宮下朝子について上記の半生レポートを書くことができたのは、同郷の先輩である大河内正である。
朴訥さと迷いの無さと善意とで、哲学研究の仕事と家庭運営を全きものへと実現した希有の男である。世の人々を大切に思い、全てに心を尽くした。字を一つ書く時にも大河内正の公正な、他を敬う気持ちが働いた。
妻を娶らば才長けて見目麗しく情けある、という詩節そのままの女性を見初め、詩に秘められている男の理想にまで妻を高めて行く、そんな難事にも成功した。婚約者のお披露目のために招かれた後輩たちは頷いたものだ。自然と運命が一つの女性の典型を大河内正のためだけに用意したのだと。彼女は天職として自ら教職を選び自立していた。十分に美形の女性でしかもその魅力は大河内正のような男性にのみ開かれていた。
その子供たちは満ち足りて育ち行き、両親は確かな仕事を終え、研究も趣味も夫婦仲も理解も愛情も不足するとことは何一つ無かった。大河内夫妻が人生を愛し、大切に処してきたように、人生もかれらに十分なお返しをしてくれた。後輩との年賀状のやりとりは続いていた。大河内正はその年に登った山の写真を賀状の半分に載せ、まるで既成品のように完璧な出来でありながら、個々の人物に当てたパーソナルな知らせを送った。
いつも人生への感謝と希望とが、言葉としては書かれていなくてもそこに馨っていた。受け取ったとき、この人物を識っていれば大丈夫だという気持ちが湧き起こる。こののち彼が病気になろうと、死ぬことになろうとすでに大丈夫なのだ。
大河内正についてその半生をこの限りにおいて知るのは、たとえば春日波子という宮下朝子の友人である。
橘正宗とこの二人が英会話のクラスでたまたま近くの席に座ったことから、何となく話すようになり、気持の齟齬が全く生じなかったためいつも繋がって学生時代を過ごした。そこへ河野孝三がいつの間にか加わったため、男女四人グループとなった。といっても閉じた輪ではなく、その周囲にはやはり気持の繋がりやすいもう一つのゆるい人の輪が存在していた。
広島市には七つの河が流れて来る。七つの河には橋がかかり、百メートル道路や市電の通りがあり、空が広かった。どんな悲惨の記憶があるとしても幸いにも草木は生き残り、人間の営為を可能とする。そんなことを人々が信じ始めた昭和四十年代はじめの頃である。広々とした空には大きな虹がよくかかった。空が広いので虹の存在がよく見えた。
春日波子は愛くるしい顔立ちをしていた。彼女の特性は世界の中に愛情を感じる対象を多く見つける能力と、それにともなう繊細な気質だった。父親を幼くして病で失った。弟との二人の子供を看護婦の仕事で母親は育て上げた。
友人の中で宮下朝子とは、しばらくして付き合いが途絶えた。その間に春日波子は意外な勇気をみせて、アメリカに留学したのであった。そして意外にもかなり年の若いアメリカ人と恋に落ちた。それは彼女が三十才になろうとした頃である。夫は医学生であったので生活が成り立つようになるまでは楽ではなかったが、春日波子は日本的な感性を愛していたにもかかわらず異国の愛を選んだ。
しかし、欲していた子供を流産してしまった上、経済的なあれこれの不運が二人を襲った。やがて医者となった心優しい夫と支え合って過ごした。自分の仕事として日本語を教えていた。
蒼々と月日はアメリカに流れた。ある日、春日波子は仕事から引退しようとしてパソコンのスパムメールを最後に消そうとした。その中に誰かが波子さん、消さないで、と叫んでいるのを一瞬、その光を見た。旧友宮下朝子が春日波子を見つけ出したのだった。インターネットが古い友情を蘇らせた良き一例であった。
その昔二人の間に話の種が尽きなかったように、灰色の髪になった今も次々に話が繋がっていったのは、人生論などと並行して現実の問題も絶えず起こるからである。年老いた母親がおり、夫たちは不治の病を得ていたし、自分たちにも老いの影が忍び寄っているのだ。全ては話し尽くせないとしてもそれでも充分な情報量を大切にメールに綴った。