坊っちゃん

五( 2 / 3 )

 それから赤シャツと野だは一生懸命に釣っていたが、約一時間ばかりのうちに二人で十五六上げた。可笑しい事に釣れるのも、釣れるのも、みんなゴルキばかりだ。鯛なんて薬にしたくってもありゃしない。今日は露西亜文学の大当りだと赤シャツが野だに話している。あなたの手腕でゴルキなんですから、私なんぞがゴルキなのは仕方がありません。当り前ですなと野だが答えている。船頭に聞くとこの小魚は骨が多くって、まずくって、とても食えないんだそうだ。ただ肥料には出来るそうだ。赤シャツと野だは一生懸命に肥料を釣っているんだ。気の毒の至りだ。おれは一匹で懲りたから、胴の間へ仰向けになって、さっきから大空を眺めていた。釣をするよりこの方がよっぽど洒落ている。
 すると二人は小声で何か話し始めた。おれにはよく聞えない、また聞きたくもない。おれは空を見ながら清の事を考えている。金があって、清をつれて、こんな奇麗な所へ遊びに来たらさぞ愉快だろう。いくら景色がよくっても野だなどといっしょじゃつまらない。清は皺苦茶だらけの婆さんだが、どんな所へ連れて出たって恥ずかしい心持ちはしない。野だのようなのは、馬車に乗ろうが、船に乗ろうが、凌雲閣へのろうが、到底寄り付けたものじゃない。おれが教頭で、赤シャツがおれだったら、やっぱりおれにへけつけお世辞を使って赤シャツを冷かすに違いない。江戸っ子は軽薄だと云うがなるほどこんなものが田舎巡りをして、私は江戸っ子でげすと繰り返していたら、軽薄は江戸っ子で、江戸っ子は軽薄の事だと田舎者が思うに極まってる。こんな事を考えていると、何だか二人がくすくす笑い出した。笑い声の間に何か云うが途切れ途切れでとんと要領を得ない。
「え? どうだか……」「……全くです……知らないんですから……罪ですね」「まさか……」「バッタを……本当ですよ」
 おれは外の言葉には耳を傾けなかったが、バッタと云う野だの語を聴いた時は、思わずきっとなった。野だは何のためかバッタと云う言葉だけことさら力を入れて、明瞭におれの耳にはいるようにして、そのあとをわざとぼかしてしまった。おれは動かないでやはり聞いていた。
「また例の堀田が……」「そうかも知れない……」「天麩羅……ハハハハハ」「……煽動して……」「団子も?」
 言葉はかように途切れ途切れであるけれども、バッタだの天麩羅だの、団子だのというところをもって推し測ってみると、何でもおれのことについて内所話しをしているに相違ない。話すならもっと大きな声で話すがいい、また内所話をするくらいなら、おれなんか誘わなければいい。いけ好かない連中だ。バッタだろうが雪踏だろうが、非はおれにある事じゃない。校長がひとまずあずけろと云ったから、狸の顔にめんじてただ今のところは控えているんだ。野だの癖に入らぬ批評をしやがる。毛筆でもしゃぶって引っ込んでるがいい。おれの事は、遅かれ早かれ、おれ一人で片付けてみせるから、差支えはないが、また例の堀田がとか煽動してとか云う文句が気にかかる。堀田がおれを煽動して騒動を大きくしたと云う意味なのか、あるいは堀田が生徒を煽動しておれをいじめたと云うのか方角がわからない。青空を見ていると、日の光がだんだん弱って来て、少しはひやりとする風が吹き出した。線香の烟のような雲が、透き徹る底の上を静かに伸して行ったと思ったら、いつしか底の奥に流れ込んで、うすくもやを掛けたようになった。
 もう帰ろうかと赤シャツが思い出したように云うと、ええちょうど時分ですね。今夜はマドンナの君にお逢いですかと野だが云う。赤シャツは馬鹿あ云っちゃいけない、間違いになると、船縁に身を倚たした奴を、少し起き直る。エヘヘヘヘ大丈夫ですよ。聞いたって……と野だが振り返った時、おれは皿のような眼を野だの頭の上へまともに浴びせ掛けてやった。野だはまぼしそうに引っ繰り返って、や、こいつは降参だと首を縮めて、頭を掻いた。何という猪口才だろう。
 船は静かな海を岸へ漕ぎ戻る。君釣はあまり好きでないと見えますねと赤シャツが聞くから、ええ寝ていて空を見る方がいいですと答えて、吸いかけた巻烟草を海の中へたたき込んだら、ジュと音がして艪の足で掻き分けられた浪の上を揺られながら漾っていった。「君が来たんで生徒も大いに喜んでいるから、奮発してやってくれたまえ」と今度は釣にはまるで縁故もない事を云い出した。「あんまり喜んでもいないでしょう」「いえ、お世辞じゃない。全く喜んでいるんです、ね、吉川君」「喜んでるどころじゃない。大騒ぎです」と野だはにやにやと笑った。こいつの云う事は一々癪に障るから妙だ。「しかし君注意しないと、険呑ですよ」と赤シャツが云うから「どうせ険呑です。こうなりゃ険呑は覚悟です」と云ってやった。実際おれは免職になるか、寄宿生をことごとくあやまらせるか、どっちか一つにする了見でいた。「そう云っちゃ、取りつきどころもないが――実は僕も教頭として君のためを思うから云うんだが、わるく取っちゃ困る」「教頭は全く君に好意を持ってるんですよ。僕も及ばずながら、同じ江戸っ子だから、なるべく長くご在校を願って、お互に力になろうと思って、これでも蔭ながら尽力しているんですよ」と野だが人間並の事を云った。野だのお世話になるくらいなら首を縊って死んじまわあ。
「それでね、生徒は君の来たのを大変歓迎しているんだが、そこにはいろいろな事情があってね。君も腹の立つ事もあるだろうが、ここが我慢だと思って、辛防してくれたまえ。決して君のためにならないような事はしないから」
「いろいろの事情た、どんな事情です」
「それが少し込み入ってるんだが、まあだんだん分りますよ。僕が話さないでも自然と分って来るです、ね吉川君」
「ええなかなか込み入ってますからね。一朝一夕にゃ到底分りません。しかしだんだん分ります、僕が話さないでも自然と分って来るです」と野だは赤シャツと同じような事を云う。
「そんな面倒な事情なら聞かなくてもいいんですが、あなたの方から話し出したから伺うんです」
「そりゃごもっともだ。こっちで口を切って、あとをつけないのは無責任ですね。それじゃこれだけの事を云っておきましょう。あなたは失礼ながら、まだ学校を卒業したてで、教師は始めての、経験である。ところが学校というものはなかなか情実のあるもので、そう書生流に淡泊には行かないですからね」
「淡泊に行かなければ、どんな風に行くんです」
「さあ君はそう率直だから、まだ経験に乏しいと云うんですがね……」
「どうせ経験には乏しいはずです。履歴書にもかいときましたが二十三年四ヶ月ですから」
「さ、そこで思わぬ辺から乗ぜられる事があるんです」
「正直にしていれば誰が乗じたって怖くはないです」
「無論怖くはない、怖くはないが、乗ぜられる。現に君の前任者がやられたんだから、気を付けないといけないと云うんです」
 野だが大人しくなったなと気が付いて、ふり向いて見ると、いつしか艫の方で船頭と釣の話をしている。野だが居ないんでよっぽど話しよくなった。
「僕の前任者が、誰れに乗ぜられたんです」
「だれと指すと、その人の名誉に関係するから云えない。また判然と証拠のない事だから云うとこっちの落度になる。とにかく、せっかく君が来たもんだから、ここで失敗しちゃ僕等も君を呼んだ甲斐がない。どうか気を付けてくれたまえ」
「気を付けろったって、これより気の付けようはありません。わるい事をしなけりゃ好いんでしょう」

五( 3 / 3 )

 赤シャツはホホホホと笑った。別段おれは笑われるような事を云った覚えはない。今日ただ今に至るまでこれでいいと堅く信じている。考えてみると世間の大部分の人はわるくなる事を奨励しているように思う。わるくならなければ社会に成功はしないものと信じているらしい。たまに正直な純粋な人を見ると、坊っちゃんだの小僧だのと難癖をつけて軽蔑する。それじゃ小学校や中学校で嘘をつくな、正直にしろと倫理の先生が教えない方がいい。いっそ思い切って学校で嘘をつく法とか、人を信じない術とか、人を乗せる策を教授する方が、世のためにも当人のためにもなるだろう。赤シャツがホホホホと笑ったのは、おれの単純なのを笑ったのだ。単純や真率が笑われる世の中じゃ仕様がない。清はこんな時に決して笑った事はない。大いに感心して聞いたもんだ。清の方が赤シャツよりよっぽど上等だ。
「無論悪るい事をしなければ好いんですが、自分だけ悪るい事をしなくっても、人の悪るいのが分らなくっちゃ、やっぱりひどい目に逢うでしょう。世の中には磊落なように見えても、淡泊なように見えても、親切に下宿の世話なんかしてくれても、めったに油断の出来ないのがありますから……。大分寒くなった。もう秋ですね、浜の方は靄でセピヤ色になった。いい景色だ。おい、吉川君どうだい、あの浜の景色は……」と大きな声を出して野だを呼んだ。なあるほどこりゃ奇絶ですね。時間があると写生するんだが、惜しいですね、このままにしておくのはと野だは大いにたたく。
 港屋の二階に灯が一つついて、汽車の笛がヒューと鳴るとき、おれの乗っていた舟は磯の砂へざぐりと、舳をつき込んで動かなくなった。お早うお帰りと、かみさんが、浜に立って赤シャツに挨拶する。おれは船端から、やっと掛声をして磯へ飛び下りた。

六( 1 / 3 )

 野だは大嫌いだ。こんな奴は沢庵石をつけて海の底へ沈めちまう方が日本のためだ。赤シャツは声が気に食わない。あれは持前の声をわざと気取ってあんな優しいように見せてるんだろう。いくら気取ったって、あの面じゃ駄目だ。惚れるものがあったってマドンナぐらいなものだ。しかし教頭だけに野だよりむずかしい事を云う。うちへ帰って、あいつの申し条を考えてみると一応もっとものようでもある。はっきりとした事は云わないから、見当がつきかねるが、何でも山嵐がよくない奴だから用心しろと云うのらしい。それならそうとはっきり断言するがいい、男らしくもない。そうして、そんな悪るい教師なら、早く免職さしたらよかろう。教頭なんて文学士の癖に意気地のないもんだ。蔭口をきくのでさえ、公然と名前が云えないくらいな男だから、弱虫に極まってる。弱虫は親切なものだから、あの赤シャツも女のような親切ものなんだろう。親切は親切、声は声だから、声が気に入らないって、親切を無にしちゃ筋が違う。それにしても世の中は不思議なものだ、虫の好かない奴が親切で、気のあった友達が悪漢だなんて、人を馬鹿にしている。大方田舎だから万事東京のさかに行くんだろう。物騒な所だ。今に火事が氷って、石が豆腐になるかも知れない。しかし、あの山嵐が生徒を煽動するなんて、いたずらをしそうもないがな。一番人望のある教師だと云うから、やろうと思ったら大抵の事は出来るかも知れないが、――第一そんな廻りくどい事をしないでも、じかにおれを捕まえて喧嘩を吹き懸けりゃ手数が省ける訳だ。おれが邪魔になるなら、実はこれこれだ、邪魔だから辞職してくれと云や、よさそうなもんだ。物は相談ずくでどうでもなる。向うの云い条がもっともなら、明日にでも辞職してやる。ここばかり米が出来る訳でもあるまい。どこの果へ行ったって、のたれ死はしないつもりだ。山嵐もよっぽど話せない奴だな。
 ここへ来た時第一番に氷水を奢ったのは山嵐だ。そんな裏表のある奴から、氷水でも奢ってもらっちゃ、おれの顔に関わる。おれはたった一杯しか飲まなかったから一銭五厘しか払わしちゃない。しかし一銭だろうが五厘だろうが、詐欺師の恩になっては、死ぬまで心持ちがよくない。あした学校へ行ったら、一銭五厘返しておこう。おれは清から三円借りている。その三円は五年経った今日までまだ返さない。返せないんじゃない。返さないんだ。清は今に返すだろうなどと、かりそめにもおれの懐中をあてにしてはいない。おれも今に返そうなどと他人がましい義理立てはしないつもりだ。こっちがこんな心配をすればするほど清の心を疑ぐるようなもので、清の美しい心にけちを付けると同じ事になる。返さないのは清を踏みつけるのじゃない、清をおれの片破れと思うからだ。清と山嵐とはもとより比べ物にならないが、たとい氷水だろうが、甘茶だろうが、他人から恵を受けて、だまっているのは向うをひとかどの人間と見立てて、その人間に対する厚意の所作だ。割前を出せばそれだけの事で済むところを、心のうちで難有いと恩に着るのは銭金で買える返礼じゃない。無位無冠でも一人前の独立した人間だ。独立した人間が頭を下げるのは百万両より尊といお礼と思わなければならない。
 おれはこれでも山嵐に一銭五厘奮発させて、百万両より尊とい返礼をした気でいる。山嵐は難有いと思ってしかるべきだ。それに裏へ廻って卑劣な振舞をするとは怪しからん野郎だ。あした行って一銭五厘返してしまえば借りも貸しもない。そうしておいて喧嘩をしてやろう。
 おれはここまで考えたら、眠くなったからぐうぐう寝てしまった。あくる日は思う仔細があるから、例刻より早ヤ目に出校して山嵐を待ち受けた。ところがなかなか出て来ない。うらなりが出て来る。漢学の先生が出て来る。野だが出て来る。しまいには赤シャツまで出て来たが山嵐の机の上は白墨が一本竪に寝ているだけで閑静なものだ。おれは、控所へはいるや否や返そうと思って、うちを出る時から、湯銭のように手の平へ入れて一銭五厘、学校まで握って来た。おれは膏っ手だから、開けてみると一銭五厘が汗をかいている。汗をかいてる銭を返しちゃ、山嵐が何とか云うだろうと思ったから、机の上へ置いてふうふう吹いてまた握った。ところへ赤シャツが来て昨日は失敬、迷惑でしたろうと云ったから、迷惑じゃありません、お蔭で腹が減りましたと答えた。すると赤シャツは山嵐の机の上へ肱を突いて、あの盤台面をおれの鼻の側面へ持って来たから、何をするかと思ったら、君昨日返りがけに船の中で話した事は、秘密にしてくれたまえ。まだ誰にも話しやしますまいねと云った。女のような声を出すだけに心配性な男と見える。話さない事はたしかである。しかしこれから話そうと云う心持ちで、すでに一銭五厘手の平に用意しているくらいだから、ここで赤シャツから口留めをされちゃ、ちと困る。赤シャツも赤シャツだ。山嵐と名を指さないにしろ、あれほど推察の出来る謎をかけておきながら、今さらその謎を解いちゃ迷惑だとは教頭とも思えぬ無責任だ。元来ならおれが山嵐と戦争をはじめて鎬を削ってる真中へ出て堂々とおれの肩を持つべきだ。それでこそ一校の教頭で、赤シャツを着ている主意も立つというもんだ。
 おれは教頭に向って、まだ誰にも話さないが、これから山嵐と談判するつもりだと云ったら、赤シャツは大いに狼狽して、君そんな無法な事をしちゃ困る。僕は堀田君の事について、別段君に何も明言した覚えはないんだから――君がもしここで乱暴を働いてくれると、僕は非常に迷惑する。君は学校に騒動を起すつもりで来たんじゃなかろうと妙に常識をはずれた質問をするから、当り前です、月給をもらったり、騒動を起したりしちゃ、学校の方でも困るでしょうと云った。すると赤シャツはそれじゃ昨日の事は君の参考だけにとめて、口外してくれるなと汗をかいて依頼に及ぶから、よろしい、僕も困るんだが、そんなにあなたが迷惑ならよしましょうと受け合った。君大丈夫かいと赤シャツは念を押した。どこまで女らしいんだか奥行がわからない。文学士なんて、みんなあんな連中ならつまらんものだ。辻褄の合わない、論理に欠けた注文をして恬然としている。しかもこのおれを疑ぐってる。憚りながら男だ。受け合った事を裏へ廻って反古にするようなさもしい了見はもってるもんか。
 ところへ両隣りの机の所有主も出校したんで、赤シャツは早々自分の席へ帰って行った。赤シャツは歩るき方から気取ってる。部屋の中を往来するのでも、音を立てないように靴の底をそっと落す。音を立てないであるくのが自慢になるもんだとは、この時から始めて知った。泥棒の稽古じゃあるまいし、当り前にするがいい。やがて始業の喇叭がなった。山嵐はとうとう出て来ない。仕方がないから、一銭五厘を机の上へ置いて教場へ出掛けた。
 授業の都合で一時間目は少し後れて、控所へ帰ったら、ほかの教師はみんな机を控えて話をしている。山嵐もいつの間にか来ている。欠勤だと思ったら遅刻したんだ。おれの顔を見るや否や今日は君のお蔭で遅刻したんだ。罰金を出したまえと云った。おれは机の上にあった一銭五厘を出して、これをやるから取っておけ。先達て通町で飲んだ氷水の代だと山嵐の前へ置くと、何を云ってるんだと笑いかけたが、おれが存外真面目でいるので、つまらない冗談をするなと銭をおれの机の上に掃き返した。おや山嵐の癖にどこまでも奢る気だな。
「冗談じゃない本当だ。おれは君に氷水を奢られる因縁がないから、出すんだ。取らない法があるか」
「そんなに一銭五厘が気になるなら取ってもいいが、なぜ思い出したように、今時分返すんだ」
「今時分でも、いつ時分でも、返すんだ。奢られるのが、いやだから返すんだ」
 山嵐は冷然とおれの顔を見てふんと云った。赤シャツの依頼がなければ、ここで山嵐の卑劣をあばいて大喧嘩をしてやるんだが、口外しないと受け合ったんだから動きがとれない。人がこんなに真赤になってるのにふんという理窟があるものか。
「氷水の代は受け取るから、下宿は出てくれ」
「一銭五厘受け取ればそれでいい。下宿を出ようが出まいがおれの勝手だ」
「ところが勝手でない、昨日、あすこの亭主が来て君に出てもらいたいと云うから、その訳を聞いたら亭主の云うのはもっともだ。それでももう一応たしかめるつもりで今朝あすこへ寄って詳しい話を聞いてきたんだ」
 おれには山嵐の云う事が何の意味だか分らない。
「亭主が君に何を話したんだか、おれが知ってるもんか。そう自分だけで極めたって仕様があるか。訳があるなら、訳を話すが順だ。てんから亭主の云う方がもっともだなんて失敬千万な事を云うな」

六( 2 / 3 )

「うん、そんなら云ってやろう。君は乱暴であの下宿で持て余まされているんだ。いくら下宿の女房だって、下女たあ違うぜ。足を出して拭かせるなんて、威張り過ぎるさ」
「おれが、いつ下宿の女房に足を拭かせた」
「拭かせたかどうだか知らないが、とにかく向うじゃ、君に困ってるんだ。下宿料の十円や十五円は懸物を一幅売りゃ、すぐ浮いてくるって云ってたぜ」
「利いた風な事をぬかす野郎だ。そんなら、なぜ置いた」
「なぜ置いたか、僕は知らん、置くことは置いたんだが、いやになったんだから、出ろと云うんだろう。君出てやれ」
「当り前だ。居てくれと手を合せたって、居るものか。一体そんな云い懸りを云うような所へ周旋する君からしてが不埒だ」
「おれが不埒か、君が大人しくないんだか、どっちかだろう」
 山嵐もおれに劣らぬ肝癪持ちだから、負け嫌いな大きな声を出す。控所に居た連中は何事が始まったかと思って、みんな、おれと山嵐の方を見て、顋を長くしてぼんやりしている。おれは、別に恥ずかしい事をした覚えはないんだから、立ち上がりながら、部屋中一通り見巡わしてやった。みんなが驚ろいてるなかに野だだけは面白そうに笑っていた。おれの大きな眼が、貴様も喧嘩をするつもりかと云う権幕で、野だの干瓢づらを射貫いた時に、野だは突然真面目な顔をして、大いにつつしんだ。少し怖わかったと見える。そのうち喇叭が鳴る。山嵐もおれも喧嘩を中止して教場へ出た。

 午後は、先夜おれに対して無礼を働いた寄宿生の処分法についての会議だ。会議というものは生れて始めてだからとんと容子が分らないが、職員が寄って、たかって自分勝手な説をたてて、それを校長が好い加減に纏めるのだろう。纏めるというのは黒白の決しかねる事柄について云うべき言葉だ。この場合のような、誰が見たって、不都合としか思われない事件に会議をするのは暇潰しだ。誰が何と解釈したって異説の出ようはずがない。こんな明白なのは即座に校長が処分してしまえばいいに。随分決断のない事だ。校長ってものが、これならば、何の事はない、煮え切らない愚図の異名だ。
 会議室は校長室の隣りにある細長い部屋で、平常は食堂の代理を勤める。黒い皮で張った椅子が二十脚ばかり、長いテーブルの周囲に並んでちょっと神田の西洋料理屋ぐらいな格だ。そのテーブルの端に校長が坐って、校長の隣りに赤シャツが構える。あとは勝手次第に席に着くんだそうだが、体操の教師だけはいつも席末に謙遜するという話だ。おれは様子が分らないから、博物の教師と漢学の教師の間へはいり込んだ。向うを見ると山嵐と野だが並んでる。野だの顔はどう考えても劣等だ。喧嘩はしても山嵐の方が遥かに趣がある。おやじの葬式の時に小日向の養源寺の座敷にかかってた懸物はこの顔によく似ている。坊主に聞いてみたら韋駄天と云う怪物だそうだ。今日は怒ってるから、眼をぐるぐる廻しちゃ、時々おれの方を見る。そんな事で威嚇かされてたまるもんかと、おれも負けない気で、やっぱり眼をぐりつかせて、山嵐をにらめてやった。おれの眼は恰好はよくないが、大きい事においては大抵な人には負けない。あなたは眼が大きいから役者になるときっと似合いますと清がよく云ったくらいだ。
 もう大抵お揃いでしょうかと校長が云うと、書記の川村と云うのが一つ二つと頭数を勘定してみる。一人足りない。一人不足ですがと考えていたが、これは足りないはずだ。唐茄子のうらなり君が来ていない。おれとうらなり君とはどう云う宿世の因縁かしらないが、この人の顔を見て以来どうしても忘れられない。控所へくれば、すぐ、うらなり君が眼に付く、途中をあるいていても、うらなり先生の様子が心に浮ぶ。温泉へ行くと、うらなり君が時々蒼い顔をして湯壺のなかに膨れている。挨拶をするとへえと恐縮して頭を下げるから気の毒になる。学校へ出てうらなり君ほど大人しい人は居ない。めったに笑った事もないが、余計な口をきいた事もない。おれは君子という言葉を書物の上で知ってるが、これは字引にあるばかりで、生きてるものではないと思ってたが、うらなり君に逢ってから始めて、やっぱり正体のある文字だと感心したくらいだ。
 このくらい関係の深い人の事だから、会議室へはいるや否や、うらなり君の居ないのは、すぐ気がついた。実を云うと、この男の次へでも坐わろうかと、ひそかに目標にして来たくらいだ。校長はもうやがて見えるでしょうと、自分の前にある紫の袱紗包をほどいて、蒟蒻版のような者を読んでいる。赤シャツは琥珀のパイプを絹ハンケチで磨き始めた。この男はこれが道楽である。赤シャツ相当のところだろう。ほかの連中は隣り同志で何だか私語き合っている。手持無沙汰なのは鉛筆の尻に着いている、護謨の頭でテーブルの上へしきりに何か書いている。野だは時々山嵐に話しかけるが、山嵐は一向応じない。ただうんとかああと云うばかりで、時々怖い眼をして、おれの方を見る。おれも負けずに睨め返す。
 ところへ待ちかねた、うらなり君が気の毒そうにはいって来て少々用事がありまして、遅刻致しましたと慇懃に狸に挨拶をした。では会議を開きますと狸はまず書記の川村君に蒟蒻版を配布させる。見ると最初が処分の件、次が生徒取締の件、その他二三ヶ条である。狸は例の通りもったいぶって、教育の生霊という見えでこんな意味の事を述べた。「学校の職員や生徒に過失のあるのは、みんな自分の寡徳の致すところで、何か事件がある度に、自分はよくこれで校長が勤まるとひそかに慚愧の念に堪えんが、不幸にして今回もまたかかる騒動を引き起したのは、深く諸君に向って謝罪しなければならん。しかしひとたび起った以上は仕方がない、どうにか処分をせんければならん、事実はすでに諸君のご承知の通りであるからして、善後策について腹蔵のない事を参考のためにお述べ下さい」
 おれは校長の言葉を聞いて、なるほど校長だの狸だのと云うものは、えらい事を云うもんだと感心した。こう校長が何もかも責任を受けて、自分の咎だとか、不徳だとか云うくらいなら、生徒を処分するのは、やめにして、自分から先へ免職になったら、よさそうなもんだ。そうすればこんな面倒な会議なんぞを開く必要もなくなる訳だ。第一常識から云っても分ってる。おれが大人しく宿直をする。生徒が乱暴をする。わるいのは校長でもなけりゃ、おれでもない、生徒だけに極ってる。もし山嵐が煽動したとすれば、生徒と山嵐を退治ればそれでたくさんだ。人の尻を自分で背負い込んで、おれの尻だ、おれの尻だと吹き散らかす奴が、どこの国にあるもんか、狸でなくっちゃ出来る芸当じゃない。彼はこんな条理に適わない議論を吐いて、得意気に一同を見廻した。ところが誰も口を開くものがない。博物の教師は第一教場の屋根に烏がとまってるのを眺めている。漢学の先生は蒟蒻版を畳んだり、延ばしたりしてる。山嵐はまだおれの顔をにらめている。会議と云うものが、こんな馬鹿気たものなら、欠席して昼寝でもしている方がましだ。
 おれは、じれったくなったから、一番大いに弁じてやろうと思って、半分尻をあげかけたら、赤シャツが何か云い出したから、やめにした。見るとパイプをしまって、縞のある絹ハンケチで顔をふきながら、何か云っている。あの手巾はきっとマドンナから巻き上げたに相違ない。男は白い麻を使うもんだ。「私も寄宿生の乱暴を聞いてはなはだ教頭として不行届であり、かつ平常の徳化が少年に及ばなかったのを深く慚ずるのであります。でこう云う事は、何か陥欠があると起るもので、事件その物を見ると何だか生徒だけがわるいようであるが、その真相を極めると責任はかえって学校にあるかも知れない。だから表面上にあらわれたところだけで厳重な制裁を加えるのは、かえって未来のためによくないかとも思われます。かつ少年血気のものであるから活気があふれて、善悪の考えはなく、半ば無意識にこんな悪戯をやる事はないとも限らん。でもとより処分法は校長のお考えにある事だから、私の容喙する限りではないが、どうかその辺をご斟酌になって、なるべく寛大なお取計を願いたいと思います」
 なるほど狸が狸なら、赤シャツも赤シャツだ。生徒があばれるのは、生徒がわるいんじゃない教師が悪るいんだと公言している。気狂が人の頭を撲り付けるのは、なぐられた人がわるいから、気狂がなぐるんだそうだ。難有い仕合せだ。活気にみちて困るなら運動場へ出て相撲でも取るがいい、半ば無意識に床の中へバッタを入れられてたまるものか。この様子じゃ寝頸をかかれても、半ば無意識だって放免するつもりだろう。
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