一人娘が他県の大学に行き、中古の家に引っ越してから、あっしらの守護天使は気分を害したようだった。
あっしの武道部屋と彼女のPC室、セミダブルベッドと収納を併設した一室、LDKはできるだけ狭くした。
あっしは道場とかに結構出かける。
帰ると彼女はPC仕事に、あるいは小説にへばりついている。家事は何もした気配がない。うまく書
けない、としかめっ面をしている。
そしてやたらとゆっくり長く手を洗う。どうしたのさ、と声をかけようとした背中が拒否、という形になっている。そう言えば最近ごぶさたかなあ、とあっしは気がついた。
相当のセクス好きだったのでここまで二十年も続いたようなものだ。彼女が。
あっしはどちらかというとそれに押し切られたところがあり、好きなことをそれぞれして邪魔し合わない関係は快適に思われた。
家事は七割がた彼女がしていた。
そういえばあっしは、彼女のことをパートナーとは思ってももう女とは見ていない。浮気はあっしが一度でかいのをやってかなり手こずった。娘が小学生の頃だ。親のいさかいを見たせいか登校拒否になった。それ以降あっしはおとなしくしている。
やはりそんな恨みつらみが残っているだろう。お互い無理やりセクスをしてきたようだ。どち
らからもそれをさぼるわけにいかなかった。誰にも相手を奪われたくないという執着はお互い
にあったのだろう。
で、肝心の愛は、どこへ行った?これも愛? しかし愛は変質してしまった。普通一般に起こ
るように。
それはまだしも、セクスをあっしは忘れてしまった。必要でなくなった。唯一のつながりであったのに。
本当を言えば楽しみでも楽しくもない。武道の練習で体力もいつも消耗していた。彼女は娘のことが心配なのか精神安定剤なしでは眠れないとぼやいた。眠りを邪魔しないでと言った。いいとも、とあっし。それが最近では普通の快適な生活だった。
彼女の様子がおかしいので、その夜あっしは優しい態度を見せ、ベッドでその体に触ろうとした。
いやはや、彼女は激しく身震いしたね。
汚い、と叫んで転げ落ちんばかりに逃げた。
彼女はこれまでも清潔には気を配っていたが、最近は潔癖症気味だった。しかしこれでは立
派な病状だ。
その夜の戦果は散々だった。考えたくもない。
次の朝、いつもにもましてぼろぼろになって彼女は起きてきた。あっしはすでに朝食を並
べて待っていた。
いい事が起こるとは思えなかった。
不吉だった。彼女は黙って食べた。食器をひとり分流しに入れた。
「今日からあたし達、家事を半々にするんだよ。実際的な配分は考えるとして、基本は半
々だよ。家賃はあたしが払ってるんだしね。
それから財産分離方式で暮らすんだよ」
あっしは目を白黒させたぜ。なんだいきなり。
実質的な別居宣言だ。別にあっしはこれまで不満はまあ無かった。眼をつぶれるほどの不
満しかなかった。家事を少し手助けする位、平気さ、気軽に動いた。思いやりのある便利
な亭主だって彼女も認めてくれているんじゃなかったのか。あっしは自分を褒めてたぜ。
仕方ない。慌てたところは見せたくない。
日頃の肉体的鍛錬、精神的修行をここは生かすべきだ。
彼女が何となく女の役割からずれてきているのは事実だ。それを受け止めよう。世の流れ
ではあるしなあ。
箇条書きにして各自の望む関係条項を提出し合うことになった。
そしてあっしは驚いた。家事の多さだ。
育児はもう無いのに、二人きりなのに介護もまだ無いのに?
朝起床、布団干し、シーツ替え、着替えの片付け、前日の荒いものが済んでいるとして、新聞牛乳取り、その日に決まっている種類のごみ出し、朝食作り、食後の片付け、但しここで食洗機に放り込むとしても下洗いが必要だ。
部屋の埃を拭き、新聞雑誌など収納場所におく、ごみはゴミ箱に集める、一日おきに床掃除、必要なら掃除機かけ、鉢物に水遣り、洗濯物を必要に応じて分類して洗濯機に洗わせる。干す。干す。
ここら辺からあっしらの労働活動も始まる。
お互いに変則的な時間に、部屋で仕事したり、出かけたりする。その間に趣味のトレーニン
グや小説書きが入る。そのための時間管理は各自うまくやっている。
ふと、あっしは思い出した。結婚するときに何となくだが、家事協力を条件に出されたような気がする。
同時にあっしは、どちらでも生活費は稼げるほうが稼ぐ、という条件を提示した。これは自分に経済的な大黒柱としての男の役割が押し付けられるのを阻止しようとしたからだ。
当時就職が次第に難事になってきていたせいだ。リストラという言葉が流行りだしていた。
さらに家事のリストアップ。
布団取り入れ、ベッドメイキング、買出し、冷蔵庫にしかるべく入れる、昼食の準備片付け、夕食の準備片付け、テーブルを拭く。
洗濯物取り入れたたみ収納する、玄関道路の掃除、可燃、不燃、リサイクルを分ける。ペットボトル、ふたを取り紙を破り漱いでから足で潰す、袋に入れる、スーパーに持っていく、ついでにクリーニング関係の処理、銀行の出入金、ドラッグストアの一周、医者に常備薬を処方してもらう。
缶やビン類それぞれを家庭内での分別的収納場所から、所定の曜日場所に夜、あるいは朝早く出しに行く。これは音がうるさい。
集合住宅なので決まりを護らない例が多い。籠を入れ替えたり動かしたりの無責任者への対応も含む。勿論全て手が汚れる。危険性もある。
新聞紙と雑誌と段ボール箱と化粧厚紙、これらはまた別扱いのリサイクル品だ。この後ちゃんとリサイクルされているかは謎だが。
ともかく家の中では、これらはしかるべく平らにされ、束ねられる。重たい塊になったのをぶらさげて所定の曜日に規定の場所におく。
これらがしかるべき人々の車で持ち運ばれて行って、翌日までには消えているのは素晴らしいことだ。社会と経済が機能している証拠である。そしてあっしらのような真面目で大人しい人民の賜物である。
そういえば、うちでは外食や出前によく頼る。
あっしの彼女への思いやりで安物の出前で我慢したり、外出のついでに外食する、と思っていたが、意外なことにそのための出費を彼女はもったいないと苦々しく感じていたのだ。
あっしの気持ちは必ずしも伝わっていないとわかったひとつだ。あっしの誤解というか。
家事の続き、最終的に戸締り、エアコンディショナー設定、眠り薬代わりの読書、消灯。
これらをどんな具合に分担するのだろう?