逆髪(さかがみ)

お待ち願えますか」

そして、引き戸の向こうから人の足音がかすかに聞こえ、鍵を回す音がして戸が開いた。

30代くらいとおぼしき、軽い素材の袈裟をまとったお坊さんが、私に向かって微笑んでいた。「遠いところをようこそいらっしゃいました。これもご縁と存じます。住職も喜んでおりますので、おあがりください」

お邪魔いたします、とお辞儀をして私は、この人はお寺の若い僧侶なのだろう、と思い、寺社仏閣の人間関係とはどういうものなのか、よく調べてくれば良かった、などといささか下世話な好奇心を芽生えさせていたが、むろん、そのようなミーハーな意識はおくびにも出さない。案内されるままにあがって、靴を三和土に揃えた。

 

若いお坊さんの後について、廊下を二つほど曲がると、流れ落ちる滝が墨の濃淡で描かれた襖の前にたどりついた。彼が膝をついて、「ご案内いたしました」と囁くと、中から「お入りなされ」と低い声がした。

 

8帖の室には卓が置かれて、床の間の下手に、光沢のない袈裟をまとった初老の僧侶がきちんと座っていた。卵形の輪郭で、ふちなしの眼鏡をかけている。鼻筋が長く、眼がぎょろりとして少し怖いが、私を観る視線は、明るくまっすぐであった。寿宝院の住職さまは、もの柔らかな微笑とともに語り始めた。

 

「ようこそ、深津様。わたくしが住職の建学(けんがく)でございます。もはや、私の姉の小説だの戯曲だのは、読む人もいないとおもうておりましたが、深津様のように、本を読んだのみならず、姉の舞台姿の写真までお持ちだと言うお方には、本当に久しぶりにお目にかかりましたなあ」私は三つ指をついてお辞儀をした。

 

「初めまして。深津由紀子(ふかつゆきこ)と申します。お姉様であられる鈴木るりか様が、人気絶頂であった頃は、わたくしは生まれてもおりませんでした。ある事から、昭和47年から50年を舞台にした小説を書こうと思いまして、資料を調べたところ、鈴木るりか様が当時、小説家として、劇作家として、一世を風靡していた事を知りまして、あつかましくも興味を持った次第です。

小説も素晴らしいですが、るりか様の戯曲に大変な興味を持ちました。たとえば、芥川龍之介の『地獄変』を、現代の娼婦の館に置き換えた演出や、『ロミオとジュリエット』を、中年の夫婦が、刺戟を求める為に自分の愛人とのセックスを相手に見せようとする『ロミオの死に顔』などは、今上演されても大評判をとると思います」

「ありがとうございます。他には、どういう作品をお読みになりましたか」

「全作品読みましたが、小説では『ある晴れた日に』の、明治時代の画家が、愛する女性の肖像を描くためにストーカーまがいの行動に出ると言うのが、なんとも斬新で、まるで現代の世相を見通していたかのようです。

 

あとは、能好きの私としては『逆髪(さかがみ)』も外せないですね。謡曲の『蝉丸』に取材した小説ですが、お能とは全く別個のストーリーになっている。『逆髪』のヒロインの行動から解釈すると、権力者への抵抗の劇という見方もできますが、人間よりも大きな、何か巨大な運命の前に翻弄されるドラマだと思います。

能の『蝉丸』は、失われた愛する人を奪い返してみたものの、その『愛する人』さえも幻にすぎなかった、というお話だと私は以前から思っていたのですが、鈴木るりか先生の『逆髪』は、まさにその悲しみと、悲しみながらも、これが自分の選んだ選択なのだという肯定を絵画のように美しく書いていて、読んでいて涙が出ました。

 

鈴木るりか先生の作品には、世の中の全ては『空(くう)』と観る諸行無常の感慨が流れております。その意味で彼女は、すぐれて日本的な作家であり、読者を引き込むための仕掛けをいろいろ作っているのが芸が細かい。

そして、私が驚嘆するのは、作品ごとに文体を微妙に変えるテクニックです。あるときは、粘着的で、呪術的なリズムのある文章を、あるときは、学者のような冷徹で簡潔で果断さの溢れる文章を、という書き分けが可能なのは、やはり女優としてのご経験がものをいったのだろうか、とも想像しています。

その数々の作品の来歴を、全て解き明かす事はできないでしょうが、それでもわたくしは、偉大なるストーリーテラーは、いかにして作品を編み出したかをぜひ伺いたい。そう思いまして、お電話をさしあげた次第です」

住職は、自らお茶を私に淹れてくれて茶碗を盆に載せながら「それでは、深津さんは、姉がなぜ昭和51年に引退したかも、もうご存知でございましょうな」

私は頷いた。

 

「はい。マリファナ所持ですね。しかし、私は逆に、不思議なのですよ。というのは、今でも歌手や俳優で麻薬所持で捕まる人がいますが、大半はカムバックして、世間に更正した姿をアピールしています。再犯でない限り、執行猶予もつきますしね。だから私は、なんで世間が、たかが一回マリファナを持っていただけのるりかさんのカムバックを許さなかったかが不思議で仕方がないのです。そして、こうも思っています。もしかしたらるりかさんが活動をおやめになってしまったのは、全く別の理由があるのではないか。と……」

 

住職の反応は、と思って、やせたその面をそうっと観てみると、お茶の湯気を透かして、うっすらと微笑しているのが見えた。

「深津さんはよくお調べになりましたね。姉は恐らく、そういうことに興味をもってくださる方を待っていたと思いますよ。ただね、そのご質問の答えは、家族の者が、要するに父と母ですが、姉の作家活動を反対、というより妨害したから、なのですよ。両親は、演劇やら文学やらにのめり込んだから、麻薬などというおぞましいものに興味を持ったのだと断じたのです。うちは一応、華族の末裔ですしね。反社会的な者を一族から出す訳に行かなかった。古くさいとお思いかもしれませんが、両親は必死だった。それに姉が従った。そういうことですよ」


さらりと家族の暗部を話す住職に、私は言葉を失った。確かに理にかなった説明であるし、それが正しいのかもしれない。だが、私は、鈴木るりかの小説と戯曲を読み込んだおかげで、ある意味では、彼女の肉親よりも恋人よりも、鈴木るりかに近いと思っている。

文筆家とは、己の表現能力で読み手を陶酔させ、感動させることが最大の喜びであり、生きる原動力なのだ。それを失うのは死ぬよりも辛い。断筆するのであれば、そこにはよほどの理由があるとしか思えないのだ。

 

住職は、今は両親も亡くなり、弟の自分としては、姉が作品を発表するについては反対はしないが、手記なり回顧録なりを執筆しているようには見えない、

【老女】

と静かに話した。

「……頭脳の切れが鈍っていることを自覚しているかもしれないのですが、でも、深津さんのような方がいらっしゃると言う事は、潜在的に、鈴木るりかのファンがいてくださるということですよね? だから、実は私は、深津さんのご訪問によって、姉が何か仕事をする意欲を取り戻せたら、とそんなことを思ったのも、ここにお越しいただいた理由です」

 

と、静かに襖が開き、先ほどの若いお坊さんが廊下に控えていた。「深津さま、お待たせいたしました。これより、ご案内申し上げます」

「ありがとう。では、姉のところへ参りましょう」

 

 

【老女】

 

若い僧侶が、再び先に立って私を通路に案内してくれる。廊下の横は両側とも襖だ。きっと大勢があつまる広間になっているのだ、と、そんなことを思った。で、その広間が終わると、次は庭の中の渡り廊下になる。どうやら東屋に鈴木るりかさんはおいでになるようだ。

予感が当たって、独立した東屋の前に来た。私は胸が心なしか痛くなり、お茶を頂いた筈なのに、口の中が乾いてきた。僧侶はあくまでも優しく、室の女主人に語りかけた。「おば上様、お客様がお見えです。お話しておいた、女流作家の方でございます」

「お入りください」

すうっと襖が開いてゆくのと同時に、私の心も静まった。私は落ち着いて室内に入り、卓の向こうにきちんと正座した和服のご婦人に相対した。

「お初にお目にかかります。鈴木るりかでございます。わたくしの作品をお気に召したそうで、幸甚な事でござります」

涼しげな、ぴんと張りのある声に、私は、「伝説の女流作家」に会えた、という実感がぐっと胸に迫った。

 

ウェブサイトで観ることのできる鈴木るりかは、まさに女優、とほれぼれするような美女である。眼が大きく、睫毛が長く、眉毛がきりり、と高く上がって
深良マユミ
作家:深良マユミ
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