ふたりのあいだ

井沢は想像を超える俊足をみせると、見る見るうちにストーカーの背後へと迫り、そしてついにはそれを追い越した。井沢は止まらない。そのままスピードを落とすことなく走り続けると、朝倉さんのもとにもすぐに追いついた。

「もう安心して、おれらがなんとかするから」

 井沢の言葉に、朝倉さんはまた振り向いた。僕も首をひねって彼女を振り返り、その顔に今度は少し安堵した表情が浮かんでいるのを目にした。けれどもきっと彼女には、井沢が言った「おれら」の意味などわかってはおらず、気にしてもいないのだろうなと思うとまた少し胸が痛むのを感じたのだった。

しかしそう感傷に浸ってもいられない。

「井沢、来たぞ! うしろに思いっきりとび蹴り食らわせろ!」

 僕の叫びにうなずき、井沢はうしろを一度確認することもなく反転し、宙を舞って脚を前に力強く押し出した。それはちょうどストーカーのみぞおち部分に入り、男を悶絶させた。ほとんど息を切らした様子もみせない井沢の前に、ストーカーが為す術はもはやなかった。

「ありがとうね、井沢くん」

 朝倉さんの感謝の言葉に、おそらくいつもの白い歯を見せながらであろう、井沢が応えて言った。

「半分は朝倉さんの守護霊のおかげだよ」

 背後で朝倉さんが首を傾げる気配がした。

「井沢くんって、変な人だね」

 朝倉さん、井沢、そして僕もまた、声をあげて笑った。

 

 結局、朝倉さんに知られないようストーカーを撃退することはできず、警察沙汰にまでなってしまったものの、事件は無事に解決することとなった。そして同時に、かねてからクラスの中でもささやかれていた朝倉さんと井沢との仲が、その事件の次の日にはもう、本人らの意思に先行して公認のものとなっていたのだった。僕自身、もはやふたりが近いうちに恋人と呼ばれる仲になることを疑ってはおらず、前の日の夜を空虚な気持ちで過ごしていた。

 それだけに、その日の一時限目の授業がはじまってすぐ、ラブレターを書く気はないかと井沢が提案をしてきたときには、少なからず驚かされることとなった。

《敵に贈られた塩は、後腐れないよう返しておきたいからな》

 その感じに嫌味はまったく感じられず、僕はありがたくその提案を受けることにした。前の日はストーカーへの警告文をつくっていたというのに、その次の日には想いを寄せる相手にラブレターを書いているというのは、なんだか不思議な気分だった。しかも僕が考えた文面を、僕の彼女への想いを実際に手紙に綴っているのは、僕の恋敵たる男なのだ。普通なら苦笑いが漏れ出る状況だろう。しかし気のいい井沢のおかげだろうか、僕を苛んでいた空虚感はいまや晴れ晴れとした気持ちに満たされ、跡形もなく消え去ってしまっていた。

 井沢曰く、かつて書いたことがなく、これからもきっと書くことはないに違いない美麗な字により、僕の朝倉さんに向けたラブレターはしたためられた。僕が内容を確認してうなずくと、井沢はそれを封筒に入れて封をした。

《いつ渡す?》

 僕はかぶりを振った。

「渡す気はない。その手紙は燃やしてくれ」

 しばらく黙って見つめ合ったあと、井沢は一度首肯するような仕草をみせ、そのまま黒板に向き直った。僕も教室の窓から外の景色を眺めるとも眺め、四時限目終了のチャイムが鳴るのを待った。チャイムが鳴ったとき、井沢の机の上にひらかれたノートにはいつもの汚い字で、《放課後、屋上で》というメッセージが残されていた。

 昼休みを挟み、五時限目も六時限目も僕と井沢はひと言も言葉を交わさなかった。おざなりなホームルームもまたたく間に終わってしまい、起立、礼、さようならのあとに、放課後はやってきた。

友だちと連れ添い教室を出ていく彼女を――いや、その背後霊たるこの僕を、井沢はじっと見つめて佇んでいた。そんな井沢に向かって、僕は大きく手を振った。強がりではなくて、顔はたぶんうれしそうに笑っていたんじゃないかと思う。井沢はそれを、なんともいえない渋い顔をしてやはりただ見ているだけだった。

階段をおりて、下駄箱を通り抜け、僕と彼女は青い空の下に出た。すでに運動部が活動をはじめている校庭を遠回りして、彼女は校門へと向かう。校庭に植えられた桜の木々は、もうすっかり装いを変えて緑の葉を茂らせている。そういえばもう数日もすれば、この学校でも衣替えとなる時期だ。新しい季節がはじまろうとしている。

校舎の屋上を仰ぐと、そこには長細い煙がひと筋空へと立ちのぼっていた。校門への道のりも半分を過ぎたところだ。煙の出処のすぐそばで人影が立ちあがり、こちらに向かって大きく手を振っている。遠のく意識の中、僕もまた手を振り返した。それが、あいつに見えたかどうかはわからない。次の瞬間、僕の意識はどこまでも長く伸びる煙と同化し、天に向かってのぼっていた。

井沢が何か叫ぶ。朝倉さんが振り返る。ふたりは手を振りあう。彼女の小さな背中に、そしてふたりのあいだに、僕はもういない。

大橋休利
作家:大橋休利
ふたりのあいだ
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