猫坂

第4章 グレイ登場( 1 / 1 )


「なんだこりゃ」
とボクも思わず反応してしまった。麻子は大事な鉢の新芽を押しつぶされて、ニコニコしている。どこまで自分の無いやつなのか、とチラと思ったが。

鉢に被害はない。重石が取れるとまた水をもらって復活した。
もっとも翌日にはニャンコまで重なって乗っている始末だ。しかしそれで彼らの好奇心は満たされたらしく、アメリカンブルーは災害を逃れて、二度目の開花へと向かっていった。
 
母猫の仔猫遺棄行為は、ニャンコに限ってはこんな次第で遅れていたと思う。
しかし世の中の猫の仔は生死を賭けて戦い始めていた。ほとんどは病死餓死カラスの餌食という運命を辿るのだろう。

そんな時期に、あきらかに白猫たちよりも小柄な灰色の鯖猫が現れるようになった。夕方それがグループの中に紛れ込んでもわからないこともあった。

或いは誰もいないときに
「こんちはぁ、僕ですぅ」
としつこい声で呼んだ。知らん顔をしているとすりガラスの上の透明な部分から覗こうとして、網戸に跳びついた。そこで止まって、頭と耳と眼を傾げて、じっと見つめた。

網戸を心配して人間はついドアを開ける。
「何とかお願いしますぅ」
と頭をすりつけてくる。口も押し付けた。
まっすぐな瞳に意思がはっきり見えているタイプだった。
勿論グレイと名づけられた。

ボクらがグレイの必死さを受容しても、同属の態度次第なので、麻子は監察官となった。どうもグレイはこの特殊なベランダの仲間になるには、ひとりひとりと対決しなければならないようだった。

体の大きい順にグレイは一騎打ちを強いられる。
ベランダから決して逃げずに、隅に追い詰められて、おなかを見せて寝る体勢となり、
降参降参と叫ぶまで我慢して持ちこたえる。

その叫びは断末魔の叫びもかくやと思わせる。
それを聞くと相手はもう攻撃への興味を失うらしい。

すべての相手に対して、グレイは降参を叫ぶまでの緊張を耐えた。根性があった。

オスの養子となった。みんなと仲良く訓練をし、最も賢く利口で人格があった。

ある時ボクにねずみを持って帰った。話に聞いていたことが実際に起ころうとは! 
グレイは、さあ、というような下からの視線でボクをじっと見た。
「おみやげだよ、あげるよ、どうする?」
ボクはこれをどうすることもできないのでそのまま有難うと放って置いた。最後には目だけ残して食べつくされてあった。


人も猫も一族郎党つつがなくこうして生きていたわけではない。
グレイが押しかけてきたのは何とも是非の判断は難しい。
前足をそろえてチンと座り、三白眼で見上げてお願い、と言っている孤児の姿は哀れに思われた。

のんきな白猫兄弟がグレイを受け入れて遊び仲間としたのは、ライオン並みの進化の知恵なのかもしれない。
 
こうして右往左往している間にも、猫坂の下りは、実はすでに始まっていた。

一家がアパートを南側に引越しして、子猫たちがベランダにかかった梯子を自由に上り下りするようになると、麻子の好きな砂箱掃除が不要になった。

砂を変える気配を察するやいっせいにヨタヨタ出てきて、自分の尻の下で待っている子猫を感じるのは、そりゃ、かなり印象的だったと思う。

しかし今や、彼らは自由な野良猫として自然をトイレとしたのである。
まだ遠くには行けない。自宅から少々離れた、便利な便所。

お隣の庭は、夫婦仲の改善とそれに伴う細君の回復を見る間に反映してきていた。
枯れ草や雑草が消えて、黒々として土が入った。

目隠しの杉の立ち木の根元をお宅の猫たちがトイレにしていると、細君がうちに言いにやってきた。
「すみません、奥様は猫が大嫌いってはなしでしたよねえ!」
と麻子が低姿勢で応対した。
「この前から奥様が庭に出ていらしたので、困ったなあと思ってたんですが」
「ええまあ。で、どうするおつもりですか」
「すぐに保健所にもって行く予定だったのですが。
主人が毒ガスで殺すなんてもってのほかだって言って」
「餌をやらなかったらいいのでは?」
「どこかもらってくれるところを急遽探します」

「うんちがくさいんですよ。朝食をバルコニーで摂っているときに特に」
「毎日掃除します。バルコニーや庭に入らないように忌避剤を買って、私が置かせてもらいます」

やっと彼女にお引取りを願った後で、麻子はボクをにらんでいる。
ボクは隣の細君の要求に腹を立てているのに。
「えらそうに。自分さえよければどうでもいいんだな」
「でもこうなることはわかっていたことよ。世間の反応はこうくるわよ」
「ボクが正しい。動物を苦しめてどうする」
「でも彼女の気持ちだってわかるから」

第5章 バトル、敵は誰だ( 1 / 1 )


麻子はウンチ拾いにでかけるはめになった。

運悪く夫婦で食事しているときに出くわしてしまったときなどは、バルコニーから夫君に、もっとこちらにも、などと指図された。
ボクはそんなことをしている自分の妻に憤懣やるかたなく、帰ってきた麻子に罵声を浴びせて鬱憤を晴らした。

麻子のお気に入りのリボンちゃんが戻ってこなかった。
ニャンコのサバイバル作戦の遠足から脱落したらしい。

彼らは下水排水溝の小さな穴にも潜って生き残る。
そのための野良猫特訓に後れを取ったのだ。
あるいは持ち前の好奇心と怖いもの知らずから危険に近寄りすぎたのか。
あるいは可愛いくひとなつっこいので誰かに拾われたか。
麻子はいつまでも残念がった。

残った白猫のうち、オスは美しいまっすぐな長い白い尻尾のマウスと、曲がり気味のブルー、兄のチビと養子のグレイ、四匹もいる。

子宮摘出手術を受けることになるメスは立派な体格のベラと小柄なベロだ。

日に日に外の生活が長くなると、ボクらを次第に怖がるようになって、閉じ込められることを嫌うようになった。それはチビ、ベロ、ブルーだ。
そのうち去ってしまう猫も出てくるのだろう。
ボクはそれも待っていた。自然に自立できれば幸いだ。

大きくなるにつれ、食べる缶詰を買うのもその缶を捨てるのも馬鹿にならなかった。
ボクは必要なものはためらわず買う。しかし捨てるのは苦手なので麻子に任せた。
猫の缶詰とはわからないようにラベルをはがして収集の前の深夜に捨てに行った。
ガラガラと張り裂けるような音がしじまに響いた。
 
子猫の里親募集のサイトにネットで掲示したが成果はなく、近所の店に張り紙してもらったところ、若い男からもらいたい由の電話があった。

これが大変な猫坂であることを予想できただろうか。
然り、ボクはちゃんと考えていて、用心するつもりだった。
しかし、この軽薄な麻子が、昼間ボクのいないのを幸いさっさと取り決めて、プルーをわたすことにしていた。
ボクの異議は、ひとつ、ブルーがボクらにも慣れ親しまないことだ。ふたつ、相手先が若い兄弟のみで住んでいるということだ。

麻子の詮索嫌いがすべての原因だ。
細かいことまで詮索して知らなければ大事な動物を渡すようなことはしてはならないのだ。



大騒動するブルーごとキャリーで、ボクもどうしてもと言い張って隣の市まで相手の車についていった。ボクは変なやつらだと、言い続けた。

麻子は口を結んだまま、キャリーの取っ手を握り、ボクを置いてきぼりにするかのように彼らの後を走った。
細い路地の二階建ての家に来て、玄関を開けて麻子が入った。
ボクもやっと追いついて戸口に立って見回した。

「しばらく馴れるまでは決して玄関とか開けないでください。気をつけてください。馴れるまでは」
麻子は興奮して言った。

そしてボクが家の玄関の中に入ってドアを閉める前に、もうキャリーを開けた。
男達はぼーっと突っ立ていた。

そしてブルーは猫族のすばやさでたくさんの人間の足元を潜り抜け、開いたドアから暗闇の中に突っ走って出ていった。
ボクと麻子は絶望の叫びを上げただろう。ブルーは死ぬのだ。

もうクリスマスだった。寒い日々に飢えて死ぬのだ。

ボクは麻子を呪った。
玄関を開けたままの状態でキャリーを開くという、あんな馬鹿な真似をどうして出来るのか理解できなかった。

ブルーをほしがった男達はもう知らん顔をしていた。
どうしようもないのは明らかだった。むざむざと死なすのだ。
ボクらがそれでも、ブルーが走っていった方向へ歩いていると、案の定、というか流石にというか、暗い茂みの中から、聞き覚えのある若い声が聞こえた。

「助けて、どうしたらいいの」
「ブルーブルー、おいでよ帰るよ」
麻子がささやいたが、やってくるような関係は無くしていた。
しかしボクらであり、少なくとも呼びかける相手であるのはわかっているのだ。

麻子は両ほほを押さえて呟き続けた。
「どうしよう、どうしよう」
責任感と同情と憤りがボクを興奮させた。
ボクの怒声を無視していた麻子が静かに言った。
「ニャンコを連れて来よう、まだきっと母親の気持ちでいる。ニャンコとだったらブルーも何とか生きられる」

「そうだ、そうだな。えさはボクらで調達すればいい」
麻子は目を真ん丸くした。ニャンコともどもここにほおって置くつもりでいたらしい。
そんなことはさせない。



すぐに家にとって帰り、麻子にニャンコをキャリーで運ばせる。
言っておくが、ボクはどんどん潔癖主義がひどくなっていた。猫との生活のせいだ。
動物への責任とボク自身の潔癖との折り合いをつけるのは麻子だ。汚れ仕事は彼女がする。

ニャンコはひざの上に抱いて連れて行くのに何の支障も無かったろうが、それではボクが困るのだ。

そこは宮田町というところだった。坂のてっぺん近くに車を止めた。
念のためキャリーに入れたままでニャンコと歩いた。

すぐに、驚くほどすぐにブルーの声がした。
「ママ、ママ、ママ」
「どうしてここに? ブルー、おいでよ」

答えを返しているニャンコを放す。
ブルーは茂みから出てきて挨拶を交わした。
凍てつく夜だった。
坂の上には星空があり、片側はなだらかな公園になっている。

片隅に缶詰を出してやった。ボクは当然紙皿を準備していた。
そして別れた。明日の夜までは生きているだろう。

どうしたらブルーを捕まえることが出来るか。思案のしどころだった。
いわゆる猫おばさん仲間ともコンタクトを取った。
ボクとはまた違う理由から猫にかかわる人たちだった。
現実はしかし、彼らの案も経験も役に立たなかった。

毎晩、どうすることもできずに夜の闇に隠れるようにして、他人の住む区画を徘徊する苦痛と屈辱はたしかにきつかった。
これは野良猫の苦痛でもあるのだろうか。

ボクが置いておいた紙の皿に気づいた住人の無言の非難が感じられるときも多かった。
ニャンコは毎晩、同じところで待っていた。
影のようにやや小さな、ブルーが待っていた。

麻子はすべての責任はボクにあると思いたがっている。
この厄災に巻き込まれたのはボクの性格的な偏りのせいだと。
何でもいい、ボクの考えと対応には正しさと首尾一貫性がある。
寒い十日間を過ごした。

大きなケージに、ドアがうまく遠隔操作で閉まるように強い綱を結わえ付けた。
それを公園の隅に設置し、中にはおいしそうなえさを置いた。
ニャンコが入る、ブルーも入った。
麻子はふるえながら離れたところにいる。
ボクは数メートルはなれて綱を握っていた。すぐに迷わず引っ張ってドアを閉めた。


ところが尻尾が一本はさまりそうだったので力を緩めた。
カタリと音がしてブルーは逃げ出した。
麻子の、声にならない嘆息が聞こえた。

もうだめだ。ブルーがわかってしまった。
もういやだ、と思いたかった。しかしこのままで引き下がることは許されない。
ボクはしばらくじっとして様子をうかがった。

ニャンコがまだ食べているのだ。
小さな影が来た。何も変わっていないとわかったのだろう。母親のそばへ行って食べ始めた。ニャンコは出てきた。

迷わなかった。思い切りドアを閉めて綱でケージを巻いた。
一緒のほうがよかっただろうが、すでに余裕が無かった。
ブルーは悲鳴を上げ続けていた。猫は必死の時には恐ろしい声を出す。
虐待と思われても仕方ない状況だ。

車の後部座席にケージを乗せた。
ニャンコは残念ながらコーラの段ボール箱に押し込んだ。車の座席を動かれては後でボクが困る。
帰りの道は、遠かった。

ブルーの叫びを聞いて、ニャンコもかっとなったらしく、爪と歯を使って段ボール箱をバリバリにした。
家に着くやニャンコは壊した段ボール箱からひとりでに躍り出た。
ブルーは離されて闇雲に南の竹林に逃げ込んだ。

麻子はしっかりと段ボール箱を抱えていたので固まっていた。ニャンコにかまれないようにコーラの缶で裂け目のひとつから自分の手を護っていた。

みんなは勢ぞろいして出迎えた。おおみそかになっていた。

グレイはいつまでも子供のままのように見えた。ベロと同じほどの大きさだった。
ニャンコについで人間好きなのでそのうち啓治までもグレイを撫でるようになった。

ニャンコのややつりあがった瞳や、チビのまん丸な瞳とは違い、パッチリした眼をして、
「お願いがあるんだけどぉ」
としつこい声で訴えた。鈴の声とはいえなかった。

その毛皮はテンか何かを思わせるほどすべすべしていた。
「あんたが死んだら絶対毛皮にして残すからね」
「いいですぅ」
麻子の残酷な面をグレイはグルグルと受け入れた。
 
ニャンコは避妊されていたのだが、日が経つうちに落ち着きが無くなった。

第6章 交通事故( 1 / 1 )


以前にもそうだったように、道路と他のマンションとローソンのある北側のベランダから、ニャンコはボクらを呼んだ。特に夜に。

ドアを開けると入ってくる。何をするでもなく間もなく出て行きたがる。
出るや間もなく入りたがる。その繰り返しだ。

どうしたいのかわからなかった。ボクを連れ出したかったのか。ボクらは家族で、つまり彼女の子供達なので、訓練をしてやらなきゃとでも思ったのか。そんな衝動があったのか。
あるいはオス猫が相手にしてくれなかったのか。それはボクらにとって永遠の謎となった。

ある夜ニャンコがいつもの時刻になかなか来なかった。
ボクは夜中に外に見に行った。月明かりがあった。
マンションの敷地から石段を降りてみた。

そしてボクはたちまち白く光る道路に横たわる小さな物体を見たのだ。
車道の端にきれいな形で四肢を伸ばしてやや固くなっていた。
少し血が道にあった。死んでいる理由もわからないほど、眠っているかのようだった。ボクはしかしもう触らなかった。
死んだものには触らないと決めている。
気持ち悪いのではなく単に衛生的な理由からだ。

ボクはコーラの段ボール箱を取りに行き、タオルでニャンコをその中に入れて持ち帰った。麻子に言った。
もうベッドにいた麻子はうそ、と言った。
数日前ボクがそのうち車にはねられるだろうと、ニャンコの行動を非難したこともあり、とても真実とは思わなかったのだろう。
ボクだってとても信じられなかった。

北側の敷地に家族はもう揃ってそれぞれに隠れてみていた。
ボクも麻子も、この上はニャンコを埋めてやるしかない、と同時に決心した。

シャリンバイの茂みのうしろにボクが穴を掘り、麻子がぼとり、と箱からニャンコを落し入れた。

ベラが特に近づいてみていた。土を戻した。
少し離れたところに麻子が植えたクリスマスツリーの木がある。
墓碑のようだった。
 

まもない冬の朝、麻子はベランダがくさいのに気づいた。特別なくささ。
マーキングである。オス猫たちが大人になろうというのだ。メスはすでに準備が出来ているはずだ。

まずその第一候補は大柄の美人のベラだった。


ベラは怖がるでもなく、怖がらないでもなく堂々としていた。柔らくふかふかすべすべの真っ白い毛皮で。

ニャンコの事故死がまだ現実のものとして受け止められないでいたある日、ブザーを鳴らしたのは上の階に住む男性だ。
潜めた声で、
「駐車場にお宅の白い猫が」
「え」
「死んでます」

麻子が走り出て行ったところ、ベラが四肢を伸ばして硬直して横たわっていたという。
「車に轢かれたんですね」
とその男性が言った。

おなかの白い毛皮が少しよじれていた。ただそれだけだったという。
猫の命はあっけなくはかなかった。

今度は保健所に電話するという正しい方法がとられた。
たちまち引き取りに来るという。野良猫ならという条件だ。
黒いゴミ袋に美人のベラを入れておいた。
敷地の片隅においてあったのを回収係りの男はすぐに見つけ出し確認し連れて行った。


避妊手術代がひとり分減ったんだ、とボクらは笑わずにうなづきあった。
ボクはひそかに隣家の仕業ではないかと疑った。それを麻子に言うと案の定、ありえない、という顔でボクを見た。ありえなくはないのに。

それに、ベラはとりわけ母親の埋葬を知っていたから、あるいは自殺みたいなこともありうる、とボクはひとりで思っていた。

避妊に関して、残りはベロの心配ということになった。
ベロは部屋に入ってきてあれこれ求め、喜んで出されるものを食べるのだが、呼びかけるとハァイと、何度でも返事するのだが、ベロは決して自分に触れさせなかった。

ボクは遂に決心して、彼女が食べているときにむんずと体を上からつかんだ。
麻子がドアをすっと閉めた。キャリーが準備してあった。
「オーノオー」
とでもいうような叫びをあげてベラはボクの両手の中でもがいた。


ボクの両手いっぱいに、するするの毛皮と、その下の圧倒的な筋肉の動きが感じられた。
とてもつかんでいられない。

実にうまく、逃れようとして筋肉が次々に動く。
圧しつぶす覚悟でもなければ、あるいはひっかれても大丈夫なほどの手袋でもなければ捕まえて籠にいれるなど無理だった。

ボクの手から小柄なベロは逃れた。もうひとつの出口をめがけてまさに電光石火のごとく走った。
そこは無論閉めてある。

ベロは焦って南の出口に戻ってくる、しかも居間の壁を駆け上り壁沿いにソファを伝わり、まさに宙を跳んだ。
もうだめだ。どうすることもできない。
麻子が素早くそのドアを開けた。ベロはあっというまに脱出し、庭の向こうにある竹林へ走りこんだ。
ボクらはへたりこんだ。

その日、ベロはやがて戻ってきた。
グレイが挨拶した。しばらく二匹は顔掃除などしていた。背中もきれいに舐めた。

いきなりベロがゆっくり動き出した。
ポンと庭に下りる。まっすぐ竹林の前のスイカズラの茂みに向かって歩む。グレイも何となくついていく模様だ。
茂みの前でベロは振り返った。そして入っていった。

グレイも急ぐでもなく、何気ない風に茂みに入った。
見ていると二匹が出てくる気配は無い。そこに二人してとどまっているのだ。
ボクらはさらに決意を固め作戦を練った。

ベランダのサッシドアをほんの少し開けて、そこから紐を引いてキャリーの開き戸を閉めるという作戦だ。これはブルーを、例の男達の家に運ぼうとした時に、用いて成功した作戦である。

中に餌を入れたキャリーはベランダの壁沿いに据えてある。ボクは部屋の壁の影に隠れている。グレイが入り、ベロが入り、グレイは食べて出て行った。そしてついにベロがひとりになった。


彼女からわれわれの姿は見えない。静かに確実に紐を引くと、それに引っ張られてキャリーのドアが閉まっていく。

何回目かでやっと成功した。
すばやく紐を全体に巻きつける。ドアの上下にあるフックをかける。その時が危険だ。猫はすぐに仕組みを見つける。両手でひっかいてあけようとするのだ。

ベロはパニックで、ボクらはヒイヒイ言っている。
即、車の後部に入れる。捕獲は夕方でなければならない。
ボクが在宅で、獣医院がまだあいている時間だ。
「イヤヨォ出してぇ」
叫び続けるのをなだめながら走る。なだめても何の効果も無いのはわかっているが他にどうしようもない。

慣れた助手の女性が造作もなくベロを押さえつけて、爪を切った。医師が簡単に診察し、
「今日はこのままケージで保護し、明日手術しますよ、結果は電話で。また野良猫ですね」

カルテには一応武井ベロと書いておく。それでも医師の好意なので半額の費用で済むということである。これで女の子は最後だ。

次の日に見舞いに行った。ベロは声がすっかり嗄れてしまっていた。
小さな部屋には犬も鳥も猫も一緒に積み上げられていた。今回はそれきりで見舞いには行かなかった。ベロが喜ぶわけではなかったので。

一週間後に受け取りに行き、連れ帰ってドアを開けた。また竹林に逃げていった。しかしすぐに戻ってきて食べた。

ボクらは医師の言葉をかみしめた。見事に五つ入っていましたよ。
毛を剃った場所が回復したころ、麻子がマウスによるベロのレイプを目撃した。

ベランダに薄い板が、何のためかは不明だが、たてかけてあり、そこに身を隠すようにしてベロが座り込んでいた。
背後からマウスがとりついていた。長い間そうしていたのでベロは許さなかったのだろう。しかし抵抗するのではなく困った風に時々、
「やめて、お願い」
と言った。麻子はしばらくどうしたものかと眺めていたが、ほっておいたという。

第7章 グレイの災難( 1 / 1 )


この間に故ニャンコの子供達の存在が、他の猫を敷地のあたりに引き寄せていた。

猫たちの間に情報交換があったせいではないと思う。イヤ、あったともいえるのか。動物番組のいうところでは、猫族の匂い付けはお互いの間の情報源であるそうだ。

餌の供給場所の知識は最重要事項であろう。
シロ、最も古株のボス、毛足の長い人工種のミックスらしい。ここらからニャンコの遺伝子へとつながっているだろう。

クロ、真っ黒のはしこいオス、かなり凶暴である。
白黒混ざったこっけいな顔のメスはしたたかだった。足を引きずっているのだが狡猾に生き延びている。

ニャンコの姉妹のように見える若いメスも、ボクらがいない時にきっとベランダにやって来て皿の残りかすを食べたことだろう。

これらの間で当然追いかけっこがある。遊びではない。
特にチビとグレイはボスどもから追い回された。
何百メートルも全速力で逃げ回るのだが、体の小さいグレイはとうとう被害にあった。

連れ立って帰ってきて、餌を食べに部屋に入ってきた。
それは真冬のころだ。寒さに弱い猫を案じて、ボクはアパートに暖房のアンカを敷いてやった。敷くように麻子に命じた。
麻子は呆れていたが呆れている場合でもない。また、食べるとき、夜寒いときしばらく暖かい居間に入ってもいいことにした。

そんな時期の頃、ある昼間に麻子がグレイのお尻に赤い色を見た。
グレイの毛に覆われたもともと小さめのインノウがぱっくりと割れた中に、おそらく睾丸が濃いピンク色に見えていた。

グレイを捕まえなければならないと麻子は焦った。
普通何の問題も無くグレイは誰にでも掴まれてキャリーにも入れさせる。
獣医師のところへ予防注射に行くために、チビでさえグレイとなら一緒にキャリーに入って、車で運ぶ間二人でくっついて眠っていたこともある。

しかしその時は、数匹一緒に固まって竹林に横たわってしまった。
つまり、竹林に入ることが出来るのは、鉄条網をくぐることの出来る猫か、空を飛ぶ鳥か虫のみなのだ。


麻子が金網からのぞいてみると、グレイが傷口を舐めている。
そしてピンク色が見えなくなっているようだった。
取れたのだろうか。頭に血が上ったと麻子は言った。

ボクが帰宅し、一時間後には難なくグレイは医師の手の内にあった。
「睾丸は中にありますよ。でもまあ猫のことだから平気で噛み千切ってしまうって事もありえますからね。ついでに去勢しますか」

「ハイそうなんです、野良猫ですから。しかしもしできれば、人間のように精管をくくるだけってのはいかがでしょう」
と、ボクが尋ねた。テストステロンがないとオスは簡単に生存競争に敗れるだろうという持論から言ったのだ。

「それはちょっと。あのね、考えてください。猫の大きさは人間の赤ちゃんほどです。その精管をくくるってのは顕微鏡下の困難な手術ですよ」
医師はそんな無理な、という表情で言った。

結局グレイは玉無しとなる手術を受け、翌日には大きな傘を首にくっつけられて戻された。
グレイは養子とはいえ最も賢く我慢強い猫だった。
他の猫ならボクらもその後の療養を諦めたかもしれない。

しかしそれは見ていられないほどだった。

大き目のケージを買って、居間に置きその中に入れることになった。グレイは泣き喚きはしなかったが、無言でケージの中を駆け回った。大きな傘がすべての動きを邪魔した。

グレイの絶望をボクらは見ていることは出来なかった。ケージから出した。しかし、傘ははずすわけに行かない。傷口がくっつくまで。しかも鋭いメスで切った傷ではないので十日以上かかるだろうという。

食事をするとき麻子がその傘をかたむけて、皿を口に持っていった。グレイは悲しげに尋ねるように可愛い三白眼でボクらを見つめた。
「どうして、どうしてなの」
爪で体をかきたがり、舌でなめたがるグレイの代わりに麻子が手を使った。傘のこすれる首が辛そうだった。

夢中で撫でてやっていると、下腹を剃られたところに猫のペニスが見えた。ピンク色だ。ゴロゴロ喜んでいるときにはそれが明らかに勃起していた。
そんなものを始めて観察した。


最も困ったのはトイレだ。
グレイは家の中で大小便をすることを潔しとしなかった。ボクらは何らかの紙の上でやってほしい。

しかしグレイはそのために外に出たがる。
「出してよ、どうしても出してほしいよぉ」
ベランダの柵は傘より狭い。しかし上に跳びあがって外に降りるだろう。しかし一度外に出たら、柵にひっかかって入れない。
混乱して跳びあがる手を思いつかないだろう、或いは外に出たらボクらの手をすり抜けるかもしれない。
ボクらはただの無理解な悪者なのだから。

ボクにしても麻子にしても今回ばかりは次の手が打てなかった。話し合いはただため息で終わった。

一度、犬のような引き綱をつけて外に連れて出たことがあった。馴れていないとこれも無理ということがわかっただけだった。

麻子が新聞紙やプラスチックやらを、広範囲にわざとぐしゃぐしゃにキッチンに散らかしておいた。知らん顔をしていると、グレイはひとりでそちらに行った。
後で見るとそこにトイレとして使った跡があった。

つまりこれで、我が家は全域猫ハウスとなった。ボクには恐怖の館となった。
麻子もボクも猫を胸に抱いたことは一度も無い。ソファに座らせたことも無い。

それから、グレイの傘が取れても、寒さが強まると兄弟姉妹暖房の効いた人間の居間でぐるぐるするようになった。絨毯の一部は、今や猫のためのホットカーペットと化した。

ボクらは絨毯をスリッパで歩くようになった。
家具の足元はなんとなくマーキングの臭いがした。
スプレイするのを見たことは無かったが。

自分のかばん以外の家中のものに決して触らないように注意し、ボクはせっせと手を洗った。洗いすぎて皮膚が荒れた。

ドアノブや蛇口もティシュでさわった。麻子が家中を触っているからだ。麻子が必要であり、邪魔であった。


グレイは今や養子などではなく一番幅を利かせていた。といっても子供のままの小柄な気のいい奴だ。
一個だけ段ボール箱が居間には置かれている。恐れを知らないグレイを静かにさせるための箱だ。

四角な箱に丸い体を入れて四角な猫となる。麻子がネンネという。まっすぐにそこへ行き、舐めたりしているうちに眠ってしまうのだ。白いオス猫マウスが傍を通ると、片手を伸ばして
「ここだよ」
と合図した。他の誰もしないのに、グレイだけが食べている人間の足元で
「ちょっとちょうだい」
と請求した。


隣家でも確かに猫の被害問題が増えていた。
細君から電話がかかったり、庭で摩擦が起こったりしていた。
布団も干せない、などと電話があったとき、麻子が
「もちろん、お困りのことはわかります。うちだって布団は干せません。エ、えさですか。どの猫にもやってるわけじゃありません。責任上いなくなるまでのことです。エ、白黒のメス? あれは関係ありませんわ。そうですか。
じゃあ本気で捕まえるようにしますわ。エ、ペット禁止? ペットじゃありません。うちの所有じゃありませんから。第一この世界は、考えてみてください、
この土地は人間ばかりの所有じゃないですから。動物には動物の生活範囲がありますよ。人間が勝手に所有地を決めてますけどね」
と得意げに答えていた。

そんな理屈を誰が本気に取るものか、と思う。ボクの博愛主義とヒューマニズムと動物愛護精神は麻子のこんなとってつけたような理屈とは根本が違う。

いずれにしろしかし、ここは共同で対処しなければなるまいと思った。
「問題は他のオスとメスだ。彼らを始末しなければ結局ボクらのせいにされる」

東天
作家:東天
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