2.
お囃子が聞こえる。
迷わず歩みを進める。
大きな桜の樹。
注連縄がされている。
人影が見える。
桜の樹の下に誰かが立っている。
僕は目を細めて、その人物が何者かを確認しようとする。
そこでの電子音。
時間切れか。
諦めた僕の耳に、覚醒しかけた僕の耳に、少女の高い笑い声がやけに生々しく響いた。
「大きな桜の樹?」
梨々香は首を傾げた。
「んー、わかんないなー。この辺りで桜の樹って言えば、公園のしか思いつかないけど。でもあれ、そんなに大きくないじゃん?」
「そうだよね」
朝一で梨々香に聞いてみたものの、特に参考になる答えではなかったな、と思う。
「桜の樹がどうしたの?」
「いや、ちょっと」
言葉を濁すと梨々香は頬を膨らませた。
「またそうやって、肝心なことは隠す。翼の悪い癖だよ」
「隠してなんかいない」
「嘘ばっかり」
「嘘じゃない」
梨々香が眉根を寄せる。
やばい、泣かれる。そう思った。口喧嘩の末、梨々香がこの顔をして大泣きする、なんてこと昔からよくあったから。
でも、
「私はそんなに頼りない?」
梨々香は絞り出すようにしてそう言うと立ち上がり、廊下の方の友達の元へ走って行く。
予想外の事に僕は固まる。
まさか、そんな風に言われるなんて思っていなかった。
「……そんなことないよ」
小さく呟いた言葉は喧噪に飲み込まれ、梨々香には届かない。
梨々香が頼りないわけじゃない。
梨々香を頼っていないわけじゃない。
頼れないのは、僕の弱さだ。
3.
耳に慣れたお囃子。
ひらり、と舞落ちる桜の花びら。
大きな桜の樹。その下に佇む、少女。
ようやくここまで来た。そう思う。
格好が少し、普通じゃなかった。
着物だが、肩が見えている。丈は短く、下に赤いスカートを履いていた。なんというか、そう。アニメやゲームの巫女さんみたいだ。
なによりも。
「……兎」
僕は少女の頭を見て呟く。
銀色の髪の毛から、兎の耳が生えていた。
少女が振り返る。
「ああ、来た」
そういって笑う。瞳が赤い。
小学校の時、裏庭にいた兎みたいだ。
「ここまで来るなんてね」
くすくすと笑う、赤い唇。
「君は……?」
少女は口を開き、
「私は――」
「レポーロ」
目覚めた僕は、耳に残った言葉を呟く。
私は、レポーロ。確かに少女はそう言った。
漢字に変換出来ないし、日本人名ではないのだろう。あんな外見で、とは思ったが、あんな外見だからこそ国籍が不明でも不思議ではない。
そこまで考えて、少し息を飲む。
僕はまるで少女が、レポーロが、普通に存在しているかのように考えていた。
でも、それはおかしい。
彼女は、僕の想像の産物だ。僕の夢に生きるものだ。
この世界にはいない。
国籍だろうと名前だろうと、そんなもの関係ない。
一つ息を吐く。
疲れているのかもしれない。同じ夢を何度も見るから。
だから、レポーロの存在をこんなにも強く意識してしまうのかもしれない。きっとそうだ。
立ち上がり、制服に袖を通す。
夢から醒めたら、学校に行かなければならない。
4.
「怖いと思っているの?」
レポーロが問う。
「私を」
僕は少し悩んで、ゆっくり首を横にふった。
不思議だとは思っている。
例えば、今日の夢はこの大きな桜の樹の下から始まったこととか。
「私に会ったから。もう、最初から始める必要はない」
レポーロが笑う。一緒に頭の耳も揺れて、僕の目はそれに釘付けになる。
「気になるの?」
「それは、カチューシャか何か?」
「いいえ。自前」
楽しそうにレポーロが笑う。
自前って、直接生えているということなんだろうか。わけがわからない。でも、夢なんてそんなもんだ。
「そうね。ここは夢。夢だから貴方を傷つけるものはない」
僕の心を読んだかのようなタイミングでレポーロが言う。
「現実とは違う」
「……現実にだって僕を傷つけるものはない」
僕は傷つけられたりしない。そんなにやわじゃない。
「本当に?」
レポーロの目がすぅっと細くなる。疑うような。
「……本当に」
僕は頷く。
傷ついたことなんてない。
「ふーん、そう」
レポーロは悪戯っぽく笑った。
本当だ。
僕はさらなる弁明をしようと口を開く。
僕の弁明がレポーロに届いたのかはわからない。
見慣れた天井を見上げ、少し笑う。
夢の中の住人に、つまりは僕が生み出した幻相手に、何を真剣に弁明しようとしていたのだろうか。
僕が傷ついていないことは、僕が一番よく知ってる。
それでも何故か、喉に強い渇きを覚えて立ち上がる。
台所に向かう。
母は先ほど帰って来たようだ。そんな香りがする。
最後に母の顔を見たのはどれぐらい前だろうか、と思う。
生活リズムが合わないのだから仕方がない。
母子家庭で夜働く母と、昼間学校に通う僕では、生活リズムが合わないのだ。
ただ、それだけだ。
5
「傷ついていないならば、どうして貴方は夢を見るの?」
レポーロが問う。
「夢を見ない人なんていない」
覚えているか覚えていないかの違いだ。寝ている間の脳内の処理だ。
「どうして貴方は毎日同じ夢を見るの?」
「さぁ、それはわからない。よっぽど毎日、強く意識しているんだろうね。この桜の樹のことを」
「それは現実逃避じゃないの?」
可愛い顔をして、ちくりと痛いことを言う。
でも僕はそれを認めない。
「こんな大きな桜の樹、どこでみたかわからなくて気になるだけだよ」
「ふーん」
「君は、なんだろうね。なにかのアニメのキャラなのかな?」
テレビなんて見ないのに。一体どこで見たキャラだろう。よっぽど強く、印象に残っていたのだろうな。巫女さんが兎耳なんて。
「私はこの世界の、案内人だよ」
レポーロが笑う。
「厳密には、その一人だけど」
そう言ったレポーロの視線が、僕の足元にうつる。僕もその視線を追うと、瓢箪を抱えた猫が走り抜けて行った。
……瓢箪を抱えた、猫?
駆け抜けて行くその姿をじっと見る。
それはどう見ても二足歩行する猫だった。
「彼はカト。私の仲間」
「その、案内人だっけ?」
「そう」
「それは一体なんなのさ」
「ここに永住するかどうか、のだよ」
レポーロは無邪気に笑う。
「ねえ、翼。この世界は楽しいでしょう? 心地よいでしょう? ここに住もうと思わない?」
お囃子が耳に届く。
桜がひらひらと散る。
「何を言って……」
途端、いつもの電子音。
「あーあ、つまらないの」
レポーロが唇を尖らしたのが見えた。
「君は今日休みでしょう? なんで目覚ましかけるのかなぁー」
恨みがましい声が、耳に響いた。
その声は、覚醒した今も耳に残っている。
さらに今、また今夜ね、とレポーロの声が聞こえた気がして、僕は首を強く横に振った。
今日は日曜日だ。ゆっくりできる。
そう思って伸びをする。
いつもなら二度寝をすることもあるけれども、そういう気分にはなれなかった。
私服に着替えて、そっと家を抜け出す。
僕が家にいると、母の休養を邪魔することになりかねない。
母はとても美しい人だが、怒ると醜くなる。あまり醜い母は見たくない。
日曜日の朝だから、道路には人がいない。
歩きやすくていい。
公園に向かう。桜の樹が見たくて。この季節、本物の桜が咲いていないことはわかっているが。
公園の桜の樹の下に立つ。花が咲いていないと、なんの樹だかわからないものだな、と苦笑する。
それにしても、夢の中の桜の樹はとても大きかった。ここの樹とは比べ物にならない。