「・・バスが遅れてるだけだって。心配しなくても、すぐに帰るわよ」
携帯電話越しに聞こえてくる母親の心配そうな声に、真紀はウンザリした表情で返事した。
「囲碁の大会が近いんだから、仕方ないでしょう?だから・・・あ、バスが来た。切るからね?」
停留所に近づきつつあるバスが目に入り、真紀は携帯を切ると持っていたカバンに放り込んだ。
すでに七時近い時刻のせいか、学校からほど近いバス停に他の学生は居ない。
今からバスに乗って駅へ急げば電車には充分間に合うと算段しながら、真紀は停留所に停まったバスに乗り込んだ。
どこか入り口に近い席へ座ろうとしてバスの中を見回したが、
「・・・え?」
誰も居ないバスの座席を見て、真紀はただでさえ大きな目を更に開いて驚きの声を上げた。
バスの座席には、誰も居ない。
そして、その座席をどんなに見回しても最後にあるべき座席すら無かったのだ。
「・・・なに、これ・・・?」
バスの中にある席といえば、外見の大きさからしても十列くらいのものだろう。
座席の最後には、四・五人が並んで座ることのできる最終座席があるはずだ。
そんな事は、毎日のようにバスを利用している自分がよく知っている。
なのに、あるべきはずの最終座席が見えないのだ。
古ぼけたバスの座席がずらりと並び、歩いても歩いても最後の席が見えない。
まるで千本鳥居の中を歩いているかのように、両端に並ぶバスの席が延々と続いている。
バスの天井も、床も、席横にある窓すらも同じように延々と奥へ続き、バスの風景をしたトンネルの中を歩き進む気分だ。
「どうして・・・?ねぇ、運転手さん!」
乗り込む時に見た運転手の姿を思い出し、真紀は振り向いた。
そこには、ハンドルを握っている運転手が居るはずだ。
いや、少なくともバスに乗り込む時までは居たはずなのに、振り向いた真紀の目には映らなかった。
代わりにあったのは、並び続く座席の列。
真紀は壊れた人形のように何度も首を前後に振ってみるが、そのどちらにも同じ光景が延々と続くのみだった。
「・・・何で・・・何、これ・・・?」
ひょっとしたら夢の中に居るのではないかと怪しみながら、真紀は唯一の歩けるスペースである通路を走りだした。
白い座席がどんどん自分の後ろへと流れてゆく。
なのに、走れど走れどバスの最後にあるはずの座席は見えず、入ってきたはずのドアすら見えてこない。
「何よ、これ!・・・何なのよぉ!」
もう二百メートルくらい走っただろうか。
どんなに走っても変わらない光景に、真紀は叫んだ。
悲鳴のような絶叫がバスの内部で木霊した時、ふいに真紀の姿が空気の中へ混じるように掻き消えた。
そして・・・バスは無音となった。
***
バス停の傍にある自販機で適当なジュースを買おうとすると、機械に張り付けてある紙に目がいった。
『行方不明者についての情報を求む』
そういえば最近、女子高校生が五人も行方不明になって新聞に載っていたなぁ、と。
ぼんやり思い出しながら、雪はオレンジジュースを買った。
ガコンと落ちてきたジュース缶が、自販機の出口でちょこんと立つ。
雨が降るかもしれないと考えつつ、雪は遅れているバスがいつ来るのか気にしながら蓋を開けた。
五分程度なら遅れる事もあるだろうけど、十分も過ぎるのは珍しい。
でもまあ、いつかは来るだろうと生来ののんびりさで、雪はジュースをすすった。
と。
「あ、来た」
ちょうど半分くらいジュースを飲んだところで、バスは静かに停留所へ停まった。
学生カバンに残りのジュースを押し込み、雪は入口で券を取ろうとしたが・・発券機が無い事に気付いた。
あれ?と、まごついているうちにドアは閉じ、バスがゆるやかに発車する。
「ん?」
辺りを見回すと、雪以外の人間は誰も乗っていない。
七時といえば、サラリーマンや自分と同じ学生が乗っていてもおかしくない時間だというのに。
「あの・・・あれ?」
停留所から見えた車掌に、券が無い理由を聞こうとしたが・・運転席が見当たらない。
それどころか、たった今入ってきた入口のドアすら消え、前後にはバスの座席だけが長い列を成しているではないか。
あわてても仕方ないと感じた雪は、とりあえず傍の座席に腰をおろしてみた。
微かな振動を感じるが、車の動きではなく・・心臓のような、トクトクした振動。
まるで人間の胃の中に居るようだと思った雪に、
「こっちが出口よ。早く!」
いきなり前方に現れた女の子が、手招きして雪を呼ぶ。
初めて見る女性だが、雪にはそれが誰なのかが分かった。
「佐川真紀さん・・ね」
ニコリとして席を立った雪は、
「囲碁大会を前にして一週間前に謎の失踪。助けるのは・・どうやら間に合わなかったみたいね」
真紀を前にして、残念そうに言った。
それから学生カバンの中に手を突っ込むと、二十センチほどの細長い筒を取り出した。
カバンを投げ捨て、筒を両手で持ちながら引っ張ると、内側からは鈍く光る刀身がむき出しになる。
光の無い車内なのに、その手刀は真紀に反応するかのようにキンキンと光続けた。
真紀は二歩ほど後ずさると、雪ではなく刀を凝視して脅えた。
「それ」が自分にとって恐怖の対象なのだと、本能が告げているのだろう。
さらに二歩ほど下がった真紀の顔は苦痛に歪み、頬がグンニャリ曲がったかと思うと・・いきなり皮膚を突き破って細長い手が伸びてきた。
次に目が溶けるように抜け落ち、額がピリピリと・・・音をたてて二つに割れた。
「それが・・・本性なのね、アザゼル」
刀を竹刀のように構えた雪に、アザゼルは脱ぎ捨てた真紀の抜け殻を踏みつけ、
「アトスコシ・・オマエ、ジャマ・・」
細長い手を振り回し、粘膜で固められた口から、地の底から聞こえるようなドス黒い声で雪を怒鳴る。
それからハハハと大きな声で笑い、
「オマエヒトリ・・ヨワイ・・」
すぐにでも殺せるといった笑いが車内に響くと、雪は返すようにクスクスと笑い、
「当たり前よ、私は弱いわ。だから・・一人で貴方を滅するのは無理ね。でも・・」
合図のように小刀を振り上げた雪に同調して、アザゼルの背後から二本の腕が伸びてきた。
雪と同じくらい細い人間の手だが、その手に掴まれたアザゼルはピクリとも動く事ができない。
「ナニ・・グアァ・・・ガアッ・・!」
脅すように声を張りあげるが、せいぜい体を左右に少し動かせるだけで、手に掴まれたアザゼルは初めて焦りを見せた。
何しろ刀を構えた雪が、一歩・・もう一歩と近づいてきているのだ。
まるでアザゼルに勝機が無い事を分かっているかのように、ゆっくりと歩く雪。
「チ・・カヨルナ・・・イヤダ・・・グリモアサマ・・・」
カタカタと震え、アザゼルは自分の主となる悪魔の名前を口にした。
雪は小刀の刀身を持ち直すと、
「あと一人、生け贄を捧げれば召喚できるのに・・・無念でしょうね。でも、私も貴方という生け贄が必要なの。さあ、月。殺しの時間よ」
月と呼ばれた声に反応し、アザゼルを掴む腕の主が暗闇から姿を見せた。
ショートカットの雪とは違い、豊かな黒髪の少女。
しかし、その顔は対峙している雪とそっくりだった。
月と呼ばれた少女はニッコリ笑みと、
「私が生き返るためには、悪魔の生け贄が必要なの。だから・・・」
『さよなら』
雪と月は同時に言うと、月は腕の力を強めてアザゼルの腕をもぎ取った。
その痛みに倒れかかったアザゼルを、雪は一閃を靡かせて刀をふるい、体を真っ二つに切り裂く。
最後にポケットから奇妙な文字の書かれた札を取り出した雪は、アザゼルの額辺りに張り付けた。
「ナンダ、オマエラは・・・グァアァアア!」
断末魔が響くと、アザゼルの体は砂となって二人の足元に散った。
役目を終えた札からは文字が消え、ただの白い紙が砂の上を滑る。
久しぶりに見る月の姿に、雪は頬笑みながら近づき、
「悪魔がいるような、黄泉路に近い空気でしか会えないなんて不便ね」
本当はもっと会いたいのにと呟くと、月は雪の頭を撫でた。
手は雪の頭に触れることはできず、空気を掠るような感じではあったが、雪には十分温かく思える。
こうして悪魔を殺す時だけ会える、双子の姉。
進んで危険な悪魔に対峙するのは、この僅かな時間のためなのかもしれない。
『六人の処女が生け贄として殺される時、グリモアがよみがえってしまう・・今回はギリギリで間に合ったわね。雪が六人目になったら、私が生き返れなくなっちゃうからヒヤヒヤしたわ』
雪を撫でる手を止めないまま、月はからかうように言った。
双子として産まれてきた日、一人をグリモアに生け贄として捧げた母親。
その母親を殺し、あとは二十人の悪魔を生け贄として捧げれば月は生き返るのだ。
真紀が生きていれば、その体を月のために保存しておこうと思ったが、今回は間に合わなかった。
グリモアが蘇って月の魂を食べるより先に、月を生き返らせなければ・・・。
「あと十三の悪魔を殺せば、実体のある月に会えるから・・また、一緒に悪魔を殺そうね」
悪魔に気付かれずに近づける月の協力がなければ、悪魔を殺すのは難しい。
半分以上の体力を削ってからお札を使わなければ、悪魔を殺す事はできない。
様々な制限に縛られながらも、雪は月に会うために悪魔を殺し続ける。
『あ・・・もう、時間みたい』
月の姿が徐々に薄くなり、消えそうに揺らぐ。
悪魔がいなくなった空間は、黄泉の世界とは遠くなっているのだ。
「・・・またね」
雪が小さく手を振ると、月も同じように手を振った。
指先が空気に溶けるように消えゆき、自分と同じ笑顔が・・・惜しむように消える。
無限を思えた座席の前方から白い光が走り、雪を包んで弾けると・・・そこはよく見るバスの風景に戻った。
『次は戸隠~・・・戸隠~・・。お降りの方はお知らせください』
運転手の声が何事も無かったかのように車内に響くと、雪は床上に落ちている自分のカバンを拾って、小刀を隠すように入れた。
それから席に戻ると、降りるためのブザーを鳴らす。
長いようで短い逢瀬は終わった。
さて、次の獲物はどこにいるかな?と。
雪は流れる景色を見つつ、目を凝らして悪魔を探すのだった。