見えない子供たち

 知美は法律に縛られた結婚を望まなかった。フランス人の結婚形態にあこがれ、お互い自由でありたいと康介に婚姻届を強制しなかった。亜紀が生まれたとき、康介は父親になることを知美に断言したが、突然、バンドが解散し、康介は失踪した。メンバーの二人は警察の取調べを受け、康介にも捜索願が出されたが、いまだ発見されていない。康介の失踪は謎に包まれ、何かの事件に巻き込まれた可能性もあった。しかし、康介らしき男性の遺体発見の報道はいまだない。康介が失踪後、知美は一人で子供二人を育てる決心をしたが、秀樹が現れてからは心がゆがんでいった。

 

 知美は4日目も、5日目も帰宅しなかった。6日目の朝、8時、亜紀は突然目を覚ました。いつもならば10時ごろ目を覚ますのだが、夢の中で俊介が泣いていたからだ。キッチンのフロアで、子供用の毛布を丸めた枕で亜紀は俊介の隣に寝ていた。眼を覚ました亜紀は俊介の寝顔をじっと見詰めた。顔色が少し青かった。「シュン、シュン」と叫んで肩をゆすったが、まったく死んだように身動き一つしなかった。

 

 俊介の頭の横にあった黄色のタオルを手に取り、額を拭こうとしたが、タオルは生暖かかった。亜紀は左手にタオルを掴み、立ち上がるとバスルームにかけて行った。蛇口の下にタオルを置き、蛇口のコックをひねった。勢いよく流れた落ちた水道水に濡れたタオルを足元に引き寄せ、両足で5,6回踏んだ。まだ、雫が垂れているタオルを3回折りたたみ両手の上に乗せ、俊介の頭の横に正座した。俊介の寝顔を見つめながら、黄色いタオルを額の上に置いた。すぐに、俊介が眼を覚ますと思ったが、表情は硬いままだった。

 亜紀はすっと立ち上がると、流しの前の椅子によじ登り、茶碗に水を溢れさせ、茶碗の水を口の両端からこぼしながら一気に飲み干した。椅子から飛び降りた亜紀は流しの横の1円玉二つのうち一つを摘み上げ、左手に握り締めた。しばらく、直立して俊介を見つめていたが、眼を吊り上げてコンビニに向かった。亜紀は1円玉一つでは何も買えないことを知っていた。

 

 左手に1円玉を握り締めた亜紀は全力で角のコンビにまでかけて行った。コンビニの重たいドアの前に立つと、左肩で思いっきりドアを押した。中に飛び込込んだ亜紀は正面奥まで突進した。思いっきり右腕を振り上げ、右手の人差し指を男の子がイラストされたヨーグルトに向けた。そして、左横のレジのおばさんを睨みつけた。びっくりしたおばさんはレジから飛び出しヨーグルトを亜紀に手渡した。

 

 亜紀は一円玉とヨーグルトを台の上に置くと、また、じっと、おばさんを睨みつけた。あっけに取られたおばさんは、一円では買えないよ、と言いかけたが、突然、胸が熱くなり不吉な予感がした。急いでヨーグルトを袋に入れ、レジから飛び出し亜紀に袋を手渡した。これほどまでに怒りをあらわにした少女におばさんは動揺した。おばさんはここのコンビニのオーナーの奥さんで子供を3人育てていた。

 子供の怒りは親へ何か訴えるときの行為であることを知っていた。おばさんはきっとこの子は助けを求めているに違いないと直感した。おばさんはすぐに出入口のドアを開け、亜紀を手招きした。亜紀はドアを飛び出し、全力でコーポに駆けて行った。おばさんは女の子にレジを任せ、亜紀の後を追いかけた。亜紀が飛び込んだドアを確認したおばさんは、呼吸を整えてゆっくり2回ノックした。

 

 おばさんはゆっくりドアを開けると、亜紀が「シュン、シュン、シュン」と泣き叫んでいた。「大変!」と叫んだおばさんは、すぐに、コンビニに引き返し、救急車を呼んだ。二人は子供病院へ運ばれ、俊介は集中治療室に運ばれた。だが、俊介の息は消えていた。栄養失調と熱中症による死であった。亜紀には俊介の死を知らせなかったが、亜紀は俊介が天国に行ったことを感じ取った。

 

 個室のベッドに運ばれた亜紀は目を閉じ硬直していた。小児科医は亜紀に声をかけたが、まったく返事がなかった。体温、眼球、脈拍、心電図には異常なかったが、眼を閉じたまま一言も声を発しなかった。水も食事もまったく受け付けなかった。このままでは亜紀の命が危ないと判断した担当医は、小児精神医学の権威である安部ドクターに支援を求めた。緊急の連絡を受けたドクターは子供病院へ飛んでやってきた。

 ドクターは亜紀をじっと見詰め、声をかけたがやはりまったく反応がなかった。ドクターの顔が青くなった。極度の人間不信と俊介の死のショックから亜紀は、自らすべての感覚を麻痺させていた。失神状態を自ら作り出し、そこから脱却できなくなっていた。ドクターはさやかに連絡を取った。亜紀を救えるのはさやかしかいない、と即座に判断した。

 

 子供病院に駆けつけたさやかは亜紀の硬直し死んだような寝顔を見つめ、血の気が引いた。さやかは神に祈った。亜紀をお助けください。そして、さやかはベッドに仰向けになり、亜紀を胸の上に置き、しっかり抱きしめた。二人は無言で一昼夜を過ごした。翌日の10時ころ、亜紀は目を覚ました。亜紀のかすかな動きを感じ取ったさやかは、そっと亜紀の頭をなでた。さやかの目じりからは涙がこぼれ落ちていた。

 

 

さやかの名案

 

 

 意識を取り戻した亜紀は2週間後に退院することになったが、亜紀を引き取る身内が誰一人いなかった。今回の事件は新聞、テレビで報道されたが、母親、知美からの連絡はなかった。唯一の身内からの連絡は腹違いの妹、葉子からであった。しかし、亜紀の祖母、和歌子は入院しており、葉子も引き取って育てることはできないと病院に返事した。結局、亜紀は児童養護施設に預けられることに決定したが、さやかは反対した。亜紀の精神はさやかがいるときのみ安定しているが、それ以外の人が近寄るとパニックを起こすからだ。

春日信彦
作家:春日信彦
見えない子供たち
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