事実、それから一カ月以上の月日が経っても、僕と恋敵との仲は悪くなりこそすれ、よくなることはなかった。当然といえば、当然のことである。というのも、僕の朝倉さんに対する想いは日に日に大きくなっていくばかりで、それはまた井沢にしても同じことであったからだ。

しかしなんといっても、僕は幽霊で、やつは人間だ。否が応にも差というものはでてくる。やつは少しずつ、しかし学校中の男子の誰よりも、彼女と仲良くなっていった。僕の胸が痛いほどに締めつけられていたことなど、言うまでもないだろう。彼女が自分から遠ざかっていくように感じられるのがつらかったというのに加えて、井沢という男がけっして悪いやつではない――どころか、生前なら仲よくなれていたかもしれないと思うほどにいいやつだということが次第にわかってきたからだ。これは望まない発見であったが、一度知ってしまったものを忘れ去ることはなかなかに難しかった。

朝倉さんのあとをつける不穏な影に気がついたのは、そんな思いに打ちひしがれていたある日のことであった。

その不穏な影は日に日に彼女との距離を詰めてきた。間違いなく、ストーカーである。背中あわせの背後霊たる僕からしてみれば、それに気づくのはそう難しいことではないのだが、それを直接彼女に知らせる手立てはないし、ストーカーを撃退することもまたできそうにない。僕がそうして苦悩しているあいだにもまた、ストーカーは少しずつ彼女に近づいてくるのであった。

僕は決心を固め、恋敵である男にストーカーの件を告げた。男はいつになく真剣な顔をして、ノートにこう書き記した。

《なんとかしよう》

　なんとかする――ではなく、なんとかしよう。そのささやかなひと言に、僕は不覚にも心打たれてしまい、恋敵と共同戦線を張ることに同意した。

できることなら彼女の知らないままに事を解決したいということになり、授業のあいだも僕らはストーカー撃退のための策を練った。

対策を打つのは早いほうがいい。計画はさっそく、きょうの放課後に実行することにしよう。手持ちの道具もないから、ストーカーのあとを井沢が尾行して住所を特定し、ポストに警告文を入れよう。あしたからも念のため、朝倉さんの登下校を見張ることにしよう――昼休みまでにそんな策を立て、残りの時間で僕が考えた警告文を井沢が清書した。

しかし僕らの見立ては甘かった。まだきょうのところは本格的な行動にでることはないだろうと踏んでいたのだが、ストーカーはその日、大通りから逸れた人気のない小道で、担任から頼まれごとをして少し帰りの遅くなった彼女に襲いかかってきたのだ。

無論、僕の叫びは彼女に届かない。男が背後に迫ってきているというのに、彼女はまだ気づかないでいる。

「朝倉、逃げろ！　うしろに気をつけろ！」

　井沢の声だった。その声に朝倉さんは振り向き、ストーカーの姿を認めた。

「逃げろ！　早く逃げろ！」

　朝倉さんは前を向くと、家に向かってまっしぐらに駆けだした。井沢の声に驚き立ち止まっていたストーカーも、それを追いかけ走りだした。朝倉さんとストーカーとの距離は次第次第と縮まっていく。ところがそれ以上に――ストーカーと井沢との距離は縮まっていった。そういえば井沢は、陸上部で短距離走のエースなのだといまさらながらに思いだした。

井沢は想像を超える俊足をみせると、見る見るうちにストーカーの背後へと迫り、そしてついにはそれを追い越した。井沢は止まらない。そのままスピードを落とすことなく走り続けると、朝倉さんのもとにもすぐに追いついた。

「もう安心して、おれらがなんとかするから」

　井沢の言葉に、朝倉さんはまた振り向いた。僕も首をひねって彼女を振り返り、その顔に今度は少し安堵した表情が浮かんでいるのを目にした。けれどもきっと彼女には、井沢が言った「おれら」の意味などわかってはおらず、気にしてもいないのだろうなと思うとまた少し胸が痛むのを感じたのだった。

しかしそう感傷に浸ってもいられない。

「井沢、来たぞ！　うしろに思いっきりとび蹴り食らわせろ！」

　僕の叫びにうなずき、井沢はうしろを一度確認することもなく反転し、宙を舞って脚を前に力強く押し出した。それはちょうどストーカーのみぞおち部分に入り、男を悶絶させた。ほとんど息を切らした様子もみせない井沢の前に、ストーカーが為す術はもはやなかった。

「ありがとうね、井沢くん」

　朝倉さんの感謝の言葉に、おそらくいつもの白い歯を見せながらであろう、井沢が応えて言った。

「半分は朝倉さんの守護霊のおかげだよ」

　背後で朝倉さんが首を傾げる気配がした。

「井沢くんって、変な人だね」

　朝倉さん、井沢、そして僕もまた、声をあげて笑った。

　結局、朝倉さんに知られないようストーカーを撃退することはできず、警察沙汰にまでなってしまったものの、事件は無事に解決することとなった。そして同時に、かねてからクラスの中でもささやかれていた朝倉さんと井沢との仲が、その事件の次の日にはもう、本人らの意思に先行して公認のものとなっていたのだった。僕自身、もはやふたりが近いうちに恋人と呼ばれる仲になることを疑ってはおらず、前の日の夜を空虚な気持ちで過ごしていた。

　それだけに、その日の一時限目の授業がはじまってすぐ、ラブレターを書く気はないかと井沢が提案をしてきたときには、少なからず驚かされることとなった。

《敵に贈られた塩は、後腐れないよう返しておきたいからな》

　その感じに嫌味はまったく感じられず、僕はありがたくその提案を受けることにした。前の日はストーカーへの警告文をつくっていたというのに、その次の日には想いを寄せる相手にラブレターを書いているというのは、なんだか不思議な気分だった。しかも僕が考えた文面を、僕の彼女への想いを実際に手紙に綴っているのは、僕の恋敵たる男なのだ。普通なら苦笑いが漏れ出る状況だろう。しかし気のいい井沢のおかげだろうか、僕を苛んでいた空虚感はいまや晴れ晴れとした気持ちに満たされ、跡形もなく消え去ってしまっていた。

　井沢曰く、かつて書いたことがなく、これからもきっと書くことはないに違いない美麗な字により、僕の朝倉さんに向けたラブレターはしたためられた。僕が内容を確認してうなずくと、井沢はそれを封筒に入れて封をした。

《いつ渡す？》

　僕はかぶりを振った。

「渡す気はない。その手紙は燃やしてくれ」

　しばらく黙って見つめ合ったあと、井沢は一度首肯するような仕草をみせ、そのまま黒板に向き直った。僕も教室の窓から外の景色を眺めるとも眺め、四時限目終了のチャイムが鳴るのを待った。チャイムが鳴ったとき、井沢の机の上にひらかれたノートにはいつもの汚い字で、《放課後、屋上で》というメッセージが残されていた。