七転八倒

精神病歴

私は36年来の統合失調症の病人だが、
昔のことから書いてみようと思う。

まず私は、子供の頃から家の中でじっとしていて心身ともに虚弱な少年だった。
小中学校の勉強の成績は上の上で、親も驚くほど優秀であったが、
逆な言い方をすれば、体力も付けてほしいという親の願いには添えなかった。
また私自身も、子供心にも自分の将来が心配だった。
「将来働いて食べていけるのか?」
私のその頃の心配事はそういうことだった。
中学高校時代は、体育の時間は何をやってもビリであった。
高校の入学式では数十分くらい立たされて行われたため、
私は貧血のように途中で座り込んでしまい、
それから連続4日間くらい学校を休んだ。
東大病院で、内科系を一通り調べてもらったが、
特に悪いところがなく、医師はふつうと逆の意味で困った顔をした。
後から考えたら、その頃から私は精神病だったわけだと思う。

大学の入学式であった精神科の医師によるガイダンスの心理テストで、
これは自分に何らかの精神疾患に当てはまるなと思い、大学の精神科の診療所へ行った。
その時は初めは薬は不要ということだった。
学業のほうは何とか2年間は大学へ通っていたが、
1年の時か2年の頃か忘れたが、ある時急に具合が悪くなって、ある都立の病院へ行って、
救急で薬をもらい、それが年末だったので、
また年明けに大学の診療所へ通ったが、では薬を飲むかとういうことで通院を続けた。
しかしまた急に病状が悪くなって、病院へ行って、そこは外来のみだったので、
緊急入院である、病院へ初めてに入院した。

いろいろ都合があっていくつかの病院へ通院したり入院した。
20数年前に患者同士で結婚生活を2年経験した。
原因はまあ当人にしか分らないかもしれないが、
病人同士だということもあり、お互いに無理があったのだろうと思う。
私たちが離婚して暫らくしてから彼女から病院へ電話がかかってきて、
彼女は精神病は治ったと言っていた。
やはり結婚時代には私は彼女の病気を苦しめていたんだと思った。

そして私は、約20年前に退院して自宅療養していた。
それはある意味では平穏な療養生活だったかもしれないが、
私は家族に相当な苦痛を与えていたのかとも思う。

今からちょうど1年前に、私は父に暴力を振るってしまい、
措置入院となり、3ヶ月入院した。
あれが本当の最後の入院となることを望む。

それでも、
数十年前に、私が精神病のため大学を退学の挨拶に、
教授に謙遜のつもりで「ぼくが悪いのですが」と言ったら、
その教授から「それはそうだ」と当たり前のように言われたことは一生忘れないだろう。
病気になったのが自分が悪いのか。
 
                          *

拙ブログ「今日の痛み」より2012年6月9日付け

『父に対する殺意』

 
私はこの数十年間にわたって両親から精神的虐待を受けてきた。
それはもちろん私が精神病だから感じた苦痛であり、その首謀者(加害者)は主に父親であったが、母親も常に父親の味方をするばかり、やはり精神病の妹も、両親と知的レベルがほぼ同水準であったので、まあ自分で言うのもなんだが、家族四人中飛びぬけて知的水準が高く、またパーソナリティ障害や双極性障害である私以外の3人は「話が合い」、私だけが悪者にされてきたのである。...
あるいは人はそれは被害妄想と言うかもしれない。
たとえば3人はどうでもいいテレビを見るのが好きで、私に言わせれば彼らは下劣などうでもいい番組をただ「眺めている」だけなのである。
一方私はそのようなくだらないテレビは茶の間でついているだけでその場に居たくないくらい嫌いである。
とにかく一事が万事で私は家庭において孤立し、また身体が弱く外へも出られないため、必然的に自室にこもり、さらに孤立が深まるという悪循環である。
それで私はインターネットの世界で遊ぶくらいしか楽しみがなかった。目が悪いのと集中力が極端に落ちたせいで読書もできなくなった。もっぱらtwitterやブログ、facebookなどの世界に逃げ込むしかなかったが、何しろパーソナリティ障害の変わり者なので、そこでも私はほぼ孤立している。電子書籍も数冊書いたが評価などされるはずもなかった。
最近の父からの具体的な虐待では、まずまともな会話が成立しないこと。彼は私がなにを訊いても見当違いなちぐはぐな答えしか返ってこなかった。そして彼が電話で話す声は非常に大きく、私はそのストレスに耐えきれないので、数十回にわたって電話は2階の和室でかけてくれるよう、繰り返し繰り返したのんだが、彼はどうしても茶の間の電話機をやめなかったので今から数か月前に最後通告として、私は彼に今度は電話線を切断すると書面で伝えたが彼はどうしてもやめない。その後も私は絶え続けたが、6月4日夜にとうとう切断したのである。それでも彼は携帯電話を持っているので、これからも私のストレスは続くだろう。

            

           *

3.11福島第一原発事故の翌年の秋、
私はラジオやインターネットで放射能についての情報に怯えつつ、
35年来の統合失調症で自宅療養で自室にこもり、ただコーラと薬を飲んで暮らしていた。 そしてその年の10月22日に私は、

明らかに精神病である父親にすぐに精神病院へ入院するよう脅迫して、
父にそのつもりがないので、殴る蹴るの暴力を振るった。

私は茶の間で殺意を持って殴り、家の外へ逃げる父を蹴り、彼の持ち出した携帯電話機を奪おうとしたが、
父は携帯電話機を必死で守った。
父は近所の人や通りがかりの人に向かって「110番してくださいよ」と叫んでいた。

私は家の中に戻って、玄関に内側から鍵をかけ、
その後自室にこもった。

しばらくして、警察官らしき数人がやって来て同行を求められ、
私は「礼状はあるのか?」とドア越しに話したが、「無い」と言うので出なかった。

しばらくしてまた警察が来たので、渋々応じた。
と言うより事実上の保護だった。
署に着いて、小さな部屋へ連れて行かれた私は、自分から障害者手帳を見せた。
写真を撮られた。
何だかんだ夜になりクルマで連れて行かれたのは、豊島病院の個室だった。

一通りの健康診断を受けた。
翌朝ふたりの医者の面会を受けた。
女性のほうの医者に、こうなったことについての感想を訊かれた私は、
「世の中には仕方がないこともあると思います」と答えた。
彼女は「仕方がないこともある」と、繰り返しつぶやきながら何かを考えていた。
そして私への措置入院が決まり、薬は与えられず、
両手両足を拘束され、救急車で足立区の或る精神病院に強制的に移送され入院させられた。

何のせいか分らないが、私は救急車の中で、ほとんど意識を失っていた。

意識を半分失って目も見えず救急車で運ばれた病院では、

5点拘束(両手首、両足首、腹)という形で拘束されたようで、
何もかも身ぐるみ剥がされて数本の管だけが身に着けるもののすべてだった。
そしてそこは鍵のかかった保護室(個室)だった。
時計もカレンダーもなく、今日が何月何日で、
昼なのか夜なのかすら判然としなかった。
とにかく時間が長かった。

定期的に看護師が入ってきて、点滴の様子を見たり代えたりして行った。

その点滴の中身はもちろん分らなかったが、

おそらく初めの頃は向精神薬は入っていなかったように思う。

ゆえに何日も眠れず妄想らしいものに襲われていたのではないか?

食事の時は手足の拘束ははずされたが、目もろくに見えず、

味も何もさっぱり分からなかったし、介助の人の声も何だか奇妙に聞えた。

私は最初からずっと、抵抗などいっさいしなかった。
どうなるかは大体分っていたし、抵抗などするだけ無駄だとも分っていた。

さまざまな妄想を体験した(そのうちの多くは妄想的な夢だった)。
たとえば私は、天井のエアコンディショナーのパネルをコンピュータシステムだとずっと思っていた。
そして私は、自分の頭の中で現実の自分のwindows
ID宛にシグナルを発信しているような、そんな妄想。
そのような妄想は、一般病室に移る頃には自然と消えていった。
私は、その状態が2週間ほど経ったと思った頃に、
看護師から、まだ1週間だったことを告げられ、身体的拘束は解かれた。

小さなメモ帳と腕時計やラジオを私の元に戻されたのはその頃だった。
確か10月も終わりだったと思う。
看護師との雑談で、石原東京都知事が辞任して今度選挙が行われることも知った。
石原都知事の「最後の仕事」が、この自分の状態か、と冗談交じりに私は看護師と話した。

そしてまもなく私は、保護室から一般病棟へと移った。

最初の1週間からすると、医師の判断は早かった。
1階病棟の4人部屋に移った病室には、
もちろん鍵はかかっていなかった。
その4人部屋で隣のベッドのH氏が、クリシュナムルティに惚れ込んでいて、
私も同じだったので、話が弾んだ。
もっともH氏はOshoのことは知らず、彼の質問に私はいろいろと答えた。
1階病棟の職員の中で、私がファンだったのが、ヘルパーのT.悠理さんだった。
ショートヘアがとても似合っていた。
本人に訊いたら29歳とのこと。
独身か既婚かまでは訊けなかった。
あと余談として、1階病棟には「オネエ」の職員さんが1人が居た。

そしてまた暫らくして私は、それまでの男女混合の1階病棟から、
男性患者のみの2階病棟へ移った。
そこはとにかく殺伐とした、一部の看護師以外はすべて男性のみの病棟だった。

刑務所に入ったことのある人も多かった。
毎日何が面白くないのか知らないが、男性患者の怒鳴り声が聞こえ、病棟中に飛び交った。
私はただ震えていた。
震えること、それだけが自分に与えられた仕事のような気がしていた。
そして絶対数が足りていない看護師はひとりひとりの患者の声に耳を貸している暇もなかった。

私はその年の夏に、一本の短編小説を書き、某新人賞に応募していた。
もちろん自信はまったく無く、とにかくその結果が出るのが今年の秋だったが、
いずれにしても体力的にも、公の場には出られないなあなどと考えていた。

私の担当医はまだ20代にすら見える若い男性だったのだが、
その彼が、措置入院から任意入院に切り替わったと、
任意入院の同意書を持ってきて、私は署名した。
つまりその日から、少なくとも都知事の命令による強制入院ではなくなり、
しかし同時に、入院費公費持ちから自分持ちとなった。
11月の下旬だったと思う。


そして私が、4階の開放病棟に移ったのが12月だったと思う。
開放病棟は男女混合の、症状が軽い人ばかりのところなので、
雰囲気は断然良かった。

看護師も女性が多く、若くてきれいな人も多かった。
その中でも一番はS.晶子さんという看護師さんだったが、
20代前半だと思ったのだが、あとで聞いた話によると、
彼女は既婚で子供も居るということだった。
それはともかく4階は、何より看護師の絶対数が多かった。

エレベーターで1階に降りて、院内の喫茶店で私はコーヒーを飲んだり、カレーライスを食べたりした。
ipod
touchを持ち込んで、かろうじて入る近所のwi-fiを無断借用したりもした。
しかし、基本自分で出来ることは自分でするということが、
却って私にはつらい面もあった。
たとえば洗濯も自分で(コインランドリーだが)やらなければならず、
シーツ交換も同様で、それらが虚弱な私にはつらかった。

2階病棟時から、自宅への外泊を始めていた私は、開放病棟へ移ってからも、
積極的に外泊もした。



 

そしてついに、2013年1月29日に父が交渉してくれて、その日のうちに私は退院出来たのだ。




3ヶ月の入院生活が終わった。


「霞が関文学」~日本の官僚は本当に頭がいいか?

国会などでの政治家答弁用に中央官僚が書いているという文書は、非常に分かりにくく「霞が関文学」などと揶揄(やゆ)される。そして「官僚は頭がいい」などと評される。たとえばそれらの文章は、読みようによっては白とも黒とも取れる政府の政策。時にそれは、日本の将来を左右するような重要な文書の類でもある。
そして、少なくともこれまではそういう文書は中央官僚たちに都合の良い権益をもたらすように書かれて来たとも言われる。

ところがここへ来て、日本を含む世界はさまざまな意味で行き詰っているとも言われる。たとえば経済面において、日米欧などを中心に資本主義というものの限界を示しているとか、あるいは国際的なテロリスト集団などを中心とする混乱などだ。
つまり、たとえば官僚の書く文書が自分たちに都合の良く書かれているとしても、それらの政策の裏打ちとなる世界情勢あるいは日本国内の情勢が非常に脆弱(せいじゃく)になっているかもしれない。つまりもはや中央官僚にとっての「権益」が無いかもしれない。
あるいは頭がいいと言うより、ずる賢い人たちはとっくに「タックスヘイブン」のような外国へ逃げ出して悠悠自適な暮らしを謳歌しているかもしれない。

時間

宇宙規模で「時間とは?」と考えていたらひらめいた。

実は時間は「流れて」いないのではないか。

 

大いに関係があると思います。

いわゆる「時空間のねじれ」みたいなものがところどころにあって、

たとえばそれがブラックホールなどと呼ばれているのかもしれませんね。

 

 

一日一日

心身虚弱者として生まれて56年。
燃え尽き症候群を20歳で体験して、
一度は結婚したものの精神病院で過ごした日々をはさんで、
自分の場合どうしてもいわゆる前向きに生きようとは思えない。
いつまでこの命があるか、そんなことばかり考えながらひきこもり、...
一日一日と思いながら暮らしている。

 

篠田 将巳(しのだまさみ)
作家:shinoda masami
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