猫坂

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第7章 グレイの災難( 1 / 1 )


この間に故ニャンコの子供達の存在が、他の猫を敷地のあたりに引き寄せていた。

猫たちの間に情報交換があったせいではないと思う。イヤ、あったともいえるのか。動物番組のいうところでは、猫族の匂い付けはお互いの間の情報源であるそうだ。

餌の供給場所の知識は最重要事項であろう。
シロ、最も古株のボス、毛足の長い人工種のミックスらしい。ここらからニャンコの遺伝子へとつながっているだろう。

クロ、真っ黒のはしこいオス、かなり凶暴である。
白黒混ざったこっけいな顔のメスはしたたかだった。足を引きずっているのだが狡猾に生き延びている。

ニャンコの姉妹のように見える若いメスも、ボクらがいない時にきっとベランダにやって来て皿の残りかすを食べたことだろう。

これらの間で当然追いかけっこがある。遊びではない。
特にチビとグレイはボスどもから追い回された。
何百メートルも全速力で逃げ回るのだが、体の小さいグレイはとうとう被害にあった。

連れ立って帰ってきて、餌を食べに部屋に入ってきた。
それは真冬のころだ。寒さに弱い猫を案じて、ボクはアパートに暖房のアンカを敷いてやった。敷くように麻子に命じた。
麻子は呆れていたが呆れている場合でもない。また、食べるとき、夜寒いときしばらく暖かい居間に入ってもいいことにした。

そんな時期の頃、ある昼間に麻子がグレイのお尻に赤い色を見た。
グレイの毛に覆われたもともと小さめのインノウがぱっくりと割れた中に、おそらく睾丸が濃いピンク色に見えていた。

グレイを捕まえなければならないと麻子は焦った。
普通何の問題も無くグレイは誰にでも掴まれてキャリーにも入れさせる。
獣医師のところへ予防注射に行くために、チビでさえグレイとなら一緒にキャリーに入って、車で運ぶ間二人でくっついて眠っていたこともある。

しかしその時は、数匹一緒に固まって竹林に横たわってしまった。
つまり、竹林に入ることが出来るのは、鉄条網をくぐることの出来る猫か、空を飛ぶ鳥か虫のみなのだ。


麻子が金網からのぞいてみると、グレイが傷口を舐めている。
そしてピンク色が見えなくなっているようだった。
取れたのだろうか。頭に血が上ったと麻子は言った。

ボクが帰宅し、一時間後には難なくグレイは医師の手の内にあった。
「睾丸は中にありますよ。でもまあ猫のことだから平気で噛み千切ってしまうって事もありえますからね。ついでに去勢しますか」

「ハイそうなんです、野良猫ですから。しかしもしできれば、人間のように精管をくくるだけってのはいかがでしょう」
と、ボクが尋ねた。テストステロンがないとオスは簡単に生存競争に敗れるだろうという持論から言ったのだ。

「それはちょっと。あのね、考えてください。猫の大きさは人間の赤ちゃんほどです。その精管をくくるってのは顕微鏡下の困難な手術ですよ」
医師はそんな無理な、という表情で言った。

結局グレイは玉無しとなる手術を受け、翌日には大きな傘を首にくっつけられて戻された。
グレイは養子とはいえ最も賢く我慢強い猫だった。
他の猫ならボクらもその後の療養を諦めたかもしれない。

しかしそれは見ていられないほどだった。

大き目のケージを買って、居間に置きその中に入れることになった。グレイは泣き喚きはしなかったが、無言でケージの中を駆け回った。大きな傘がすべての動きを邪魔した。

グレイの絶望をボクらは見ていることは出来なかった。ケージから出した。しかし、傘ははずすわけに行かない。傷口がくっつくまで。しかも鋭いメスで切った傷ではないので十日以上かかるだろうという。

食事をするとき麻子がその傘をかたむけて、皿を口に持っていった。グレイは悲しげに尋ねるように可愛い三白眼でボクらを見つめた。
「どうして、どうしてなの」
爪で体をかきたがり、舌でなめたがるグレイの代わりに麻子が手を使った。傘のこすれる首が辛そうだった。

夢中で撫でてやっていると、下腹を剃られたところに猫のペニスが見えた。ピンク色だ。ゴロゴロ喜んでいるときにはそれが明らかに勃起していた。
そんなものを始めて観察した。


最も困ったのはトイレだ。
グレイは家の中で大小便をすることを潔しとしなかった。ボクらは何らかの紙の上でやってほしい。

しかしグレイはそのために外に出たがる。
「出してよ、どうしても出してほしいよぉ」
ベランダの柵は傘より狭い。しかし上に跳びあがって外に降りるだろう。しかし一度外に出たら、柵にひっかかって入れない。
混乱して跳びあがる手を思いつかないだろう、或いは外に出たらボクらの手をすり抜けるかもしれない。
ボクらはただの無理解な悪者なのだから。

ボクにしても麻子にしても今回ばかりは次の手が打てなかった。話し合いはただため息で終わった。

一度、犬のような引き綱をつけて外に連れて出たことがあった。馴れていないとこれも無理ということがわかっただけだった。

麻子が新聞紙やプラスチックやらを、広範囲にわざとぐしゃぐしゃにキッチンに散らかしておいた。知らん顔をしていると、グレイはひとりでそちらに行った。
後で見るとそこにトイレとして使った跡があった。

つまりこれで、我が家は全域猫ハウスとなった。ボクには恐怖の館となった。
麻子もボクも猫を胸に抱いたことは一度も無い。ソファに座らせたことも無い。

それから、グレイの傘が取れても、寒さが強まると兄弟姉妹暖房の効いた人間の居間でぐるぐるするようになった。絨毯の一部は、今や猫のためのホットカーペットと化した。

ボクらは絨毯をスリッパで歩くようになった。
家具の足元はなんとなくマーキングの臭いがした。
スプレイするのを見たことは無かったが。

自分のかばん以外の家中のものに決して触らないように注意し、ボクはせっせと手を洗った。洗いすぎて皮膚が荒れた。

ドアノブや蛇口もティシュでさわった。麻子が家中を触っているからだ。麻子が必要であり、邪魔であった。


グレイは今や養子などではなく一番幅を利かせていた。といっても子供のままの小柄な気のいい奴だ。
一個だけ段ボール箱が居間には置かれている。恐れを知らないグレイを静かにさせるための箱だ。

四角な箱に丸い体を入れて四角な猫となる。麻子がネンネという。まっすぐにそこへ行き、舐めたりしているうちに眠ってしまうのだ。白いオス猫マウスが傍を通ると、片手を伸ばして
「ここだよ」
と合図した。他の誰もしないのに、グレイだけが食べている人間の足元で
「ちょっとちょうだい」
と請求した。


隣家でも確かに猫の被害問題が増えていた。
細君から電話がかかったり、庭で摩擦が起こったりしていた。
布団も干せない、などと電話があったとき、麻子が
「もちろん、お困りのことはわかります。うちだって布団は干せません。エ、えさですか。どの猫にもやってるわけじゃありません。責任上いなくなるまでのことです。エ、白黒のメス? あれは関係ありませんわ。そうですか。
じゃあ本気で捕まえるようにしますわ。エ、ペット禁止? ペットじゃありません。うちの所有じゃありませんから。第一この世界は、考えてみてください、
この土地は人間ばかりの所有じゃないですから。動物には動物の生活範囲がありますよ。人間が勝手に所有地を決めてますけどね」
と得意げに答えていた。

そんな理屈を誰が本気に取るものか、と思う。ボクの博愛主義とヒューマニズムと動物愛護精神は麻子のこんなとってつけたような理屈とは根本が違う。

いずれにしろしかし、ここは共同で対処しなければなるまいと思った。
「問題は他のオスとメスだ。彼らを始末しなければ結局ボクらのせいにされる」

第8章 人の都合、猫の都合( 1 / 1 )


冬が終わりそうな、そんなころからマウスとブルーは、若者らしく独立を試みるようになっていた。グレイさえ次第に来なくなった。

メスで一人残ったベロは時々食べに来た。どこで時を過ごしているものか、見かける回数も減っていった。

チビはもう、一度でこりて家付きになったようだ。

シロはトランペットのように咆哮しながら尾っぽを高くかかげて庭を横切ってくる。とぐろを巻いたうんちをこれみよがしに置いていく。けんかを仕掛けるときは人間の介入を無視する。
ほほの盛り上がった大きな顔を斜めに構えて睨み付ける。確かにライオンを思わせる。こいつを捕まえるのは大仕事だった。

難渋の末、やっと車に積み込んだのだが、一分間目を話した隙に小さなキャリーからどうしてだか逃げ出して車の中を走り回っていた。

人間のオスとしてボクもこいつは嫌いだった。
しかし、人間の知恵と協力が勝ってこれをまた捕獲し、しかるべく追放した。

このあとのキングの座を狙っていたのが真っ黒なクロ、これも運良く排除した。

次に隣家に対して問題を起こすこと必至なのは白黒おかめのような脚の悪いメスだ。これを目標にしていたのだが、用心深いことこの上もなく手間取っているうちに、ニャンコに似たメスの捕獲に成功した。

この娘は獣医師の儲けに加担することとなった。
尤も連れて行った時に驚いたことに、医師が松葉杖をついていた。前夜階段から転げ落ちて骨折したという。両手は無事だったので手術はできるという。

それで安心したのだが、いつもは熟練の助手さんが、飼い猫と勘違いしたのか、この猫を捕まえ損ねてしまった。

その後の大騒動は眼を覆うばかりだった。
三つの診察室は上部が網で仕切ってあったのだが、天井までも駆け回り、網をくぐり抜けて次の部屋に降り立った。
そこの診察道具をひっくり返し、ついには待合室へ逃れでた。そこを二、三回縦横無尽に駆け巡る。大きな魚掬い網を助手さんがかぶせた。

その際に医師は隠れていた。ボクは眺めていた。
麻子が大網の片側を足で踏んで、やっとこれ以上の狼藉を妨げた。


そして御用となった。医師も助手の女性も静かに対応した。ボクらにも静かに対応して何も言わなかった。

手術後に電話があり、妊娠どころではなく子宮全体が膿で一杯だったという。出来る限り注意して摘出したが、感染してしまうかもしれないと。

ボクらは一週間後に受け取りに行った。元気そうに見えた。誰の遺伝子が混ざっているか知らないが、神よこの子をよろしく、と軽く念じてしかるべく追放したのだった。

冬の終わりに、ブルーが帰ってきた。病気で死ぬ手前だった。
アパートで静養し食べては眠り、薬を飲まされ、皮膚も手入れされた。次第にまた美しい猫の姿となった。そして最も手のかかったこのブルーは、今や一番の人間好きになったのだ。

ボクも初めて猫を可愛いと思うようになった。
ボクが外に出ると、しっぽをピンと立てて喜びを表した。一歩一歩、脚を出すごとにその間を通り抜けた。

しかし、シロとクロが消えて後、グレイに似た、灰色のグレイトグレイが見回りに来るようになったとき、ブルーは再び生家を後にした。
別の家を見つけたらしくもう戻っては来なかった。
マウスはとっくにいなくなっていた。
小柄なグレイも誰かを見つけたのだろう、次第に見かけなくなった。

グレイトグレイは実にグレイトだった。
初めて見たとき麻子は後ずさりした。豹ほどに見えたと言った。しかしその声はどの猫よりもか細く高い優しい音声であり、性質も温和だった。

大食いだった。ボクは大缶詰をふたつ与えた。
あるときは立て付けの悪い網戸を自分で開けていた。妙に気に入ってしまった。

次第に缶詰の始末が少なくなって喜んでいた麻子には大迷惑だったらしく、苦情しきりだったが、そんなことを意に介するボクではない。


しかしこうして新しいボスが定着しそうになったせいで、辺りが騒がしくなった。かえって猫の影が増え始めた。

春先には、子猫が鳴くのでボクが階段を追いかけていったことがあった。
五階まで登り、助けようとするボクの手を逃れようと、なんと外に飛び降りたのである。が、枯葉ほどの軽さの子猫は下の地面にたたきつけられてはいなかった。影も声も無かった。道路向かいの公園から母猫らしい呼び声がした。

ボクもこれには閉口して、グレイトグレイもしかるべく追放処分とした。
別れ際に彼はボクをチラと振り返った。
彼のこれからをボクらは全く心配しなかった。

ベロの真っ白い姿を何回か竹林のそばで見かけた。
食べには来なくなったが、生きられるらしい。

残ったのはチビ、それに白黒の脚の悪いメス。
チビが来たときだけ餌を出した。食べ終わると後が残らないようにきっかり仕舞い込んだ。

それでいいはずだった。気弱なチビの遺伝子が残るとは思われなかった。このことは隣家も納得しているはずだった。一年くらいがすぎた。


五つ子達の誕生からちょうど二年たったのだったろうか。隣家から、夫君がじきじきに出向いてきた。

これまでは浮気の罪滅ぼしに細君の猫嫌いに追従するという感じだった。しかしついに彼にも本当にボクらを攻撃するチャンスが生じたらしかった。
これで細君が許してくれるとでも言うように、意気揚々と彼は始めた。

「奥さん、お宅が餌をやるという愚行を始めたせいで、またこのざまです。
何年も何年も、餌をやって。いい加減にして下さい。
今さっき、うちの物置の床下から子猫の声が一声したんです。
私は聞き逃さなかったからね。耳はいいんです。すぐに悟った。お宅のせいですぜ」

「でもすでに一匹しかいないのはご存知でしょう。
どれにも餌を出してる訳じゃありません」


これまでは女同士で話をつけていたのだが、これではボクも玄関に出て行かざるをえなかった。そして何とか話を世間話の程度に持っていこうとした。彼は博愛主義の話になると用心しているらしく、

「私はペットというのに反対なんです、そもそもね。自然にいるなら結構。でも人工的な人間の世界のペットというのは自然とは程遠いですからな」
とボクの表情を見た。そして勝ったというように妙に強く言った。
「お願いしますよ、そろそろ。お宅の住宅契約違反をつきますぜ」

それからボクらがチビにしたことのためにボクらは隣家の人々を憎み始めた。

麻子はチビを干したのだ。
保健所の毒ガス室に送るのも、安楽死させるのもボクは反対した。第一捕獲することが無理なのだ。今更どっちの手段でも同じだ。チビが何とか別の道を見つけてくれることに賭けるほか無かった。

グレイのようにしつこく騒ぐこともなく、グレイのように近づいて拝み倒すことも出来ず、チビは理解でないままやせ細っていった。

それは死人も出たほどの異常に暑い夏だった。
殺すとか、死ぬのを待っているとかいうのではなかった。しかし、それは隣家に言われるままに、社会に適応しようとして弱いものを虐待していたこと以外のなにものでもなかった。

ボクは突然、麻子に命令することが出来なくなった。
隣家の意見を罵倒しながらそれに抵抗する気概は不思議にもボクは持ち合わさなかった。

「チビが駐車場で死んでるかも」
麻子が青い顔で言う。日曜日だった。車はほぼ出払っていた。


日がかんかん照り付けていた。
その真っ只中に黄色い布切れが落ちていた。
平べったく紙のように張り付いて動かなかった。
見に行く勇気が無かった。出たり入ったりした。
汗をいっぱいかいて、麻子は最悪というような顔をしていた。
ボクを睨みつけ一言も言わなかったし、反応しなかった。来るものが来た。
しかし何度か目にはその姿がなくなっていた。

ボクらはほっとした。最低な気分だった。


少し気候が涼しくなった頃、また事が起こった。

聞き覚えのある呼び声、網戸にハエ取グモのように跳びついて傾げた頭の影、中をのぞいている。グレイだ。チビが消えたので帰ってきたのか。
グレイは無視して干すことの出来る相手ではなかった。すぐに決定した。追放だ。

麻子は告白した。一度グレイをひざに抱いたことがあると。グレイが胸を両手でもみもみしたと。それは子猫が母猫の乳房にする動きだという。
一度チビとふたりでこっそり入り込み、寝室のベッドに機嫌よく寝そべっていたと。

さすがのボクもその時には怒る気にはなれなかった。ベッドは全部その後変えた。麻子はますます不衛生に見えた。

「可愛そうなグレイ、生きていけるかしら」
ボクらは飲み屋や小料理屋のある路地で別れた。

グレイはあの目つきでこちらをぼんやり見て、どうして? どうするの? と尋ねた。

その後に見舞われたのは猫坂ではない。その余波である人間の坂道だった。
ボクらは隣家を憎み、夫婦でお互いを憎み、訴えられ、別居し、それらは啓治に波及し、彼の進路問題を深刻なものとした。
ペット可の住まいだったらそれはそれでうまく対処できたのだろうか。
わからない。
思い出は多い。現在は最悪だ。
 
ところで、チビは生き延びていた。首に毛糸を巻きつけられて元気にメスを追いかけている。
それでもボクらの罪は消えない。 (了)

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東天
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