5
「傷ついていないならば、どうして貴方は夢を見るの?」
レポーロが問う。
「夢を見ない人なんていない」
覚えているか覚えていないかの違いだ。寝ている間の脳内の処理だ。
「どうして貴方は毎日同じ夢を見るの?」
「さぁ、それはわからない。よっぽど毎日、強く意識しているんだろうね。この桜の樹のことを」
「それは現実逃避じゃないの?」
可愛い顔をして、ちくりと痛いことを言う。
でも僕はそれを認めない。
「こんな大きな桜の樹、どこでみたかわからなくて気になるだけだよ」
「ふーん」
「君は、なんだろうね。なにかのアニメのキャラなのかな?」
テレビなんて見ないのに。一体どこで見たキャラだろう。よっぽど強く、印象に残っていたのだろうな。巫女さんが兎耳なんて。
「私はこの世界の、案内人だよ」
レポーロが笑う。
「厳密には、その一人だけど」
そう言ったレポーロの視線が、僕の足元にうつる。僕もその視線を追うと、瓢箪を抱えた猫が走り抜けて行った。
……瓢箪を抱えた、猫?
駆け抜けて行くその姿をじっと見る。
それはどう見ても二足歩行する猫だった。
「彼はカト。私の仲間」
「その、案内人だっけ?」
「そう」
「それは一体なんなのさ」
「ここに永住するかどうか、のだよ」
レポーロは無邪気に笑う。
「ねえ、翼。この世界は楽しいでしょう? 心地よいでしょう? ここに住もうと思わない?」
お囃子が耳に届く。
桜がひらひらと散る。
「何を言って……」
途端、いつもの電子音。
「あーあ、つまらないの」
レポーロが唇を尖らしたのが見えた。
「君は今日休みでしょう? なんで目覚ましかけるのかなぁー」
恨みがましい声が、耳に響いた。
その声は、覚醒した今も耳に残っている。
さらに今、また今夜ね、とレポーロの声が聞こえた気がして、僕は首を強く横に振った。
今日は日曜日だ。ゆっくりできる。
そう思って伸びをする。
いつもなら二度寝をすることもあるけれども、そういう気分にはなれなかった。
私服に着替えて、そっと家を抜け出す。
僕が家にいると、母の休養を邪魔することになりかねない。
母はとても美しい人だが、怒ると醜くなる。あまり醜い母は見たくない。
日曜日の朝だから、道路には人がいない。
歩きやすくていい。
公園に向かう。桜の樹が見たくて。この季節、本物の桜が咲いていないことはわかっているが。
公園の桜の樹の下に立つ。花が咲いていないと、なんの樹だかわからないものだな、と苦笑する。
それにしても、夢の中の桜の樹はとても大きかった。ここの樹とは比べ物にならない。
6
「それはここの桜の樹は、他の桜の樹とは違うからね」
レポーロが誇らしげに言った。
「ここの桜は夢を糧にして成長するから」
「夢を?」
「そう」
ああ、だから夢の中に出て来るのか。
「でも、君が思う夢と違うよ」
「ん?」
「夢の中では夢が現実で、現実が夢なのだから現実を喰らうんだよ。翼の価値観で言えばね」
「……ちょっと、よくわからない」
だからね、とレポーロは物わかりが悪い生徒に対する先生のような口調で、
「私にとっての現実はこの世界なの。翼にとっての夢ね」
「……夢の世界の住人にとっては、夢が現実だろうね」
「そうでしょう? そしてこの桜の樹はね、私たちにとっての夢、翼にとっての現実を糧にしているの」
綺麗に笑う。その顔に魅せられる。
「この桜は今、栄養を欲しているの。ねぇ、翼」
白い指先が、僕の方に伸ばされる。
「現実を捨て、夢を現実にしてこちらで生きましょう」
微笑む。甘い、声。
「何を言っているのか、わからない」
「わかっている癖に。こちらの世界は楽しいわよ」
遠くから、誰かの笑い声がする。
レポーロが杯を差し出す。
少し濁ったその液体は、甘く、魅力的な匂いを漂わせていた。
「一口、どう?」
レポーロが笑う。
香りに導かれて思わず手を伸ばしかけ、ひっこめる。大体まず、レポーロは今これをどこからだしたのか。
「夢だ夢だと言うのに、突然リアリティにこだわるのね」
呆れたようにレポーロが笑う。
「細かいこと、気にしなければいいのに。生き辛いでしょう?」
「……細かいことを気にしているのは、世間の方だ」
思わず吐き出した本音に、レポーロがにやりと口角をあげた。
それを最後に、僕は覚醒する。
細かいことを気にしているのは世間の方だ。僕はそれを知っている。
だから。
「中村翼」
教室でこうやってクラスメイトに声をかけられるのが久しぶりだったりするんだ。
「何」
「お前さ、なんで男の格好しているわけ?」
ややおそるおそるといった体で話かけてくる男子生徒。彼の後ろにはこちらを笑いながら見てくる、他のクラスメイト。
ああ、なんとなくわかった。何かの罰ゲームで、彼は僕に話しかけることを要求されたんだろう。
「男だからだよ」
「でもお前女じゃないか」
視界の端で、梨々香がおろおろしているのが見える。
気にしなくていいよ。慣れているから。
世間は性別だとか、そう言った細かいことを気にするんだ。
「僕っ子とか痛い。そういうのが許されるのは二次元だけだ」
僕は答えない。
何も答えないのが、一番楽なのだと経験で知っている。
気持ち悪いとか、出来損ないだとか、片親だからとか、そんな言葉もう耳から耳へと抜けていく。
どうだっていい。
そうさ。どうだっていい。
どうだっていいんだ。
7
「どうだっていいならば、どうしてそんな泣きそうな顔をしてるの?」
レポーロが優しく笑う。
「どうだっていいんだ、今更」
「嘘つき」
今までで一番優しい声でレポーロが言う。
「ここでは嘘をつかなくていいんだよ」
そういってレポーロは背伸びして僕の頭を撫でる。
優しさに触れて、思わず僕は下唇を噛む。そうしないと、泣きそうだったから。
「悲しいね」
レポーロの言葉に、耐えられなくなってしゃがみ込む。
「好きになってなんて言わない。ただ、わかって欲しいだけなのにね」
レポーロが僕の頭をそっと抱える。
「大丈夫。私はわかっているよ。翼の気持ち。誰も悪くないよ。平気だよ」
誰かの手が頭を撫でるなんてそんなこと、いつ以来だろうか。
母だって、だいぶ早い段階で、僕に触ることをやめたのに。気持ち悪いから、って。こんな子を産んだ覚えはないって。
僕は母を、好きなのに。
「翼、この世界なら平気だよ。この世界なら翼のなりたいものになれるよ。大丈夫。願いは叶う」
レポーロの声が、言葉が、とても魅力的になる。
ああそうだ。あんな世界見放して、この世界で生きていきたい。そうしたらどんなに楽だろうか。
楽しそうなお囃子。いつまでも満開の桜。美味しそうな、お酒とか。
全てが魅力的だ。
抗い難い。
でも、
「……でも僕は起きるよ」
レポーロの体をそっと押して、距離をとりながら僕はなんとか笑ってみせる。
梨々香がまだ、いるから。
梨々香がいるから、僕はあの世界で生きているのだ。
唯一の僕の味方。
大事な、梨々香。
レポーロは泣きそうな顔をしていた。
「ごめん、レポーロ。せっかく誘ってくれたのに」
「違うよ」
レポーロがゆっくりと首を横に振った。
「私は断られたから悲しい訳じゃないよ」
「じゃあ、なんで」
「起きない方が、いいのに。私は、翼のためを思って言うのに」
レポーロの悲しそうな声が、最後に耳に残った。
「起きたら翼は傷つくよ」
教室は、いつもと空気が違っていた。
いつものざわめきとは違う。
僕が教室に足を踏み入れると、戸惑いと悪意が混じったような目で見られた。
一体なんだと言うのだ。
昨日までは僕が入って来ても、誰も見向きもしなかったのに。
皆の視線が僕と黒板を行ったり来たりする。
僕も皆の視線を追って黒板を見つめ、固まった。
そこには僕の生徒手帳が貼ってあった。中身と一緒に。
いつの間に無くしたんだろう。
生徒手帳の中身は写真。梨々香の、写真。それが、何枚か。
黒板には大きな字で書いてある。僕女が好きなのは幼なじみ。百合。他にも、色々。
唾を飲む音がやけに大きく聞こえる。
なんだこれ。どういうことだ。
「……翼」
呼ばれて振り返る。
梨々香が後ろに立っていた。
「梨々香、ちが……」
違う? 何が。
梨々香のことを好きなのは本当だ。だって僕は、僕のことを男だと思っていて、だから女の子の梨々香のことが好きなのは問題なくて。でも、きっと、そういうことじゃない。
世の中は性別なんていう小さいことにこだわったりする。
梨々香は、困った顔をしていた。
いっそ、罵ってくれた方が楽だった。
梨々香は最後まで僕を気遣うようなそぶりをして、そして、
「……ごめん」
一言呟いた。
ひらり、と梨々香のスカートが翻る。僕に背を向けて、友達のところへ向かう梨々香。
目の前が、暗くなった。
教室を飛び出した。
周りの視線が耐えられなかった。
学校から逃げ出す。
罵ってくれれば、気にしなくてすんだのに。
気遣われると、逆に困る。
だって、梨々香はいつだって僕のことを気遣ってくれていた。差別しないでくれていた。大事な幼なじみだった。
梨々香がいたから僕はがんばれた。
なのに。
走って走って走って。
どこからか、お囃子が聞こえてくる。
そちらに向かってさらに強く、足を踏み出す。
梨々香がいないならば、もう僕はここにいる意味がない。
がんばる意味が見当たらない。
楽しそうな音が聞こえてくる。魅惑的だ。
だんだん見えてくる。大きな桜の樹。
そういえば僕はいつ寝たんだろう。あれは夢だったんだろうか。
でも、もうどちらでもいい。
僕はこちらを現実にする。
桜の樹の下。舞い散る花びらの中、立っている少女。
その姿を見て、僕は思わず安心する。
彼女は振り返る。僕を見て微笑む。
差し出されたその白い手に、縋り付くようにして手を伸ばす。
黙って彼女はそれを受け入れる。
泣き出した僕が落ち着くまで彼女は待っていてくれた。
そうして彼女が差し出した、あの魅惑的な香りのする杯を口に含む。
幸福な気持ちになる。
桜の樹が、さらに枝葉を伸ばした気がした。
*
夢を見た。
夢の中には大きな桜の樹があった。
その桜の樹の下。あの子が居た。
「翼っ」
私は名前を呼ぶ。
翼は振り返らない。
あの日以来、行方不明になってしまった幼なじみ。
どうして私は、受け入れてあげられなかったんだろう。大事な幼なじみだったのに。
私の声は翼には届かないようだ。何度名前を呼んでも、近づいても、翼は振り返らない。
どこからか、不思議な格好をした女の子が現れる。
「レポーロ」
翼は彼女を見て、幸せそうに微笑んだ。
彼女は翼の手をとって、どこかへと歩いていってしまう。
待って行かないで。
追いかけようとして、目が覚めた。
翼はもう帰って来ないのだろうか。そう思った。
耳元で誰かが囁いた。
「翼はもう、私のものだよ」