天川さく「ムーン・ガーデン」
ロングジャケットに革のブーツ、紺色長髪の青年ナユタは歩みをとめた。
背負っていたライフル銃をおろして地面に膝をつく。
地面といっても地球ではない。
月だ。
地球の唯一の衛星である、月だった。
月面にコロニーを作って人類が生活できるようになってはや130年以上。ナユタが所属する企業の本社もここ月面にある。地球環境コンサルタント業務を主体とする企業だ。地球の環境に関係するあらゆる問題に対応する業務だった。
月面のコロニーでは地球上と同様に植物の栽培ができるような土壌を敷き詰めてあった。ナユタが膝をついているのも、そんな土のひとつだ。
いってみれば人工的な土だ。
月の土ではない。
それでも土は土だ。触れていれば温かい。土独特のふんわりと包み込む匂いが気持ちを落ち着ける。もちろんそれだけではなく――。
ナユタは目を閉じる。
黙祷するように息を止める。
1秒、2秒と時が流れる。戻すことのできない時間が流れていく。
やがてナユタはそっと瞼を開くと鞄から持参した苗を取り出した。
ナナカマドの木の苗だ。
手のひらにすっぽり入る小さな苗のくせに、しっかりと葉を伸ばした苗だった。羽のような葉が数葉集まって1枚の葉をなしている。
育てば房状の白い花をつけ、赤い小さな実となる。
七回かまどで焼いても燃えない、そう謳われるほど頑丈な木だ。
ナユタの脳裏に苗が育ち花をつけ、真っ赤で小さな実をびっしりとつけたナナカマドの木が浮かんだ。葉を落としてもなお房状の赤い実がしっかりと残っている。ココも――その姿を眺めれば目を細めたに違いない。
ナユタの背中がひんやりと冷たくなる。
そしてナユタはスコップを取り出し土を掘る。スコップが土に当たる感触が、振動が、手から腕へと伝わって、胸へと伝染しそうだ。
一心不乱に土を掘っていたココの姿が脳裏に浮かんだ。
笑うココの顔がちらついた。泣くココの顔が浮かんだ。叫ぶココの顔が、はにかむココの横顔が、怒りに頬を振るわせるココの口元が思い浮かぶ。
それらを一切振り払い、ナユタは苗をそっと土に植えた。
***
「植えるなってどういうこと!」
「先ほども申しましたように、そちらの品種は将来的に在来種を絶滅させるおそれがあり――」
「在来種じゃ生き残れないからこうして作ったんじゃん。バカじゃないの!」
ナユタは演台から科学者席の女と隣りのモジャモジャ頭の営業部員を交互に眺めた。
ほほう。粘り強いことで定評のあるモジャ毛くんをここまで困らせるとは。なかなかやるな、この女。それだけではなく――。
「これは世界政府の決定です。世界環境保護基準法にのっとった正規の手続きでして。これ以上勝手に植林を進められましては当方といたしましても強硬手段をとらざるを」
「焼き払うっていうの? はっ。やってみれば。燃えないから。この木はそういう品種改良がしてあるの! どんな二次災害にも耐えられる強度があるのよ。根の張り方もハンパないから」
「そういう方との対応といたしまして、当方にも相応の部署がございまして」
ちらりとモジャモジャ頭の営業部員がナユタの顔を見る。ナユタは、ああオレの出番か、とマイクを手に取る。
「えー。われわれ修繕部は、申し訳ありませんが環境第一に任務を遂行させていただきます。それには」
「あたしたちだって環境第一でこうして品種改良をしたのよ。10年! 10年かけて昼夜を問わず血肉注ぎこんで作り上げた品種なんだよ! バカにしないでよね!」
……ヤバイ。ナユタは問答をしながら女に釘付けになる。
ふっくらとした小柄な身体つき。つぎつぎに動きを変える緑の瞳。肉厚の大きな唇。セミロングの癖髪が口を開くごとにふわふわと揺れている。赤いドット柄のシャツにゆったりとした緑のカットー。服装からも顔つきからも「自分」を主張する力を感じた。年齢は同年代くらいか。
ありていに言えば、どストライク。
めちゃくちゃナユタの好みだった。
頬にうっすらと浮いたソバカスですらチャーミングさが増して見えた。
「ありきたりな返答が欲しくて会場に来たんじゃないのよ!」
女がいきなりマイクを演台に投げつけた。マイクは鋭くナユタに向かって飛んでくる。
もちろんナユタは事も無げにマイクを眼前で受け止めた。
そのための修繕部。
実務執行部隊だ。
女は子どものようにその場で地団駄を踏む。……ヤバイだろう。ナユタは気が遠くなりそうになる。可愛すぎだ。
*
惚れた女がたまたま科学者で、たまたま正義感が強くて、たまたま行動力があって、たまたま強力緑化種の開発に成功した。
それ自体は悪いことではない。
地球の緑を増やしたい。
プチ氷河期以降、世界各地の痩せた土地を豊かにしたい。
そういう思いはナユタも持っている。
「まいりました」
モジャモジャ頭の営業部員が会場の外で書類を鞄に入れつつナユタにぼやく。
「あの手の科学者は話が通じません。……まあウチの技術開発部員に比べたら、どうってコトはありませんが」
ははは、とモジャモジャ頭の営業部員は乾いた笑いをする。それから、はい、とその技術開発部が開発したアイテムをナユタに渡す。
思わずナユタはアイテムを凝視する。透明な箱に色鮮やかな飴玉サイズのアイテムが入っていた。さまざまな色の飴玉アイテムだ。
モジャモジャ頭の営業部員も苦戦する技術開発部の特製品。安全だという保障はない。安全どころかひょっとしたら――。
「……試作品?」
「まさか。ちゃんと量産システム係の製造したものです。シリアルナンバーが入っているでしょう? あ。残務処理には情報調査部員をよこします。10日でお願いできますか?」
「んー。それくらいが妥当かなあ。仕事が詰まっているんだろう?」
「できれば5日で」
「無茶を言うねえ」
「では1週間で」
よろしくです、とモジャモジャ頭の営業部員はナユタに敬礼をすると、脱兎のごとく走り出した。
どいつもこいつも逃げ足だけはいつも早い。まいったねえ。苦笑してナユタはパイプを取り出し火をつけた。一服でもしていなければやっていられない。
「ん」
視界の隅で何かが動いていた。ふわふわと髪が揺れている。さっきの女か?
「ちょっと、お嬢さん」とナユタが呼び終わる前に女は振り向き、ナユタに向かってスコップを突きつけた。女は怒ったような顔つきでスコップを受け取れとゼスチャーをする。
「1日100株。もしくはそれ以上。それがノルマ。じゃないと生育に追いつけないし緑化の意味がないから」
さっさと手伝えと言いたいらしい。
「植えるなと宣告した会場の至近距離でさっそく植林とは勘弁してもらえませんかねえ」
「だからじゃん。気分の悪い建物は木で覆われちゃえばいいのよ」
「なるほど」と言ってナユタは先ほどモジャモジャ頭の営業部員から渡されたアイテムのひとつをライフル銃に充填する。そして女が植えたと思しき10株ほどの苗に向かって発砲した。
たちまちピンク色の光が辺りを覆う。
光が消えたあとには雑草もろとも苗は灰になっていた。女が「燃えない」と豪語していた苗がだ。ナユタに良心の呵責はない。これは仕事だ。
ナユタの表情を読み取って、なにを訴えても無駄だと女は悟ったのだろう。
女はいきなり走り出した。
全力疾走だ。
そしてナユタから200メートルほど離れたところで植林を始めた。
おいおいおい。オレの話を聞いていなかったのか? 女は頬に泥をつけつつ一心不乱に苗を植えている。その度にナユタはアイテムを銃に充填して発砲をした。
女はへこたれない。
どれだけナユタに苗を駆逐されようとも走り出し、なんどもなんども植林を続けた。
「いい加減にして、お嬢さん」
「お嬢さんじゃない。あたしにはココって立派な名前がある!」
「ではココ」とナユタはココの腕をつかんだ。そのまま抱き寄せる。
見事だ! ナユタの胸が震える。なんて抱き心地がいいんだ!
「ちょっと!」
「そんなに闇雲に植林されてはオレも対応しなくちゃいけなくなる。このアイテムはただ苗を焼き払うわけじゃない。その土壌を周囲の土壌と同化させる働きがある。つまり、どんどんここらの土地がやせ細っていくわけだ。――あまり撃たせないでくれないかな」
「そんなもの使わないでよ!」
「うん。使わせないでおくれよ」
ナユタはゆったりと微笑むとふっくらとしたココの唇に顔を寄せた。唇が触れると思ったその瞬間、ナユタはココの平手打ちにあった。……まあ、当然だ。
*
「100年。できれば1000年。それくらいの周期で土壌は改良すべきだと思わないかい? 急激な変化は地球にダメージを与えるよ」
「そんなに待っていられない。あたしたちの意思を継いでくれるひとが生まれる保障もないでしょう」
「ココはせっかちだねえ」
「必要なのは今なの。今ここで土が死んでいく。それを黙って見ていろというの? バカ言わないで」
「ひとが自然を制御しようとするのは傲慢だよ?」
「自分にできることがあるのに、黙って見ていられなって言っているの!」
モジャモジャ頭の営業部員が示した1週間という期限のぎりぎりまで、ココとナユタのイタチごっこは続いた。
まさに、ごっこ、だ。
ナユタが本気になったなら、任務など2日もあれば完了する。しなかったのは、ひとえにココの存在だ。少しでも長い間ココとすごしていたい、その思いがナユタをとらえた。
甘い考えだ。
仕事に対しても、ココに対しても、自然に対しても、そして自身に対してもだ。
それでもナユタはイタチごっこを止められなかった。
ココが手を泥だらけにして10株植えれば、植え終わるのを待ってライフルにアイテムを充填した。植える前ではない。ココが植える姿を、額に汗して土に触れる仕草を見ていたくて、愛しげに苗に触れるその背中を見ていたくて、作業が終了したココが腰に手を当て額の汗を拭うその時に、ナユタはライフルの引き金を引いた。
ココも負けてはいない。
ナユタが仮眠から目覚めるとナユタの周囲一帯に苗が植わっていることもあった。それこそナユタが身動きできないほどにだ。ただいたぶられているだけじゃないんだぞ、という確固たる意思が伝わる植え方だった。
ナユタは笑ってパイプに火をつける。そして甘い香りの煙を吐き出しながらアイテムを充填したライフルの引き金を引く。
ココはそのたびに地面に両足を叩きつけた。両手を頭上で振り回す。やがて気持ちを切り替えたらしく、また苗を植え始める。――脱帽する執念だ。
ナユタは肩にライフルの銃身を乗せる。
まったくたまらないね。ココのくるくると動く緑の瞳。苗に対する愛情。うーん。その愛情。少しでもオレに向けてくれないかなあ。
うっとりとココを眺めつつナユタは妄想に浸る。
ココと一緒に生活ができたらどんなにか楽しいだろう。わざとココの嫌いな半熟玉子を朝食に出して怒鳴られたり、仕返しにオレの苦手なスモークサーモンサンドをランチに出されたり、出かける前には必ずキスを交わして。お互い専門の職業があるから自立したパートナー関係を築けるはずだ。
――かなうはずのない思い。だからこその妄想。いつまでも続くわけがないイタチごっこ。
「……そろそろオシマイにしないとねえ」
ナユタがそう、腹をくくろうとしていた頃だった。
「きゃあ!」
ココがスコップを持った手を頭に当てた。
苗が急速成長を始めた。成長だけでなく、動物のように幹や枝を動かし出す。
1株や2株ではない。
これまでココが植えてきた3500株にも及ぶすべての苗が連鎖反応のごとく動き出した。最後に一斉処理するつもりで、ナユタが放置しておいた苗だった。
「この辺りの土地がナユタの銃で急激にやせ細ったから? だからそれに対応しようとして?」
ココは手足を震わせる。
急激成長をした木々は見る見る数十メートルにも成長を遂げ、道路や建物を覆い出す。
こうなったら仕方がない。ナユタはアイテムを銃に充填する。
――遊びの時間は終わりだ。
「やめて!」
ココが苗へ向かって走った。
「駄目だ! ココ!」
弾丸は炸裂し、すでにあたりはピンク色に染まっていた。
それだけではない。
閃光はショッピングピンクだった。
「しまった!」
目視で威力は今までの200倍と想定された。量産品ではない。あきらかに試作品だ。
「技術開発部の仕業か! あいつら、またやったな!」
ナユタは目にも留まらぬ速さで別のアイテムを銃へ充填する。
だが遅い。
木々は断絶魔のごとく枝を左右へ振り回し、その枝のひとつがココの背中から腹部へと貫いた。
「ココ!」
ナユタはココに向かって手を伸ばした。
*
手のひらが真っ赤に染まっていく。抱き寄せたココから血が止まらない。ナユタはココの頬に顔を寄せた。
ココの手が動いた。
突き飛ばされるのかと思った。
丹精込めて作り出した木々を燃やしたあげくに自分まで殺されようとしているのだ。どれだけナユタが思いを寄せたところでココに届くはずがなく――。
ところがココはナユタの背中に手を回した。
どこにそんな力が残っていたのかと思えるほど強い力だった。強く、温かい力だった。
「……ごめんね」
ココがつぶやく。途切れ途切れの声で囁く。
「……仕事の邪魔しちゃった」
「ココ」
「……わかっていた。ずっと、自分のやっていることが本当はよくないことだって。でも止められなかった」
生み出してしまったから。ひとの手で地球を緑で覆える力を作り出してしまったから。
「……力は、こわい、ね」
ココの言葉がナユタに突き刺さる。力はこわい。自分のライフル銃を見る。実弾が入っているわけではない。この銃でひとは殺せない。けれども――ひとの心は十分に殺せるのだ。目の前にいる自分が惚れた女を。
ナユタ、とココが名前を呼ぶ。
「……わがままにつきあってくれてありがとうね」
ココの手に力が入り、顔をナユタの顔の近くへ押し上げる。ココは手を震わせながらナユタの頬へキスをした。
「……わがままついでに」ココがナユタの耳元で囁く。
そして視線を空へと向ける。
月があった。
満月だ。
3500本以上の木々が灰になったことも、その枝がココに致命傷を負わせたことも、なにもかもウソのように、くっきりとした月があった。
「……木を植えて。ここが駄目なら」
あそこに――。それを言い終える前にココの頬に涙が伝わり、やがてココの手がナユタから離れた。ココの身体から一切の力が消えていく。
ナユタは強くココの頭を抱きしめた。身動きができない。頭の芯が痺れたようにちりちりとうずく。
そのままナユタは情報調査部員がやってくるまで、温もりを失ったココを抱きしめ続けた。
***
それから3年の歳月が流れた。
ナユタは仕事がひとつ終わるたびに約束どおり苗を植えた。
自分の給与の数年分をつぎ込んで購入した、バカ高い月の土地だ。月面本社に隣接したコロニー内部の土地だった。
在来種など存在しないコロニーの土地。しかも強力セキュリティのかかった月面本社隣接の土地だ。ココの改良品種を植えても問題にはならなかった。
申請も書類を出しただけで済んだ。
雑務申請係も兼ねたモジャモジャ頭の営業部員が書類にぽんと印鑑を押す。
「物好きですね」
「律儀なだけだよ」ナユタは曖昧な表情をしてみせる。
モジャモジャ頭の営業部員が申し訳なさそうな顔になりかける。それをナユタは手で制した。
モジャ毛くんが悪いんじゃない。アイテムを信じ込んだ自分にも非はある。技術開発部員はココたちより数百倍はタチが悪い。わかっていたことじゃないか。
それにモジャモジャ頭の営業部員が言いたいこともわかっていた。
ナユタはパイプをふかす。
任務はいくらでもある。胸を痛めるできごとも数え切れない。その度に身銭を切っていてはきりがない。――しかも出会って1週間かそこらの、惚れた女の遺言を守っていたらきりがない。
「……ひどいねえ。オレはそんなに惚れっぽく見えるのかねえ」
まあ確かに、とナユタは苦笑をする。
最後のキス。あれはただの駄賃かもしれない。木を植えるという駄賃だ。ココがナユタを好いていた保障もなし。自嘲してから手のひらを見る。いや、とナユタは思いなおす。
言葉はなかった。
けれども最後に抱きしめたココからは言葉など要らないほど思いが伝わってきた。ココは充分、オレの気持ちを知っていて、だからこそココはむきになって木を植えたのだ。
――ココは、自分の活動を妨害する男を受け入れるわけにはいかない。オレへ思いを口にするわけにはいかなかった。それはココのプライドだ。そういう誇り高いところもまたナユタの思いを高める要素でもあった。
「それにしても」とナユタはパイプから口を離す。
ぐるりと月の庭を眺める。
「こりゃまた元気いっぱいに伸びたもんだねえ。手入れなんて何もしていないのに」
たった3年しかたっていないのに。
月の庭というより森に近い。ナナカマドの森だ。
「どんな品種改良をしたらこうなることやら」
さわさわとナナカマドの羽のような複葉が揺れる。濃い緑の葉の隙間で小さな赤い実が房状になって見えていた。
「季節のない月に植林しても元気いっぱいに育つんだし。元気ありすぎだよ、ココ」
やっぱりコレは地球に植えちゃ駄目だろう。どれだけの生態系破壊を起したことだか。
――そもそも壊すほどの生態系がなかったんじゃん。だから作ったんじゃん――。
弾けるようなココの声が聞こえた気がした。笑い顔になったナユタの顔がゆがんで、ナユタは空を見上げた。
頭上には、月ならぬ、地球が浮かんでいた。ナユタはただ黙ってパイプをくゆらし続けた。
「ムーン・ガーデン」(了)