テニアンの風

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 テニアンはグアム、サイパン、パラオなどに比べるとあまり有名な島ではない。しかし、広島と長崎に投下された原爆がこの島の飛行場から飛び立ったB29爆撃機より投下されたと聞けば日本人なら誰でも気になる島である。その島はマリアナ諸島にあるサイパンのやや南方に位置する、もともとはドイツの支配下領であった。第一次世界大戦でドイツが敗北するとテニアンの支配権は日本に移動し、一九二〇年には国際連盟より日本の委任統治となり、その状態は第二次世界大戦まで続いた。

 テニアンに行くには日本からの直行便がないためサイパンからセスナ機かフェリーで行くしか手段はない。サイパンとテニアンは地図で見ると近いが、フェリーで行くには二つの島の間に流れる海峡を渡らなければならない。この海峡の流れが急なため、サイパンを出発したフェリーは目前に見えるテニアンまで1時間程度かけないと着かない。この海峡の流れは第二次世界大戦のサイパン・テニアン攻防戦で日米双方に影響を与えたことであろう。将志の祖父竹市は海軍の一員として参加したこの海峡で海に沈んでいったのか、あるいはテニアンの陸上まで辿り着いていたのか、そんなことすら将志は伝え聞いていない。船酔いしやすい将志にはフェリーでテニアンに行く選択肢はなく、セスナ機でサイパンからテニアンに向かうことを計画した。これとてジェット機と異なるセスナ機酔いのリスクは残る。

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 テニアンに渡る前日に成田からサイパンに着いた将志は、サイパンP.I.Cに泊まっていた。ホテルの周囲には流水プールが流れ、木々の間を南国の小鳥が自由に飛び交っている。プールでのんびりと浮き輪に浮かんで漂う人達と人を恐れず飛び交う小鳥達と生い茂る木々とが調和している平和な光景だ。流水プールは蛇行しながら長い円を描き、その中で将志の子供達も浮き輪から飛び降りたり、途中に待ち構える滝にわざと突っ込んだりしてはしゃぎながら流されている。将志達夫婦も大きめの浮き輪に寝そべりながら流水プールの流れに身を任せている。将志達の横に挙式を挙げたばかりかと思われるカップルが戯れながら水しぶきを上げて通り過ぎていく。

 明日テニアンに行く将志は今回の旅行のメインイベントを前に少し興奮していた。流水プールから上がって、少しふらつきながら子供達と海に沈む有夕日の少し手前にぼんやりと薄暗くテニアン島がたたずんでいる。そのコントラストは現在の平和なサイパンと残酷な歴史の残るテニアンを象徴しているようで、祖父の竹市もこうした光景をみていたのであろうか、あるいは見ることもなく海に沈んでしまったのではないかと将志は思案した。

 翌日、テニアンに向かう将志達は現地ガイドのルーシーに連れられてサイパン空港の国際線ゲートから少し離れた別棟の小さな待合室で待っていた。国際線ゲートと言っても日本の地方空港と大差なく、セキュリティーも厳重ではない。ましてテニアンに向かうゲートは格子扉一枚と簡素化されていた。ルーシーはアロハシャツの開襟からはみ出さんばかりの大きな胸を揺らしながら戻ってきて、将志達を格子扉の向こうに見える滑走路方面へ案内した。日本人に分かるように片言の英語と身振りを交えて滑走路にあるセスナ機に乗り込んでくれと言うのである。将志より一回りは若いと思われるルーシーの対応はほぼ適当であった。そんなルーシーの指示に戸惑いながら、将志達は格子扉の奥に見えるセスナ機へ歩いて行く。日本でもサイパンでも離島への航空便の手続きはいたって簡素なものである。

滑走路に駐まっているセスナ機に近づいてきて将志は一瞬足を止めた。かなり旧式のプロペラ機を目の前にして大丈夫かなとの思いが一瞬頭を過ぎった。目の前にある旧式のセスナ機の定員は4~5名かと思われるが、後ろに続いてきた将志より大きな欧米人数名を見て、将志達を含めて5人乗れるか心配になった。将志達が近づくと操縦席からアジア系のパイロットがセスナ機からが降りてきて、妻と子供達は操縦席の次の座席に、将志はその後ろの席に案内された。一番後ろの補助席のような所には将志より一回り大きな欧米人がすでに押し込まれている。彼が一番可哀想であった。定員5名を乗せて見るからにポンコツのセスナ機が離陸できるのか心配である。

 定員になったセスナ機で将志達はしばらく待たされ、後ろの欧米人を気にしてみるとにこやかに作り笑顔を返してくれた。アジア系のパイロットは無線で管制塔かどこかと冗談を言いながら、操縦席のドアが半分開いたままなのに、セスナ機はゆっくりと動き出した。将志だけでなく将志の後の欧米人も不安に思ったのではないだろうか。

セスナ機のスピードが時速数十キロくらいになって、ようやくアジア系のパイロットは操縦席のドアをしっかりと閉めた。座席に座る将志達に振り向いてにこっとしたかと思うと、そのままセスナ機はぐいぐいスピードを上げていった。スピードが上がるにつれてセスナの機体が右に左に揺れ出した。重心がわるいのではないかと苛立つが、セスナ機の前輪がゆっくりと上がり後輪もふわっと地から離れると揺れていたセスナ機は空中の空気の流れを受けて安定しだした。急速に上昇したセスナ機は左旋回して一気にテニアン方面に向かい、急流の海峡の上空でぐんぐん高度を上げた。将志の三半規管は少しだけ反応した。

 テニアンの上空では太陽がやけにまぶしかった。機体の隙間から流れ込む風以外には感じるものはない。風は海の香りがした。眼下のサイパンとテニアンが均等に見えるようになったら、セスナ機が風に乗りながらゆっくりと降下していく。次第にテニアン島でぽつぽつ点在する牛の姿があちこちに見えてきた。牛達は放牧されている感じではなく、牧場もない荒れ地に野放しで野生化したような様子である。散在する牛を見ているうちに飛行機酔いする暇もないままセスナ機は車輪が擦れる鈍い音を立てながらテニアンの飛行場に到着した。滑走路の舗装もままならない飛行場をガタゴトとセスナ機は速度を落としながら滑走した。セスナ機のタイヤがはまるような穴があっても不思議ではない滑走路での走行は乗り心地のいいものではない。セスナ機が止まっても、外からアジア系のパイロットが扉を開けるまでは中から外に出られない。

妻と子供達が降りてから、ようやくテニアンの地面に足がついて思わず将志は安堵した。後頚部:リンパ節腫脹あり。の座席にいた欧米人もセスナの小さな扉から不似合いに出てきた。

 グアムとサイパンに挟まれ、サイパン寄りに位置するテニアンは、常夏の楽園である。最近では沖縄基地の移設を希望する現地の声もあったようだが、現実には進行しない。日本統治下においては丸喜商会という日系の会社がテニアンの開発を最初に手がけ、マリアナ諸島北部から種用の椰子の実を買い入れ、椰子の栽培を始めたらしい。テニアンの海岸沿いから内陸まで続く森林を伐採し連絡道を開通させ、その後森林を開墾し椰子栽培を開始したらしい。そんな繁栄も栄枯盛衰を迎える。一九一九年頃にテニアン全島で大発生した害虫に加え、大干ばつが丸喜商会の経営に追い討ちをかけた。この時にテニアンの農産物は椰子だけでなく食糧となるバナナやパンの木に至るまですべて全滅したという。テニアンの開発はその後、南洋興発会社に引き継がれ、椰子に代わってサトウキビの生産が開始された。昭和初期にはテニアンの砂糖の生産量は台湾に次いで東洋第二位の生産量となるまでになっていた。その他にもテニアンとサイパンの間に流れる急流の海峡では鰹漁が栄え、以前のテニアン島内には鰹節工場もあったという。一九四四年時点での人口は日本人が軍人を除いて一万五千七百名、朝鮮人が二千七百名、原住民であるチャモロ人が二十六名であったという記録が残る。今は日本人の住民はほとんどなく、現地観光ガイドが多少いるだけだ。しかし、その観光ガイドも近々撤退予定であるという。時代の変遷は語り継がれるものと、語り継がれずそのまま消滅していってしまうものとがある。テニアン歴史はどちらかというと語り継がれず、消滅しがちなものであろう。

テニアン観光のメインは将志たちのような戦争遺族観光旅行であるが、その遺族旅行も遺族の高齢化で年々減ってきているらしい。将志のように比較的若い遺族の訪問は珍しく、戦争前、戦後、そして今とテニアンの様相は時代とともに確実に変化し、日本の足跡は消えつつある。その一方で原住民であったチャモロ人が現在では島民の大半を占めるようになり、元々あった南の島々の一つになりつつある。

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