「落ち着いて、もう一度考えるから」
僕は必死だった。いい加減な対応をした己を悔やんでいた。夢に恋をしたっていいではないか。気持ちに嘘がないなら。
「僕も一緒に彼を捜す」
脇腹を押さえ息を整えながら、慎重に由紀に歩み寄る。大粒の汗が額から流れ落ちていく。手でぬぐう僕に、由紀がハンカチを差し出してきた。
「拭いて下さい」
予想していた展開と異なりのけぞってしまった。「来ないで」「死んでやる」負の会話を想像していた僕の脳内が弾け飛ぶ。由紀は至って冷静だった。馬鹿げたとりこし苦労に笑いが込み上げてきた。
「何がおかしいんです」
「別に」
「それより、ありがとうございます」
「何のこと」
「ラブレター、渡すことできました」
「ひええ」
変な言葉を発してしまった。全身から吹き出す汗が止まらない。
「昨日、教えてもらった通り魔法の紙に思いを綴り、枕もとにおいて寝たら。何と、彼に会うことができました。だから思いきって、ラブレター渡しちゃいました」
「よかった」
嬉しそうに話す由紀につられて、とんちんかんな返事をしていた。もしかして、不思議ちゃん? 関わらない方がいいかもしれない。ただ、どうしても気になることがあった。
「なぜ、屋上にいるの?」
「彼と会うんです」
「ここで」
「はい」
はちきれんばかりの笑顔で、由紀がグリーンの携帯を突き出す。メールの文字が画面に映しだされていた。
『手紙ありがとう。気持ち受けとりました。明日午前10時、旧校舎の屋上で待っています』
メールを読む僕の耳に、一時限目の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
誰かのいたずらだろう。由紀の友だち、もしかしたら自作自演の可能性だってある。夢の中からメールが送られて来る。考えればありえないことだとすぐに気づくはずだ。
由紀は腕時計をしきりに気にしていた。後1分もすれば犯人がわかる。休み時間になって校庭に出てくる生徒の姿はなかった。
「このこと誰か知ってる」
「いいえ」
腕時計に視線を向けたまま由紀が答える。
「メールアドレスを、彼はどうして知っているの」
「ラブレターに連絡先を書いておいたから」
「なるほど」
悪びれず返答する由紀の携帯から着信音が流れてきた。画面を確認する由紀が携帯を胸に押し当てた。
「彼がもうすぐ来る」
由紀が周囲を見回す。僕まで彼が来るのではないかとドアに向き直っていた。目の前を横切る由紀が、ドアに吸い寄せられていく。さっきまで聞こえていた屋上を吹き抜ける風の音が止み、鋼鉄のドアがゆっくり開かれた。
信じられなかった。制服を着た男子生徒が立っていた。金色の髪をかきあげ由紀の前に約束通り現れた生徒は、僕と同じ海のように深いブルーの瞳をしていた。
「それでどうなったんです」
「消えた」
「消えた?」
聞き返してきた美優に対して、僕は椅子に腰かけ碁盤の目に張り巡らされた部室の天井板をぼんやり眺めていた。右端に辿り着くと左端を目指してマス目を進む。これで何往復目だろう。
「消えたとはどういうことですか」
ふたりは僕の目の前で手をとり、そして消えた。屋上を捜し、旧校舎の階段をくまなく歩き、教室までいって由紀を捜した。けれどどこにも居なかった。文字通り消えていた。
「新藤さんは消えたんだ」
「携帯に連絡してみました?」
「いいや」
「私、連絡をとってみます」
恋愛カルテに書かれた携帯番号に美優がかける。繋がらないのか、すぐに別の番号を携帯に入力し始めた。おそらく自宅にかけているのだろう。再び天井を見上げた。目がかすみ思わず瞼を閉じる。頭がキンキンする。額に手を当ててみたが熱はなかった。摩訶不思議な体験に、精神と肉体がまいってしまったらしい。意識が遠のいていくのがわかった。
「先輩」
美優が僕の肩を揺すっていた。心配そうにのぞきこんでくる。
「美優、連絡はついた」
「はい」
「よかった」
あれは僕の錯覚だったのだろう。
「それが……」
言葉を濁す美優、表情は晴れていなかった。
「何かあった」
「新藤さん、眠り病にかかったそうで」
バ、バカな、徴候はなかったはず。それとも気が付かなかっただけなのか。
「具合はどうだって」
「それなんですが……」
「どうした」
歯切れの悪い態度に、つい口調がきつくなっていた。
「お母さんの話では、二週間前から目を覚まさないそうで」
ありえない。由紀は昨日部室に来た。
「本当なのか」
力なく頷く美優が、恋愛カルテを呆然と見つめていた。ポケットに手を突っ込む。「Yuki」と刺繍の入ったハンカチの感触を確かめる。由紀は屋上にいた。僕は由紀と会っていた。