ふたりのあいだ

 それだけに、その日の一時限目の授業がはじまってすぐ、ラブレターを書く気はないかと井沢が提案をしてきたときには、少なからず驚かされることとなった。

《敵に贈られた塩は、後腐れないよう返しておきたいからな》

 その感じに嫌味はまったく感じられず、僕はありがたくその提案を受けることにした。前の日はストーカーへの警告文をつくっていたというのに、その次の日には想いを寄せる相手にラブレターを書いているというのは、なんだか不思議な気分だった。しかも僕が考えた文面を、僕の彼女への想いを実際に手紙に綴っているのは、僕の恋敵たる男なのだ。普通なら苦笑いが漏れ出る状況だろう。しかし気のいい井沢のおかげだろうか、僕を苛んでいた空虚感はいまや晴れ晴れとした気持ちに満たされ、跡形もなく消え去ってしまっていた。

 井沢曰く、かつて書いたことがなく、これからもきっと書くことはないに違いない美麗な字により、僕の朝倉さんに向けたラブレターはしたためられた。僕が内容を確認してうなずくと、井沢はそれを封筒に入れて封をした。

《いつ渡す?》

 僕はかぶりを振った。

「渡す気はない。その手紙は燃やしてくれ」

 しばらく黙って見つめ合ったあと、井沢は一度首肯するような仕草をみせ、そのまま黒板に向き直った。僕も教室の窓から外の景色を眺めるとも眺め、四時限目終了のチャイムが鳴るのを待った。チャイムが鳴ったとき、井沢の机の上にひらかれたノートにはいつもの汚い字で、《放課後、屋上で》というメッセージが残されていた。

 昼休みを挟み、五時限目も六時限目も僕と井沢はひと言も言葉を交わさなかった。おざなりなホームルームもまたたく間に終わってしまい、起立、礼、さようならのあとに、放課後はやってきた。

友だちと連れ添い教室を出ていく彼女を――いや、その背後霊たるこの僕を、井沢はじっと見つめて佇んでいた。そんな井沢に向かって、僕は大きく手を振った。強がりではなくて、顔はたぶんうれしそうに笑っていたんじゃないかと思う。井沢はそれを、なんともいえない渋い顔をしてやはりただ見ているだけだった。

階段をおりて、下駄箱を通り抜け、僕と彼女は青い空の下に出た。すでに運動部が活動をはじめている校庭を遠回りして、彼女は校門へと向かう。校庭に植えられた桜の木々は、もうすっかり装いを変えて緑の葉を茂らせている。そういえばもう数日もすれば、この学校でも衣替えとなる時期だ。新しい季節がはじまろうとしている。

校舎の屋上を仰ぐと、そこには長細い煙がひと筋空へと立ちのぼっていた。校門への道のりも半分を過ぎたところだ。煙の出処のすぐそばで人影が立ちあがり、こちらに向かって大きく手を振っている。遠のく意識の中、僕もまた手を振り返した。それが、あいつに見えたかどうかはわからない。次の瞬間、僕の意識はどこまでも長く伸びる煙と同化し、天に向かってのぼっていた。

井沢が何か叫ぶ。朝倉さんが振り返る。ふたりは手を振りあう。彼女の小さな背中に、そしてふたりのあいだに、僕はもういない。

大橋休利
作家:大橋休利
ふたりのあいだ
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