誰かのいたずらだろう。由紀の友だち、もしかしたら自作自演の可能性だってある。夢の中からメールが送られて来る。考えればありえないことだとすぐに気づくはずだ。
由紀は腕時計をしきりに気にしていた。後1分もすれば犯人がわかる。休み時間になって校庭に出てくる生徒の姿はなかった。
「このこと誰か知ってる」
「いいえ」
腕時計に視線を向けたまま由紀が答える。
「メールアドレスを、彼はどうして知っているの」
「ラブレターに連絡先を書いておいたから」
「なるほど」
悪びれず返答する由紀の携帯から着信音が流れてきた。画面を確認する由紀が携帯を胸に押し当てた。
「彼がもうすぐ来る」
由紀が周囲を見回す。僕まで彼が来るのではないかとドアに向き直っていた。目の前を横切る由紀が、ドアに吸い寄せられていく。さっきまで聞こえていた屋上を吹き抜ける風の音が止み、鋼鉄のドアがゆっくり開かれた。
信じられなかった。制服を着た男子生徒が立っていた。金色の髪をかきあげ由紀の前に約束通り現れた生徒は、僕と同じ海のように深いブルーの瞳をしていた。
「それでどうなったんです」
「消えた」
「消えた?」
聞き返してきた美優に対して、僕は椅子に腰かけ碁盤の目に張り巡らされた部室の天井板をぼんやり眺めていた。右端に辿り着くと左端を目指してマス目を進む。これで何往復目だろう。
「消えたとはどういうことですか」
ふたりは僕の目の前で手をとり、そして消えた。屋上を捜し、旧校舎の階段をくまなく歩き、教室までいって由紀を捜した。けれどどこにも居なかった。文字通り消えていた。
「新藤さんは消えたんだ」
「携帯に連絡してみました?」
「いいや」
「私、連絡をとってみます」
恋愛カルテに書かれた携帯番号に美優がかける。繋がらないのか、すぐに別の番号を携帯に入力し始めた。おそらく自宅にかけているのだろう。再び天井を見上げた。目がかすみ思わず瞼を閉じる。頭がキンキンする。額に手を当ててみたが熱はなかった。摩訶不思議な体験に、精神と肉体がまいってしまったらしい。意識が遠のいていくのがわかった。
「先輩」
美優が僕の肩を揺すっていた。心配そうにのぞきこんでくる。
「美優、連絡はついた」
「はい」
「よかった」
あれは僕の錯覚だったのだろう。
「それが……」
言葉を濁す美優、表情は晴れていなかった。
「何かあった」
「新藤さん、眠り病にかかったそうで」
バ、バカな、徴候はなかったはず。それとも気が付かなかっただけなのか。
「具合はどうだって」
「それなんですが……」
「どうした」
歯切れの悪い態度に、つい口調がきつくなっていた。
「お母さんの話では、二週間前から目を覚まさないそうで」
ありえない。由紀は昨日部室に来た。
「本当なのか」
力なく頷く美優が、恋愛カルテを呆然と見つめていた。ポケットに手を突っ込む。「Yuki」と刺繍の入ったハンカチの感触を確かめる。由紀は屋上にいた。僕は由紀と会っていた。
脱力感を抱え込んだまま自室に入る。投げだした鞄を踏みつけてしまい、よろけながらベッドに倒れこんだ。眠気が襲う。夕食の間、睡魔と闘っていた。婆ちゃんに心配かけまいと、ごはんと煮物を口に流し込み逃げるように二階に上がってきていた。
僕は、父と母を幼い頃に亡くしていた。寝返りをうち、目をこすりながら木製の本棚を捜す。五段の棚のさらに上、茶色い布で覆った本が無造作にあった。「ガバダ」代々受け継がれてきた魔術書。起き上がり背伸びをして手にとる。百科事典ほどの重さが、両手に伝わってきた。布から魔術書を取り出し、机の上に置いた。黒い表紙に二本の刀剣が交差した図柄が描かれている。ページは全て白紙、文字や絵は何ひとつなかった。
両目にしていたカラーコンタクトレンズを外す。蒼い裸眼が現われた。本の表紙が蒼に変色し刀剣を左右に押し出す。真中に「神」の文字が出現した。紫の「藤」の花が表紙をおおいつくす。ページをめくるとびっしりと文字が浮かびあがっていた。
爺ちゃんが英国紳士でクォーターの僕は、隔世遺伝の影響からなのか金色の髪と蒼い目を持って生まれてきた。両親を亡くし、外見が異なる僕が周囲からいじめられないよう、婆ちゃんが配慮してくれた。コンタクトと髪を染めることで、仲間はずれにされることはなかったが、他人に知られるのが怖くて常に自分を隠して生きてきた。
魔術書をめくる。判読できない文字が翻訳され頭に入ってくる。「夢」・「眠り」キーワードを念じると勝手にページがめくられた。
「ラビリンス」この世に未練を持った死者の魂が、現世に戻ってこられないよう創られた迷宮、一度入れば二度と出られない。生きている者が侵入することはできないが、特殊な粉を吸いこむことで侵入することが可能になる。ただし粉の効力が切れる前に脱出できなければ永遠に迷宮を……。
文字がぼやける。
さまようことになる。
さまようことになる。
リフレインする言葉を子守唄がわりに僕は深い眠りに落ちていった。