「あの王子様とはどうなったの?」
部活中ににんじんを切っている時、緑がそう尋ねてきた。今日は夏野菜のカレーを作る。にんじん、なす、ピーマン、たまねぎ、トマト、かぼちゃ。どれも、園芸部から貰ったものだ。
「どうって……どうも」
「うそー、だって、二人でこそこそ会ってるじゃないの」
「知ってたの?」
未明が驚いて言うと、噂になってるよ、と緑は声を潜めた。
「王子様は人気者だから、未明が彼女なんじゃないかって噂してる。どうなの?」
「私じゃないよ。だって、星一先輩には、好きな人がいるみたいだもん」
自分で言って、胸がチクリとした。
未明は数学が嫌いじゃなくなった。裁縫や料理が得意な自分を、初めて好きだと思えた。
星一といると、未明の世界はきれいな色で溢れた。好きなことを点と点で繋いで、円にする、それが広がって、全部が楽しくなる。
星一に恋をしていると、こんなにもわくわくする。でも、星一がティディベアを贈る相手は、未明ではないのだ。それを思うと、心は針でずっとチクチク刺されているみたいに痛くなった。
「その好きな人って、この学校の人?」
「知らない、聞いてない」
「聞きなよぉ」
たまねぎを切って涙目の緑が、がっかりしたように呟いた。
「緑ちゃん、楽しんでるね?」
「人ごとだからね!」
二人で小突き合っていると、窓の外がざわざわし始めた。
「おい……まさか……今日はカレーじゃないか……?」
「何ぃ、カレーだと!? 神の食べ物じゃないか……」
夏を目前にして、もうこんがりと日焼けした男子生徒たちが、窓枠に群がった。
その中に星一の姿を見つけて、未明は心が高鳴った。彼は真っ直ぐ未明を見ている。彼の隣にいた男の子がそれに気付いて笑った。
「よし、星一、またあの子に勉強を教えて、皆のカレーを貰って来い!」
自分の名前を出されて、未明は恥ずかしさに顔が赤くなっていくのを感じた。勉強ができないことを皆の前でからかわれて、逃げ出したくなる。
「無理だよ、だって未明ちゃん、もう数学得意だもん」
星一は男の子に向かってきっぱりそう言って、ね? と、未明へ笑いかけた。
緑が頷いて言う。
「そうだよ、未明、もう数学得意だよ。ミニテストでも良い点とって褒められてたし。だからカレーはあげられません。残念でしたー」
四方八方から落胆の声が飛ぶ。未明は俯いたまま、ぐるぐるとカレー鍋をかきまぜる振りをして、そっと笑った。星一がかばってく れた。もうこの鍋のカレー全部、星一にあげたい。その日のカレーは、おいしかったけど、蕩けるように甘く感じた。かぼちゃが入っているせいだと皆は言っていたけど、自分の気持ちが溶けたせいだと未明は知っていた。
夏休みを目前にして、ティティベアは完成してしまった。座りの悪い、でも花柄がどこか誇らし気な、愛くるしいティディベアになった。
「満腹のネズミみたいな顔じゃない?」
星一がそう言って、ティディベアの顔を押す。確かにそうだと思ったので、未明も笑ってしまった。
これで、終わり。密やかな時間も、ここでおしまい。
「でも、星一先輩が一生懸命作ったから、彼女さんも喜ぶと思います」
未明はつとめて明るく言うと、星一はいきなり慌てだした。
「彼女!?」
大きな声で、未明の方が驚いてしまう。
「ち、違うんですか?」
「え、彼女じゃないし、彼女いないし……俺、このクマを、妹にあげるつもりだったんだけど……」
「そうなんですか!?」
今度は未明が大きな声を上げる番だった。勘違いだった、それで、みるみる未明は元気になってしまった。だから、星一の表情が曇っているのに気付いて、首を傾げる。
「俺に、彼女がいると思ってた?」
「はい。だって、星一先輩は王子様で、人気もあって、だから……」
尻すぼみになっていく言葉を口の中で捏ねていると、星一は拗ねるように唇を尖らせた。なぜか耳のフチが赤くなっている。
「いないよ、彼女なんていない」
はっきりと星一はそう言った。それから何となく気まずい空気のまま、未明は星一のティディベアを綺麗にラッピングしてあげた。最後に、ピンクのリボンを結ぶ。
「ありがとう」
「いえ、私も、数学を教えて貰ったから……」
あぁ、終わりがきてしまった。目の奥がツンとして、涙の気配に焦ってしまう。
「……俺の妹ね、」
唐突に、星一が言った。
「本当の妹じゃないんだよ。父親の再婚相手の子供なんだ。まだ五歳で、今年の春から一緒に住み始めたんだけど、恥ずかしがりやで、全然仲良くないんだ」
彼はそう言って、哀し気に目を伏せる。
「俺も学校と部活で忙しいから、全然話してくれなくなっちゃって……。せっかく家族になったのに、それじゃ寂しいよね。ずっ と、仲良くなるきっかけを探していて、ふと、キミの鞄についてたクマを見て、これをあげたいって思ったんだ。何だろう、とても優しい顔をしているように見えたから……」
それから星一は、視線を上げる。どこまでも深く澄んだ瞳が、未明を映している。
「俺は、キミが言うように、全然、完璧なんかじゃないんだよ。上手くいかないことでウジウジ悩んでるような人間だよ」
「ウジウジ悩んでなんて、いないじゃないですか。先輩は、こうして妹さんの為にティディベアを作って、妹さんのことを優しく、真剣に考えてます。星一先輩はいつも前向きで、そういうところが、私は……」
――私は。
未明はそこで言葉を切って、星一を見つめた。どうしても言えない言葉が、喉の奥で引っかかっている。星一は未明の言葉を待っていたけれど、黙ったままでいると、彼はふっと口元を緩ませた。
「ありがとう。未明ちゃんは、自分のことをダメだって言うけれど、俺は一度も思ったことがない。最初に、キミを見た時から、素敵だなって思ったよ」
「そうやって、言ってくれる星一先輩が、いちばん素敵です」
公式があればいいのに、と未明は思う。恋が上手くいく公式だ。きっと、それがあれば解ける。でも、ないことをちゃんと知っている、だから、悲しい。
終業式の日、星一に誘われて、未明は彼の家を訪ねた。二人で肩を並べて歩くのは初めてで、未明は星一のいる右側がとても熱く感じた。
「レンちゃん、喜んでくれるかなぁ。あ、妹の名前、レンって言うんだけど」
「レンちゃん……喜んでくれますよ、絶対」
未明のオレンジのティディベアと、クッキーも一緒にプレゼントすることにした。彼はいつもより口数が少なく、緊張しているのか、時々、深呼吸を繰り返していた。
星一の家は住宅街にある、ごく普通の一軒家だった。家の脇には夾竹桃が鮮やかに咲いていた。
「ただいま」
「おじゃまします」
「おかえりなさい。あら……」
玄関で出迎えてくれたのは、ひよこ色のエプロンをつけた女の人だった。肩までの栗色の髪がカールした、綺麗な人だった。これが、新しい星一のお母さんなのだろう。
優しそうで、笑うときらきらするところが、血は繋がっていないはずの星一とそっくりだった。
「友達も一緒だけど、いい?」
「もちろんよ、あがって下さい。スリッパはどこだったかしら……」
そう言って、彼女は未明のスリッパを用意して、リビングに入るとお茶を出してくれた。
ソファとテーブルの間に、小さな女の子が座ってお絵描きをしていた。彼女が妹のレンだった。星一は鞄からティディベアを取り出すと、レンの横へ座る。
「レンちゃん」
彼女はスケッチブックから顔を上げず、一心不乱にクレヨンを動かしている。でもそれが、幼い子特有のだんまりであることは一目瞭然だ。ぽん、とテーブルに置かれた袋を見て、レンはようやく顔を上げた。
「レンちゃんにプレゼント」
「……?」
ふっくらしたほっぺたが、ばら色をしている。レンは小さな手でその袋を掴むと、何も言わずリボンをほどいた。中から花柄のティディベアを取り出して、わっと声を上げる。
「くまさんだぁ……!」
「お兄ちゃんが作った」
「……おにいちゃんが?」
未明はそばに突っ立ったまま、二人のやりとりを見つめていた。未明まで緊張で喉がカラカラになる。星一の横顔はきりりと引き締まっている。
「レン、良かったね。ありがとうは?」
母親が柔らかくそう言うと、レンはもじもじしたまま、こくんと頷いた。
「ありあとう……」
「どういたしまして」
ホッと、星一が息をつく。安堵の色を頬に浮かべて、未明を見上げてピースサインをする。それで、未明もすっかり嬉しくなった。 二人はティディベアを挟んで、ぽつぽつと会話を始めた。仲良くできないと悲し気に言った、彼の姿はどこにもなかった。誰にでも優しい、いつもの王子様だった。
未明もプレゼントを渡して、三人でお絵描きをする頃には、二人は本当の兄妹のように、すっかり打ち解けていた。
未明も一緒に夕方まで遊んで、星一の家をお暇する。
「本当に、ありがとう」
送って行く、と言った星一に、未明は首を振る。
「大丈夫です、私の家もここから近いので」
「でも……」
「レンちゃんと、仲良くなれて良かったですね」
微笑むと、星一も笑った。
「キミのおかげだよ」
星一は、妹にちゃんと気持ちを伝えた。でも、未明はできない。意気地なしなのだ。前向きな王子様と、後ろ向きな自分。いつだって背中あわせだった。
「あのね、未明ちゃんに貸したい本があるんだ」
「本?」
彼は後ろ手に持っていた一冊の本を未明に押しつけた。小川未明の本だった。童話の詰まった短編集なのだという。
「ありがとう。大切に読みます」
「うん。きっと、気に入ると思うよ」
「じゃあ、さようなら」
「うん、気を付けて。また……未明ちゃん、またね」
また、いつか。夏休みは、明日からだ。あぁ、終わりだと未明は、茜色の空を見上げた。この本を返す時までに、未明はこの恋心をなくしてしまおうと思いつく。夏休みいっぱいをかけて、平行線に戻すのだ。金星がぴかぴか輝いている。それが滲んで、未明は慌てて目元をごしごしと擦った。 手に持った本を開くと、そこには一枚、手紙が挟まっていた。
宛名もない、白い封筒だ。開けてみて、未明は思わず後ろを振り返った。
そこには星一が、息を切らして立っていた。さすがに、インターハイに出るだけある。未明は感心して、笑う。ふわふわの髪の毛が、愛しくあちこち跳ねている。
「やっぱり、送ってく!」
「……手紙の返事、今してもいいですか?」
「俺、未明ちゃんのことが好き」
「私も、星一先輩のことが好きです」
果てしないわ、と未明は呟いた。果てしない平行線が交わった、未明は、童話のお姫様になれた気がした。