見えない子供たち

 亜紀は冷蔵庫を閉じるとキッチンのフロアに転がっていたガンダムの茶碗を拾い上げた。そして、流しの前に置いてある椅子によじ登り少し蛇口のコックをひねって茶碗に水を入れた。茶碗を一度流しの横の平たいところに置くと、亜紀はひょいと飛び降りた。亜紀はこぼさないように茶碗を両手で包むように持ち上げてゆっくりと歩き俊介の頭の横に正座した。亜紀は右手を頭の後ろに入れて、フロアに寝転んでいた俊介の頭を起こし茶碗を口元に当てた。俊介はチュウチュウと飲み、少し残して、首を振った。

 

 俊介は小児喘息で発作的に咳き込むが、今は治まっていた。亜紀は六畳間のドアを開けると中をじっと見つめた。この部屋には入らないようにしつこく言われていた。スキンヘッドの男は子供の匂いがするとかんしゃくを起こした。少し脚がすくんだが、一歩足を踏み入れた。一気に扇風機に突進するとコードを引き抜き、扇風機を引きずってきた。俊介の頭の前に置くと壁のコンセントにコードを差込、タイマーを回した。生ぬるい風が時々咳き込む俊介の身体を包み込んだ。

 

 亜紀はもう一度冷蔵庫を開き、製氷ボックスの氷を親指と人差し指でつまみ上げ、一個口に含んだ。二人はこの半年間外出したことがなかった。時々見る人間は鬼のようなスキンヘッドの男と他人のような母親だけであった。亜紀は半年前から孤独に耐えられる人間に変化していた。俊介は食事が偏り、かなりやせていた。かつてハナと言う猫を飼っていたが、猫嫌いのスキンヘッドはハナを蹴飛ばしては窓から部屋の外に放り投げた。しばらくすると、ハナは戻ってこなくなった。

 亜紀はもう一度六畳間を覗き込み、じっとテレビを見つめた。チェック模様の小さな正方形をしたテーブルに駆け寄ると、その中央に置いてあったリモコンを手に取り赤いボタンを押した。しばらくすると、テレビの画像が現れた。音声が耳に入ると頬が緩み、俊介の所に戻った。俊介はぐっすり眠っていた。ミッキーの丸い壁時計は11時を回っていた。亜紀は俊介の寝顔をじっと見つめていたが、思い出したような笑顔を見せると流しに駆け寄り、その下の引き戸を開けた。

 

 そこには醤油のボトル、みりんのビン、さとうの袋、塩の壷があった。早速、砂糖の袋を取り出し、一つまみして舐めた。亜紀は笑顔を作り俊介の寝顔の横に正座した。大の字に寝込んだ俊介の肩を数回揺さぶったが、眼を覚まさなかった。亜紀は砂糖を一つまみすると俊介の口に押し込んだ。しばらくすると、俊介の寝顔が少し動いた。そして、口を動かし始めた。俊介は眼を開き小さな笑顔を見せた。だが、うつろな瞳は何も語ることができなかった。

 

 亜紀はそっと俊介の少ない髪の頭をなでた。突然、亜紀は目を輝かせて冷蔵庫を見た。そして、頬をフロアに押し付け笑顔を見せた。一ヶ月前の記憶はそのままであった。冷蔵庫の下には100円玉が輝いていた。亜紀の小さな指先は100円玉を引っ張り出した。そして、右の手のひらに乗せ、左手で埃を払いのけ、ゆっくりと握り締めた。一瞬、俊介の寝顔を見つめ、無言でそっと立ち上がった。

 

 亜紀は赤いサンダルを履き、そっとドアを開け静かにしめた。コーポの前の細い道に出ると、南に向かって約40メートル先の角にあるコンビにまで駆けて行った。しばらく、コンビニのドアの前に立っていると中学生の男の子がやってきた。男の子がドアを開けると後について一緒に入っていった。男の子は入るとすぐに右に曲がり雑誌のコーナーに向かったが、亜紀はレジの前を通過し奥のレジの前を右に曲がり8歩数えた。このコンビには一年前に母親と一緒に一度だけ買い物に来たに過ぎなかったが、パンのコーナーの場所はイメージに残っていた。棚の一番下のスティック・パン98円を発見すると右手で掴みレジに持っていった。

 

 亜紀は背伸びして右手のパンと左手に持っていた100円玉を台に置いた。レジの女の子はパンをビニール袋に入れ、亜紀の左手に手渡すと、おつりの2円を落とさないように亜紀の右手にしっかり握らせた。亜紀は黙ってレジの前を去り、入口横のレジで会計を済ませた中年の男性がドアを開けるのを待った。その男がドアから出るとき、その後について外に出た。細い道に戻ると駆け足でコーポに向かった。ドアを静かに開けるとキッチンの隅に俊介の汗をびっしょり掻いた苦しそうな寝顔があった。扇風機は止まっていた。

 

 亜紀はすぐに扇風機のタイマーを回し、転がっていたガンダムの茶碗を拾い上げた。そして、流しの前に引き寄せた椅子によじ登り、茶碗に水を半分ほど入れた。茶碗を持って俊介の頭の横に正座すると砂糖の袋に指を突っ込み、砂糖を茶碗に入れた。亜紀は思い出したように眼を大きく開くと、すっと立ち上がり、流しに駆け寄り、流しの横に置いてあった小さなスプーンを左手に取った。さっと駆け戻り、俊介の頭の横に正座すると、砂糖水の茶碗を右手に取り左手の小さなスプーンでゆっくりかき混ぜた。

 俊介は死んだようにぐっすり寝ていた。「シュン、シュン」と肩をゆすって起こしてみたが目を覚まさなかった。亜紀はスティック・パンの袋を両手で開けようとしたが開かなかった。しかめっ面の亜紀はパンの袋を俊介の頭の横に置くと、椅子を押しやり流しの下の開き戸を開け、包丁たての小さな果物ナイフを左手で引き抜いた。ナイフの先を上に向けて正座すると袋をナイフの上に置いた。ナイフは袋に突き刺さった。袋をナイフから取り外すとナイフを包丁たてに戻した。

 

 袋は簡単に開いた。スティック・パンを一本取り出し半分にちぎり、ちぎれた口を砂糖水にしばらく浸した。亜紀は人差し指を砂糖水に入れて、濡れたその指で俊介の唇をなでた。何度か唇を動かしていると俊介の瞼が少し動いた。「シュン、シュン、パン、パン」と言ってやわらかくなったパンの先端を俊介の口に押し当てた。口をあけた俊介は少しずつ食べ始めた。俊介にはまだ食べる気力が残っていた。俊介が半分のパンを食べ終えると亜紀は俊介に笑顔を見せた。

 

 ほっとした亜紀はちぎった半分をゆっくりよくかんで食べた。残り5本のスティック・パンが入った袋は冷蔵庫の中段に入れた。残った砂糖水は流しに捨て、きれいに洗った茶碗は流しの横に置いた。俊介は食べ終わるとまたぐっすり寝てしまった。一ヶ月ぐらい前まではキッチンを走りまわったり、ボールを転がしたり、亜紀に飛びついたりしていたが、ここ最近は暑さのせいかほとんどフロアに寝転がっていた。

春日信彦
作家:春日信彦
見えない子供たち
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