見えない子供たち

 度重なる知美の外泊が俊介の心から元気を失わせているようだった。スキンヘッドの男と知美が付き合うようになって、子供二人との会話が極端に減った。仕事帰りが遅いこともあったが、二人に対する気配りがなくなり、よそよそしくなった。手作りの食事が減り、出来合いのものを買ってきては、えさをやるように二人に与えた。最近では、俊介を抱きしめることもなくなった。

 

 知美の実の母親、正子は3歳のとき事故でなくなった。知美が5歳のとき父、俊太郎は再婚し、2年後に知美の腹違いの妹、葉子が生まれた。知美は継母、和歌子とはうまくいかず、高校1年で中退すると、フリーターとして自立した。父は2年前にすい臓癌でなくなり、継母は昨年、脳梗塞で倒れ入院した。2歳下の妹は高校卒業後、生命保険会社の営業所事務員として働いている。

 

 知美と妹との関係もうまくいかず、家を飛び出してからは一度も連絡を取ってない。亜紀と俊介のことは、両親はもとより妹もまったく知らない。ライブハウスで働いていた知美は定期的にライブ活動を行っていた5人グループのドラマー康介と知り合い、同棲するようになった。同棲3年後、知美が20歳のとき亜紀が生まれた。2歳年上の康介は3日後には亜紀の出生届をし、父親としての振る舞いをしたが、二人は婚姻届を出そうとはしなかった。

 知美は法律に縛られた結婚を望まなかった。フランス人の結婚形態にあこがれ、お互い自由でありたいと康介に婚姻届を強制しなかった。亜紀が生まれたとき、康介は父親になることを知美に断言したが、突然、バンドが解散し、康介は失踪した。メンバーの二人は警察の取調べを受け、康介にも捜索願が出されたが、いまだ発見されていない。康介の失踪は謎に包まれ、何かの事件に巻き込まれた可能性もあった。しかし、康介らしき男性の遺体発見の報道はいまだない。康介が失踪後、知美は一人で子供二人を育てる決心をしたが、秀樹が現れてからは心がゆがんでいった。

 

 知美は4日目も、5日目も帰宅しなかった。6日目の朝、8時、亜紀は突然目を覚ました。いつもならば10時ごろ目を覚ますのだが、夢の中で俊介が泣いていたからだ。キッチンのフロアで、子供用の毛布を丸めた枕で亜紀は俊介の隣に寝ていた。眼を覚ました亜紀は俊介の寝顔をじっと見詰めた。顔色が少し青かった。「シュン、シュン」と叫んで肩をゆすったが、まったく死んだように身動き一つしなかった。

 

 俊介の頭の横にあった黄色のタオルを手に取り、額を拭こうとしたが、タオルは生暖かかった。亜紀は左手にタオルを掴み、立ち上がるとバスルームにかけて行った。蛇口の下にタオルを置き、蛇口のコックをひねった。勢いよく流れた落ちた水道水に濡れたタオルを足元に引き寄せ、両足で5,6回踏んだ。まだ、雫が垂れているタオルを3回折りたたみ両手の上に乗せ、俊介の頭の横に正座した。俊介の寝顔を見つめながら、黄色いタオルを額の上に置いた。すぐに、俊介が眼を覚ますと思ったが、表情は硬いままだった。

 亜紀はすっと立ち上がると、流しの前の椅子によじ登り、茶碗に水を溢れさせ、茶碗の水を口の両端からこぼしながら一気に飲み干した。椅子から飛び降りた亜紀は流しの横の1円玉二つのうち一つを摘み上げ、左手に握り締めた。しばらく、直立して俊介を見つめていたが、眼を吊り上げてコンビニに向かった。亜紀は1円玉一つでは何も買えないことを知っていた。

 

 左手に1円玉を握り締めた亜紀は全力で角のコンビにまでかけて行った。コンビニの重たいドアの前に立つと、左肩で思いっきりドアを押した。中に飛び込込んだ亜紀は正面奥まで突進した。思いっきり右腕を振り上げ、右手の人差し指を男の子がイラストされたヨーグルトに向けた。そして、左横のレジのおばさんを睨みつけた。びっくりしたおばさんはレジから飛び出しヨーグルトを亜紀に手渡した。

 

 亜紀は一円玉とヨーグルトを台の上に置くと、また、じっと、おばさんを睨みつけた。あっけに取られたおばさんは、一円では買えないよ、と言いかけたが、突然、胸が熱くなり不吉な予感がした。急いでヨーグルトを袋に入れ、レジから飛び出し亜紀に袋を手渡した。これほどまでに怒りをあらわにした少女におばさんは動揺した。おばさんはここのコンビニのオーナーの奥さんで子供を3人育てていた。

 子供の怒りは親へ何か訴えるときの行為であることを知っていた。おばさんはきっとこの子は助けを求めているに違いないと直感した。おばさんはすぐに出入口のドアを開け、亜紀を手招きした。亜紀はドアを飛び出し、全力でコーポに駆けて行った。おばさんは女の子にレジを任せ、亜紀の後を追いかけた。亜紀が飛び込んだドアを確認したおばさんは、呼吸を整えてゆっくり2回ノックした。

 

 おばさんはゆっくりドアを開けると、亜紀が「シュン、シュン、シュン」と泣き叫んでいた。「大変!」と叫んだおばさんは、すぐに、コンビニに引き返し、救急車を呼んだ。二人は子供病院へ運ばれ、俊介は集中治療室に運ばれた。だが、俊介の息は消えていた。栄養失調と熱中症による死であった。亜紀には俊介の死を知らせなかったが、亜紀は俊介が天国に行ったことを感じ取った。

 

 個室のベッドに運ばれた亜紀は目を閉じ硬直していた。小児科医は亜紀に声をかけたが、まったく返事がなかった。体温、眼球、脈拍、心電図には異常なかったが、眼を閉じたまま一言も声を発しなかった。水も食事もまったく受け付けなかった。このままでは亜紀の命が危ないと判断した担当医は、小児精神医学の権威である安部ドクターに支援を求めた。緊急の連絡を受けたドクターは子供病院へ飛んでやってきた。

春日信彦
作家:春日信彦
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