人間失格

第二の手記( 2 / 8 )

 竹一が、自分に耳だれの膿の仕末をしてもらって、お前は惚れられるという馬鹿なお世辞を言い、自分はその時、ただ顔を赤らめて笑って、何も答えませんでしたけれども、しかし、実は、幽かに思い当るところもあったのでした。でも、「惚れられる」というような野卑な言葉に依って生じるやにさがった雰囲気に対して、そう言われると、思い当るところもある、などと書くのは、ほとんど落語の若旦那のせりふにさえならぬくらい、おろかしい感懐を示すようなもので、まさか、自分は、そんなふざけた、やにさがった気持で、「思い当るところもあった」わけでは無いのです。
 自分には、人間の女性のほうが、男性よりもさらに数倍難解でした。自分の家族は、女性のほうが男性よりも数が多く、また親戚にも、女の子がたくさんあり、またれいの「犯罪」の女中などもいまして、自分は幼い時から、女とばかり遊んで育ったといっても過言ではないと思っていますが、それは、また、しかし、実に、薄氷を踏む思いで、その女のひとたちと附合って来たのです。ほとんど、まるで見当が、つかないのです。五里霧中で、そうして時たま、虎の尾を踏む失敗をして、ひどい痛手を負い、それがまた、男性から受ける笞とちがって、内出血みたいに極度に不快に内攻して、なかなか治癒し難い傷でした。
 女は引き寄せて、つっ放す、或いはまた、女は、人のいるところでは自分をさげすみ、邪慳にし、誰もいなくなると、ひしと抱きしめる、女は死んだように深く眠る、女は眠るために生きているのではないかしら、その他、女に就いてのさまざまの観察を、すでに自分は、幼年時代から得ていたのですが、同じ人類のようでありながら、男とはまた、全く異った生きもののような感じで、そうしてまた、この不可解で油断のならぬ生きものは、奇妙に自分をかまうのでした。「惚れられる」なんていう言葉も、また「好かれる」という言葉も、自分の場合にはちっとも、ふさわしくなく、「かまわれる」とでも言ったほうが、まだしも実状の説明に適しているかも知れません。
 女は、男よりも更に、道化には、くつろぐようでした。自分がお道化を演じ、男はさすがにいつまでもゲラゲラ笑ってもいませんし、それに自分も男のひとに対し、調子に乗ってあまりお道化を演じすぎると失敗するという事を知っていましたので、必ず適当のところで切り上げるように心掛けていましたが、女は適度という事を知らず、いつまでもいつまでも、自分にお道化を要求し、自分はその限りないアンコールに応じて、へとへとになるのでした。実に、よく笑うのです。いったいに、女は、男よりも快楽をよけいに頬張る事が出来るようです。
 自分が中学時代に世話になったその家の姉娘も、妹娘も、ひまさえあれば、二階の自分の部屋にやって来て、自分はその度毎に飛び上らんばかりにぎょっとして、そうして、ひたすらおびえ、
「御勉強?」
「いいえ」
 と微笑して本を閉じ、
「きょうね、学校でね、コンボウという地理の先生がね」
 とするする口から流れ出るものは、心にも無い滑稽噺でした。
「葉ちゃん、眼鏡をかけてごらん」
 或る晩、妹娘のセッちゃんが、アネサと一緒に自分の部屋へ遊びに来て、さんざん自分にお道化を演じさせた揚句の果に、そんな事を言い出しました。
「なぜ?」
「いいから、かけてごらん。アネサの眼鏡を借りなさい」
 いつでも、こんな乱暴な命令口調で言うのでした。道化師は、素直にアネサの眼鏡をかけました。とたんに、二人の娘は、笑いころげました。
「そっくり。ロイドに、そっくり」
 当時、ハロルド・ロイドとかいう外国の映画の喜劇役者が、日本で人気がありました。
 自分は立って片手を挙げ、
「諸君」
 と言い、
「このたび、日本のファンの皆様がたに、……」
 と一場の挨拶を試み、さらに大笑いさせて、それから、ロイドの映画がそのまちの劇場に来るたび毎に見に行って、ひそかに彼の表情などを研究しました。
 また、或る秋の夜、自分が寝ながら本を読んでいると、アネサが鳥のように素早く部屋へはいって来て、いきなり自分の掛蒲団の上に倒れて泣き、
「葉ちゃんが、あたしを助けてくれるのだわね。そうだわね。こんな家、一緒に出てしまったほうがいいのだわ。助けてね。助けて」
 などと、はげしい事を口走っては、また泣くのでした。けれども、自分には、女から、こんな態度を見せつけられるのは、これが最初ではありませんでしたので、アネサの過激な言葉にも、さして驚かず、かえってその陳腐、無内容に興が覚めた心地で、そっと蒲団から脱け出し、机の上の柿をむいて、その一きれをアネサに手渡してやりました。すると、アネサは、しゃくり上げながらその柿を食べ、
「何か面白い本が無い? 貸してよ」
 と言いました。
 自分は漱石の「吾輩は猫である」という本を、本棚から選んであげました。
「ごちそうさま」
 アネサは、恥ずかしそうに笑って部屋から出て行きましたが、このアネサに限らず、いったい女は、どんな気持で生きているのかを考える事は、自分にとって、蚯蚓の思いをさぐるよりも、ややこしく、わずらわしく、薄気味の悪いものに感ぜられていました。ただ、自分は、女があんなに急に泣き出したりした場合、何か甘いものを手渡してやると、それを食べて機嫌を直すという事だけは、幼い時から、自分の経験に依って知っていました。
 また、妹娘のセッちゃんは、その友だちまで自分の部屋に連れて来て、自分がれいに依って公平に皆を笑わせ、友だちが帰ると、セッちゃんは、必ずその友だちの悪口を言うのでした。あのひとは不良少女だから、気をつけるように、ときまって言うのでした。そんなら、わざわざ連れて来なければ、よいのに、おかげで自分の部屋の来客の、ほとんど全部が女、という事になってしまいました。
 しかし、それは、竹一のお世辞の「惚れられる」事の実現では未だ決して無かったのでした。つまり、自分は、日本の東北のハロルド・ロイドに過ぎなかったのです。竹一の無智なお世辞が、いまわしい予言として、なまなまと生きて来て、不吉な形貌を呈するようになったのは、更にそれから、数年経った後の事でありました。
 竹一は、また、自分にもう一つ、重大な贈り物をしていました。
「お化けの絵だよ」
 いつか竹一が、自分の二階へ遊びに来た時、ご持参の、一枚の原色版の口絵を得意そうに自分に見せて、そう説明しました。
 おや? と思いました。その瞬間、自分の落ち行く道が決定せられたように、後年に到って、そんな気がしてなりません。自分は、知っていました。それは、ゴッホの例の自画像に過ぎないのを知っていました。自分たちの少年の頃には、日本ではフランスの所謂印象派の画が大流行していて、洋画鑑賞の第一歩を、たいていこのあたりからはじめたもので、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ、ルナアルなどというひとの絵は、田舎の中学生でも、たいていその写真版を見て知っていたのでした。自分なども、ゴッホの原色版をかなりたくさん見て、タッチの面白さ、色彩の鮮やかさに興趣を覚えてはいたのですが、しかし、お化けの絵、だとは、いちども考えた事が無かったのでした。
「では、こんなのは、どうかしら。やっぱり、お化けかしら」
 自分は本棚から、モジリアニの画集を出し、焼けた赤銅のような肌の、れいの裸婦の像を竹一に見せました。
「すげえなあ」
 竹一は眼を丸くして感嘆しました。
「地獄の馬みたい」
「やっぱり、お化けかね」
「おれも、こんなお化けの絵がかきたいよ」

第二の手記( 3 / 8 )

 あまりに人間を恐怖している人たちは、かえって、もっともっと、おそろしい妖怪を確実にこの眼で見たいと願望するに到る心理、神経質な、ものにおびえ易い人ほど、暴風雨の更に強からん事を祈る心理、ああ、この一群の画家たちは、人間という化け物に傷めつけられ、おびやかされた揚句の果、ついに幻影を信じ、白昼の自然の中に、ありありと妖怪を見たのだ、しかも彼等は、それを道化などでごまかさず、見えたままの表現に努力したのだ、竹一の言うように、敢然と「お化けの絵」をかいてしまったのだ、ここに将来の自分の、仲間がいる、と自分は、涙が出たほどに興奮し、
「僕も画くよ。お化けの絵を画くよ。地獄の馬を、画くよ」
 と、なぜだか、ひどく声をひそめて、竹一に言ったのでした。
 自分は、小学校の頃から、絵はかくのも、見るのも好きでした。けれども、自分のかいた絵は、自分の綴り方ほどには、周囲の評判が、よくありませんでした。自分は、どだい人間の言葉を一向に信用していませんでしたので、綴り方などは、自分にとって、ただお道化の御挨拶みたいなもので、小学校、中学校、と続いて先生たちを狂喜させて来ましたが、しかし、自分では、さっぱり面白くなく、絵だけは、(漫画などは別ですけれども)その対象の表現に、幼い我流ながら、多少の苦心を払っていました。学校の図画のお手本はつまらないし、先生の絵は下手くそだし、自分は、全く出鱈目にさまざまの表現法を自分で工夫して試みなければならないのでした。中学校へはいって、自分は油絵の道具も一揃い持っていましたが、しかし、そのタッチの手本を、印象派の画風に求めても、自分の画いたものは、まるで千代紙細工のようにのっぺりして、ものになりそうもありませんでした。けれども自分は、竹一の言葉に依って、自分のそれまでの絵画に対する心構えが、まるで間違っていた事に気が附きました。美しいと感じたものを、そのまま美しく表現しようと努力する甘さ、おろかしさ。マイスターたちは、何でも無いものを、主観に依って美しく創造し、或いは醜いものに嘔吐をもよおしながらも、それに対する興味を隠さず、表現のよろこびにひたっている、つまり、人の思惑に少しもたよっていないらしいという、画法のプリミチヴな虎の巻を、竹一から、さずけられて、れいの女の来客たちには隠して、少しずつ、自画像の制作に取りかかってみました。
 自分でも、ぎょっとしたほど、陰惨な絵が出来上りました。しかし、これこそ胸底にひた隠しに隠している自分の正体なのだ、おもては陽気に笑い、また人を笑わせているけれども、実は、こんな陰鬱な心を自分は持っているのだ、仕方が無い、とひそかに肯定し、けれどもその絵は、竹一以外の人には、さすがに誰にも見せませんでした。自分のお道化の底の陰惨を見破られ、急にケチくさく警戒せられるのもいやでしたし、また、これを自分の正体とも気づかず、やっぱり新趣向のお道化と見なされ、大笑いの種にせられるかも知れぬという懸念もあり、それは何よりもつらい事でしたので、その絵はすぐに押入れの奥深くしまい込みました。
 また、学校の図画の時間にも、自分はあの「お化け式手法」は秘めて、いままでどおりの美しいものを美しく画く式の凡庸なタッチで画いていました。
 自分は竹一にだけは、前から自分の傷み易い神経を平気で見せていましたし、こんどの自画像も安心して竹一に見せ、たいへんほめられ、さらに二枚三枚と、お化けの絵を画きつづけ、竹一からもう一つの、
「お前は、偉い絵画きになる」
 という予言を得たのでした。
 惚れられるという予言と、偉い絵画きになるという予言と、この二つの予言を馬鹿の竹一に依って額に刻印せられて、やがて、自分は東京へ出て来ました。
 自分は、美術学校にはいりたかったのですが、父は、前から自分を高等学校にいれて、末は官吏にするつもりで、自分にもそれを言い渡してあったので、口応え一つ出来ないたちの自分は、ぼんやりそれに従ったのでした。四年から受けて見よ、と言われたので、自分も桜と海の中学はもういい加減あきていましたし、五年に進級せず、四年修了のままで、東京の高等学校に受験して合格し、すぐに寮生活にはいりましたが、その不潔と粗暴に辟易して、道化どころではなく、医師に肺浸潤の診断書を書いてもらい、寮から出て、上野桜木町の父の別荘に移りました。自分には、団体生活というものが、どうしても出来ません。それにまた、青春の感激だとか、若人の誇りだとかいう言葉は、聞いて寒気がして来て、とても、あの、ハイスクール・スピリットとかいうものには、ついて行けなかったのです。教室も寮も、ゆがめられた性慾の、はきだめみたいな気さえして、自分の完璧に近いお道化も、そこでは何の役にも立ちませんでした。
 父は議会の無い時は、月に一週間か二週間しかその家に滞在していませんでしたので、父の留守の時は、かなり広いその家に、別荘番の老夫婦と自分と三人だけで、自分は、ちょいちょい学校を休んで、さりとて東京見物などをする気も起らず(自分はとうとう、明治神宮も、楠正成の銅像も、泉岳寺の四十七士の墓も見ずに終りそうです)家で一日中、本を読んだり、絵をかいたりしていました。父が上京して来ると、自分は、毎朝そそくさと登校するのでしたが、しかし、本郷千駄木町の洋画家、安田新太郎氏の画塾に行き、三時間も四時間も、デッサンの練習をしている事もあったのです。高等学校の寮から脱けたら、学校の授業に出ても、自分はまるで聴講生みたいな特別の位置にいるような、それは自分のひがみかも知れなかったのですが、何とも自分自身で白々しい気持がして来て、いっそう学校へ行くのが、おっくうになったのでした。自分には、小学校、中学校、高等学校を通じて、ついに愛校心というものが理解できずに終りました。校歌などというものも、いちども覚えようとした事がありません。
 自分は、やがて画塾で、或る画学生から、酒と煙草と淫売婦と質屋と左翼思想とを知らされました。妙な取合せでしたが、しかし、それは事実でした。
 その画学生は、堀木正雄といって、東京の下町に生れ、自分より六つ年長者で、私立の美術学校を卒業して、家にアトリエが無いので、この画塾に通い、洋画の勉強をつづけているのだそうです。
「五円、貸してくれないか」
 お互いただ顔を見知っているだけで、それまで一言も話合った事が無かったのです。自分は、へどもどして五円差し出しました。
「よし、飲もう。おれが、お前におごるんだ。よかチゴじゃのう」
 自分は拒否し切れず、その画塾の近くの、蓬莱町のカフエに引っぱって行かれたのが、彼との交友のはじまりでした。
「前から、お前に眼をつけていたんだ。それそれ、そのはにかむような微笑、それが見込みのある芸術家特有の表情なんだ。お近づきのしるしに、乾杯! キヌさん、こいつは美男子だろう? 惚れちゃいけないぜ。こいつが塾へ来たおかげで、残念ながらおれは、第二番の美男子という事になった」
 堀木は、色が浅黒く端正な顔をしていて、画学生には珍らしく、ちゃんとした脊広を着て、ネクタイの好みも地味で、そうして頭髪もポマードをつけてまん中からぺったりとわけていました。
 自分は馴れぬ場所でもあり、ただもうおそろしく、腕を組んだりほどいたりして、それこそ、はにかむような微笑ばかりしていましたが、ビイルを二、三杯飲んでいるうちに、妙に解放せられたような軽さを感じて来たのです。
「僕は、美術学校にはいろうと思っていたんですけど、……」
「いや、つまらん。あんなところは、つまらん。学校は、つまらん。われらの教師は、自然の中にあり! 自然に対するパアトス!」
 しかし、自分は、彼の言う事に一向に敬意を感じませんでした。馬鹿なひとだ、絵も下手にちがいない、しかし、遊ぶのには、いい相手かも知れないと考えました。つまり、自分はその時、生れてはじめて、ほんものの都会の与太者を見たのでした。それは、自分と形は違っていても、やはり、この世の人間の営みから完全に遊離してしまって、戸迷いしている点に於いてだけは、たしかに同類なのでした。そうして、彼はそのお道化を意識せずに行い、しかも、そのお道化の悲惨に全く気がついていないのが、自分と本質的に異色のところでした。

第二の手記( 4 / 8 )

 ただ遊ぶだけだ、遊びの相手として附合っているだけだ、とつねに彼を軽蔑し、時には彼との交友を恥ずかしくさえ思いながら、彼と連れ立って歩いているうちに、結局、自分は、この男にさえ打ち破られました。
 しかし、はじめは、この男を好人物、まれに見る好人物とばかり思い込み、さすが人間恐怖の自分も全く油断をして、東京のよい案内者が出来た、くらいに思っていました。自分は、実は、ひとりでは、電車に乗ると車掌がおそろしく、歌舞伎座へはいりたくても、あの正面玄関の緋の絨緞が敷かれてある階段の両側に並んで立っている案内嬢たちがおそろしく、レストランへはいると、自分の背後にひっそり立って、皿のあくのを待っている給仕のボーイがおそろしく、殊にも勘定を払う時、ああ、ぎごちない自分の手つき、自分は買い物をしてお金を手渡す時には、吝嗇ゆえでなく、あまりの緊張、あまりの恥ずかしさ、あまりの不安、恐怖に、くらくら目まいして、世界が真暗になり、ほとんど半狂乱の気持になってしまって、値切るどころか、お釣を受け取るのを忘れるばかりでなく、買った品物を持ち帰るのを忘れた事さえ、しばしばあったほどなので、とても、ひとりで東京のまちを歩けず、それで仕方なく、一日一ぱい家の中で、ごろごろしていたという内情もあったのでした。
 それが、堀木に財布を渡して一緒に歩くと、堀木は大いに値切って、しかも遊び上手というのか、わずかなお金で最大の効果のあるような支払い振りを発揮し、また、高い円タクは敬遠して、電車、バス、ポンポン蒸気など、それぞれ利用し分けて、最短時間で目的地へ着くという手腕をも示し、淫売婦のところから朝帰る途中には、何々という料亭に立ち寄って朝風呂へはいり、湯豆腐で軽くお酒を飲むのが、安い割に、ぜいたくな気分になれるものだと実地教育をしてくれたり、その他、屋台の牛めし焼とりの安価にして滋養に富むものたる事を説き、酔いの早く発するのは、電気ブランの右に出るものはないと保証し、とにかくその勘定に就いては自分に、一つも不安、恐怖を覚えさせた事がありませんでした。
 さらにまた、堀木と附合って救われるのは、堀木が聞き手の思惑などをてんで無視して、その所謂情熱の噴出するがままに、(或いは、情熱とは、相手の立場を無視する事かも知れませんが)四六時中、くだらないおしゃべりを続け、あの、二人で歩いて疲れ、気まずい沈黙におちいる危懼が、全く無いという事でした。人に接し、あのおそろしい沈黙がその場にあらわれる事を警戒して、もともと口の重い自分が、ここを先途と必死のお道化を言って来たものですが、いまこの堀木の馬鹿が、意識せずに、そのお道化役をみずからすすんでやってくれているので、自分は、返事もろくにせずに、ただ聞き流し、時折、まさか、などと言って笑っておれば、いいのでした。
 酒、煙草、淫売婦、それは皆、人間恐怖を、たとい一時でも、まぎらす事の出来るずいぶんよい手段である事が、やがて自分にもわかって来ました。それらの手段を求めるためには、自分の持ち物全部を売却しても悔いない気持さえ、抱くようになりました。
 自分には、淫売婦というものが、人間でも、女性でもない、白痴か狂人のように見え、そのふところの中で、自分はかえって全く安心して、ぐっすり眠る事が出来ました。みんな、哀しいくらい、実にみじんも慾というものが無いのでした。そうして、自分に、同類の親和感とでもいったようなものを覚えるのか、自分は、いつも、その淫売婦たちから、窮屈でない程度の自然の好意を示されました。何の打算も無い好意、押し売りでは無い好意、二度と来ないかも知れぬひとへの好意、自分には、その白痴か狂人の淫売婦たちに、マリヤの円光を現実に見た夜もあったのです。
 しかし、自分は、人間への恐怖からのがれ、幽かな一夜の休養を求めるために、そこへ行き、それこそ自分と「同類」の淫売婦たちと遊んでいるうちに、いつのまにやら無意識の、或るいまわしい雰囲気を身辺にいつもただよわせるようになった様子で、これは自分にも全く思い設けなかった所謂「おまけの附録」でしたが、次第にその「附録」が、鮮明に表面に浮き上って来て、堀木にそれを指摘せられ、愕然として、そうして、いやな気が致しました。はたから見て、俗な言い方をすれば、自分は、淫売婦に依って女の修行をして、しかも、最近めっきり腕をあげ、女の修行は、淫売婦に依るのが一ばん厳しく、またそれだけに効果のあがるものだそうで、既に自分には、あの、「女達者」という匂いがつきまとい、女性は、(淫売婦に限らず)本能に依ってそれを嗅ぎ当て寄り添って来る、そのような、卑猥で不名誉な雰囲気を、「おまけの附録」としてもらって、そうしてそのほうが、自分の休養などよりも、ひどく目立ってしまっているらしいのでした。
 堀木はそれを半分はお世辞で言ったのでしょうが、しかし、自分にも、重苦しく思い当る事があり、たとえば、喫茶店の女から稚拙な手紙をもらった覚えもあるし、桜木町の家の隣りの将軍のはたちくらいの娘が、毎朝、自分の登校の時刻には、用も無さそうなのに、ご自分の家の門を薄化粧して出たりはいったりしていたし、牛肉を食いに行くと、自分が黙っていても、そこの女中が、……また、いつも買いつけの煙草屋の娘から手渡された煙草の箱の中に、……また、歌舞伎を見に行って隣りの席のひとに、……また、深夜の市電で自分が酔って眠っていて、……また、思いがけなく故郷の親戚の娘から、思いつめたような手紙が来て、……また、誰かわからぬ娘が、自分の留守中にお手製らしい人形を、……自分が極度に消極的なので、いずれも、それっきりの話で、ただ断片、それ以上の進展は一つもありませんでしたが、何か女に夢を見させる雰囲気が、自分のどこかにつきまとっている事は、それは、のろけだの何だのといういい加減な冗談でなく、否定できないのでありました。自分は、それを堀木ごとき者に指摘せられ、屈辱に似た苦さを感ずると共に、淫売婦と遊ぶ事にも、にわかに興が覚めました。
 堀木は、また、その見栄坊のモダニティから、(堀木の場合、それ以外の理由は、自分には今もって考えられませんのですが)或る日、自分を共産主義の読書会とかいう(R・Sとかいっていたか、記憶がはっきり致しません)そんな、秘密の研究会に連れて行きました。堀木などという人物にとっては、共産主義の秘密会合も、れいの「東京案内」の一つくらいのものだったのかも知れません。自分は所謂「同志」に紹介せられ、パンフレットを一部買わされ、そうして上座のひどい醜い顔の青年から、マルクス経済学の講義を受けました。しかし、自分には、それはわかり切っている事のように思われました。それは、そうに違いないだろうけれども、人間の心には、もっとわけのわからない、おそろしいものがある。慾、と言っても、言いたりない、ヴァニティ、と言っても、言いたりない、色と慾、とこう二つ並べても、言いたりない、何だか自分にもわからぬが、人間の世の底に、経済だけでない、へんに怪談じみたものがあるような気がして、その怪談におびえ切っている自分には、所謂唯物論を、水の低きに流れるように自然に肯定しながらも、しかし、それに依って、人間に対する恐怖から解放せられ、青葉に向って眼をひらき、希望のよろこびを感ずるなどという事は出来ないのでした。けれども、自分は、いちども欠席せずに、そのR・S(と言ったかと思いますが、間違っているかも知れません)なるものに出席し、「同志」たちが、いやに一大事の如く、こわばった顔をして、一プラス一は二、というような、ほとんど初等の算術めいた理論の研究にふけっているのが滑稽に見えてたまらず、れいの自分のお道化で、会合をくつろがせる事に努め、そのためか、次第に研究会の窮屈な気配もほぐれ、自分はその会合に無くてかなわぬ人気者という形にさえなって来たようでした。この、単純そうな人たちは、自分の事を、やはりこの人たちと同じ様に単純で、そうして、楽天的なおどけ者の「同志」くらいに考えていたかも知れませんが、もし、そうだったら、自分は、この人たちを一から十まで、あざむいていたわけです。自分は、同志では無かったんです。けれども、その会合に、いつも欠かさず出席して、皆にお道化のサーヴィスをして来ました。
 好きだったからなのです。自分には、その人たちが、気にいっていたからなのです。しかし、それは必ずしも、マルクスに依って結ばれた親愛感では無かったのです。
 非合法。自分には、それが幽かに楽しかったのです。むしろ、居心地がよかったのです。世の中の合法というもののほうが、かえっておそろしく、(それには、底知れず強いものが予感せられます)そのからくりが不可解で、とてもその窓の無い、底冷えのする部屋には坐っておられず、外は非合法の海であっても、それに飛び込んで泳いで、やがて死に到るほうが、自分には、いっそ気楽のようでした。
 日蔭者、という言葉があります。人間の世に於いて、みじめな、敗者、悪徳者を指差していう言葉のようですが、自分は、自分を生れた時からの日蔭者のような気がしていて、世間から、あれは日蔭者だと指差されている程のひとと逢うと、自分は、必ず、優しい心になるのです。そうして、その自分の「優しい心」は、自身でうっとりするくらい優しい心でした。

第二の手記( 5 / 8 )

 また、犯人意識、という言葉もあります。自分は、この人間の世の中に於いて、一生その意識に苦しめられながらも、しかし、それは自分の糟糠の妻の如き好伴侶で、そいつと二人きりで侘びしく遊びたわむれているというのも、自分の生きている姿勢の一つだったかも知れないし、また、俗に、脛に傷持つ身、という言葉もあるようですが、その傷は、自分の赤ん坊の時から、自然に片方の脛にあらわれて、長ずるに及んで治癒するどころか、いよいよ深くなるばかりで、骨にまで達し、夜々の痛苦は千変万化の地獄とは言いながら、しかし、(これは、たいへん奇妙な言い方ですけど)その傷は、次第に自分の血肉よりも親しくなり、その傷の痛みは、すなわち傷の生きている感情、または愛情の囁きのようにさえ思われる、そんな男にとって、れいの地下運動のグルウプの雰囲気が、へんに安心で、居心地がよく、つまり、その運動の本来の目的よりも、その運動の肌が、自分に合った感じなのでした。堀木の場合は、ただもう阿呆のひやかしで、いちど自分を紹介しにその会合へ行ったきりで、マルキシストは、生産面の研究と同時に、消費面の視察も必要だなどと下手な洒落を言って、その会合には寄りつかず、とかく自分を、その消費面の視察のほうにばかり誘いたがるのでした。思えば、当時は、さまざまの型のマルキシストがいたものです。堀木のように、虚栄のモダニティから、それを自称する者もあり、また自分のように、ただ非合法の匂いが気にいって、そこに坐り込んでいる者もあり、もしもこれらの実体が、マルキシズムの真の信奉者に見破られたら、堀木も自分も、烈火の如く怒られ、卑劣なる裏切者として、たちどころに追い払われた事でしょう。しかし、自分も、また、堀木でさえも、なかなか除名の処分に遭わず、殊にも自分は、その非合法の世界に於いては、合法の紳士たちの世界に於けるよりも、かえってのびのびと、所謂「健康」に振舞う事が出来ましたので、見込みのある「同志」として、噴き出したくなるほど過度に秘密めかした、さまざまの用事をたのまれるほどになったのです。また、事実、自分は、そんな用事をいちども断ったことは無く、平気でなんでも引受け、へんにぎくしゃくして、犬(同志は、ポリスをそう呼んでいました)にあやしまれ不審訊問などを受けてしくじるような事も無かったし、笑いながら、また、ひとを笑わせながら、そのあぶない(その運動の連中は、一大事の如く緊張し、探偵小説の下手な真似みたいな事までして、極度の警戒を用い、そうして自分にたのむ仕事は、まことに、あっけにとられるくらい、つまらないものでしたが、それでも、彼等は、その用事を、さかんに、あぶながって力んでいるのでした)と、彼等の称する仕事を、とにかく正確にやってのけていました。自分のその当時の気持としては、党員になって捕えられ、たとい終身、刑務所で暮すようになったとしても、平気だったのです。世の中の人間の「実生活」というものを恐怖しながら、毎夜の不眠の地獄で呻いているよりは、いっそ牢屋のほうが、楽かも知れないとさえ考えていました。
 父は、桜木町の別荘では、来客やら外出やら、同じ家にいても、三日も四日も自分と顔を合せる事が無いほどでしたが、しかし、どうにも、父がけむったく、おそろしく、この家を出て、どこか下宿でも、と考えながらもそれを言い出せずにいた矢先に、父がその家を売払うつもりらしいという事を別荘番の老爺から聞きました。
 父の議員の任期もそろそろ満期に近づき、いろいろ理由のあった事に違いありませんが、もうこれきり選挙に出る意志も無い様子で、それに、故郷に一棟、隠居所など建てたりして、東京に未練も無いらしく、たかが、高等学校の一生徒に過ぎない自分のために、邸宅と召使いを提供して置くのも、むだな事だとでも考えたのか、(父の心もまた、世間の人たちの気持ちと同様に、自分にはよくわかりません)とにかく、その家は、間も無く人手にわたり、自分は、本郷森川町の仙遊館という古い下宿の、薄暗い部屋に引越して、そうして、たちまち金に困りました。
 それまで、父から月々、きまった額の小遣いを手渡され、それはもう、二、三日で無くなっても、しかし、煙草も、酒も、チイズも、くだものも、いつでも家にあったし、本や文房具やその他、服装に関するものなど一切、いつでも、近所の店から所謂「ツケ」で求められたし、堀木におそばか天丼などをごちそうしても、父のひいきの町内の店だったら、自分は黙ってその店を出てもかまわなかったのでした。
 それが急に、下宿のひとり住いになり、何もかも、月々の定額の送金で間に合わせなければならなくなって、自分は、まごつきました。送金は、やはり、二、三日で消えてしまい、自分は慄然とし、心細さのために狂うようになり、父、兄、姉などへ交互にお金を頼む電報と、イサイフミの手紙(その手紙に於いて訴えている事情は、ことごとく、お道化の虚構でした。人にものを頼むのに、まず、その人を笑わせるのが上策と考えていたのです)を連発する一方、また、堀木に教えられ、せっせと質屋がよいをはじめ、それでも、いつもお金に不自由をしていました。
 所詮、自分には、何の縁故も無い下宿に、ひとりで「生活」して行く能力が無かったのです。自分は、下宿のその部屋に、ひとりでじっとしているのが、おそろしく、いまにも誰かに襲われ、一撃せられるような気がして来て、街に飛び出しては、れいの運動の手伝いをしたり、或いは堀木と一緒に安い酒を飲み廻ったりして、ほとんど学業も、また画の勉強も放棄し、高等学校へ入学して、二年目の十一月、自分より年上の有夫の婦人と情死事件などを起し、自分の身の上は、一変しました。
 学校は欠席するし、学科の勉強も、すこしもしなかったのに、それでも、妙に試験の答案に要領のいいところがあるようで、どうやらそれまでは、故郷の肉親をあざむき通して来たのですが、しかし、もうそろそろ、出席日数の不足など、学校のほうから内密に故郷の父へ報告が行っているらしく、父の代理として長兄が、いかめしい文章の長い手紙を、自分に寄こすようになっていたのでした。けれども、それよりも、自分の直接の苦痛は、金の無い事と、それから、れいの運動の用事が、とても遊び半分の気持では出来ないくらい、はげしく、いそがしくなって来た事でした。中央地区と言ったか、何地区と言ったか、とにかく本郷、小石川、下谷、神田、あの辺の学校全部の、マルクス学生の行動隊々長というものに、自分はなっていたのでした。武装蜂起、と聞き、小さいナイフを買い(いま思えば、それは鉛筆をけずるにも足りない、きゃしゃなナイフでした)それを、レンコオトのポケットにいれ、あちこち飛び廻って、所謂「聯絡」をつけるのでした。お酒を飲んで、ぐっすり眠りたい、しかし、お金がありません。しかも、P(党の事を、そういう隠語で呼んでいたと記憶していますが、或いは、違っているかも知れません)のほうからは、次々と息をつくひまも無いくらい、用事の依頼がまいります。自分の病弱のからだでは、とても勤まりそうも無くなりました。もともと、非合法の興味だけから、そのグルウプの手伝いをしていたのですし、こんなに、それこそ冗談から駒が出たように、いやにいそがしくなって来ると、自分は、ひそかにPのひとたちに、それはお門ちがいでしょう、あなたたちの直系のものたちにやらせたらどうですか、というようないまいましい感を抱くのを禁ずる事が出来ず、逃げました。逃げて、さすがに、いい気持はせず、死ぬ事にしました。
 その頃、自分に特別の好意を寄せている女が、三人いました。ひとりは、自分の下宿している仙遊館の娘でした。この娘は、自分がれいの運動の手伝いでへとへとになって帰り、ごはんも食べずに寝てしまってから、必ず用箋と万年筆を持って自分の部屋にやって来て、
「ごめんなさい。下では、妹や弟がうるさくて、ゆっくり手紙も書けないのです」
 と言って、何やら自分の机に向って一時間以上も書いているのです。
 自分もまた、知らん振りをして寝ておればいいのに、いかにもその娘が何か自分に言ってもらいたげの様子なので、れいの受け身の奉仕の精神を発揮して、実に一言も口をききたくない気持なのだけれども、くたくたに疲れ切っているからだに、ウムと気合いをかけて腹這いになり、煙草を吸い、
「女から来たラヴ・レターで、風呂をわかしてはいった男があるそうですよ」
「あら、いやだ。あなたでしょう?」
「ミルクをわかして飲んだ事はあるんです」
「光栄だわ、飲んでよ」
 早くこのひと、帰らねえかなあ、手紙だなんて、見えすいているのに。へへののもへじでも書いているのに違いないんです。
「見せてよ」
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作家:太宰治
人間失格
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