見えない子供たち

 亜紀は赤いサンダルを履き、そっとドアを開け静かにしめた。コーポの前の細い道に出ると、南に向かって約40メートル先の角にあるコンビにまで駆けて行った。しばらく、コンビニのドアの前に立っていると中学生の男の子がやってきた。男の子がドアを開けると後について一緒に入っていった。男の子は入るとすぐに右に曲がり雑誌のコーナーに向かったが、亜紀はレジの前を通過し奥のレジの前を右に曲がり8歩数えた。このコンビには一年前に母親と一緒に一度だけ買い物に来たに過ぎなかったが、パンのコーナーの場所はイメージに残っていた。棚の一番下のスティック・パン98円を発見すると右手で掴みレジに持っていった。

 

 亜紀は背伸びして右手のパンと左手に持っていた100円玉を台に置いた。レジの女の子はパンをビニール袋に入れ、亜紀の左手に手渡すと、おつりの2円を落とさないように亜紀の右手にしっかり握らせた。亜紀は黙ってレジの前を去り、入口横のレジで会計を済ませた中年の男性がドアを開けるのを待った。その男がドアから出るとき、その後について外に出た。細い道に戻ると駆け足でコーポに向かった。ドアを静かに開けるとキッチンの隅に俊介の汗をびっしょり掻いた苦しそうな寝顔があった。扇風機は止まっていた。

 

 亜紀はすぐに扇風機のタイマーを回し、転がっていたガンダムの茶碗を拾い上げた。そして、流しの前に引き寄せた椅子によじ登り、茶碗に水を半分ほど入れた。茶碗を持って俊介の頭の横に正座すると砂糖の袋に指を突っ込み、砂糖を茶碗に入れた。亜紀は思い出したように眼を大きく開くと、すっと立ち上がり、流しに駆け寄り、流しの横に置いてあった小さなスプーンを左手に取った。さっと駆け戻り、俊介の頭の横に正座すると、砂糖水の茶碗を右手に取り左手の小さなスプーンでゆっくりかき混ぜた。

 俊介は死んだようにぐっすり寝ていた。「シュン、シュン」と肩をゆすって起こしてみたが目を覚まさなかった。亜紀はスティック・パンの袋を両手で開けようとしたが開かなかった。しかめっ面の亜紀はパンの袋を俊介の頭の横に置くと、椅子を押しやり流しの下の開き戸を開け、包丁たての小さな果物ナイフを左手で引き抜いた。ナイフの先を上に向けて正座すると袋をナイフの上に置いた。ナイフは袋に突き刺さった。袋をナイフから取り外すとナイフを包丁たてに戻した。

 

 袋は簡単に開いた。スティック・パンを一本取り出し半分にちぎり、ちぎれた口を砂糖水にしばらく浸した。亜紀は人差し指を砂糖水に入れて、濡れたその指で俊介の唇をなでた。何度か唇を動かしていると俊介の瞼が少し動いた。「シュン、シュン、パン、パン」と言ってやわらかくなったパンの先端を俊介の口に押し当てた。口をあけた俊介は少しずつ食べ始めた。俊介にはまだ食べる気力が残っていた。俊介が半分のパンを食べ終えると亜紀は俊介に笑顔を見せた。

 

 ほっとした亜紀はちぎった半分をゆっくりよくかんで食べた。残り5本のスティック・パンが入った袋は冷蔵庫の中段に入れた。残った砂糖水は流しに捨て、きれいに洗った茶碗は流しの横に置いた。俊介は食べ終わるとまたぐっすり寝てしまった。一ヶ月ぐらい前まではキッチンを走りまわったり、ボールを転がしたり、亜紀に飛びついたりしていたが、ここ最近は暑さのせいかほとんどフロアに寝転がっていた。

 度重なる知美の外泊が俊介の心から元気を失わせているようだった。スキンヘッドの男と知美が付き合うようになって、子供二人との会話が極端に減った。仕事帰りが遅いこともあったが、二人に対する気配りがなくなり、よそよそしくなった。手作りの食事が減り、出来合いのものを買ってきては、えさをやるように二人に与えた。最近では、俊介を抱きしめることもなくなった。

 

 知美の実の母親、正子は3歳のとき事故でなくなった。知美が5歳のとき父、俊太郎は再婚し、2年後に知美の腹違いの妹、葉子が生まれた。知美は継母、和歌子とはうまくいかず、高校1年で中退すると、フリーターとして自立した。父は2年前にすい臓癌でなくなり、継母は昨年、脳梗塞で倒れ入院した。2歳下の妹は高校卒業後、生命保険会社の営業所事務員として働いている。

 

 知美と妹との関係もうまくいかず、家を飛び出してからは一度も連絡を取ってない。亜紀と俊介のことは、両親はもとより妹もまったく知らない。ライブハウスで働いていた知美は定期的にライブ活動を行っていた5人グループのドラマー康介と知り合い、同棲するようになった。同棲3年後、知美が20歳のとき亜紀が生まれた。2歳年上の康介は3日後には亜紀の出生届をし、父親としての振る舞いをしたが、二人は婚姻届を出そうとはしなかった。

 知美は法律に縛られた結婚を望まなかった。フランス人の結婚形態にあこがれ、お互い自由でありたいと康介に婚姻届を強制しなかった。亜紀が生まれたとき、康介は父親になることを知美に断言したが、突然、バンドが解散し、康介は失踪した。メンバーの二人は警察の取調べを受け、康介にも捜索願が出されたが、いまだ発見されていない。康介の失踪は謎に包まれ、何かの事件に巻き込まれた可能性もあった。しかし、康介らしき男性の遺体発見の報道はいまだない。康介が失踪後、知美は一人で子供二人を育てる決心をしたが、秀樹が現れてからは心がゆがんでいった。

 

 知美は4日目も、5日目も帰宅しなかった。6日目の朝、8時、亜紀は突然目を覚ました。いつもならば10時ごろ目を覚ますのだが、夢の中で俊介が泣いていたからだ。キッチンのフロアで、子供用の毛布を丸めた枕で亜紀は俊介の隣に寝ていた。眼を覚ました亜紀は俊介の寝顔をじっと見詰めた。顔色が少し青かった。「シュン、シュン」と叫んで肩をゆすったが、まったく死んだように身動き一つしなかった。

 

 俊介の頭の横にあった黄色のタオルを手に取り、額を拭こうとしたが、タオルは生暖かかった。亜紀は左手にタオルを掴み、立ち上がるとバスルームにかけて行った。蛇口の下にタオルを置き、蛇口のコックをひねった。勢いよく流れた落ちた水道水に濡れたタオルを足元に引き寄せ、両足で5,6回踏んだ。まだ、雫が垂れているタオルを3回折りたたみ両手の上に乗せ、俊介の頭の横に正座した。俊介の寝顔を見つめながら、黄色いタオルを額の上に置いた。すぐに、俊介が眼を覚ますと思ったが、表情は硬いままだった。

春日信彦
作家:春日信彦
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