猫坂

第2章 チビ登場( 1 / 1 )


二週間過ぎたころ、ニャンコはベランダに戻った。
お腹は元に戻っている。体は小さくなった感じで、単独だった。
がつがつ食べると、ちょっと寝かせて、と言って休んだ。
「子供はきっと死んだのね」
ほっとした様子で麻子が言った。
以前のように日参するようになってまた一週間過ぎた。

ベランダの前には雪柳、そして葉の広いあじさいなどが、心沸き立たせるような色合いと勢いで、
しかし、自然のままに雑然と繁茂し始めていた。
 
宵のうちもすぎ、小雨になって、闇がしっとりと下りてきた。
ニャンコが、フニャッと声を発しながら、
「よいっしょっと」
と元気にボクらのベランダに跳びあがった。一階とはいえ高さは一メートル半近くある。
そのころは暖かくなったので再び、入り口より五十センチ以内の法則が施行されていた。
麻子は身を乗り出して、ニャンコのすべすべした茶髪の頭を撫でていた。
「はっ」
と彼女が息を呑んだ。ボクは間髪いれず
「なにっ」
と糾した。


麻子はなんとボクに返事もせず、つっかけも正しくはかずに、ベランダの柵の下を見にすっ飛んで行った。
「子猫か?」
「声が!」
彼女が指差すあじさいの茂みから、か細い澄んだ音が二回聞こえた。

ニャンコはぴょんと跳び下りた。
駆け寄ってきたのは小さな猫の姿。一匹だけだ。

ボクたちは喜びを感じた。たとえば蟷螂や蜘蛛の子が増えてもあまり嬉しくないだろうが、
理性を働かすまもなくすでに嬉しさに襲われてしまった。

「わ、どうしよう」
麻子は子猫救出作戦にすでに頭を働かそうとして、それが人間には無理だと思えたのだ。
ニャンコが口にくわえて跳び上がるには高すぎるし、足場も悪く、子猫はもう重たすぎるかもしれなかった。
人間が近づいて抱き上げられるか、自信が無い。
麻子はニャンコすら抱き上げたことはないのだ。

突然麻子が行動を起こした。頭が回転し始めたらしい。
ボクがパソコン室のために試しにあれこれ買って、結局とりあえず使わないものが、ベランダにたまっているらしいのだが、そのひとつがメタルシェルフの一枚の棚で、これを地面とベランダに立てかけると梯子のようになる。
つまり階段ではないのだが桟が並んでいる。

そしてそれは実行してみると、角度といい、茂みに隠れる具合といい、誂えたように暗闇の中に光っていた。

ニャンコは、驚いたことに梯子を登るほうが楽だということを知っていたらしく、あるいは好奇心からかもしれないが、たちまち駆け上ってきた。

「ニャンコ、ちびちゃんは?」
と言う間もあらばこそ、今度は子猫も駆け上がってきたのである。
麻子は有頂天になって、吾を忘れて夢中になって、しかし隣人をはばかってささやき声で、
「ちいさぁい、まあっかわいいっ」
と叫んだ。

ボクにもその姿は無条件に愛らしさを感じさせた。
結局一匹しか来なかった。自動的にチビと呼ばれ始めた。


仔猫は、その色も顔もきれいな尾もあのじいさんに生き写しであった。
こんなにもそっくりであることから、ボク達の推測ではニャンコの父親がチビそっくりのあの茶色さば猫であり、同時に彼女を妊娠させた張本人である。

だから、チビにとって父であり祖父であるのだ。
彼の外見がどちらかといえば成熟した感じだったので敢えてじいさんと呼んで違和感が無かった。
と言っても、チビが来てからの命名である。
それまではあいつとかあれとかボクは言ってた。
もう姿を消して長かったので、じいさんと呼びかけたわけではない。
 
チビはひとりで六つの乳首を独占し、すくすくと成長した。
母親はグル、という優しい音でチビを呼び寄せおでこを軽く舐めた、空気のように軽く。
チビはより澄んだより甘い音声で応答した。

すでに遊び盛りだったので母親の長い優美なしっぽをおもちゃがわりにして、まとわりついて遊んだ。
ボクはつい、猫のおもちゃなど購入した。麻子にそんな主体性は無い。
「またぁ、やりすぎ。缶詰もそんなにぃ」
と反抗するが、まもなくボクに従っている。

釣竿のような先にぶらさがったねずみ様のものでチビは遊ばされた。
チビはねずみに夢中になっているが、なかなか捕まらない。
流石に猫も知恵があるもので、ねずみと棒を操っている麻子の手元を押さえにかかった。

そんな遊びの時間はしかし短いし、稀だった。
母親が間に割って入ってくるのだ。
怒っているのでなく明らかに自分に注意を向けさせようとしている。
あるいは低い音で警戒する。

チビは母親の警戒音が頭に刷り込まれてしまったかのようにさっと遠ざかる。
丸い顔に丸い眼をしていた。一度も撫でさせなかった。
ニャンコがやきもちを焼いていると解釈することも出来る。

ボクが部屋の中からベランダに首を出してそう言うと、麻子はニャンコのピンクの三ミリほどの乳首を検分しながらムムと言っていた。

「どうなんだろ、わからないよ。チビの態度についてだけど、生まれてほんの数週間しか人間に馴れるチャンスはない、とか読んだけどさ」
「じゃやっぱりニャンコは飼い主が捨てたんだ。誰か無責任な奴が」
麻子は不意打ちを食らってまたムムと言った。
 
言い忘れたが、チビはオスだ。とりあえずは良かった、と麻子は言う。


「でも、去勢しなきゃ」
「あ、だめだめ。たとえそこら中のオスを去勢しても一匹いれば増えちゃうだろ」
「エ、しないの、常識でしょ」
「理屈を考えろよ、そんなの無駄だ」
「じゃ、ニャンコはするよね」
「それが論理的だよ。ただ、今はまだできないだろ」
「チビが母親を必要としなくなったころ?」


チビの体がニャンコとあまり変わらなくなった。
それでもしっぽをおもちゃにする。ニャンコは不快そうに
「やめなさい、うるさい」
と怒りを見せた。

少し前までは、ベランダにさっさと上がってきて
「ただいまぁ、開けてぇ」
と叫ぶニャンコに、麻子が頭を撫でてやりながら
「ニャンコ、来たの。チビは、チビチビは?」
と決まって尋ねた。
ニャンコは、あ、そうだった、みたいに、ベランダの下をのぞきに行く。

グルルと短く呼ぶ。チビが来る、と言う手順だった。
チビは人間が怖い。
ニャンコが怖がらせているともいえる。
そもそも臆病な性質もあったのだろう。
嬉しそうに尻尾を高く上げることが無かった。
いつも水平か、それより下に長く伸ばして目立たないように、茶色の影のように動いた。

次第にニャンコとチビには別々の行動が増えていった。

南に広がる竹林からこのマンションの敷地ぎりぎりまでが白猫ボスのシロのテリトリーらしかった。

北側の道路を下ったあたりにニャンコも出かけていくが、そこのボスはどんな奴か麻子も知らない。
 
マンション入り口近辺、北庭に面白いことが起こるようになったのは、チビが完全に乳離れしたころのことだ。

毎朝ハナミズキの下あたりの柔らかい土に、美しい富士山のようなものが三センチほどの標高で出現していた。
週末にボクがキッチンのサッシ窓から見ていると、そうとは知らなかったのだろう、庭にいた麻子がウーとかエーとか唸っていた。

ちり紙でドアを開けてボクは、
「おい、麻子」
と声を低く響かせて言った。
麻子はうろたえたのを見せまいとしたかのように、
「ほうき目、がね、つ、ついてるんだよ」
どもりながら、右手の指を引っかくような形に作った。

そしてついにある朝現場をおさえた。


毛並みに光沢のある完璧な美しい姿の猫、チビが自分の排泄物を隠していた。
左右の手を使って念入りに土をかき寄せて、盛っていた。
精密作業にそんなに没頭していては却って危険ではないかと思うほどだった。
耳を不快そうに後ろ向きに寝かせて、まじめな目つきで必死に作業していた。
ボクは少しばかり、自然の為す技に感嘆した。

一方、南の庭の、枯れ草を集めておいた場所には、堪らないような悪臭の元が出現していた。
隠すどころかこれを見よ、とテリトリーを宣言していた。
シロのうんちのとぐろだ。
これだけするには余程たくさん食べねばならないだろう。

才知と体力なくては食糧確保の権利は得られない。食べられるのがボスのボスたるゆえんである。
臭い。ひどい。居たたまれない。
チビにとってもそんな居たたまれなさがあったのだろう。猫社会の掟だ。

チビはわずか月齢六ヶ月ほどで姿を消した。

母親が寄せ付けなくなったことも掟の意味だったのだろう。
ニャンコはまた、暇になり気儘にのうのうと暮らし始めた。
しかしあの鈴をふるような声ではなかった。がらがらになっていた。チビを連れてきたあたりからそうだった。

すぐに二匹とも獣医に見てもらった。レントゲンや予防注射。風邪薬。
そこへ行くのも、駐車するのも、支払いも大変だった。ボクは適当なキャリーも買った。
まったく問題ばかりで、腹立たしかった。ニャンコの枯れた声は二度と天使の声には戻らなかった。

猫坂はでこぼこ道だ。我慢と人道との間を走る下り道だ。
 
ここいらは結構野原が多い。小鳥の雛とか、小動物もいることだろう。
「猫おばさん」もいることだろう。ボクらはそう思ってチビの旅立ちを明るいものと捉えていた。

「どうしよう!」
その数日後の夜、麻子が口癖を連発していた。
ボクはビールを楽しみに一日働いているので暗い話題は避けたい。ボクが話題を持ち出す分にはいいが。

麻子は青ざめている。悪い予感にイライラが募った。
「ナニ、どうしようって!」
麻子は一語一語ボクの顔色を見ながら区切って言った。
「あのさ、今日気づいたんだけど。色々毎日あれこれ気が散ってて。心配はしてたんだけどさ。ニャンコね、もうさ、お腹が大きいみたい、なんだよ」
ボクは混乱した。


考えなかったわけではなかったが、ニャンコにも麻子にも先手を打たれて負けが決定したような気がした。
これは自己防御なのだが、まずは麻子を非難するのだ。
窮鼠猫をかむ、だ。

「お前がめそめそしてるから、猫でもどうかって気になったんだよ、ボクも。お前さえしっかりしてたら猫なんかに餌やらなかったんだ。猫は苦手なんだ、ボクは。それを我慢してだよ。お前のせいだ。どうしようはこっちの科白さ」
と、ボクは勢いに任せて、いろいろな汚い言葉を混ぜて罵った。

麻子も長年の訓練でこんな罵詈雑言には、対抗して馬耳東風を決め込んで、次第に落ち着きを取り戻しつつあった。
そして平然と意見を述べた。
「ついでだから避妊手術するしかないわよね」
「それは許されないっ」
「なんでなのっ」

眼をかっと見開いたたままの麻子を見据えながら、ボクは一層眼力を入れて主張した。
「猫殺しにはならない! お前は平気なのか。責任を放棄するのか」
「どんどん増えるのよ、近所迷惑になるわ」
「断じて許さない」
ボクは正しい。いつも正しい道を選択する。

麻子は諦めたのか、あるいはボクに責任をかぶせることに決めたのか、そのあとは何時間ボクが理路整然と説得し続けても、確たる反応をしなくなった。聞き流していた。
 
チビが家出してから、十日ほどたっただろうか。
何とかやっているんだろう、何といっても野良猫だ、と思っていた。そういう間にチビは帰ってきた。

その姿を見てボクらはショックを受けた。骨と皮だった。
体力がなくなったせいで細菌にも負けていた。遠くに行ったのだろうか、命からがら古巣に戻らざるを得なかったのだろう。
チビなりのサヴァイヴァルの手段だ。声も濁って、
「ごめんなさい、助けて」
と言った。

ニャンコはどう思ったのかわからない。不機嫌ではあったがチビとの関係は覚えているらしく、わりとすぐに受け入れた。
それも少々ボクを驚かせた。


初夏となり、夏へ向かってわれらが地球は爆走していた。
チビを人間から遠ざけようとする母猫ニャンコの関心が薄れていくと、
ボクらはチビをグルグル言わせられるようになった。


彼の怖がりが失せたわけではない。ベランダから部屋へ一平方メートルだけチビが侵入してくる。
チビだって好奇心は普通に持ち合わせているので隙さえあれば入ってくるのだ。そしてボクが隙を見せているとは知らずにいる。

すばやくドアを閉めてしまう。大慌てで戻るがすでに遅し、ガラス戸にぴったり身をはりつけて、
「怖いです、出してよう」
と騒ぐ。

ボクは優しく優しくその柔らかな毛皮の背を撫でてやる。チビは怖がりながら、例のグルグルの共鳴音を発してしまう。
ボクの愛撫から逃げるにはあまりにも心地よいと見えて、進退窮まったまま、
「じゃちょっとですよ、ああグルグル」
と伸びてしまって固まっている。眺めていた麻子も猫の変態ぶりにあきれた。

そのうち麻子自身もこの変態遊びに参加出来るようになった。ただし、チビはもっと追い込まれてしまう。

入り口の脇にある椅子の下にもぐりこんで、そこの壁にはりついて、そこが進退窮まった場所となる。麻子は腕を出来る限り伸ばしてチビにやっと触る。

人間の顔は椅子でほとんど隠れていて、腕のみが猫を撫でている。チビは逃げたいのに逃げられなくなって、困ったことだと思いつつもかなりの共鳴音を鳴り響かせた。
体はちぢこまったままだ。

ニャンコなら触ってほしいところへ手が届くように自ら動く。
犬のように顔をなめに来るわけではない。
しかしほとんど触れるほどに口を口に近づけたりする。
決して触りにくるわけではない。匂いを嗅いでいるのだろう。
猫族に特有と読んだが、口の周囲にある特別な匂いの器官でもって。

丸い顔、丸い眼の弱虫トラ猫とボクらが、理想的な外猫付き合いをしているころ、隣家の庭はほったらかされて冬以来枯れたままであった。
チビの格好の昼寝の場所となっていた。

その家の夫君はホステスと深い仲になったという噂だった。

第3章 五つ子誕生( 1 / 1 )


奥さんは家にこもっていた。夫は時々帰宅した。
「お隣の奥さんね、駐車場の車の中で座ったっきり、変だったわよ。ずっと座ってるの」
と、麻子が少し暗い調子で告げに来た。

他人の不幸は何とかというが、毎年美しい庭作りに精出していたお隣の細君が庭を手入れしないのはどんなに幸いだったか。


八月初めに、ついにそのときが来た。

しかもこともあろうにニャンコが、隣家のバルコニーに子供を運んできたのだ。
しかも五匹も無事に育っていた。
しかも隣家の川口氏宅では事態が好転したらしく、もはや夜遊びは止んでいた。

庭を見回っていた川口氏は、機嫌のいい笑顔で
「可愛いですね」
と麻子に言ったという。
ボクと麻子の間柄は元々非難合戦の敵同士というべきものだったのだが、とりあえず協力してこの事態に対処する必要があった。

「そのうちどこかに運んでいくさ」
「そうかも。でもうちの責任だし」
「飼っているわけじゃないぜ。責任なんかもてないよ」
「え、そう思うの。増えたら困るし、今のうちに保健所へ」
「ごめんだ! ガス室はだめだ。安楽死なら別だけど」
「きっと高くつくよ。ニャンコも今度こそ早く手術させなきゃならないし、増えたら近所迷惑よ」
「近所が何さ、猫をそもそも捨てた奴の責任じゃないか」
「じゃ家の中で飼う?」
「とんでもない。猫は結構ひどい病気をうつすんだぜ」
すでに急坂である。

麻子はお手上げという手付きをした。ボクには意見と方針を変えるつもりは毛頭無い。

麻子はしかし迷わなかった。彼女の従順と恐怖がつよく働いたのだ。世間的な思惑。
他人がどう思うかを第一に考える。それが習い性となっている。
自分の原則なんかあったもんじゃない。

その日の夕刻、隣のバルコニーの所に這いつくばって忍び寄り、サササッと五匹の子猫を箱に入れて奪取したのだという。
この行為によって、実は川口家はそっと見ていたらしいのだが、この行為によって麻子は自分に責任を引き受けたのだ。
そして責任の果たし方も心積もりしていたのだ。

だが、ボクがいる限り麻子の計略は阻止する。


それはただの毛のかたまりだった。五分の四強は白色だった。残りは茶色に少々黒色が見えた。

ニャンコも白が多いが、ここまで白が優勢だということは、ここいらのボス猫シロに犯されたのだろう。
「じいさん」とはどうなったのか。

生物ってのは、とボクは言葉にせずに言った。麻子がそばにいなかったからだが。
こんなにせっせと子孫を残すか、それ自体が自己目的化してるな。

ニャンコは、チビのときとは異なり、実家に戻ったのんきな娘みたく、ボクらが検査のためにくにゃくにゃした暖かい毛物を触ったり鳴かせたりしても意に介さない。

麻子は雄雌を確認しようとやたらに裏返したりすかしてみたりするのだが、三毛猫が雌だという意外どうもはっきりしなかった。
猫のペニスがどこにあるか見たことも無かったし、陰膿も膣も発見不能だった。

もう眼は開いていた。保護するために眼球を覆っていた細胞が、指令を受けてアポトーシスを起こしたのだ。
一文字に皮膚が割れた。青みがかった虹彩がきらめいていた。
「ああ、やっぱり。白い猫たちは遺伝的に病弱なのよね。目の周りも鼻の周りもさ、乾いたり湿ったりした分泌物が汚らしくこびりついてて」
と、麻子は勝手な解釈を加えた。

「拭いてやったら」
「ニャンコがなめてやるわよ」
なるほどそれもそうだとボクが思ったのも珍しい。子育てに関しては麻子に一目置いている。

北側のベランダには、皿洗い機の置き台が長年放ってあるのだが、その下半分は開きドアつきの物入れになっている。
バスタオルを入れてやると、ニャンコはさっさと中に入り、どっと横になった。

綿毛たちをそこに入れると我先に白い柔らかくおいしい毛の中へと鼻面をすりよせ、とりついていく。
なにひとつのとどこおりもなく進んでいった。
ニャンコは満足満足とばかり、のどを鳴らし続けた。

合計十個の瞳がしっかり物を捕らえだした。
毛玉の中からそれぞれ四本の歩行器官が独立してきた。
それぞれに五個の爪がついている。
それらの四肢を踏ん張って立ち、とりあえず無意識無方向に動かすと見えているものへ近づいていく。
少々の高低は這うようにして、超えていくことも出来る。


「あのね、凄いよ。今日サ、はっと気づいてお皿に草花用の土を入れてね、ねぐらから一メートルのところに置いてみたら、なんと一人一人来て、二人一緒ってこともあったけど、トイレにしたのよ。凄いよね。今までどうしてたんだろ。ニャンコが食べてたのかな。みんな待ってたのかな」
麻子の興奮した報告。
ボクもフーンと感心してうなる。

生き残りのレースを勝ち残ったものたちは、賢い。お行儀がよい。

ニャンコは時々外出するが、帰ってくると、チビのときも発声していたやさしくかすかな喉の音を聞かせる。
「ただいま、ママだよ」
子供達は溢れるようにママァと叫びつつすりよっていく。
ニャンコはひとりずつ額をペロリとなめる。それから気のむくままに毛玉をしっかりなめて、汚れや何かをとる作業に入る。母も子も満ち足りていく。
 
ある夕刻、麻子がキッチンのサッシドアを開けて様子や如何にと首を伸ばした。
ニャンコはいなかった。

子供たちはちょうど目を覚ましていたのだが、彼らの住まいから全員ダッシュして出てきた。
大声で叫びたてる。全員がガラス戸のはめてある高さ十センチ近いしきいを超え始めた。

麻子が叫んだ。連中を部屋に入れたことはまだ無いのだ。
ボクも見に行った。
三毛がもう部屋に降り立っている。麻子はあわててそれをつかみ外に下ろした。
その間にシロ一号が入り込んだ。麻子はそっとそれをつかみ、外に下ろす。

その間にシロ二号と三号が同時に入り込んでいた。
この二匹を一匹ずつ出す間に、シロ四号と三毛はもう室内に十センチほど進出していた。

麻子はワアワア声を出しながら、両手で一個ずつつかんで外に出す。その攻防は果てしなく続いた。麻子は劣勢だった。二対五では勝ち目は無い。

相手は一度の経験からすばやく学ぶ。二度目はよりすばやく効果的に動くのだ。
とうとうボクも手を出し、人間二人してやっと綿毛たちを外に置き、エイヤッとドアを閉めることに成功した。

すりガラスの向こうで五つの影が可愛い鋭い音を発しながら突進し続けている。
彼らはたちまち人間の家中を走り回るだろう。恐ろしい。

そしてその姿は残念ながら可愛かった。人間がなぜ動物を可愛いと思うのか。
ついでに質問すると、何故麻子は草花を美しいと思うのか。


翌朝は、日光のさんさんと射す日曜日らしい日となった。蒸し返すような日中の暑さがやや間遠くなっていた。

麻子が段ボール箱を抱えて、かなりのスピードで居間を横ぎり、器用に足先でガラス戸をあけた。ミーミー声がする。その箱をベランダに置いた。できるだけ手すりの近くに。

麻子は今度はすごい速さでボクの目の前から走り去った。廊下から玄関をダッシュで出て行った。
入り口のドアがバーンと尾を引いたが、もうそこら辺にはいない。
案の定南側の庭へ足音が走りこんできた。

子猫たちは一部は箱から這い出してどうしたことかと叫んでいる。ニャンコがどこからか庭に現れた。

ボクが窓辺から見ていると、麻子は気をつけて一匹ずつつかんでは手すりの桟の間から外へ引き出し、
庭の雑草の中に置いた。なかには抵抗するものもいて、危うく頭を打ち付けそうになったりするのだが、
そのうちにミッション完了という感じになった。

「日光浴よ、ずっと北側じゃね」
麻子は小声で言った。

初めて踏む土と草である。草の茎に鼻をつけて確かめ、時々尖った草を踏んで、前脚を上げてぶるぶるっと震わせたりしながら、みんな無闇と動いた。

全員のしっぽが見事にそろって、槍のように立って動いていく。肛門が丸見えになっていて感慨深い。
ニャンコも多分嬉しいのか、それぞれのこのおでこをいつものように一舐めずつしてやっている。
子猫のほうが母親へ挨拶に行っているのかもしれない。
それにしても、ニャンコの我々への信頼はかなりのものだ。

麻子は彼女の理想の庭が完成した、というような顔をしている。
彼女の庭といっても、好きな樹木が二,三植えてはあるものの、全体は自然に任せてあるので、庭とは程遠いのだが。

隣家の庭のベルサイユ宮殿的眺めと比較するととんでもなく見劣りする。もっとも、ボクは興味ないのでどっちがどっちでもかまわない。

隣家の細君は以来今も庭をかまわないままだ。
それから面白いことが起こった。

しばらくすると、ニャンコは一匹を口にくわえて北側まで持って行った。



サ、帰ろう、みたいな感じだった。麻子は了解して手伝おうとした。庭でうろうろしていた残りを、ひとりひとりわしづかみにして、ベランダの柵の間からまずベランダ内に差し入れる。
抵抗したりすぐにまた端に出てきたりちょっとした騒ぎだ。

四匹ベランダに揃ったと見るや、麻子は猛スピードで庭と建物を周回し、激しく玄関から入ってきた。
今度は2匹ずつわしづかみで北側のベランダに出した。

ボクはあれこれ注意しながら注意深く監査役をしている。全員元の住処に入った。こちらも一息つこうとする。

数分後、キイキイ叫ぶ声が南のほうから聞こえた。
ボクらはとても驚いて外を見た。ニャンコだ。
くわえてきた子猫が痛いのか何かで騒ぎ出したのを困った様子で地面に下ろしたところだった。
それから気を取り直してくわえ直すと、子供をぶらぶらさせながらはしごを軽く上ってきた。

「ニャンコぉ?こっちがいいの!」
麻子はすぐに迎合する。相手の言いなりになる。ボクには抵抗するくせに。
「暑すぎるんじゃないか」
とボクは言った。が、麻子は強く言った。
「南がいいと思いなおしたの、ニャンコ」
これはもう決行しかない。ニャンコを説得することなんかできやしない。

麻子はまた手伝いだ。人間の手はやはり便利だ。くわえて持ち運ぶより効率はいい。
ベランダの隅にあった例の椅子のアパートは彼らに与えられた。

ボクはよく考え抜いてから、便利そうな砂箱を買った。尿臭さを吸収するパッドをいれ、木屑からなる砂を入れるのだ。

麻子がざーっと勢いよくこぼすと、子猫たちがぞろぞろわいわいやってきた。みな嬉しそうに尻尾を立てて代理母を声高に呼ばりつつ。
そしてなんとしゃがんでいる麻子の体の下にまず入って挨拶するらしい。礼儀正しく、利口で清潔な猫族だ。

それからひとりふたり、決して押し合ったりせずに、
毛先が軽く触れるか触れないかの距離を保ち、しゃがんでおしっこをした。
うんちをすると、踏まないように気をつけ、何か足につくと、神経質にその脚を上げてぶるぶると振るのだ。

ところで、困ったことに五匹のうちメスは三匹もいた。白いのが二匹と三毛猫。三毛猫はメスと決まっているわけで。

これらがまた、完璧に美しい猫たちだった。



真っ白のひとつはベラと麻子が名づけた。イタリア語のbellaだと主張した。
もうひとつもベラと名づけてしかるべき同じ完璧さだったが、やや小さく、頭に黒い点がひとつあった。それを欠点としてペロと麻子が名づけた。

「この三毛猫の可愛い顔見て。眼の周りはアイライナーでかいたようにパッチリして。それに好奇心旺盛で、ひとなつっこくて賢いよ。なんてつけよう」
麻子は感激して浮かれてしまって、
「そうよねえ、これはウランちゃんだわ、アトムの妹の」
「えーっ!」
と横槍を入れたのは啓治だ。いつもボクらの猫騒動を苦々しく無視していたのだが、ちょうど部屋から出てきていたのだ。

「そんなの変だよ。ウランちゃんなんで馬鹿と違う!」
と理由はいわずに反対した。
「そうかな、それじゃ。ええと、じゃリボンちゃんじゃどう」
「よくそんなアホなことばかり考え付くな」
と啓治はもう立ち上がっている。それでリボンちゃんに決まった。

ボクは麻子の命名力には呆れている。
ニャンコというのからして全く力が入っていない。

残りのオスの大きいほうは青い目をしていたのでブルー、もうひとつはやや小さかったのでマウスである。猫にマウスとは恐れ入る。

ブルーの眼はある日青色が消えた。
この兄弟は白猫の弱さを露呈していて、すぐ風邪を引きズーズーさせていたので麻子は間もなく死ぬと思ったらしい。
そんなことを匂わせた。

うちのペットになるとは考えていないので、単なる符号である。
 
チビはどうしていたか。
餓死寸前で帰って以来二度と自立しようとはしなかった。弟妹と遊んでやり、ニャンコの留守中には子守をした。
ある日麻子が珍しく目を丸くして報告した。

「猫の乳首は6つあるんだけど、それをみんなで吸ってたの。驚いたのなんのって。聞いてよ」
「みんなって、5匹がかい」
「チビよ、あの子も一緒に吸い付いてみんなでゴロゴロいいながら眠ってたのよ、信じられる? ニャンコも知らなかったのね」
「チビはもうニャンコより体大きいだろ」
「だからぁ、そのおかしいことといったら」

ボクらは大いに笑った。時には二人して笑う、そんなこともある。
しかし次にはもう衝突だ。


「そろそろニャンコに避妊手術させなきゃと思うんだけど」
「そうだね、仕方ない」
「チビにもさせなきゃ」
「チビは問題だ」
「えっ」
「去勢してもどうせ他所から別の猫が来る」
「え」
「それにチビは去勢されたら生き残れない」

麻子の計画をつぶすことが出来た。ボクの正論には本当は弱いのだ。早速実行しないと危険だった。

ニャンコは素直にキャリアに入って何回か鳴いたが、ボクらの声を聞くと黙って運ばれた。悲しいほどに信じていた。医師の手に手渡された。

人間は一週間で帰ることが出来ると知っている。
それを知らないニャンコには絶望的な運命であるはずだ。
「捨てられていない、とわからせるよう毎日餌を持って病院に行こう」
「えっ」

麻子はここ数日焦ったり諦めたり沈んだりしていたが、ボクの言葉にまた眼をむいた。
「可哀想だよ、捨てられたと思うから」
アホな、と麻子は呟いた。
「そこまでする?」
「そこまでする」

ボクは毎日、仕事が済むと見舞いに麻子と行った。
医院の扱いをチェックする気持ちもあった。
ニャンコはおなかを剃られ、そこに大きなテープを貼られていた。
小さな檻には尿パットと水の容器があった。出してもらうと、
「やっと来てくれたのね。会えて嬉しい」
と、体中をよせてきた。ボクらは夢中で体中を撫ぜてやった。缶詰を元気に食べた。
七日間通った時、家に連れ帰った。

玄関から居間をとおり、南側のベランダのドアを開けるとみんなが集まっていた。ニャンコはそれぞれの額をペロリと舐めた。

おでこが差し出される前に自分から順番にそうしたのは、如何にも懐かしがっているように見えた。六匹の子供達も満足しているように見えた。
ひとまず山は越えた。
 
夏に生まれた子供達を今後どうするかと決める間もないころ。

アメリカンブルーの花がひとわたり咲き済み、カットされた鉢の中で、再びこんもりと、緑の新芽を伸ばし始めたとき、ボクが帰宅すると、麻子がベランダに呼んだ。その鉢の中が真っ白になっていた。

白い子供達が柔らかくひんやりした丸い緑の敷物を押しつぶして、おしくらまんじゅうのように詰まって眠っていた。

第4章 グレイ登場( 1 / 1 )


「なんだこりゃ」
とボクも思わず反応してしまった。麻子は大事な鉢の新芽を押しつぶされて、ニコニコしている。どこまで自分の無いやつなのか、とチラと思ったが。

鉢に被害はない。重石が取れるとまた水をもらって復活した。
もっとも翌日にはニャンコまで重なって乗っている始末だ。しかしそれで彼らの好奇心は満たされたらしく、アメリカンブルーは災害を逃れて、二度目の開花へと向かっていった。
 
母猫の仔猫遺棄行為は、ニャンコに限ってはこんな次第で遅れていたと思う。
しかし世の中の猫の仔は生死を賭けて戦い始めていた。ほとんどは病死餓死カラスの餌食という運命を辿るのだろう。

そんな時期に、あきらかに白猫たちよりも小柄な灰色の鯖猫が現れるようになった。夕方それがグループの中に紛れ込んでもわからないこともあった。

或いは誰もいないときに
「こんちはぁ、僕ですぅ」
としつこい声で呼んだ。知らん顔をしているとすりガラスの上の透明な部分から覗こうとして、網戸に跳びついた。そこで止まって、頭と耳と眼を傾げて、じっと見つめた。

網戸を心配して人間はついドアを開ける。
「何とかお願いしますぅ」
と頭をすりつけてくる。口も押し付けた。
まっすぐな瞳に意思がはっきり見えているタイプだった。
勿論グレイと名づけられた。

ボクらがグレイの必死さを受容しても、同属の態度次第なので、麻子は監察官となった。どうもグレイはこの特殊なベランダの仲間になるには、ひとりひとりと対決しなければならないようだった。

体の大きい順にグレイは一騎打ちを強いられる。
ベランダから決して逃げずに、隅に追い詰められて、おなかを見せて寝る体勢となり、
降参降参と叫ぶまで我慢して持ちこたえる。

その叫びは断末魔の叫びもかくやと思わせる。
それを聞くと相手はもう攻撃への興味を失うらしい。

すべての相手に対して、グレイは降参を叫ぶまでの緊張を耐えた。根性があった。

オスの養子となった。みんなと仲良く訓練をし、最も賢く利口で人格があった。

ある時ボクにねずみを持って帰った。話に聞いていたことが実際に起ころうとは! 
グレイは、さあ、というような下からの視線でボクをじっと見た。
「おみやげだよ、あげるよ、どうする?」
ボクはこれをどうすることもできないのでそのまま有難うと放って置いた。最後には目だけ残して食べつくされてあった。


人も猫も一族郎党つつがなくこうして生きていたわけではない。
グレイが押しかけてきたのは何とも是非の判断は難しい。
前足をそろえてチンと座り、三白眼で見上げてお願い、と言っている孤児の姿は哀れに思われた。

のんきな白猫兄弟がグレイを受け入れて遊び仲間としたのは、ライオン並みの進化の知恵なのかもしれない。
 
こうして右往左往している間にも、猫坂の下りは、実はすでに始まっていた。

一家がアパートを南側に引越しして、子猫たちがベランダにかかった梯子を自由に上り下りするようになると、麻子の好きな砂箱掃除が不要になった。

砂を変える気配を察するやいっせいにヨタヨタ出てきて、自分の尻の下で待っている子猫を感じるのは、そりゃ、かなり印象的だったと思う。

しかし今や、彼らは自由な野良猫として自然をトイレとしたのである。
まだ遠くには行けない。自宅から少々離れた、便利な便所。

お隣の庭は、夫婦仲の改善とそれに伴う細君の回復を見る間に反映してきていた。
枯れ草や雑草が消えて、黒々として土が入った。

目隠しの杉の立ち木の根元をお宅の猫たちがトイレにしていると、細君がうちに言いにやってきた。
「すみません、奥様は猫が大嫌いってはなしでしたよねえ!」
と麻子が低姿勢で応対した。
「この前から奥様が庭に出ていらしたので、困ったなあと思ってたんですが」
「ええまあ。で、どうするおつもりですか」
「すぐに保健所にもって行く予定だったのですが。
主人が毒ガスで殺すなんてもってのほかだって言って」
「餌をやらなかったらいいのでは?」
「どこかもらってくれるところを急遽探します」

「うんちがくさいんですよ。朝食をバルコニーで摂っているときに特に」
「毎日掃除します。バルコニーや庭に入らないように忌避剤を買って、私が置かせてもらいます」

やっと彼女にお引取りを願った後で、麻子はボクをにらんでいる。
ボクは隣の細君の要求に腹を立てているのに。
「えらそうに。自分さえよければどうでもいいんだな」
「でもこうなることはわかっていたことよ。世間の反応はこうくるわよ」
「ボクが正しい。動物を苦しめてどうする」
「でも彼女の気持ちだってわかるから」

第5章 バトル、敵は誰だ( 1 / 1 )


麻子はウンチ拾いにでかけるはめになった。

運悪く夫婦で食事しているときに出くわしてしまったときなどは、バルコニーから夫君に、もっとこちらにも、などと指図された。
ボクはそんなことをしている自分の妻に憤懣やるかたなく、帰ってきた麻子に罵声を浴びせて鬱憤を晴らした。

麻子のお気に入りのリボンちゃんが戻ってこなかった。
ニャンコのサバイバル作戦の遠足から脱落したらしい。

彼らは下水排水溝の小さな穴にも潜って生き残る。
そのための野良猫特訓に後れを取ったのだ。
あるいは持ち前の好奇心と怖いもの知らずから危険に近寄りすぎたのか。
あるいは可愛いくひとなつっこいので誰かに拾われたか。
麻子はいつまでも残念がった。

残った白猫のうち、オスは美しいまっすぐな長い白い尻尾のマウスと、曲がり気味のブルー、兄のチビと養子のグレイ、四匹もいる。

子宮摘出手術を受けることになるメスは立派な体格のベラと小柄なベロだ。

日に日に外の生活が長くなると、ボクらを次第に怖がるようになって、閉じ込められることを嫌うようになった。それはチビ、ベロ、ブルーだ。
そのうち去ってしまう猫も出てくるのだろう。
ボクはそれも待っていた。自然に自立できれば幸いだ。

大きくなるにつれ、食べる缶詰を買うのもその缶を捨てるのも馬鹿にならなかった。
ボクは必要なものはためらわず買う。しかし捨てるのは苦手なので麻子に任せた。
猫の缶詰とはわからないようにラベルをはがして収集の前の深夜に捨てに行った。
ガラガラと張り裂けるような音がしじまに響いた。
 
子猫の里親募集のサイトにネットで掲示したが成果はなく、近所の店に張り紙してもらったところ、若い男からもらいたい由の電話があった。

これが大変な猫坂であることを予想できただろうか。
然り、ボクはちゃんと考えていて、用心するつもりだった。
しかし、この軽薄な麻子が、昼間ボクのいないのを幸いさっさと取り決めて、プルーをわたすことにしていた。
ボクの異議は、ひとつ、ブルーがボクらにも慣れ親しまないことだ。ふたつ、相手先が若い兄弟のみで住んでいるということだ。

麻子の詮索嫌いがすべての原因だ。
細かいことまで詮索して知らなければ大事な動物を渡すようなことはしてはならないのだ。



大騒動するブルーごとキャリーで、ボクもどうしてもと言い張って隣の市まで相手の車についていった。ボクは変なやつらだと、言い続けた。

麻子は口を結んだまま、キャリーの取っ手を握り、ボクを置いてきぼりにするかのように彼らの後を走った。
細い路地の二階建ての家に来て、玄関を開けて麻子が入った。
ボクもやっと追いついて戸口に立って見回した。

「しばらく馴れるまでは決して玄関とか開けないでください。気をつけてください。馴れるまでは」
麻子は興奮して言った。

そしてボクが家の玄関の中に入ってドアを閉める前に、もうキャリーを開けた。
男達はぼーっと突っ立ていた。

そしてブルーは猫族のすばやさでたくさんの人間の足元を潜り抜け、開いたドアから暗闇の中に突っ走って出ていった。
ボクと麻子は絶望の叫びを上げただろう。ブルーは死ぬのだ。

もうクリスマスだった。寒い日々に飢えて死ぬのだ。

ボクは麻子を呪った。
玄関を開けたままの状態でキャリーを開くという、あんな馬鹿な真似をどうして出来るのか理解できなかった。

ブルーをほしがった男達はもう知らん顔をしていた。
どうしようもないのは明らかだった。むざむざと死なすのだ。
ボクらがそれでも、ブルーが走っていった方向へ歩いていると、案の定、というか流石にというか、暗い茂みの中から、聞き覚えのある若い声が聞こえた。

「助けて、どうしたらいいの」
「ブルーブルー、おいでよ帰るよ」
麻子がささやいたが、やってくるような関係は無くしていた。
しかしボクらであり、少なくとも呼びかける相手であるのはわかっているのだ。

麻子は両ほほを押さえて呟き続けた。
「どうしよう、どうしよう」
責任感と同情と憤りがボクを興奮させた。
ボクの怒声を無視していた麻子が静かに言った。
「ニャンコを連れて来よう、まだきっと母親の気持ちでいる。ニャンコとだったらブルーも何とか生きられる」

「そうだ、そうだな。えさはボクらで調達すればいい」
麻子は目を真ん丸くした。ニャンコともどもここにほおって置くつもりでいたらしい。
そんなことはさせない。



すぐに家にとって帰り、麻子にニャンコをキャリーで運ばせる。
言っておくが、ボクはどんどん潔癖主義がひどくなっていた。猫との生活のせいだ。
動物への責任とボク自身の潔癖との折り合いをつけるのは麻子だ。汚れ仕事は彼女がする。

ニャンコはひざの上に抱いて連れて行くのに何の支障も無かったろうが、それではボクが困るのだ。

そこは宮田町というところだった。坂のてっぺん近くに車を止めた。
念のためキャリーに入れたままでニャンコと歩いた。

すぐに、驚くほどすぐにブルーの声がした。
「ママ、ママ、ママ」
「どうしてここに? ブルー、おいでよ」

答えを返しているニャンコを放す。
ブルーは茂みから出てきて挨拶を交わした。
凍てつく夜だった。
坂の上には星空があり、片側はなだらかな公園になっている。

片隅に缶詰を出してやった。ボクは当然紙皿を準備していた。
そして別れた。明日の夜までは生きているだろう。

どうしたらブルーを捕まえることが出来るか。思案のしどころだった。
いわゆる猫おばさん仲間ともコンタクトを取った。
ボクとはまた違う理由から猫にかかわる人たちだった。
現実はしかし、彼らの案も経験も役に立たなかった。

毎晩、どうすることもできずに夜の闇に隠れるようにして、他人の住む区画を徘徊する苦痛と屈辱はたしかにきつかった。
これは野良猫の苦痛でもあるのだろうか。

ボクが置いておいた紙の皿に気づいた住人の無言の非難が感じられるときも多かった。
ニャンコは毎晩、同じところで待っていた。
影のようにやや小さな、ブルーが待っていた。

麻子はすべての責任はボクにあると思いたがっている。
この厄災に巻き込まれたのはボクの性格的な偏りのせいだと。
何でもいい、ボクの考えと対応には正しさと首尾一貫性がある。
寒い十日間を過ごした。

大きなケージに、ドアがうまく遠隔操作で閉まるように強い綱を結わえ付けた。
それを公園の隅に設置し、中にはおいしそうなえさを置いた。
ニャンコが入る、ブルーも入った。
麻子はふるえながら離れたところにいる。
ボクは数メートルはなれて綱を握っていた。すぐに迷わず引っ張ってドアを閉めた。


ところが尻尾が一本はさまりそうだったので力を緩めた。
カタリと音がしてブルーは逃げ出した。
麻子の、声にならない嘆息が聞こえた。

もうだめだ。ブルーがわかってしまった。
もういやだ、と思いたかった。しかしこのままで引き下がることは許されない。
ボクはしばらくじっとして様子をうかがった。

ニャンコがまだ食べているのだ。
小さな影が来た。何も変わっていないとわかったのだろう。母親のそばへ行って食べ始めた。ニャンコは出てきた。

迷わなかった。思い切りドアを閉めて綱でケージを巻いた。
一緒のほうがよかっただろうが、すでに余裕が無かった。
ブルーは悲鳴を上げ続けていた。猫は必死の時には恐ろしい声を出す。
虐待と思われても仕方ない状況だ。

車の後部座席にケージを乗せた。
ニャンコは残念ながらコーラの段ボール箱に押し込んだ。車の座席を動かれては後でボクが困る。
帰りの道は、遠かった。

ブルーの叫びを聞いて、ニャンコもかっとなったらしく、爪と歯を使って段ボール箱をバリバリにした。
家に着くやニャンコは壊した段ボール箱からひとりでに躍り出た。
ブルーは離されて闇雲に南の竹林に逃げ込んだ。

麻子はしっかりと段ボール箱を抱えていたので固まっていた。ニャンコにかまれないようにコーラの缶で裂け目のひとつから自分の手を護っていた。

みんなは勢ぞろいして出迎えた。おおみそかになっていた。

グレイはいつまでも子供のままのように見えた。ベロと同じほどの大きさだった。
ニャンコについで人間好きなのでそのうち啓治までもグレイを撫でるようになった。

ニャンコのややつりあがった瞳や、チビのまん丸な瞳とは違い、パッチリした眼をして、
「お願いがあるんだけどぉ」
としつこい声で訴えた。鈴の声とはいえなかった。

その毛皮はテンか何かを思わせるほどすべすべしていた。
「あんたが死んだら絶対毛皮にして残すからね」
「いいですぅ」
麻子の残酷な面をグレイはグルグルと受け入れた。
 
ニャンコは避妊されていたのだが、日が経つうちに落ち着きが無くなった。

東天
作家:東天
猫坂
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