猫坂

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第6章 交通事故( 1 / 1 )


以前にもそうだったように、道路と他のマンションとローソンのある北側のベランダから、ニャンコはボクらを呼んだ。特に夜に。

ドアを開けると入ってくる。何をするでもなく間もなく出て行きたがる。
出るや間もなく入りたがる。その繰り返しだ。

どうしたいのかわからなかった。ボクを連れ出したかったのか。ボクらは家族で、つまり彼女の子供達なので、訓練をしてやらなきゃとでも思ったのか。そんな衝動があったのか。
あるいはオス猫が相手にしてくれなかったのか。それはボクらにとって永遠の謎となった。

ある夜ニャンコがいつもの時刻になかなか来なかった。
ボクは夜中に外に見に行った。月明かりがあった。
マンションの敷地から石段を降りてみた。

そしてボクはたちまち白く光る道路に横たわる小さな物体を見たのだ。
車道の端にきれいな形で四肢を伸ばしてやや固くなっていた。
少し血が道にあった。死んでいる理由もわからないほど、眠っているかのようだった。ボクはしかしもう触らなかった。
死んだものには触らないと決めている。
気持ち悪いのではなく単に衛生的な理由からだ。

ボクはコーラの段ボール箱を取りに行き、タオルでニャンコをその中に入れて持ち帰った。麻子に言った。
もうベッドにいた麻子はうそ、と言った。
数日前ボクがそのうち車にはねられるだろうと、ニャンコの行動を非難したこともあり、とても真実とは思わなかったのだろう。
ボクだってとても信じられなかった。

北側の敷地に家族はもう揃ってそれぞれに隠れてみていた。
ボクも麻子も、この上はニャンコを埋めてやるしかない、と同時に決心した。

シャリンバイの茂みのうしろにボクが穴を掘り、麻子がぼとり、と箱からニャンコを落し入れた。

ベラが特に近づいてみていた。土を戻した。
少し離れたところに麻子が植えたクリスマスツリーの木がある。
墓碑のようだった。
 

まもない冬の朝、麻子はベランダがくさいのに気づいた。特別なくささ。
マーキングである。オス猫たちが大人になろうというのだ。メスはすでに準備が出来ているはずだ。

まずその第一候補は大柄の美人のベラだった。


ベラは怖がるでもなく、怖がらないでもなく堂々としていた。柔らくふかふかすべすべの真っ白い毛皮で。

ニャンコの事故死がまだ現実のものとして受け止められないでいたある日、ブザーを鳴らしたのは上の階に住む男性だ。
潜めた声で、
「駐車場にお宅の白い猫が」
「え」
「死んでます」

麻子が走り出て行ったところ、ベラが四肢を伸ばして硬直して横たわっていたという。
「車に轢かれたんですね」
とその男性が言った。

おなかの白い毛皮が少しよじれていた。ただそれだけだったという。
猫の命はあっけなくはかなかった。

今度は保健所に電話するという正しい方法がとられた。
たちまち引き取りに来るという。野良猫ならという条件だ。
黒いゴミ袋に美人のベラを入れておいた。
敷地の片隅においてあったのを回収係りの男はすぐに見つけ出し確認し連れて行った。


避妊手術代がひとり分減ったんだ、とボクらは笑わずにうなづきあった。
ボクはひそかに隣家の仕業ではないかと疑った。それを麻子に言うと案の定、ありえない、という顔でボクを見た。ありえなくはないのに。

それに、ベラはとりわけ母親の埋葬を知っていたから、あるいは自殺みたいなこともありうる、とボクはひとりで思っていた。

避妊に関して、残りはベロの心配ということになった。
ベロは部屋に入ってきてあれこれ求め、喜んで出されるものを食べるのだが、呼びかけるとハァイと、何度でも返事するのだが、ベロは決して自分に触れさせなかった。

ボクは遂に決心して、彼女が食べているときにむんずと体を上からつかんだ。
麻子がドアをすっと閉めた。キャリーが準備してあった。
「オーノオー」
とでもいうような叫びをあげてベラはボクの両手の中でもがいた。


ボクの両手いっぱいに、するするの毛皮と、その下の圧倒的な筋肉の動きが感じられた。
とてもつかんでいられない。

実にうまく、逃れようとして筋肉が次々に動く。
圧しつぶす覚悟でもなければ、あるいはひっかれても大丈夫なほどの手袋でもなければ捕まえて籠にいれるなど無理だった。

ボクの手から小柄なベロは逃れた。もうひとつの出口をめがけてまさに電光石火のごとく走った。
そこは無論閉めてある。

ベロは焦って南の出口に戻ってくる、しかも居間の壁を駆け上り壁沿いにソファを伝わり、まさに宙を跳んだ。
もうだめだ。どうすることもできない。
麻子が素早くそのドアを開けた。ベロはあっというまに脱出し、庭の向こうにある竹林へ走りこんだ。
ボクらはへたりこんだ。

その日、ベロはやがて戻ってきた。
グレイが挨拶した。しばらく二匹は顔掃除などしていた。背中もきれいに舐めた。

いきなりベロがゆっくり動き出した。
ポンと庭に下りる。まっすぐ竹林の前のスイカズラの茂みに向かって歩む。グレイも何となくついていく模様だ。
茂みの前でベロは振り返った。そして入っていった。

グレイも急ぐでもなく、何気ない風に茂みに入った。
見ていると二匹が出てくる気配は無い。そこに二人してとどまっているのだ。
ボクらはさらに決意を固め作戦を練った。

ベランダのサッシドアをほんの少し開けて、そこから紐を引いてキャリーの開き戸を閉めるという作戦だ。これはブルーを、例の男達の家に運ぼうとした時に、用いて成功した作戦である。

中に餌を入れたキャリーはベランダの壁沿いに据えてある。ボクは部屋の壁の影に隠れている。グレイが入り、ベロが入り、グレイは食べて出て行った。そしてついにベロがひとりになった。


彼女からわれわれの姿は見えない。静かに確実に紐を引くと、それに引っ張られてキャリーのドアが閉まっていく。

何回目かでやっと成功した。
すばやく紐を全体に巻きつける。ドアの上下にあるフックをかける。その時が危険だ。猫はすぐに仕組みを見つける。両手でひっかいてあけようとするのだ。

ベロはパニックで、ボクらはヒイヒイ言っている。
即、車の後部に入れる。捕獲は夕方でなければならない。
ボクが在宅で、獣医院がまだあいている時間だ。
「イヤヨォ出してぇ」
叫び続けるのをなだめながら走る。なだめても何の効果も無いのはわかっているが他にどうしようもない。

慣れた助手の女性が造作もなくベロを押さえつけて、爪を切った。医師が簡単に診察し、
「今日はこのままケージで保護し、明日手術しますよ、結果は電話で。また野良猫ですね」

カルテには一応武井ベロと書いておく。それでも医師の好意なので半額の費用で済むということである。これで女の子は最後だ。

次の日に見舞いに行った。ベロは声がすっかり嗄れてしまっていた。
小さな部屋には犬も鳥も猫も一緒に積み上げられていた。今回はそれきりで見舞いには行かなかった。ベロが喜ぶわけではなかったので。

一週間後に受け取りに行き、連れ帰ってドアを開けた。また竹林に逃げていった。しかしすぐに戻ってきて食べた。

ボクらは医師の言葉をかみしめた。見事に五つ入っていましたよ。
毛を剃った場所が回復したころ、麻子がマウスによるベロのレイプを目撃した。

ベランダに薄い板が、何のためかは不明だが、たてかけてあり、そこに身を隠すようにしてベロが座り込んでいた。
背後からマウスがとりついていた。長い間そうしていたのでベロは許さなかったのだろう。しかし抵抗するのではなく困った風に時々、
「やめて、お願い」
と言った。麻子はしばらくどうしたものかと眺めていたが、ほっておいたという。

第7章 グレイの災難( 1 / 1 )


この間に故ニャンコの子供達の存在が、他の猫を敷地のあたりに引き寄せていた。

猫たちの間に情報交換があったせいではないと思う。イヤ、あったともいえるのか。動物番組のいうところでは、猫族の匂い付けはお互いの間の情報源であるそうだ。

餌の供給場所の知識は最重要事項であろう。
シロ、最も古株のボス、毛足の長い人工種のミックスらしい。ここらからニャンコの遺伝子へとつながっているだろう。

クロ、真っ黒のはしこいオス、かなり凶暴である。
白黒混ざったこっけいな顔のメスはしたたかだった。足を引きずっているのだが狡猾に生き延びている。

ニャンコの姉妹のように見える若いメスも、ボクらがいない時にきっとベランダにやって来て皿の残りかすを食べたことだろう。

これらの間で当然追いかけっこがある。遊びではない。
特にチビとグレイはボスどもから追い回された。
何百メートルも全速力で逃げ回るのだが、体の小さいグレイはとうとう被害にあった。

連れ立って帰ってきて、餌を食べに部屋に入ってきた。
それは真冬のころだ。寒さに弱い猫を案じて、ボクはアパートに暖房のアンカを敷いてやった。敷くように麻子に命じた。
麻子は呆れていたが呆れている場合でもない。また、食べるとき、夜寒いときしばらく暖かい居間に入ってもいいことにした。

そんな時期の頃、ある昼間に麻子がグレイのお尻に赤い色を見た。
グレイの毛に覆われたもともと小さめのインノウがぱっくりと割れた中に、おそらく睾丸が濃いピンク色に見えていた。

グレイを捕まえなければならないと麻子は焦った。
普通何の問題も無くグレイは誰にでも掴まれてキャリーにも入れさせる。
獣医師のところへ予防注射に行くために、チビでさえグレイとなら一緒にキャリーに入って、車で運ぶ間二人でくっついて眠っていたこともある。

しかしその時は、数匹一緒に固まって竹林に横たわってしまった。
つまり、竹林に入ることが出来るのは、鉄条網をくぐることの出来る猫か、空を飛ぶ鳥か虫のみなのだ。


麻子が金網からのぞいてみると、グレイが傷口を舐めている。
そしてピンク色が見えなくなっているようだった。
取れたのだろうか。頭に血が上ったと麻子は言った。

ボクが帰宅し、一時間後には難なくグレイは医師の手の内にあった。
「睾丸は中にありますよ。でもまあ猫のことだから平気で噛み千切ってしまうって事もありえますからね。ついでに去勢しますか」

「ハイそうなんです、野良猫ですから。しかしもしできれば、人間のように精管をくくるだけってのはいかがでしょう」
と、ボクが尋ねた。テストステロンがないとオスは簡単に生存競争に敗れるだろうという持論から言ったのだ。

「それはちょっと。あのね、考えてください。猫の大きさは人間の赤ちゃんほどです。その精管をくくるってのは顕微鏡下の困難な手術ですよ」
医師はそんな無理な、という表情で言った。

結局グレイは玉無しとなる手術を受け、翌日には大きな傘を首にくっつけられて戻された。
グレイは養子とはいえ最も賢く我慢強い猫だった。
他の猫ならボクらもその後の療養を諦めたかもしれない。

しかしそれは見ていられないほどだった。

大き目のケージを買って、居間に置きその中に入れることになった。グレイは泣き喚きはしなかったが、無言でケージの中を駆け回った。大きな傘がすべての動きを邪魔した。

グレイの絶望をボクらは見ていることは出来なかった。ケージから出した。しかし、傘ははずすわけに行かない。傷口がくっつくまで。しかも鋭いメスで切った傷ではないので十日以上かかるだろうという。

食事をするとき麻子がその傘をかたむけて、皿を口に持っていった。グレイは悲しげに尋ねるように可愛い三白眼でボクらを見つめた。
「どうして、どうしてなの」
爪で体をかきたがり、舌でなめたがるグレイの代わりに麻子が手を使った。傘のこすれる首が辛そうだった。

夢中で撫でてやっていると、下腹を剃られたところに猫のペニスが見えた。ピンク色だ。ゴロゴロ喜んでいるときにはそれが明らかに勃起していた。
そんなものを始めて観察した。


最も困ったのはトイレだ。
グレイは家の中で大小便をすることを潔しとしなかった。ボクらは何らかの紙の上でやってほしい。

しかしグレイはそのために外に出たがる。
「出してよ、どうしても出してほしいよぉ」
ベランダの柵は傘より狭い。しかし上に跳びあがって外に降りるだろう。しかし一度外に出たら、柵にひっかかって入れない。
混乱して跳びあがる手を思いつかないだろう、或いは外に出たらボクらの手をすり抜けるかもしれない。
ボクらはただの無理解な悪者なのだから。

ボクにしても麻子にしても今回ばかりは次の手が打てなかった。話し合いはただため息で終わった。

一度、犬のような引き綱をつけて外に連れて出たことがあった。馴れていないとこれも無理ということがわかっただけだった。

麻子が新聞紙やプラスチックやらを、広範囲にわざとぐしゃぐしゃにキッチンに散らかしておいた。知らん顔をしていると、グレイはひとりでそちらに行った。
後で見るとそこにトイレとして使った跡があった。

つまりこれで、我が家は全域猫ハウスとなった。ボクには恐怖の館となった。
麻子もボクも猫を胸に抱いたことは一度も無い。ソファに座らせたことも無い。

それから、グレイの傘が取れても、寒さが強まると兄弟姉妹暖房の効いた人間の居間でぐるぐるするようになった。絨毯の一部は、今や猫のためのホットカーペットと化した。

ボクらは絨毯をスリッパで歩くようになった。
家具の足元はなんとなくマーキングの臭いがした。
スプレイするのを見たことは無かったが。

自分のかばん以外の家中のものに決して触らないように注意し、ボクはせっせと手を洗った。洗いすぎて皮膚が荒れた。

ドアノブや蛇口もティシュでさわった。麻子が家中を触っているからだ。麻子が必要であり、邪魔であった。


グレイは今や養子などではなく一番幅を利かせていた。といっても子供のままの小柄な気のいい奴だ。
一個だけ段ボール箱が居間には置かれている。恐れを知らないグレイを静かにさせるための箱だ。

四角な箱に丸い体を入れて四角な猫となる。麻子がネンネという。まっすぐにそこへ行き、舐めたりしているうちに眠ってしまうのだ。白いオス猫マウスが傍を通ると、片手を伸ばして
「ここだよ」
と合図した。他の誰もしないのに、グレイだけが食べている人間の足元で
「ちょっとちょうだい」
と請求した。


隣家でも確かに猫の被害問題が増えていた。
細君から電話がかかったり、庭で摩擦が起こったりしていた。
布団も干せない、などと電話があったとき、麻子が
「もちろん、お困りのことはわかります。うちだって布団は干せません。エ、えさですか。どの猫にもやってるわけじゃありません。責任上いなくなるまでのことです。エ、白黒のメス? あれは関係ありませんわ。そうですか。
じゃあ本気で捕まえるようにしますわ。エ、ペット禁止? ペットじゃありません。うちの所有じゃありませんから。第一この世界は、考えてみてください、
この土地は人間ばかりの所有じゃないですから。動物には動物の生活範囲がありますよ。人間が勝手に所有地を決めてますけどね」
と得意げに答えていた。

そんな理屈を誰が本気に取るものか、と思う。ボクの博愛主義とヒューマニズムと動物愛護精神は麻子のこんなとってつけたような理屈とは根本が違う。

いずれにしろしかし、ここは共同で対処しなければなるまいと思った。
「問題は他のオスとメスだ。彼らを始末しなければ結局ボクらのせいにされる」

第8章 人の都合、猫の都合( 1 / 1 )


冬が終わりそうな、そんなころからマウスとブルーは、若者らしく独立を試みるようになっていた。グレイさえ次第に来なくなった。

メスで一人残ったベロは時々食べに来た。どこで時を過ごしているものか、見かける回数も減っていった。

チビはもう、一度でこりて家付きになったようだ。

シロはトランペットのように咆哮しながら尾っぽを高くかかげて庭を横切ってくる。とぐろを巻いたうんちをこれみよがしに置いていく。けんかを仕掛けるときは人間の介入を無視する。
ほほの盛り上がった大きな顔を斜めに構えて睨み付ける。確かにライオンを思わせる。こいつを捕まえるのは大仕事だった。

難渋の末、やっと車に積み込んだのだが、一分間目を話した隙に小さなキャリーからどうしてだか逃げ出して車の中を走り回っていた。

人間のオスとしてボクもこいつは嫌いだった。
しかし、人間の知恵と協力が勝ってこれをまた捕獲し、しかるべく追放した。

このあとのキングの座を狙っていたのが真っ黒なクロ、これも運良く排除した。

次に隣家に対して問題を起こすこと必至なのは白黒おかめのような脚の悪いメスだ。これを目標にしていたのだが、用心深いことこの上もなく手間取っているうちに、ニャンコに似たメスの捕獲に成功した。

この娘は獣医師の儲けに加担することとなった。
尤も連れて行った時に驚いたことに、医師が松葉杖をついていた。前夜階段から転げ落ちて骨折したという。両手は無事だったので手術はできるという。

それで安心したのだが、いつもは熟練の助手さんが、飼い猫と勘違いしたのか、この猫を捕まえ損ねてしまった。

その後の大騒動は眼を覆うばかりだった。
三つの診察室は上部が網で仕切ってあったのだが、天井までも駆け回り、網をくぐり抜けて次の部屋に降り立った。
そこの診察道具をひっくり返し、ついには待合室へ逃れでた。そこを二、三回縦横無尽に駆け巡る。大きな魚掬い網を助手さんがかぶせた。

その際に医師は隠れていた。ボクは眺めていた。
麻子が大網の片側を足で踏んで、やっとこれ以上の狼藉を妨げた。


そして御用となった。医師も助手の女性も静かに対応した。ボクらにも静かに対応して何も言わなかった。

手術後に電話があり、妊娠どころではなく子宮全体が膿で一杯だったという。出来る限り注意して摘出したが、感染してしまうかもしれないと。

ボクらは一週間後に受け取りに行った。元気そうに見えた。誰の遺伝子が混ざっているか知らないが、神よこの子をよろしく、と軽く念じてしかるべく追放したのだった。

冬の終わりに、ブルーが帰ってきた。病気で死ぬ手前だった。
アパートで静養し食べては眠り、薬を飲まされ、皮膚も手入れされた。次第にまた美しい猫の姿となった。そして最も手のかかったこのブルーは、今や一番の人間好きになったのだ。

ボクも初めて猫を可愛いと思うようになった。
ボクが外に出ると、しっぽをピンと立てて喜びを表した。一歩一歩、脚を出すごとにその間を通り抜けた。

しかし、シロとクロが消えて後、グレイに似た、灰色のグレイトグレイが見回りに来るようになったとき、ブルーは再び生家を後にした。
別の家を見つけたらしくもう戻っては来なかった。
マウスはとっくにいなくなっていた。
小柄なグレイも誰かを見つけたのだろう、次第に見かけなくなった。

グレイトグレイは実にグレイトだった。
初めて見たとき麻子は後ずさりした。豹ほどに見えたと言った。しかしその声はどの猫よりもか細く高い優しい音声であり、性質も温和だった。

大食いだった。ボクは大缶詰をふたつ与えた。
あるときは立て付けの悪い網戸を自分で開けていた。妙に気に入ってしまった。

次第に缶詰の始末が少なくなって喜んでいた麻子には大迷惑だったらしく、苦情しきりだったが、そんなことを意に介するボクではない。


しかしこうして新しいボスが定着しそうになったせいで、辺りが騒がしくなった。かえって猫の影が増え始めた。

春先には、子猫が鳴くのでボクが階段を追いかけていったことがあった。
五階まで登り、助けようとするボクの手を逃れようと、なんと外に飛び降りたのである。が、枯葉ほどの軽さの子猫は下の地面にたたきつけられてはいなかった。影も声も無かった。道路向かいの公園から母猫らしい呼び声がした。

ボクもこれには閉口して、グレイトグレイもしかるべく追放処分とした。
別れ際に彼はボクをチラと振り返った。
彼のこれからをボクらは全く心配しなかった。

ベロの真っ白い姿を何回か竹林のそばで見かけた。
食べには来なくなったが、生きられるらしい。

残ったのはチビ、それに白黒の脚の悪いメス。
チビが来たときだけ餌を出した。食べ終わると後が残らないようにきっかり仕舞い込んだ。

それでいいはずだった。気弱なチビの遺伝子が残るとは思われなかった。このことは隣家も納得しているはずだった。一年くらいがすぎた。


五つ子達の誕生からちょうど二年たったのだったろうか。隣家から、夫君がじきじきに出向いてきた。

これまでは浮気の罪滅ぼしに細君の猫嫌いに追従するという感じだった。しかしついに彼にも本当にボクらを攻撃するチャンスが生じたらしかった。
これで細君が許してくれるとでも言うように、意気揚々と彼は始めた。

「奥さん、お宅が餌をやるという愚行を始めたせいで、またこのざまです。
何年も何年も、餌をやって。いい加減にして下さい。
今さっき、うちの物置の床下から子猫の声が一声したんです。
私は聞き逃さなかったからね。耳はいいんです。すぐに悟った。お宅のせいですぜ」

「でもすでに一匹しかいないのはご存知でしょう。
どれにも餌を出してる訳じゃありません」


これまでは女同士で話をつけていたのだが、これではボクも玄関に出て行かざるをえなかった。そして何とか話を世間話の程度に持っていこうとした。彼は博愛主義の話になると用心しているらしく、

「私はペットというのに反対なんです、そもそもね。自然にいるなら結構。でも人工的な人間の世界のペットというのは自然とは程遠いですからな」
とボクの表情を見た。そして勝ったというように妙に強く言った。
「お願いしますよ、そろそろ。お宅の住宅契約違反をつきますぜ」

それからボクらがチビにしたことのためにボクらは隣家の人々を憎み始めた。

麻子はチビを干したのだ。
保健所の毒ガス室に送るのも、安楽死させるのもボクは反対した。第一捕獲することが無理なのだ。今更どっちの手段でも同じだ。チビが何とか別の道を見つけてくれることに賭けるほか無かった。

グレイのようにしつこく騒ぐこともなく、グレイのように近づいて拝み倒すことも出来ず、チビは理解でないままやせ細っていった。

それは死人も出たほどの異常に暑い夏だった。
殺すとか、死ぬのを待っているとかいうのではなかった。しかし、それは隣家に言われるままに、社会に適応しようとして弱いものを虐待していたこと以外のなにものでもなかった。

ボクは突然、麻子に命令することが出来なくなった。
隣家の意見を罵倒しながらそれに抵抗する気概は不思議にもボクは持ち合わさなかった。

「チビが駐車場で死んでるかも」
麻子が青い顔で言う。日曜日だった。車はほぼ出払っていた。


日がかんかん照り付けていた。
その真っ只中に黄色い布切れが落ちていた。
平べったく紙のように張り付いて動かなかった。
見に行く勇気が無かった。出たり入ったりした。
汗をいっぱいかいて、麻子は最悪というような顔をしていた。
ボクを睨みつけ一言も言わなかったし、反応しなかった。来るものが来た。
しかし何度か目にはその姿がなくなっていた。

ボクらはほっとした。最低な気分だった。


少し気候が涼しくなった頃、また事が起こった。

聞き覚えのある呼び声、網戸にハエ取グモのように跳びついて傾げた頭の影、中をのぞいている。グレイだ。チビが消えたので帰ってきたのか。
グレイは無視して干すことの出来る相手ではなかった。すぐに決定した。追放だ。

麻子は告白した。一度グレイをひざに抱いたことがあると。グレイが胸を両手でもみもみしたと。それは子猫が母猫の乳房にする動きだという。
一度チビとふたりでこっそり入り込み、寝室のベッドに機嫌よく寝そべっていたと。

さすがのボクもその時には怒る気にはなれなかった。ベッドは全部その後変えた。麻子はますます不衛生に見えた。

「可愛そうなグレイ、生きていけるかしら」
ボクらは飲み屋や小料理屋のある路地で別れた。

グレイはあの目つきでこちらをぼんやり見て、どうして? どうするの? と尋ねた。

その後に見舞われたのは猫坂ではない。その余波である人間の坂道だった。
ボクらは隣家を憎み、夫婦でお互いを憎み、訴えられ、別居し、それらは啓治に波及し、彼の進路問題を深刻なものとした。
ペット可の住まいだったらそれはそれでうまく対処できたのだろうか。
わからない。
思い出は多い。現在は最悪だ。
 
ところで、チビは生き延びていた。首に毛糸を巻きつけられて元気にメスを追いかけている。
それでもボクらの罪は消えない。 (了)

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東天
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