見えない子供たち

 亜紀はすっと立ち上がると、流しの前の椅子によじ登り、茶碗に水を溢れさせ、茶碗の水を口の両端からこぼしながら一気に飲み干した。椅子から飛び降りた亜紀は流しの横の1円玉二つのうち一つを摘み上げ、左手に握り締めた。しばらく、直立して俊介を見つめていたが、眼を吊り上げてコンビニに向かった。亜紀は1円玉一つでは何も買えないことを知っていた。

 

 左手に1円玉を握り締めた亜紀は全力で角のコンビにまでかけて行った。コンビニの重たいドアの前に立つと、左肩で思いっきりドアを押した。中に飛び込込んだ亜紀は正面奥まで突進した。思いっきり右腕を振り上げ、右手の人差し指を男の子がイラストされたヨーグルトに向けた。そして、左横のレジのおばさんを睨みつけた。びっくりしたおばさんはレジから飛び出しヨーグルトを亜紀に手渡した。

 

 亜紀は一円玉とヨーグルトを台の上に置くと、また、じっと、おばさんを睨みつけた。あっけに取られたおばさんは、一円では買えないよ、と言いかけたが、突然、胸が熱くなり不吉な予感がした。急いでヨーグルトを袋に入れ、レジから飛び出し亜紀に袋を手渡した。これほどまでに怒りをあらわにした少女におばさんは動揺した。おばさんはここのコンビニのオーナーの奥さんで子供を3人育てていた。

 子供の怒りは親へ何か訴えるときの行為であることを知っていた。おばさんはきっとこの子は助けを求めているに違いないと直感した。おばさんはすぐに出入口のドアを開け、亜紀を手招きした。亜紀はドアを飛び出し、全力でコーポに駆けて行った。おばさんは女の子にレジを任せ、亜紀の後を追いかけた。亜紀が飛び込んだドアを確認したおばさんは、呼吸を整えてゆっくり2回ノックした。

 

 おばさんはゆっくりドアを開けると、亜紀が「シュン、シュン、シュン」と泣き叫んでいた。「大変!」と叫んだおばさんは、すぐに、コンビニに引き返し、救急車を呼んだ。二人は子供病院へ運ばれ、俊介は集中治療室に運ばれた。だが、俊介の息は消えていた。栄養失調と熱中症による死であった。亜紀には俊介の死を知らせなかったが、亜紀は俊介が天国に行ったことを感じ取った。

 

 個室のベッドに運ばれた亜紀は目を閉じ硬直していた。小児科医は亜紀に声をかけたが、まったく返事がなかった。体温、眼球、脈拍、心電図には異常なかったが、眼を閉じたまま一言も声を発しなかった。水も食事もまったく受け付けなかった。このままでは亜紀の命が危ないと判断した担当医は、小児精神医学の権威である安部ドクターに支援を求めた。緊急の連絡を受けたドクターは子供病院へ飛んでやってきた。

 ドクターは亜紀をじっと見詰め、声をかけたがやはりまったく反応がなかった。ドクターの顔が青くなった。極度の人間不信と俊介の死のショックから亜紀は、自らすべての感覚を麻痺させていた。失神状態を自ら作り出し、そこから脱却できなくなっていた。ドクターはさやかに連絡を取った。亜紀を救えるのはさやかしかいない、と即座に判断した。

 

 子供病院に駆けつけたさやかは亜紀の硬直し死んだような寝顔を見つめ、血の気が引いた。さやかは神に祈った。亜紀をお助けください。そして、さやかはベッドに仰向けになり、亜紀を胸の上に置き、しっかり抱きしめた。二人は無言で一昼夜を過ごした。翌日の10時ころ、亜紀は目を覚ました。亜紀のかすかな動きを感じ取ったさやかは、そっと亜紀の頭をなでた。さやかの目じりからは涙がこぼれ落ちていた。

 

 

さやかの名案

 

 

 意識を取り戻した亜紀は2週間後に退院することになったが、亜紀を引き取る身内が誰一人いなかった。今回の事件は新聞、テレビで報道されたが、母親、知美からの連絡はなかった。唯一の身内からの連絡は腹違いの妹、葉子からであった。しかし、亜紀の祖母、和歌子は入院しており、葉子も引き取って育てることはできないと病院に返事した。結局、亜紀は児童養護施設に預けられることに決定したが、さやかは反対した。亜紀の精神はさやかがいるときのみ安定しているが、それ以外の人が近寄るとパニックを起こすからだ。

 しばらく安部総合医療センターに亜紀を入院させ、さやかが面倒を見る事をドクターにお願いした。ドクターはさやかに何か考えがあると見て承諾した。さやかには亜紀を育てることができる唯一の人物がひらめいていた。その人物は拓也であった。アンナにも亜紀の経緯を話したところ、アンナも拓也しかいないと賛成した。早速、二人は引っ越したばかりの拓也の自宅に出向くことにした。

 

 拓也は糸島市の平原遺跡近くの一戸建てに5月に引っ越したばかりであった。拓也は平原遺跡に卑弥呼がいたと信じていた。そのこともあって平原遺跡の近くに家を買った。5LDKの二階家だが、土地が安かったため3000万で購入できた。一階は和室2部屋、洋間1部屋、リビング、キッチン、二階は洋間2部屋の間取りで、瞳との結婚も考えてローンで購入した。住宅金融公庫のローンを組んだが、頭金1000万を支払い、月々の支払いは少なく済んだ。

 

 ドクターに紹介してもらった予備校の収入は生活していくうえでは申し分なかった。自宅の前には小さな庭と家庭菜園ができるほどの畑があり、自分で食べる野菜を栽培する計画を立てた。拓也にとって初めての田舎生活であったが、都会から引っ越してきたことは正解だと確信した。父親が住んでいる姫島まではここからは近く、たびたび会えることが最大の喜びであった。交通手段としてプリウスを使っているが、今後、バイクの免許を取って史跡巡りをしたいと意気込んでいる。

春日信彦
作家:春日信彦
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