逆髪(さかがみ)

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住職は、自らお茶を私に淹れてくれて茶碗を盆に載せながら「それでは、深津さんは、姉がなぜ昭和51年に引退したかも、もうご存知でございましょうな」

私は頷いた。

 

「はい。マリファナ所持ですね。しかし、私は逆に、不思議なのですよ。というのは、今でも歌手や俳優で麻薬所持で捕まる人がいますが、大半はカムバックして、世間に更正した姿をアピールしています。再犯でない限り、執行猶予もつきますしね。だから私は、なんで世間が、たかが一回マリファナを持っていただけのるりかさんのカムバックを許さなかったかが不思議で仕方がないのです。そして、こうも思っています。もしかしたらるりかさんが活動をおやめになってしまったのは、全く別の理由があるのではないか。と……」

 

住職の反応は、と思って、やせたその面をそうっと観てみると、お茶の湯気を透かして、うっすらと微笑しているのが見えた。

「深津さんはよくお調べになりましたね。姉は恐らく、そういうことに興味をもってくださる方を待っていたと思いますよ。ただね、そのご質問の答えは、家族の者が、要するに父と母ですが、姉の作家活動を反対、というより妨害したから、なのですよ。両親は、演劇やら文学やらにのめり込んだから、麻薬などというおぞましいものに興味を持ったのだと断じたのです。うちは一応、華族の末裔ですしね。反社会的な者を一族から出す訳に行かなかった。古くさいとお思いかもしれませんが、両親は必死だった。それに姉が従った。そういうことですよ」


さらりと家族の暗部を話す住職に、私は言葉を失った。確かに理にかなった説明であるし、それが正しいのかもしれない。だが、私は、鈴木るりかの小説と戯曲を読み込んだおかげで、ある意味では、彼女の肉親よりも恋人よりも、鈴木るりかに近いと思っている。

文筆家とは、己の表現能力で読み手を陶酔させ、感動させることが最大の喜びであり、生きる原動力なのだ。それを失うのは死ぬよりも辛い。断筆するのであれば、そこにはよほどの理由があるとしか思えないのだ。

 

住職は、今は両親も亡くなり、弟の自分としては、姉が作品を発表するについては反対はしないが、手記なり回顧録なりを執筆しているようには見えない、

【老女】

と静かに話した。

「……頭脳の切れが鈍っていることを自覚しているかもしれないのですが、でも、深津さんのような方がいらっしゃると言う事は、潜在的に、鈴木るりかのファンがいてくださるということですよね? だから、実は私は、深津さんのご訪問によって、姉が何か仕事をする意欲を取り戻せたら、とそんなことを思ったのも、ここにお越しいただいた理由です」

 

と、静かに襖が開き、先ほどの若いお坊さんが廊下に控えていた。「深津さま、お待たせいたしました。これより、ご案内申し上げます」

「ありがとう。では、姉のところへ参りましょう」

 

 

【老女】

 

若い僧侶が、再び先に立って私を通路に案内してくれる。廊下の横は両側とも襖だ。きっと大勢があつまる広間になっているのだ、と、そんなことを思った。で、その広間が終わると、次は庭の中の渡り廊下になる。どうやら東屋に鈴木るりかさんはおいでになるようだ。

予感が当たって、独立した東屋の前に来た。私は胸が心なしか痛くなり、お茶を頂いた筈なのに、口の中が乾いてきた。僧侶はあくまでも優しく、室の女主人に語りかけた。「おば上様、お客様がお見えです。お話しておいた、女流作家の方でございます」

「お入りください」

すうっと襖が開いてゆくのと同時に、私の心も静まった。私は落ち着いて室内に入り、卓の向こうにきちんと正座した和服のご婦人に相対した。

「お初にお目にかかります。鈴木るりかでございます。わたくしの作品をお気に召したそうで、幸甚な事でござります」

涼しげな、ぴんと張りのある声に、私は、「伝説の女流作家」に会えた、という実感がぐっと胸に迫った。

 

ウェブサイトで観ることのできる鈴木るりかは、まさに女優、とほれぼれするような美女である。眼が大きく、睫毛が長く、眉毛がきりり、と高く上がって

いて、弱々しげなところがない。現代の有名人で言えば、日本画家の松井冬子をもう少々穏やかにした感じと言えばわかりやすいだろう。

 

今私の眼前にいる鈴木るりかは、昭和25年生まれだから62歳のはずだが、観たところ、70歳くらいに見える。髪の大部分が白かったし、頬にも顎にも、細かいシミがいくつもある。ほうれい線がくっきりと深く、目の下はシワとたるみが重なっている。しかし、その両眼は、若い頃のようなぱっちりとしたものではないにせよ、視線はあたかも患者を診る医者のように、熱心に真剣に私を観察していた。

 

彼女は白大島を着ている。冷たい白地に墨色の輪郭線で、満開の桜がいっぱいに描かれているものだ。花びらのところどころに、淡いピンクがぼかしてあり、葉には、ごく薄いブルーが飛んでいるという、実に凝ったもの。こういうきものには、半襟は白でないほうが良い。老婦人の半襟は淡いベージュ色だった。手すきの和紙がほんの少し黄ばんだ色といったら分かるだろうか? 婦人の、年齢を経た、かさかさとした質感の首の皮膚に、この、古色を帯びた、あいまいな絹の色がしっくりとした見事な調和を見せているのには、驚くばかりだった。老いて、瑞々しい潤いを失いつつある肌の近くに、鮮やかとは対極のやや濁ってくすんだ色彩の絹を配置すると、かくまで優しげな、快い美が生まれるとは。

 

帯は、濃い藍色の地に、水色と白の不規則な横縞を織り出したもので、きものの桜の曲線と対比させたのだと、すぐに分かった。重ねた帯締めは、葡萄色。

 

彼女にはもはや瑞々しい美はない。だが、その老いの陰影が、逆に何とも言えない風情を醸し出していると感じられた。喩えて言うならば、老齢の小野小町の立ち居振る舞いに、容色は衰えてもかすかに愛らしさと気高さが見え隠れするというあの逆説。それが彼女の全身から匂っていた。

 

私が自己紹介をしている間に、あの若い僧侶が座布団を勧めてくれた。昭和40年代後半を舞台にした作品を書きたいと思い、この時代のことを知る為には、作家であり、戯曲家、そして女優でもあった鈴木るりかさんのご体験を、いろ
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深良マユミ
作家:深良マユミ
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