ふたりのあいだ

 出席番号一番の彼女は、席から立ち上がると体を百二十度ほど右回転させ、すっと静かに息を吸った。

「はじめまして、朝倉詩穂です。ここに来る前は静岡の高校に通っていました。まだ引っ越してきたばかりなのでこちらに友だちはいませんが、仲よくしていただけるとうれしいです――」

 かわいらしくて、少しくすぐったい感じのする声だった。僕はそれを、彼女のうしろで、背中あわせになって聞いていた。

いったいなぜ、こんなことになってしまったのだろう。

 

四月九日のきょう、午前八時過ぎ、僕は大通り沿いの歩道をのんびりと歩き、そこかしこに散りばめられた春の訪れを眺めまわしていた。

並木のツツジは瑞々しい若葉をつけ、頭上ではうすピンクの傘を広げたソメイヨシノと紺碧の空とが鮮やかなコントラストを成していたのを覚えている。花粉除けのマスクで顔の下半分を覆い隠した人々の群れも、すっかり春の代名詞となったようだった。

どうやらきょうから新学年、新学期がはじまるらしく、着なれない学生服に身を包んだ新入生の姿を見かけるたび、そのあまりのまぶしさに目を細めたいような気にさせられた。すべてが清々しかった。すべてが輝いて見えた。しかしそれらすべてをひとまとめにしても、彼女を目にしたときの感動には遠く及ばなかっただろう。その感動には、何やら神秘めいたものさえ感じられた。いまにして思えば、それは何か予感のようなものであったのかもしれない。

 彼女の通う学校は、身につけている制服を見ればわかった。萌葱色のブレザー、えんじ色のリボン、焦げ茶色のスカートは近くにある私立高校指定の制服で、同じ学校のものを僕も身につけている。もっとも、僕が着ているのは男子用の制服ではあるけれど。このあたりで見ない顔であることと、制服が真新しく見えることからして、彼女は新一年生か編入生かのどちらかであろうと見当をつけた。もちろんそのときはまだ、彼女の名前さえ知ってはいなかった。

 遠ざかっていく彼女の後ろ姿を見送り、僕は道路を横切りむこう側の歩道へと渡った。それから十分ほど待っただろうか。思ったとおり、彼女はまたその場所へと帰ってきた。走るペースを少々落としたとしても、登校時間内には十分学校に辿りつけるに違いなかった。

 近づいてくる彼女の前に、僕は立ちはだかった。彼女との距離は見る見るうちに縮まっていった。赤みの差した顔はやや幼い印象で、つぶらな目と薄い唇とがその感じをさらに強めていたのだが、それがなんともかわいらしく好ましいものに思われた。やがて荒い息が聞こえ、額に浮んだ汗も認められるようになった。文字どおり、目と鼻の先だ。それでも彼女は、僕の存在に気づかなかった。彼女は僕の体に真正面から突っ込むと、そのまま真後ろへとすり抜けていった……。

気づかれもしないし、触れられもしない、そんな僕の境遇はきょうも相変わらず健在なのかと天を仰ぎ、何を期待していたのかと自分自身にため息をついた。しかしそのときにはもう、異変は起きてしまっていたのだ。

青空を背景に、桜並木が流れていくのを僕は目の端でぼんやり見ていた。アスファルトを駆ける足音は、彼女の荒い呼吸の音は、そして早鐘を打つ心臓の音は、いつまで経っても耳から離れずにいた。彼女は、僕のもとから遠ざからなかった。

まさかと思って振り向くと、そこにははたして彼女の小さく愛らしい後頭部があり、それを見てようやく僕は、界隈三十メートルほどの中でしかうろつくことのできない地縛霊であった自分自身が、ひと目ぼれした彼女の、この朝倉詩穂という女の子の背後霊となったことを理解したのだった。

 

「――よろしくお願いします」

 そう言っておじぎをしたところで、彼女の自己紹介は終わった。僕を除く、私立向ヶ丘高校二年一組のクラスメイトに向けられたあいさつだ。

担任とクラスメイトがあたたかな拍手で応える中、彼女はゆっくりと席に着いた。そしてそれと入れ替わりに、後ろの席の男子生徒が席を立ってまた自己紹介をはじめた。

「井沢寛司です。部活は――」

 しかし井沢の部活の話など、いまはどうだっていい。

 想いを寄せる相手と一緒にいられる――それは本来すてきでよろこぶべきことなのだろうが、僕の場合、やはり素直にそうは思えないところがあった。そばにいられるとはいえ、僕と彼女の存在は、『あちら側』と『こちら側』――そんなふうに分かたれている。交りあうことはもちろん、向きあうことすらかなわない関係だ。

 それにもうひとつ、問題があった。

背後霊は背後霊でも、僕は彼女の背中あわせの背後霊なのだ。彼女が僕の体をすり抜けて、僕が彼女の背後霊となったその瞬間から、僕は体の自由を奪われてしまった。手足を動かすことはできるし、頭を振ったりすることはできるけれど、なぜか体を反転させることができない。だから、人のうしろからぬっと顔をのぞかせるようなまねはできず、彼女を正面から撮った写真に僕も写り込んでいた場合、それは、世にも珍しい幽霊の後頭部を映した心霊写真となってしまうわけである。

たとえ向き合うことができたとして何ができるわけじゃないし、そんなことは初めからわかりきっているわけなのだけれど、それにしたって、いまのふたりの関係がこのまま続くと思うと底知れない絶望感に襲われてしまう。せっかく想い人の背後霊になれたのだから、せめて彼女のうしろ姿くらい眺めさせてくれたっていいではないか。これでは、地縛霊であった頃とどちらが幸福なのかわかったもんじゃない。地縛霊として三年近くものあいだひとりで、ひとところに留まらねばらないのは退屈でつらいことだったけれど、いまは別の意味でつらく、いたたまれない気持ちだ。

「――それじゃあ、どうぞよろしく」

井沢が自己紹介を終え、自分の席に着いた。そのとき一瞬、やつの目が僕を認めたように感じたのは――勘違いではなかった。

 

《おれ、朝倉さんのこと好きになっちゃったかも》

 机に広げたノートにそう書き記し、井沢が宣戦布告をしてきたのは、早くもその次の日の一時限目のことであった。

大橋休利
作家:大橋休利
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