放課後、美希は買い物を済ませてアパートに帰ってきた。部屋のドアの前で今朝の男の子がうろうろしていた。
(まだ何かダメな事をしたんだっけ)
美希はどこかへ逃げだしたい気分を抑えて部屋に近づいていった。男の子が美希に気がついたのか振り向いた。
「あの、今朝は失礼しました」
「今朝は本当にすいませんでしたっ」
「……え」
ふたりは同時に謝っていた。
「えっと、ルールを守らなかったのは私が悪いんですし……」
「いやでも泣かせちゃったのは俺の方なんで俺が悪かったです。本当にすいませんでした」
「いや、気にしていないですから」
男の子は必死になって謝っていた。美希はなぜこんな必死に謝っているのだろうと思った。
「本当に今朝の事は気にしていませんから。そんなに謝らないで下さいよ」
「すいません…… あ、ドーナツはお好きですか?」
「えっ、好きですけど」
「じゃあ良かったらこれ食べて下さい。駅前の美味しいドーナツなんで」
男の子は笑顔でドーナツの箱を美希に差し出してきた。美希は唐突過ぎてなにがなにやらわからなくなっていた。
(街の人は謝りに行くときに必ずドーナツを渡す習慣があるのかな……)
美希はまだまだ自分は街のルールがわかっていないんだな、と自己解釈していた。
「いや、そんなルールあるわけないじゃん」
男の子は大笑いしていた。ドーナツを渡されてそのまま何もしないのは悪いと思った美希は謝ってきた男の子を部屋に上らせていた。男の子は瞬という名前で、二つ隣の部屋に住んでいると言った。高校一年生らしい。美希とは違う高校に通っていた。
「でも、あんな必死な様子でドーナツ食べて下さい、って言っていたから街にはそんなルールがあるんじゃないかって勘違いするじゃん」
美希はお茶と貰ったドーナツをテーブルの上に置きながらふくれていた。
「でも君は変わってるね。普通今朝会ったばかりの男を部屋に入れないよ。危ないじゃん」
「私の住んでた所だと、人からおすそわけを貰ったら家に上げてお茶を飲んでいって貰うことになってたの」
「そりゃ田舎だから変な奴も居ないから出来るんじゃん」
「そうかもしれないけど……」
この瞬という男は自分の思ったことを素直に口に出してしまう男らしい。今朝の事も悪気があって言った訳ではないようだった。
「でも今朝、怒られたのはちょっと傷ついたよ。あんな言い方しなくてもいいのに」
「それに関してはホントすいませんでした。なんかいつも言い方がキツくなっちゃって、母親にいつも怒られているんだよ。んでいつも母親に『不愉快な思いをさせた人には誠心誠意謝りなさい』って言われてるんだ」
「だからわざわざドーナツを?」
「このドーナツ屋さんで母親が働いてるんだ。俺が小さい頃は母親が一緒にドーナツ持って謝りに行ってたんだ。今は自分でやっちまったって思った時は今日みたいにドーナツ買って謝りに行くんだ」
「……そっちも変わってると思うけど」
瞬の話は子供っぽくて楽しかった。
「そういえば美希は島から来たって言ってたよな」
お茶を飲みながら瞬は尋ねた。
「うん、ここから遠い場所だよ」
「親がいなくて寂しくない?」
「それは寂しいけれど仕方ないよ。親だって無理してここの高校に通わせてくれてるんだし」
「寂しいんだったら晩飯ウチで食べない?」
「……はい?」
瞬の話はいつも唐突だった。
「いやさ、ウチも母親帰ってくるの遅いしひとりでご飯食べるのやっぱ寂しいんだよね。ってか小さい頃から誰かと晩ごはん食べるなんてほとんどなかったから。それに美希と話してると楽しいし」
「でもそっちのお母さんに迷惑がかかるし、やめた方がいいんじゃないの?」
「大丈夫大丈夫、ウチの母親優しいし、晩ごはん作ってるのいつも俺だし、誰か居た方が楽しいしちょうどいいじゃん」
滅茶苦茶な話だったが、美希もひとりでご飯を食べるより誰かと食べる方が好きだった。
「とりあえず今度ウチの母親に会いに来なよ。母親の作る唐揚げ、すげー旨いんだぜ」
なぜか瞬は楽しくてたまらない様子だった。
瞬と知り合った次の日、学校から帰ってきた後、美希は瞬の部屋に招待された。
「ウチの母親に昨日の事聞かれてさ。ほら、いつも謝りに行くときにドーナツ買うからなにか悪い事をしたのがバレバレだから」
ばれるのがいやならわざわざ母親のドーナツ屋さんで買わなくてもいいのに、と美希は思った。瞬のお母さんがたまたま仕事が休みだったそうで、ぜひ美希に会ってみたいと瞬に言ってきたそうだ。
「母親、買い出しに行ってまだ戻ってこないから麦茶でも飲んでてよ」
瞬たちの部屋は美希の部屋の間取りと同じだったので、美希にとって新鮮味は無かった。それでも越してきたばかりの美希の部屋よりも本棚やタンスが壁際を占領すろほど家具は多かった。その為か美希はいつもの部屋より狭く感じた。台所と部屋が一つしかない部屋。美希がひとりで暮らすには少し広すぎるが、親子ふたりで暮らすには狭すぎた。
「いつもゴミ出し場の整理やってるの?」
美希は昨日、ゴミ出し場での出来事を思い出していた。高校生が好き好んでゴミ整理なんてしないと思ったからだ。
「あれはバイトみたいなもん。ここに長い事住んでるから大家さんと仲良くなってさ、ゴミ整理を毎日やってくれたら家賃少し負けてやるって言われたからやってんの」
「いい大家さんね」
「俺の父親みたいなもんだしな。ここに住んでいて、ガラス割っちゃったりするとすぐ母親と一緒に大家さんのとこに謝りに行ったんだ」
「何年ここに住んでるの?」
「俺が生まれた時から」
「ずっとふたりで?父親はいないの?」
「ずっと。父親は顔も見たことないし、養育費だとかも貰ってない。俺の母親は父親の事聞かれるのが一番嫌いだから詳しい事はなんにも知らないんだよ」
悲しそうな笑みを浮かべた瞬を見て美希は質問したことを後悔した。島での生活は誰もが兄弟の様で家族の様な存在だった。誰がどんな事情を抱えて生きているのか、だいたい見当がつく。だからこそ島を出て島の人達と違う街の人達が抱える事情が美希には見えなかった。街の人達は、自分の関わってほしくない何かを持っていた。そこにどこまで踏み込めるのか、美希はまだその距離感が掴めていなかった。街での暮らしは美希にとって少し窮屈だった。
「ごめんなさい、変なこと聞いちゃって」
「別にいいさ。自分の家庭の事情なんてどうでもいいし、俺は俺だから」
それでも屈託なく笑う瞬は美希を安心させてくれた。これからも仲良くやっていけそうな気がした。
「なんかこっちに初めて来たときより生き生きとしてるね」
しばらく経った昼休み、購買のパンをかじっていた由紀が聞いてきた。
「こっち来た時は他人の考えてることがわかんないっておろおろしてたのに、最近は落ち着いてるし」
「そう?」
相変わらず由紀は人の事をよく見ている。
「そっかあ、もう彼氏出来ちゃったかあ。この由紀さんを差し置いて」
今日の由紀の推理は斜め上を行っている。
「彼氏じゃないけと男友達は出来たよ」
「ほほう、彼氏候補一号ですな」
「あれ、推理が外れたの、気にしないの?」
「微妙に話を逸らさないで欲しいなあ。まあ推理は八割方合っていたし充分満足」
「今度そいつと勉強会をやろうって言ってるんだ。由紀もおいでよ」
「へえ、そんなにのろけたいんですかねえこの子は」
由紀はなにかぶつぶつ言っていた。
「大丈夫、由紀も気に入ると思うよ、アイツの事」
美希にとって瞬はまだ男友達に間違いなかった。晩ごはんをごちそうになり、瞬の母親から瞬の学力の無さを嘆かれ、是非勉強を教えてやってくれと頼まれ、忙しくないときに一緒に勉強しているのだった。瞬もいやいやながらもサボることなく勉強している。勉強の合間にばかばかしい話しをすることが楽しかった。
「やっぱり勉強するなら大勢でやった方が楽しいじゃん」
瞬はそういって友達を集めて勉強会をやろうと言い出した。
あと少しで高校に入って最初のテストが始まりそうだった。