ヴィヨンの妻

三( 2 / 2 )

 その夜は、雨が降っていました。夫は、あらわれませんでしたが、夫の昔からの知合いの出版のほうの方で、時たま私のところへ生活費をとどけて下さった矢島さんが、その同業のお方らしい、やはり矢島さんくらいの四十年配のお方と二人でお見えになり、お酒を飲みながら、お二人で声高く、大谷の女房がこんなところで働いているのは、よろしくないとか、よろしいとか、半分は冗談みたいに言い合い、私は笑いながら、
「その奥さんは、どこにいらっしゃるの?」
 とたずねますと、矢島さんは、
「どこにいるのか知りませんがね、すくなくとも、椿屋のさっちゃんよりは、上品で綺麗だ」
 と言いますので、
「やけるわね。大谷さんみたいな人となら、私は一夜でもいいから、添ってみたいわ。私はあんな、ずるいひとが好き」
「これだからねえ」
 と矢島さんは、連れのお方のほうに顔を向け、口をゆがめて見せました。
 その頃になると、私が大谷という詩人の女房だという事が、夫と一緒にやって来る記者のお方たちにも知られていましたし、またそのお方たちから聞いてわざわざ私をからかいにおいでになる物好きなお方などもありまして、お店はにぎやかになる一方で、ご亭主のご機嫌もいよいよ、まんざらでございませんでしたのです。
 その夜は、それから矢島さんたちは紙の闇取引の商談などして、お帰りになったのは十時すぎで、私も今夜は雨も降るし、夫もあらわれそうもございませんでしたので、お客さんがまだひとり残っておりましたけれども、そろそろ帰り支度をはじめて、奥の六畳の隅に寝ている坊やを抱き上げて脊負い、
「また、傘をお借りしますわ」
 と小声でおかみさんにお頼みしますと、
「傘なら、おれも持っている。お送りしましょう」
 とお店に一人のこっていた二十五、六の、痩せて小柄な工員ふうのお客さんが、まじめな顔をして立ち上りました。それは、私には今夜がはじめてのお客さんでした。
「はばかりさま。ひとり歩きには馴れていますから」
「いや、お宅は遠い。知っているんだ。おれも、小金井の、あの近所の者なんだ。お送りしましょう。おばさん、勘定をたのむ」
 お店では三本飲んだだけで、そんなに酔ってもいないようでした。
 一緒に電車に乗って、小金井で降りて、それから雨の降るまっくらい路を相合傘で、ならんで歩きました。その若いひとは、それまでほとんど無言でいたのでしたが、ぽつりぽつり言いはじめ、
「知っているのです。おれはね、あの大谷先生の詩のファンなのですよ。おれもね、詩を書いているのですがね。そのうち、大谷先生に見ていただこうと思っていたのですがね。どうもね、あの大谷先生が、こわくてね」
 家につきました。
「ありがとうございました。また、お店で」
「ええ、さようなら」
 若いひとは、雨の中を帰って行きました。
 深夜、がらがらと玄関のあく音に、眼をさましましたが、れいの夫の泥酔のご帰宅かと思い、そのまま黙って寝ていましたら、
「ごめん下さい。大谷さん、ごめん下さい」
 という男の声が致します。
 起きて電燈をつけて玄関に出て見ますと、さっきの若いひとが、ほとんど直立できにくいくらいにふらふらして、
「奥さん、ごめんなさい。かえりにまた屋台で一ぱいやりましてね、実はね、おれの家は立川でね、駅へ行ってみたらもう、電車がねえんだ。奥さん、たのみます。泊めて下さい。ふとんも何も要りません。この玄関の式台でもいいのだ。あしたの朝の始発が出るまで、ごろ寝させて下さい。雨さえ降ってなけや、その辺の軒下にでも寝るんだが、この雨では、そうもいかねえ。たのみます」
「主人もおりませんし、こんな式台でよろしかったら、どうぞ」
 と私は言い、破れた座蒲団を二枚、式台に持って行ってあげました。
「すみません。ああ酔った」
 と苦しそうに小声で言い、すぐにそのまま式台に寝ころび、私が寝床に引返した時には、もう高い鼾が聞えていました。
 そうして、その翌る日のあけがた、私は、あっけなくその男の手にいれられました。
 その日も私は、うわべは、やはり同じ様に、坊やを背負って、お店の勤めに出かけました。
 中野のお店の土間で、夫が、酒のはいったコップをテーブルの上に置いて、ひとりで新聞を読んでいました。コップに午前の陽の光が当って、きれいだと思いました。
「誰もいないの?」
 夫は、私のほうを振り向いて見て、
「うん。おやじはまだ仕入れから帰らないし、ばあさんは、ちょっといままでお勝手のほうにいたようだったけど、いませんか?」
「ゆうべは、おいでにならなかったの?」
「来ました。椿屋のさっちゃんの顔を見ないとこのごろ眠れなくなってね、十時すぎにここを覗いてみたら、いましがた帰りましたというのでね」
「それで?」
「泊っちゃいましたよ、ここへ。雨はざんざ降っているし」
「あたしも、こんどから、このお店にずっと泊めてもらう事にしようかしら」
「いいでしょう、それも」
「そうするわ。あの家をいつまでも借りてるのは、意味ないもの」
 夫は、黙ってまた新聞に眼をそそぎ、
「やあ、また僕の悪口を書いている。エピキュリアンのにせ貴族だってさ。こいつは、当っていない。神におびえるエピキュリアン、とでも言ったらよいのに。さっちゃん、ごらん、ここに僕のことを、人非人なんて書いていますよ。違うよねえ。僕は今だから言うけれども、去年の暮にね、ここから五千円持って出たのは、さっちゃんと坊やに、あのお金で久し振りのいいお正月をさせたかったからです。人非人でないから、あんな事も仕出かすのです」
 私は格別うれしくもなく、
「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」
 と言いました。

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作家:太宰治
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