こころ

中 両親と私( 9 / 18 )

 私がいよいよ立とうという間際になって、(たしか二日前の夕方の事であったと思うが、)父はまた突然引っ繰り返った。私はその時書物や衣類を詰めた行李をからげていた。父は風呂へ入ったところであった。父の背中を流しに行った母が大きな声を出して私を呼んだ。私は裸体のまま母に後ろから抱かれている父を見た。それでも座敷へ伴れて戻った時、父はもう大丈夫だといった。念のために枕元に坐って、濡手拭で父の頭を冷していた私は、九時頃になってようやく形ばかりの夜食を済ました。
 翌日になると父は思ったより元気が好かった。留めるのも聞かずに歩いて便所へ行ったりした。
「もう大丈夫」
 父は去年の暮倒れた時に私に向かっていったと同じ言葉をまた繰り返した。その時ははたして口でいった通りまあ大丈夫であった。私は今度もあるいはそうなるかも知れないと思った。しかし医者はただ用心が肝要だと注意するだけで、念を押しても判然した事を話してくれなかった。私は不安のために、出立の日が来てもついに東京へ立つ気が起らなかった。
「もう少し様子を見てからにしましょうか」と私は母に相談した。
「そうしておくれ」と母が頼んだ。
 母は父が庭へ出たり背戸へ下りたりする元気を見ている間だけは平気でいるくせに、こんな事が起るとまた必要以上に心配したり気を揉んだりした。
「お前は今日東京へ行くはずじゃなかったか」と父が聞いた。
「ええ、少し延ばしました」と私が答えた。
「おれのためにかい」と父が聞き返した。
 私はちょっと躊躇した。そうだといえば、父の病気の重いのを裏書きするようなものであった。私は父の神経を過敏にしたくなかった。しかし父は私の心をよく見抜いているらしかった。
「気の毒だね」といって、庭の方を向いた。
 私は自分の部屋にはいって、そこに放り出された行李を眺めた。行李はいつ持ち出しても差支えないように、堅く括られたままであった。私はぼんやりその前に立って、また縄を解こうかと考えた。
 私は坐ったまま腰を浮かした時の落ち付かない気分で、また三、四日を過ごした。すると父がまた卒倒した。医者は絶対に安臥を命じた。
「どうしたものだろうね」と母が父に聞こえないような小さな声で私にいった。母の顔はいかにも心細そうであった。私は兄と妹に電報を打つ用意をした。けれども寝ている父にはほとんど何の苦悶もなかった。話をするところなどを見ると、風邪でも引いた時と全く同じ事であった。その上食欲は不断よりも進んだ。傍のものが、注意しても容易にいう事を聞かなかった。
「どうせ死ぬんだから、旨いものでも食って死ななくっちゃ」
 私には旨いものという父の言葉が滑稽にも悲酸にも聞こえた。父は旨いものを口に入れられる都には住んでいなかったのである。夜に入ってかき餅などを焼いてもらってぼりぼり噛んだ。
「どうしてこう渇くのかね。やっぱり心に丈夫の所があるのかも知れないよ」
 母は失望していいところにかえって頼みを置いた。そのくせ病気の時にしか使わない渇くという昔風の言葉を、何でも食べたがる意味に用いていた。
 伯父が見舞に来たとき、父はいつまでも引き留めて帰さなかった。淋しいからもっといてくれというのが重な理由であったが、母や私が、食べたいだけ物を食べさせないという不平を訴えるのも、その目的の一つであったらしい。

中 両親と私( 10 / 18 )

 父の病気は同じような状態で一週間以上つづいた。私はその間に長い手紙を九州にいる兄宛で出した。妹へは母から出させた。私は腹の中で、おそらくこれが父の健康に関して二人へやる最後の音信だろうと思った。それで両方へいよいよという場合には電報を打つから出て来いという意味を書き込めた。
 兄は忙しい職にいた。妹は妊娠中であった。だから父の危険が眼の前に逼らないうちに呼び寄せる自由は利かなかった。といって、折角都合して来たには来たが、間に合わなかったといわれるのも辛かった。私は電報を掛ける時機について、人の知らない責任を感じた。
「そう判然りした事になると私にも分りません。しかし危険はいつ来るか分らないという事だけは承知していて下さい」
 停車場のある町から迎えた医者は私にこういった。私は母と相談して、その医者の周旋で、町の病院から看護婦を一人頼む事にした。父は枕元へ来て挨拶する白い服を着た女を見て変な顔をした。
 父は死病に罹っている事をとうから自覚していた。それでいて、眼前にせまりつつある死そのものには気が付かなかった。
「今に癒ったらもう一返東京へ遊びに行ってみよう。人間はいつ死ぬか分らないからな。何でもやりたい事は、生きてるうちにやっておくに限る」
 母は仕方なしに「その時は私もいっしょに伴れて行って頂きましょう」などと調子を合せていた。
 時とするとまた非常に淋しがった。
「おれが死んだら、どうかお母さんを大事にしてやってくれ」
 私はこの「おれが死んだら」という言葉に一種の記憶をもっていた。東京を立つ時、先生が奥さんに向かって何遍もそれを繰り返したのは、私が卒業した日の晩の事であった。私は笑いを帯びた先生の顔と、縁喜でもないと耳を塞いだ奥さんの様子とを憶い出した。あの時の「おれが死んだら」は単純な仮定であった。今私が聞くのはいつ起るか分らない事実であった。私は先生に対する奥さんの態度を学ぶ事ができなかった。しかし口の先では何とか父を紛らさなければならなかった。
「そんな弱い事をおっしゃっちゃいけませんよ。今に癒ったら東京へ遊びにいらっしゃるはずじゃありませんか。お母さんといっしょに。今度いらっしゃるときっと吃驚しますよ、変っているんで。電車の新しい線路だけでも大変増えていますからね。電車が通るようになれば自然町並も変るし、その上に市区改正もあるし、東京が凝としている時は、まあ二六時中一分もないといっていいくらいです」
 私は仕方がないからいわないでいい事まで喋舌った。父はまた、満足らしくそれを聞いていた。
 病人があるので自然家の出入りも多くなった。近所にいる親類などは、二日に一人ぐらいの割で代る代る見舞に来た。中には比較的遠くにいて平生疎遠なものもあった。「どうかと思ったら、この様子じゃ大丈夫だ。話も自由だし、だいち顔がちっとも瘠せていないじゃないか」などといって帰るものがあった。私の帰った当時はひっそりし過ぎるほど静かであった家庭が、こんな事で段々ざわざわし始めた。
 その中に動かずにいる父の病気は、ただ面白くない方へ移って行くばかりであった。私は母や伯父と相談して、とうとう兄と妹に電報を打った。兄からはすぐ行くという返事が来た。妹の夫からも立つという報知があった。妹はこの前懐妊した時に流産したので、今度こそは癖にならないように大事を取らせるつもりだと、かねていい越したその夫は、妹の代りに自分で出て来るかも知れなかった。

中 両親と私( 11 / 18 )

十一

 こうした落ち付きのない間にも、私はまだ静かに坐る余裕をもっていた。偶には書物を開けて十頁もつづけざまに読む時間さえ出て来た。一旦堅く括られた私の行李は、いつの間にか解かれてしまった。私は要るに任せて、その中から色々なものを取り出した。私は東京を立つ時、心のうちで極めた、この夏中の日課を顧みた。私のやった事はこの日課の三が一にも足らなかった。私は今までもこういう不愉快を何度となく重ねて来た。しかしこの夏ほど思った通り仕事の運ばない例も少なかった。これが人の世の常だろうと思いながらも私は厭な気持に抑え付けられた。
 私はこの不快の裏に坐りながら、一方に父の病気を考えた。父の死んだ後の事を想像した。そうしてそれと同時に、先生の事を一方に思い浮べた。私はこの不快な心持の両端に地位、教育、性格の全然異なった二人の面影を眺めた。
 私が父の枕元を離れて、独り取り乱した書物の中に腕組みをしているところへ母が顔を出した。
「少し午眠でもおしよ。お前もさぞ草臥れるだろう」
 母は私の気分を了解していなかった。私も母からそれを予期するほどの子供でもなかった。私は単簡に礼を述べた。母はまだ室の入口に立っていた。
「お父さんは?」と私が聞いた。
「今よく寝てお出だよ」と母が答えた。
 母は突然はいって来て私の傍に坐った。
「先生からまだ何ともいって来ないかい」と聞いた。
 母はその時の私の言葉を信じていた。その時の私は先生からきっと返事があると母に保証した。しかし父や母の希望するような返事が来るとは、その時の私もまるで期待しなかった。私は心得があって母を欺いたと同じ結果に陥った。
「もう一遍手紙を出してご覧な」と母がいった。
 役に立たない手紙を何通書こうと、それが母の慰安になるなら、手数を厭うような私ではなかった。けれどもこういう用件で先生にせまるのは私の苦痛であった。私は父に叱られたり、母の機嫌を損じたりするよりも、先生から見下げられるのを遥かに恐れていた。あの依頼に対して今まで返事の貰えないのも、あるいはそうした訳からじゃないかしらという邪推もあった。
「手紙を書くのは訳はないですが、こういう事は郵便じゃとても埒は明きませんよ。どうしても自分で東京へ出て、じかに頼んで廻らなくっちゃ」
「だってお父さんがあの様子じゃ、お前、いつ東京へ出られるか分らないじゃないか」
「だから出やしません。癒るとも癒らないとも片付かないうちは、ちゃんとこうしているつもりです」
「そりゃ解り切った話だね。今にもむずかしいという大病人を放ちらかしておいて、誰が勝手に東京へなんか行けるものかね」
 私は始め心のなかで、何も知らない母を憐れんだ。しかし母がなぜこんな問題をこのざわざわした際に持ち出したのか理解できなかった。私が父の病気をよそに、静かに坐ったり書見したりする余裕のあるごとくに、母も眼の前の病人を忘れて、外の事を考えるだけ、胸に空地があるのかしらと疑った。その時「実はね」と母がいい出した。
「実はお父さんの生きてお出のうちに、お前の口が極ったらさぞ安心なさるだろうと思うんだがね。この様子じゃ、とても間に合わないかも知れないけれども、それにしても、まだああやって口も慥かなら気も慥かなんだから、ああしてお出のうちに喜ばして上げるように親孝行をおしな」
 憐れな私は親孝行のできない境遇にいた。私はついに一行の手紙も先生に出さなかった。

中 両親と私( 12 / 18 )

十二

 兄が帰って来た時、父は寝ながら新聞を読んでいた。父は平生から何を措いても新聞だけには眼を通す習慣であったが、床についてからは、退屈のため猶更それを読みたがった。母も私も強いては反対せずに、なるべく病人の思い通りにさせておいた。
「そういう元気なら結構なものだ。よっぽど悪いかと思って来たら、大変好いようじゃありませんか」
 兄はこんな事をいいながら父と話をした。その賑やか過ぎる調子が私にはかえって不調和に聞こえた。それでも父の前を外して私と差し向いになった時は、むしろ沈んでいた。
「新聞なんか読ましちゃいけなかないか」
「私もそう思うんだけれども、読まないと承知しないんだから、仕様がない」
 兄は私の弁解を黙って聞いていた。やがて、「よく解るのかな」といった。兄は父の理解力が病気のために、平生よりはよっぽど鈍っているように観察したらしい。
「そりゃ慥かです。私はさっき二十分ばかり枕元に坐って色々話してみたが、調子の狂ったところは少しもないです。あの様子じゃことによるとまだなかなか持つかも知れませんよ」
 兄と前後して着いた妹の夫の意見は、我々よりもよほど楽観的であった。父は彼に向かって妹の事をあれこれと尋ねていた。「身体が身体だからむやみに汽車になんぞ乗って揺れない方が好い。無理をして見舞に来られたりすると、かえってこっちが心配だから」といっていた。「なに今に治ったら赤ん坊の顔でも見に、久しぶりにこっちから出掛けるから差支えない」ともいっていた。
 乃木大将の死んだ時も、父は一番さきに新聞でそれを知った。
「大変だ大変だ」といった。
 何事も知らない私たちはこの突然な言葉に驚かされた。
「あの時はいよいよ頭が変になったのかと思って、ひやりとした」と後で兄が私にいった。「私も実は驚きました」と妹の夫も同感らしい言葉つきであった。
 その頃の新聞は実際田舎ものには日ごとに待ち受けられるような記事ばかりあった。私は父の枕元に坐って鄭寧にそれを読んだ。読む時間のない時は、そっと自分の室へ持って来て、残らず眼を通した。私の眼は長い間、軍服を着た乃木大将と、それから官女みたような服装をしたその夫人の姿を忘れる事ができなかった。
 悲痛な風が田舎の隅まで吹いて来て、眠たそうな樹や草を震わせている最中に、突然私は一通の電報を先生から受け取った。洋服を着た人を見ると犬が吠えるような所では、一通の電報すら大事件であった。それを受け取った母は、はたして驚いたような様子をして、わざわざ私を人のいない所へ呼び出した。
「何だい」といって、私の封を開くのを傍に立って待っていた。
 電報にはちょっと会いたいが来られるかという意味が簡単に書いてあった。私は首を傾けた。
「きっとお頼もうしておいた口の事だよ」と母が推断してくれた。
 私もあるいはそうかも知れないと思った。しかしそれにしては少し変だとも考えた。とにかく兄や妹の夫まで呼び寄せた私が、父の病気を打遣って、東京へ行く訳には行かなかった。私は母と相談して、行かれないという返電を打つ事にした。できるだけ簡略な言葉で父の病気の危篤に陥りつつある旨も付け加えたが、それでも気が済まなかったから、委細手紙として、細かい事情をその日のうちに認めて郵便で出した。頼んだ位地の事とばかり信じ切った母は、「本当に間の悪い時は仕方のないものだね」といって残念そうな顔をした。
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作家:夏目漱石
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