見えない子供たち

 ドクターは亜紀をじっと見詰め、声をかけたがやはりまったく反応がなかった。ドクターの顔が青くなった。極度の人間不信と俊介の死のショックから亜紀は、自らすべての感覚を麻痺させていた。失神状態を自ら作り出し、そこから脱却できなくなっていた。ドクターはさやかに連絡を取った。亜紀を救えるのはさやかしかいない、と即座に判断した。

 

 子供病院に駆けつけたさやかは亜紀の硬直し死んだような寝顔を見つめ、血の気が引いた。さやかは神に祈った。亜紀をお助けください。そして、さやかはベッドに仰向けになり、亜紀を胸の上に置き、しっかり抱きしめた。二人は無言で一昼夜を過ごした。翌日の10時ころ、亜紀は目を覚ました。亜紀のかすかな動きを感じ取ったさやかは、そっと亜紀の頭をなでた。さやかの目じりからは涙がこぼれ落ちていた。

 

 

さやかの名案

 

 

 意識を取り戻した亜紀は2週間後に退院することになったが、亜紀を引き取る身内が誰一人いなかった。今回の事件は新聞、テレビで報道されたが、母親、知美からの連絡はなかった。唯一の身内からの連絡は腹違いの妹、葉子からであった。しかし、亜紀の祖母、和歌子は入院しており、葉子も引き取って育てることはできないと病院に返事した。結局、亜紀は児童養護施設に預けられることに決定したが、さやかは反対した。亜紀の精神はさやかがいるときのみ安定しているが、それ以外の人が近寄るとパニックを起こすからだ。

 しばらく安部総合医療センターに亜紀を入院させ、さやかが面倒を見る事をドクターにお願いした。ドクターはさやかに何か考えがあると見て承諾した。さやかには亜紀を育てることができる唯一の人物がひらめいていた。その人物は拓也であった。アンナにも亜紀の経緯を話したところ、アンナも拓也しかいないと賛成した。早速、二人は引っ越したばかりの拓也の自宅に出向くことにした。

 

 拓也は糸島市の平原遺跡近くの一戸建てに5月に引っ越したばかりであった。拓也は平原遺跡に卑弥呼がいたと信じていた。そのこともあって平原遺跡の近くに家を買った。5LDKの二階家だが、土地が安かったため3000万で購入できた。一階は和室2部屋、洋間1部屋、リビング、キッチン、二階は洋間2部屋の間取りで、瞳との結婚も考えてローンで購入した。住宅金融公庫のローンを組んだが、頭金1000万を支払い、月々の支払いは少なく済んだ。

 

 ドクターに紹介してもらった予備校の収入は生活していくうえでは申し分なかった。自宅の前には小さな庭と家庭菜園ができるほどの畑があり、自分で食べる野菜を栽培する計画を立てた。拓也にとって初めての田舎生活であったが、都会から引っ越してきたことは正解だと確信した。父親が住んでいる姫島まではここからは近く、たびたび会えることが最大の喜びであった。交通手段としてプリウスを使っているが、今後、バイクの免許を取って史跡巡りをしたいと意気込んでいる。

 金曜日の早朝、出勤前にさやかから携帯が鳴った。土曜日の11時ごろ訪問すると言う一方的な話であった。さやかであればいつ来ても差し支えない客なので即座に了解した。二人は福岡空港から筑前前原駅まで地下鉄に乗り、駅からタクシーに乗って、予定通り11時10分に到着した。さやかのことだから何かのたくらみがあることは、さっしはついていたが、はるばる東京からやってきたねぎらいをしなくてはとお寿司の出前を取った。

 

 二人をリビングに案内し麦茶を出していると、さやかが真剣な顔をして、お願いがあるの、と切り出した。拓也は田舎に引っ越してきて都会に住んでいたときよりおおらかな心になっていた。東京からはるばるやって来てくれたことだから気持ちよく引き受けてやる心積りでいた。まず、さやかの話を適当に聞いて、12時にお寿司の配達を予約していたので、それまで田舎の話をすることにした。

 

 「さやかさん、お願いって、なんだい?」拓也はとぼけたように笑顔で訊ねた。さやかは今まで見せたことのない真剣な顔で「お父さんになってください」さやかはきっぱりと大きな声で言った。拓也は笑顔を作って「僕は離婚してはいるが、お父さんだよ。いったい、誰のお父さんになればいいんだい」拓也は冗談を言った。さやかはしばらく黙っていた。「それでは、お願いします。亜紀ちゃんのお父さんになってください」さやかとアンナは二人そろって頭を下げた。

 拓也はさっぱり意味がわからず、口をあけて、次に何を言えばいいかわからず、頭が真っ白になった。二人は頭を上げるとさやかは即座に亜紀の事情を話し始めた。話を聞き終えた拓也はあまりにも突然で、まったく承諾できない話に動揺し、返事の言葉を考えあぐねた。拓也はとにかくやんわり断ることにした。「事情は良くわかった。しかし、僕は亜紀ちゃんのお父さんにはなれない。僕もこの年だし、4歳の女の子をこの年になって一人で育てることは不可能だ。やはり、児童養護施設にお願いしたほうがいいと思う。二人も僕の気持ちはわかってくれるはずだ」

 

 拓也は精一杯の誠意を持ってこの話を断った。さやかはしばらく黙っていた。拓也が亜紀を育てることは本当に大変であることは十分承知していた。しかし、拓也以外の人間では亜紀を育てられないこともはっきりしていた。「亜紀ちゃんは拓也以外に育てられないのよ。誰もできないの。お願い、拓也!この通り」さやかは両手を合わせてお願いした。拓也はまったくどうしていいかわからなくなった。「さやかさんがそこまでお願いされるんなら、亜紀ちゃんに一度会って見よう、それから考えさせてくれ」拓也は二人の真剣な態度に圧倒された。

春日信彦
作家:春日信彦
見えない子供たち
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