教室のいつもの席に座る。入口から一番遠い窓側の席、授業開始5分前に関わらず生徒の数はまばらだった。東都東高で「眠り病」たる病が猛威を振るい始めたのがちょうど1か月前、咳やのどの痛みなど風邪によく似た症状が現われ、診察しても原因はわからなかった。そのうち睡魔が患者を襲うようになり、いつのまにか眠ったまま目を覚ますことが出来なくなる。適切な治療法が見つからず、登校する生徒数だけがみるみる減っていった。
黒板にチョークで「自習」の文字が書かれ、出席を取り終えた担任が教室を足早に出て行く。このところ授業はなく、自習がメインになっていた。無理もない、クラスによっては半数以上の生徒が登校して来ない。授業どころではなかった。生徒の中には、眠り病が発症するかもしれない恐怖に脅える者、呪いや祟りのせいだと騒ぎだす者がさらなる不安を煽っていた。
暗い気持ちに関係なく、空は気持ちがいいほど晴れわたっていた。雲ひとつなくどこまでも広がる世界に、瞬きするだけで吸い込まれそうになる。
「みんな屋上に行けば、憂鬱さも吹き飛ぶな」その言葉を僕は飲み込んでいた。窓から旧校舎の屋上に立つ人影がはっきり見えたからだ。あの事件が起きて以来、屋上は全て立ち入り禁止になっていた。嫌な胸騒ぎがする。どうしてか、涙で頬を濡らす由紀の顔が浮んだ。
教室を飛び出していた。屋上の人物が誰なのかわからない。もしかしたら見間違いかもしれない。それでも気持ちを押さえられなかった。2年2組の教室から旧校舎までは、一度校庭に出なければならない。二段飛ばしで階段を駆け下り、渡り廊下を全速力で走った。すれ違う生徒はなく、マーガレットが咲き乱れる花壇に目もくれず校庭を抜け、一気に旧校舎の階段を上っていく。鍵の掛っていない屋上の錆びついたドアがきしむ。力いっぱい押すと鈍い音とともに光がドアに差し込んできた。
屋上にはフェンスの網目に手を絡ませ、驚いた様子で振り向く由紀がいた。
「落ち着いて、もう一度考えるから」
僕は必死だった。いい加減な対応をした己を悔やんでいた。夢に恋をしたっていいではないか。気持ちに嘘がないなら。
「僕も一緒に彼を捜す」
脇腹を押さえ息を整えながら、慎重に由紀に歩み寄る。大粒の汗が額から流れ落ちていく。手でぬぐう僕に、由紀がハンカチを差し出してきた。
「拭いて下さい」
予想していた展開と異なりのけぞってしまった。「来ないで」「死んでやる」負の会話を想像していた僕の脳内が弾け飛ぶ。由紀は至って冷静だった。馬鹿げたとりこし苦労に笑いが込み上げてきた。
「何がおかしいんです」
「別に」
「それより、ありがとうございます」
「何のこと」
「ラブレター、渡すことできました」
「ひええ」
変な言葉を発してしまった。全身から吹き出す汗が止まらない。
「昨日、教えてもらった通り魔法の紙に思いを綴り、枕もとにおいて寝たら。何と、彼に会うことができました。だから思いきって、ラブレター渡しちゃいました」
「よかった」
嬉しそうに話す由紀につられて、とんちんかんな返事をしていた。もしかして、不思議ちゃん? 関わらない方がいいかもしれない。ただ、どうしても気になることがあった。
「なぜ、屋上にいるの?」
「彼と会うんです」
「ここで」
「はい」
はちきれんばかりの笑顔で、由紀がグリーンの携帯を突き出す。メールの文字が画面に映しだされていた。
『手紙ありがとう。気持ち受けとりました。明日午前10時、旧校舎の屋上で待っています』
メールを読む僕の耳に、一時限目の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
誰かのいたずらだろう。由紀の友だち、もしかしたら自作自演の可能性だってある。夢の中からメールが送られて来る。考えればありえないことだとすぐに気づくはずだ。
由紀は腕時計をしきりに気にしていた。後1分もすれば犯人がわかる。休み時間になって校庭に出てくる生徒の姿はなかった。
「このこと誰か知ってる」
「いいえ」
腕時計に視線を向けたまま由紀が答える。
「メールアドレスを、彼はどうして知っているの」
「ラブレターに連絡先を書いておいたから」
「なるほど」
悪びれず返答する由紀の携帯から着信音が流れてきた。画面を確認する由紀が携帯を胸に押し当てた。
「彼がもうすぐ来る」
由紀が周囲を見回す。僕まで彼が来るのではないかとドアに向き直っていた。目の前を横切る由紀が、ドアに吸い寄せられていく。さっきまで聞こえていた屋上を吹き抜ける風の音が止み、鋼鉄のドアがゆっくり開かれた。
信じられなかった。制服を着た男子生徒が立っていた。金色の髪をかきあげ由紀の前に約束通り現れた生徒は、僕と同じ海のように深いブルーの瞳をしていた。
「それでどうなったんです」
「消えた」
「消えた?」
聞き返してきた美優に対して、僕は椅子に腰かけ碁盤の目に張り巡らされた部室の天井板をぼんやり眺めていた。右端に辿り着くと左端を目指してマス目を進む。これで何往復目だろう。
「消えたとはどういうことですか」
ふたりは僕の目の前で手をとり、そして消えた。屋上を捜し、旧校舎の階段をくまなく歩き、教室までいって由紀を捜した。けれどどこにも居なかった。文字通り消えていた。
「新藤さんは消えたんだ」
「携帯に連絡してみました?」
「いいや」
「私、連絡をとってみます」
恋愛カルテに書かれた携帯番号に美優がかける。繋がらないのか、すぐに別の番号を携帯に入力し始めた。おそらく自宅にかけているのだろう。再び天井を見上げた。目がかすみ思わず瞼を閉じる。頭がキンキンする。額に手を当ててみたが熱はなかった。摩訶不思議な体験に、精神と肉体がまいってしまったらしい。意識が遠のいていくのがわかった。