当然ながら、未来に何が起こるか誰にもわからない、現在を経験するしか無いそんな一日の中に、これらの人々が一堂に会した刻があった。彼らは毎日のように出会ってはいたのだが、まさにその中からその特別な時が醸し出されてきた。
海馬に蓄えられたみんなの過去の残骸のなかから、春日波子がキラキラ輝く瞳をして嬉し気に「あのぉ、」と切り出した時の場面が活性化する。
「私たちも夕鶴をやりましょうよ、英語で」
「英語でって、このP大学の英語クラブが竹取物語を英訳して演じたから?」
河野孝三は目の前の小さな新聞記事をこんこんと叩いた。あっという間に春日波子の脳裏でプランが出来上がったようだ。
「手分けしてあの台本を英訳しましょ。それを先生に演じて見せるのよ。小道具も余り要らないし。ちょうど人数もぴったりよ」
橘正宗が考え深い眼をして言った。 「まず、英訳だけど正しい訳は難しいだろ。まあ勉強になるからいいとして、配役はどうかな。おつう、そのダンナ、村人二、三人、ぴったりだな」
「おつうは春日さんね、言い出しっぺで」
「あ、宮下さん、ずるいわ、あなたがしたら」
「あたしはぁ、ちょっとでかすぎるでしょ。それに音楽も担当するわ」
「橘さんがよひょうだね、じゃ僕らは村人だ。よひょうに悪知恵をつける軽薄なやつら、ウヒヒ」
河野孝三はすっかりその気になって笑いながら、
「僕はタイプもするよ、英語の台本の」「宮下さん、ちょうど合うようなお琴の曲があるかしら?」 「あるある、六段の調べっていうのが」
「じゃ、それをカセットテープに録音しよう」
「あ」
「なに、宮下さん」
「二重録音に出来るんじゃない? 河野くんもテープレコーダー持ってるでしょ」 「持ってるけど、どういう意味?」
「邦楽でもパートがいくつかあるのよ、それに本来は三味線、尺八も入るし」
「誰が尺八吹くんだい」
「それはちょっと無理だけど、琴の二重奏にすればいいわ。最初の録音テープを再生しながら、同時に私が二部を合奏するでしょ、それ全体をもうひとつのレコーダーで録音すれば、多分いける」
「訳の点検は橘さんね」
「いいよ、辞書ひくのが好きだから」
ノンポリの彼らは休講になった暇を使って各自が出来る事を自ら申告し、協同作業しようとしていた。必要なものはあとは大きな風呂敷二枚だった。おつうの髪の毛の代わりとして頭に春日波子が巻き付けた。もう一枚はおつうの機織り室との間仕切りとして使われるのだ。英訳、推敲、タイピング、暗記、発声練習、動きの確認など仕事は次々にあった。それらは真剣な遊びのようなものと誰にも感じられた。
場所はネイサン先生の自宅の居間、観客は先輩の大河内正、柏由美子、その恋人、機械と音声は主に河野孝三。そんなささやかな集いである。
ケイト ネイサンは大分大きくなったお腹を大事にかかえて待ち遠しそうに笑っていた。学生たちのためにポテトサラダをたくさん作っていた。ジョン ネイサンは彼らの英語を無理してでも添削してやる暇をとらなかったのを残念に思っていた。舞台設定をする様子に彼らの本気が感じられたからである。