薫る五月が近づいた。広い平地が広がる千葉県市原市では、早春、海から強風が毎日吹
き付けた。これがいわゆる関東の空っ風なのね、と思い知らされた。
ゆうりは比較的風邪も引かず保育園に喜んで通っていたので、出番がなかったのだが、
やっと英子へ要請がきた。啓司が仕事に忙殺されているので、いわゆるイクメンをやって
いる暇がない、というのである。
三日続けてゆうりに会った。
アクアラインをバスで通う。市原市から羽田空港までのその道の、これも人の、特に男
たちの協力の結果であることをこんなにも具現している例は他に余りないであろう。
呑気な真っ平らな田園地帯を高速が走る。
海側には人工の土地にずらりと並ぶコンビナートの、とりどりの煙突と煙がうっすらと
浮かんでいる。
突然東京湾の波の上を掠めて高速道路が浮かんでいる。
引き潮の時には、小舟に乗って人等が働く。その湾に降り立って海苔か何かを作ってい
るらしい。ほとんどの場合そうだったが、曇っていると、空も海も同じ灰色となる。霧が
でるとまさにどこに進む路なのかわからない。風が強い時には最悪だ。運転手がたえずバ
スの車体を修正しつつ走らせる。手に汗握るという感じで見守っている。
すると突然、風がない。海底に潜る道があらわれる。
これはこれで恐ろしい。三、一一の前日に通って市原市まで辿り着いた同じトンネルで
ある。どこまで運の強い自分であろうか、と英子は思う。
不運だと思う時もある。
十
しかし、今はゆうりの世話をしなければならない。それが英子への至上命令である。
必死で共に遊んだ。最初、ちょっとやり通せないような気もしたが、実はなんら深刻な
問題は起きないのだった。
一歳になるやならずから、あちこちの保育所をたらい回しにされ、時にはボランティア
のおばさんと数時間を過ごす、そんな生活をゆうりはタフにこなしていた。生活の細々し
たパターン化がよく理解され、喜んで実行されているさまは他の子どもに見られない程だ
と英子は舌を巻いた。
待つべき時は待ち、必要なものは要求した、文句があると大声で叫んだ。
さて三日間日参して最後の夕刻帰るとき、ゆうりは啓司の自転車の前に乗り水色のヘル
メットをかぶっていた。それは保育園に行く時のスタイルである。ついでに買い物に行く
のでふたりで英子をバス停まで送って来たのだ。
英子がじゃまたね、と急に横断歩道を渡り始めると、ゆうりは少し慌てて理解できない
ような顔をした。そしていつまでもいつまでも顔を曲げて祖母の立つ姿を見つめ続けた。
子どもの心の一途さが英子の乾いた心に沁みた。
また似たような振る舞いがその次の週にも見られた。別れぎわに今度はバギーで母子三
世代バス停まできた。ゆうりは勿論そこで別れが来るとは知らなかったのだろう、急にバ
ギーの向きを変えられ、祖母が見えなくなった。
それで、まず右に頭を傾げ祖母の姿を後ろに確認した。ところがバギーが少し斜めに進
んだためすぐに見えなくなった。すると案の定、かしこいゆうりは今度は逆の左方向に頭
を傾げて振り返り、祖母の姿を確認した。それからは真っすぐバギーが進んで行った。
十一
ゆうりはまだ言葉を発しない。男の子は遅いとよく聞くように、すべて理解しているの
に自分の意志もはっきりしているのに、それを言葉で伝えることが不可能な状態だった。
もちろん指で指したり、取ったり、行動で示すことはできる。
ゆうりに独特なところは、イエスノウがはっきりしていることである。言葉は使わなく
ても首をこっくりし、あるいは顔を左右に振った。質問の意味はすべて理解していた。た
だ否定疑問文で尋ねられると、困ったような顔をした。
おしっこした? こっくり。おむつかえる? いやいや。でもおしっこしたんでしょ?
こっくり。じゃ替えよか。いや。
この時、ただの孫に夢中のおばあちゃんでない面が英子にあらわれた。
いったいゆうりの頭の中はどうなっているのだろう。言葉の理解力、行動や物事の手順
の意味、してはいけないこと、したいこと、すべてすでに脳内に明らかに備わっている。
十二
英子の腕時計は、あたらし好きらしくおおぶりのGPS、ソーラー電池つきの男物である。
英子自身は耳が少し遠いので聞こえていなかったが、一時間ごとにピッと小さな高い音を
発した。ゆうりはさっと、自分の首に触った。
そうなのだ、その音は体温計の音と同じだったのだ。一時間ごとにゆうりは首をさっと
触った。何も言わない。
その後、ゆうりの母親のさとみさんが熱を測ったことがあった。体温計を腕の下に入れ
てまもなく例の高い音がした。英子はゆうりの反応をふたたび話したりした。さとみさん
が体温計をしまおうとすると、ゆうりが叫んだ。
アブ、と聞こえる。
「なに、自分で測るの」
こっくり。そして首に押し当てた。
「そこじゃなく、脇の下でしょ?」
しかしあくまで自説に固執の様子。さとみさんは、半ば英子に向かって言った。
「ゆーくん、保育園では首でお熱を測るの?」
こっくり。
ゆうりはこのすべてを本当に理解したのだろうか。
この文章をそっくりわかったのだろうか。
英子はますます孫の頭の中の様子に興味を引かれた。