天道虫

 あれから1年が過ぎようとしている。

小さな産婦人科で出産したトモは、二人で暮したあのアパートに今でも住み続けている。

子供は男の子でケンイチと名付けた。

そろそろ働かないと・・・‘けいこ‘のママがまた雇ってくれると言ってくれた、ケンイチのことは飲み

街のママ達が交代で面倒をみてくれる、ワタシ一生この街で生きていこうと思う、ボロボロの人

生から救ってくれたケンジと暮した街。

 或る日、珍しく暇な店内に一組の夫婦が尋ねてきた、トモはケンイチの授乳で店の2階にいた。

「ユミちゃん、お客さんだよ」

「はあい、今行きます」

ケンイチを抱え、階段をゆっくりと下りていった、すると見も知らぬ人達だが何故か懐かしさを醸

出す雰囲気を漂わせていた。

「はじめまして・・正田と申します・・

「あっ・・・」

ケンジのご両親だ、ケンジに似ている・・・急に涙が溢れてきた、心の底にあったものが一気に

込み上げてくる。

 商店街は、夕暮れの買い物客で賑わっている、ほぼその中央に赤レンガ造りのジャズ喫茶が

ある、店内はマイルスディビスのオールブルースが流れている、調度品もビンテージで揃え、洒

落たコーヒーカップが並んでいる。

「はじめまして、健治の父です、新宿署の亀田さんから連絡を頂きまして、突然申し訳ありませ

んでした」

「・・・・・」

「西野 智さんですね?」

「はい・・」

「亀田さんから全て伺いました、俄かには信じられませんでしたが・・・」

「・・・・・」

「失礼ですが、その子は?」

「ケンイチ・・です・・ケンジさんの子です・・」

「そうですか・・」

「あの・・ワタシ・・連絡先も知らなくて、どうしたらいいか悩みました・・勝手にお葬式を・・・申し訳

ありません・・・」

「とんでもない、お礼を申し上げます、ちゃんと供養をしていただいて、有難うございました」

ケンジの母親は、下を向いたまま嗚咽していたが、優しい眼差しをケンイチに向けながら言った。

「抱かせてもらえるかしら?」

「あっ、はい」

トモは、胸に抱いているケンイチをそっと手渡した。

母親は涙を流しながらケンイチを抱きしめる。

「健治そっくりだわ・・なんて可愛いの・・」

 

 

 

「健治は私共にとってたった一人の息子でした、出来の悪い馬鹿息子でしたが、根は優しい奴

で・・僅か17年しか一緒に居られませんでした」

父親は精一杯涙を堪えていたが、溢れ出したものは止まらなかった。

「失礼ですが・・籍は?」

「いいえ・・・

「そうですか・・・・・勝手なお願いなんですが・・聞いていただけますか?」

「・・・・・」

「私共にとっても、この子は孫になります、どうでしょう、一緒に暮しませんか、勿論生活の面倒は

私が責任を持って・・考えていただきませんか?」

「・・・・・」

「無理にとは言いませんが・・如何でしょうか?」

「あの・・・亀田さんから聞いていると思いますが・・ワタシ、覚醒剤中毒だったんです・・最初はヤ

ザに無理やり・・・・・それはもう酷い生活でした・・心も身体もボロボロで、生きる意欲もなくて、

そんな私を地獄から救ってくれたんです・・ケンジさんが居なかったら今頃ワタシ・・死んでいたか

も・・・偶然二人でこの街に来て、一緒にやり直そうって・・・だから、ワタシとケンジさんの出発点

なんです・・・この街は」

 

東海道本線清水駅のみなと口には、帰宅の途につく高校生が溢れていた。

ケンジの両親は、感慨深げにその光景を眺めている。

「もし宜しければ、またケンイチに会いにきてください」

「有難う、智さんも困った事があったらいつでも訪ねてきて下さい、じゃあお元気で」

ケンジの両親は改札口に消えていった、淋しそうな夫婦の背中の残像が瞼の奥に刻まれる。

 

 今年で2歳になったケンイチと昼下がりの公園で戯れていた、蒸し暑い初夏の日差しを浴びな

がら、噴水の水溜りの中にドカリと座ったケンイチの頭に、2匹のてんとう虫がとまった。

まるでケンイチを見守っているような・・・・。

そんな何気ない光景が、トモには記憶のどこかに閉まってあった、大切なもののような気がして、

ケイタイのカメラのシャッターを押した。

水溜りでグチャグチャになりながらはしゃぐケンイチに、ケンジの面影を重ねて見ていたトモは、

小さなシアワセを感じていた。     了

エンジェル
天道虫
0
  • 0円
  • ダウンロード

40 / 41

  • 最初のページ
  • 前のページ
  • 次のページ
  • 最後のページ
  • もくじ
  • ダウンロード
  • 設定

    文字サイズ

    フォント