不貞寝トリップ

 やっちまった! 俺は、馬鹿だ。憧れの彼女に寂しそうな顔をさせてしまった。
「あ、そっか、ファンタジー、あんまり読まないの……」
 俺の隣に座る彼女は、そう言って俯いた。
 しまった、と思う。気になる女の子に話を合わせてしまえばよかった。咄嗟に嘘がつけない、本当にやっちまった。俺は頭をかきむしりたくなる。
しかし事実だろ、と自分に言い聞かせてみるも、虚しい。
 でも、事実なんだよなぁ。もう一度、自分に言い聞かせる。ファンタジー、本当にあんまり読まないんだよなぁ。
 本は好きだ、読書が大好きだ。しかし、ファンタジーは少ししか読んだことがない。いつも途中で挫折してしまうのだ。
 魔法に溢れ、空にはドラゴンが飛び、妖精の森があり、凶悪な魔女が住み、世界が紫色の雲に染まる、ファンタジーの世界。
 とても想像力が追い付かず、途中で「もういいです」とお腹いっぱいになってしまうのだ。
「あっと……高坂さんは、ファンタジーが好きなの?」
 小さなパニック状態に陥っていた俺は、そんな馬鹿げた質問を彼女にする。先ほど「牧野君は、ファンタジーのお話って読む?」と訊かれたばかりなのに。ファンタジーが好きだから訊いた質問に決まっている。
「そうだね、結構。こ、今度お勧めのファンタジーの本、教えてあげよっか!」
 無理に彼女は笑っているようだった。そりゃそうか、と俺は意気消沈する。
 隣の席に座る、ショートカットの小柄な女の子。
 俺はその子がとてもとても気になっていた。同じクラスになってから。毎年クラス替えがある高校で本当によかったと思う。
 一年のころ、学園祭で隣のクラスで喫茶店をしていた。接客をしていると言う友だちをからかいに行ったのだが、そこで偶然接客をしてくれた彼女に、一目ぼれに近いような感情を抱いてしまったのだ。
 その後、彼女が演劇部であることを知り、学園祭での彼女の公演をこっそり見に行った。
 とても綺麗な声をしていた。力強い目で、生き生きと演じる姿を見て、もうどうしようもなく彼女と話してみたいと思った。
 しかし、隣のクラスの女の子に話しかける勇気などない。
 そんなもんだよな、と諦めていたときに、二年のクラス替えで彼女と同じクラスになった。それだけでもう十分だったが、二回目の席替えで、彼女と隣同士になることができた。
 またとないチャンス!
 何か話すきっかけは無いものかと、俺は必死になって話題を探した。
 席替えが行われてから三日目の休み時間に、彼女は本を読んでいた。ブックカバーがしてあったため、何の本か分からなかったが、とにかくこれだ! と思った。俺も本をそれなりに読む。話しが合うかもしれない。
 わくわくどきどきしながら、そっと読書中の彼女に話しかけた。
「こ、高坂さん、何の本読んでるの?」
 難しいカタカナ用語が彼女の口から飛び出して、俺は戸惑った。今思えば、ファンタジー用語の一つだったのかもしれない。ゴブリンとか、フェアリーとか、そう言った類の。
「知ってる?」
 彼女に訊かれ、ごめん、分かんないやと答える。
「そっか、面白いよ!」
 きらきらとした笑顔が俺に向けられる。心臓がばくばくと鳴っているのが分かる。俺は、平静を装うので精いっぱいだった。
「今度読んでみるよ」
「牧野君、本好きなの?」
「うん、結構読むよ」
「そうなんだ!」
 彼女は嬉しそうに目を輝かせる。くりんとした目が、ますます丸くなる。
 楽しかった、幸せだった。やっとこの時が来たよと、過去の自分に報告したい気分だった。
 しかし直後、俺は後悔する。やってしまう、のだ。
「牧野君は、ファンタジーのお話って読む?」
 えっと、あんまり。
馬鹿正直に俺はそう答えてしまった挙句、「でも、興味はあるんだ。その本、読み終わったら貸してくれない? 読んでみたいな」といった気のきいた切り返しも出来ず、黙りこくってしまった。
 言った後、やっちまったと思い、そのまま言葉が続かなくなった。
 馬鹿な俺だ。その結果、彼女と少しだけ話をつづけた後、「じゃぁ」と彼女は寂しそうに席を立ってしまった。
 どこかに行ってしまった彼女が置いていった本を、その後そっと開けてみた。タイトルは相変わらずよく分からないカタカナで、動物ではない何かファンタジックな生き物がこちらをぎろりと睨んでいた。
「最悪だ……」
 もう、彼女と話すことは無いかもしれない。天国から地獄へ、といった感じだ。泣いてしまいたい気分だった。
 次の授業で、俺は不貞寝した。後ろから二番目の端席だ、おまけに次の授業の先生は、寝ている生徒を咎めはしない。とても、授業を受ける気にはなれなかった。

 そうだそうだ。
 そんなことがあったなぁ。

 俺は、草原のど真ん中で腕を組み、そんなことを考えていた。

 もう一度言う。
 草原のど真ん中、だ。こんな草原見たことない。地平線の彼方まで、まぁ綺麗な緑、緑、緑。先ほどまでいた教室とは、訳が違う。
「寝たんだよ、俺は」
 草原にぽつんと立つ俺は、ぼそりと言った。
「だから、夢だと思う。この、現象は。夢。素敵な夢だなぁ」
 感情を込めずにそう言うと、「そんなわけないじゃないっすかぁ!」と、妖精が腕を振り上げた。ぽこりと俺の額を叩くが、痛くも痒くもない。
 もう一度言う、その二。
 俺の額をぽこすかぽこすか叩いているのは、妖精、だ。
「妖精、叩くならいっそもっと叩け! そうすれば現実世界の俺は起きるだろうが!」
「うるさいっすよ、ほんっとに! 夢じゃないって言ってるじゃないすか」
「俺が! 教室で寝ていて! 起きたら! 草原の真ん中で! ぶっ倒れてて! お前がふよふよと目の前を飛んでいて、あ、起きたっすかぁとか言って」
「そんな間抜けな声じゃないっすよ!」
「そこかよ突込みどころは! とりあえずこんなの信じられるか!」
 俺の掌ほどの大きさしかない妖精は、信じてくださいよ、話しが進まねぇっすと頬を膨らませた。
 その妖精は、そもそも妖精に女の子も男の子もあるのか分からないが、見た目は女の子だった。羽が生えて、耳がとがっていて、空と同じ髪の毛の色をしていて、目が海のように深い青色で、茶色のベストと同じ色のスカートを履いている生き物が「妖精」と呼ばれる生き物なのかも、そう言えばよく知らない。
「ファンタジーのことをよく知らない人の夢の中に、私みたいな妖精がそもそも現れるわけないじゃないっすか!」
 妖精なのかどうか、という問題は、取りあえず本人が解決してくれた。
「お前、妖精なのな」
「どういう意味っすか!」
「いや、その、妖精じゃなくて天使とかそういう可能性も無きにしも非ずで」
「妖精っすよ、しっかりしてくださいよぉ、先が思いやられます」
「なんの先だ。俺ははやく教室に戻りたい」
「状況を説明させてください! まだ自己紹介すらできてないっす」
 きゃんきゃんと妖精がどなり散らすので、俺はとりあえず彼女の話を聞くことにした。ファンタジーをよく知らないお前の夢に妖精が出てくるわけがあるか、という彼女の理屈は、とても分かりやすく明確だったためだ。
「分かった。聞こう」
「ありがたいっす」
 彼女はぺこりと頭を下げた。彼女は長い髪の毛を横でひとつに結んでいる。動くたびに、しっぽのようにそれが前後左右に動くのは、見ていてなかなか面白い。
「まず、私はメルって言います」
「俺は牧野勇樹。メルか、短い名前だな」
「本名はもっと長いっすよ! メルクリオ――……」
 その後、長い長いカタカナが並び、俺はふらふらとした。覚えられるわけがない。
「分かった悪かったごめん続けてください、メルさん」
「はぁい、続けさせていただくっすよ。この世界はライゼンデ、と言う世界っす」
 またもや訳のわからぬ用語が飛び出し、俺は早くも白目をむいて倒れ、現実世界に戻ってしまいたくなったが、なんとかこらえる。
「意味は旅人。ドイツ語っすよ」
 この妖精は、俺の心を読めるんじゃないかと疑ってしまう。訳がわからない用語ではなく、俺の知らない外国の言葉だったようだ。
「あ、ドイツ語」
「そうっす。この世界の創始者様が名づけました」
 創始者。何だそれは。
 一難去ってまた一難と言う感じだ。なんでこの世界の創始者のことをこいつが知ってるんだ。なんなんだ、この青い浮遊物体は。
「創始者……ほう。続けたまえ」
「偉そうっすね」
「自我を保つのに必死だ」
「意味わかんねっす」
「うるせぇ続けろ」
 へーい、と可愛い見た目とは裏腹な返事をして、彼女は続ける。
「この世界の創始者様の力は、たまーに暴走してしまいまして、異世界からお兄さんみたいな人を呼び込んでしまうんっす。私は、そんな旅人様を案内してこの世界の出口まで連れて行く係なんっす」
「ご苦労様です」
「創始者様のことが好きっすから、苦労でもなんでもないっす。あの方は、苦労されてるんっすよ」
「そうなのか。まぁまとめると、俺は、この世界を作った人の力の暴走に、巻き込まれてしまったと」
「そうっす」
「なんで暴走するんだよ」
「魔力が膨大すぎると、暴走するっすよ。大魔法使いにはよくあることっす」
「大魔法使いは世界を簡単に作っちまうのか」
「そうっすね。説明が難しいっすけど、お兄さんの世界の世界は、ひとつの星の中にあるんっすよね?」
「まぁ、そうだな」
「私たちの世界は、本の中にあると思ってほしいっす。ページ毎に、その世界の創始者がいて、たくさんの世界は独立してるんっすけど、魔力が高い人はその世界を、ページをめくるように移動できたり、新しい世界を作ったりできるんす」
「ほう、そりゃすごいな」
「凄いんす。この世界の創始者様は、世界を作るために大量の魔力を消費しました。それでもまだ魔力は有り余っているんで、制御しきれないみたいなんす。それで、時々お兄さんのように他の世界の人を巻き込んじまうんっすよ。それならもういっそ、巻き込まれた人たちに楽しんでもらおうと、創始者様は、この世界を旅人の国として、異世界からの旅人さんに楽しんでいただけるような世界に作りなおしたんす」
 これ以上質問すると、俺のキャパシティーを軽く超えてしまう。
「うん、わかった!」
「元気がいい割に棒読みっす」
「もういいです、俺は元の世界に帰りたいです。案内してください」
「お、信じてくれたっすか」
「よく分かんないことだらけで地球と言う星が恋しくなったんだよ」
「どうせなら楽しみましょうよ。なかなか来れないっすよ? あ、そうだ、時間制限は特にないっす。お兄さんが元いた世界の、元いた時間にまで戻れるっすよ。さぁ、楽しみましょうファンタジーの世界を!」
「嫌だよ! 早く帰りたいよ! だいたいこのだだっ広い草原で! 何を楽しめと!」
「早く帰りたいんすか、残念ですねぇ。しかし、案外楽しめると思うっすよ」
 にこりとメルは妖艶に微笑んだ。思わずどきりとしてしまう。
 ちょっと待っててくださいね、と彼女は俺から少し離れ、何かを唱え始めた。すぐに、彼女の体が青く光り、その光は彼女から離れ、大きな四角の光になった。俺と同じぐらいの、長方形の光だ。
 その光は、やがてきらきらと下に落ちて行った。衣がはがれるように、光の中から大きな姿見が出てきた。綺麗な装飾が施された姿見だったが、その美しさにため息を漏らす余裕は無かった。
「なっ、ちょ、え?」

 「ねっ! 楽しいでしょ」
「楽しいでしょ! じゃないよ! 黒髪の俺はどこに行った?」
 目の前に立っている俺は、顔立ちこそ見慣れたそれだったが、髪の色は――言ってしまえば、ファンタジー世界の住人のような姿をしていた。
 綺麗な白髪だ。さらっさらだ。透けるようだ、銀に近い。
「さらに、魔法をかけるっすよ」
 ほい、とメルは俺を指差した、と思った次の瞬間、青い光に俺の体は包まれた。
「うおお」
 ほのかに暖かい。自分が魔法にかけられる経験なんてもちろんなかったため、不覚にもテンションが上がってしまった。いい夢だ。……まだ夢だと、信じている。
 青い光は、数秒俺を包んだかと思うと、するすると重力に逆らえなくなったかのように、地面に落ちていった。服装は、もう学生服ではなくなっていた。
「おお……」
「勇者様みたいでしょう?」
 得意顔で言う彼女に、そんなわけあるか! と返したいところだったが、残念ながらそんなことはあった。勇者だ、ファンタジーに興味が無くても、勇者のイメージぐらいは頭の中にある。たくさんのイメージの中に、もしかしたらこの姿の勇者も含まれていたのかもしれない。
 軽装備だ。白い服に、焦げ茶色のズボンは本当に軽い。肌触りがいい、何の素材だろう? 腰には藁で編んだような紐が縛ってあった。こんな服、初めて着る。
 手先は、茶色のグローブが包んでいる。革でできているのだろう、ひじより少し前までの長さだ。安心感がある。靴は茶色のブーツだった。ズボンよりも明るい色をしている。その場で足踏みをする。軽い。飛べそうだ。
 首には、白い服と同じ色をしたマントが巻いてあった。スーパーマンのように真後ろに布を巻いているのではなく、右肩にマントの中心が来るようになっている。俺を包み込むようなそのマントは、しっかりとした素材でできていた。少し重いが、苦にはならない。
 そして、足元には剣が置かれていた。シンプルな剣だ。持ち上げると、ずしりと重かった。柄は金色に輝き、鞘は少し黒ずんでいる。
「かっこいいんじゃないの」
 俺の言葉に、彼女は嬉しそうに歯を見せてにこっと笑った。先ほどの妖艶な笑顔からは想像も出来ない、子供っぽい笑顔……まったく、表情豊かだ。
「しかし、どこに向かうんだよ。ずっと歩くのか? 地平線の先まで?」
「安心してください、勇者様」
 口調を変え、おどけたように彼女は言った。
「さっき、この世界は本みたいって言ったっすよね? 勇者様は今、本で言うと最初の行にいるんです。向かうは最後の行。本来なら、この世界に来た人は一行一行楽しんでいかれるんですけど、勇者様ははやく帰りたいみたいですし、全ての過程をふっとばします」
「なんだ、そんなことができるのか」
「これでも優秀な妖精なんっすよ、私は」
「なるほどね、しかし、すっとべるんなら、勇者になった意味ないんじゃないか?」
「………………さぁ、行くっすよ!」
「待て! なんだ今の間は! 不安になるだろうが!」
「行ってからのお楽しみっす」
「何かあるんだ! 素直に帰れないんだな!」
「静かにしててください今から最後の行に向かいますそーれー!」
 彼女は両手を足元まで下げ、ぐいと勢いよく上に押し上げた。彼女の手に引っ張られるかのように、体が宙に浮いた。いきなりの出来事に、後ろにひっくり返りそうになる。
「あっ」
 ――と言う間だった。文字通り。目の前が真っ青になったかと思うと、次の瞬間別の場所に移動していた。
 ふわり、と地面に着地する。
「うわっ」
 あたりを見渡す。先ほどの緑の一面とは一転、そこは白い草原だった――雪が積もっているのかと思ったが、足元をよく見ると、そうではないらしい。白い色の草が生えているようだ。見たこともない、きっと、俺が元いた世界にはないような種類の植物なんだろう。足を少し動かすと、その草はふっと宙に浮いた。羽のようだ、とても軽かった。
「到着っす」
 綺麗でしょう? と妖精は笑った。
「綺麗だな」
 俺は素直に認め、周りをぐるりと見渡す。左、真正面、右、どこを見渡しても白だ。もちろん後ろも――「うおおおおおお!」
「あ、気がついたっすか」
「いやいやいやいやいや! のんきか、お前!」
 俺の真後ろには、この白い世界には似合わない赤茶色のドラゴンがいた。
「これドラゴンだよな?」
「正解っす! これなんて失礼ですよ。この方、っすよ」
「この方ね! 知るか! うおおおおい! どういうことだよ!」
 ドラゴンは、座った状態でこちらをぎろりと見ている。金色の綺麗な目と、俺の目が完全に合っている。視線を離したら、おそらくだがその隙に攻撃されそうだ。だから俺は目を逸らすことができなかった。一歩一歩、ゆっくりと後ろに下がり距離を取るしかできない。
 俺の何十倍もありそうな巨体は、何を思っているのか、しげしげとこちらを眺めているだけだ。観察されているのか? こいつなかなか美味しそうだ……とか?
「この世界に来た方は、ゆっくりこの世界を楽しむって言ったっすよね? でも、勇者様はそれを吹っ飛ばして最後の行――この世界という物語の最後まで飛んできちまったんす。最後はもちろん、ゲームで言うとボス戦っすから」
「こんな強そうなのが現れたってことか!」
「ご察しの通り!」
「ふざけんな! おい! どうすりゃいいんだ!」
「とりあえず剣を抜いてください」
「戦うのか!」
 震える手で、俺は剣を抜いた。ゆっくりとドラゴンに向ける。両手で持つが、それでも剣はずっしりと重い。こんなのを持って本当に戦えるのか?
 ドラゴンは、長い尾を左右に揺らした。喜んでいる犬のようだったが、その尾がさっと触れただけで、白い草はぼっと燃えあがった。ドラゴンの周りに、赤い火が灯る。
「うわあああ」
 弱々しい叫び声しか出なかった。なんだこれ、どうすればいいんだ。
「さぁ、レッツトライ、ラスボス!」
「気楽だな妖精はよ! というかお前の魔法で倒せないのか!」
 確かにな。
 はっきりと声がしたが、それは俺のものでも妖精のものでもなかった。

 

 空耳かと思ったが、続けて「面白い男よ」と低い声が聞こえる。
「えっ、えっ?」
 俺がきょろきょろとしていると、ドラゴンが長い尾をもう一度左右に振った。火がふっと消える。焼け跡は残っておらず、白い草原が燃える前と同じようにそこに存在していた。
「俺だ、勇者の格好をした男よ」
「あ、えと、その」
 ふっとドラゴンの口から炎が出た。それと同時に「俺だよ」ともう一度声がする。その声は、ドラゴンの方向からするのではなく、四方八方から響き渡って聞こえるようだったが……それでも、彼が喋っているのだろう。
「戦いはせんのだろう? 男よ、武器をしまえ」
「あ、すいません」
 大人しくドラゴンの指示に従う。まだ剣先は震えていた。
「おい妖精よ。こいつは俺とは戦わないんだろう」
 ドラゴンに話しかけられたメルは、こくりと頷いた。なんだ、知り合いか。
「はい、すぐに元いた世界に帰られるそうです」
「ほう、それは残念だ。剣を抜かせたのはどうしてだ?」
「戦ったことが無かったみたいなんで、形だけでも楽しんでもらおうかと」
 くつくつ、と喉の奥で笑うような音がした。ドラゴンが笑っているのだろう。俺は、改めてその巨大な生き物を上から下までなぞるように見た。ごつごつとした体が、何も寄せ付けないような力を秘めているようだった。
「君は、おもしろいやつだよ」
「お褒めに預かり光栄っす」
「勇者よ、この度は唐突にこの世界にやって来てしまったのだろう」
「は、はい」
「妖精の誘導があったとはいえ、ご苦労だったな。思い出と言っては何だが、これを持って行け」
 ふっとドラゴンが宙に向かって炎を少し吐き出すと、その先端が個体となって地面に落ちた。ドラゴンはそれを口で咥えると、俺にずいと顔を近づけた。
 息が止まりそうだった。神々しいこの生き物が、俺のこんな近くにいる。
 ドラゴンの口から、そっと赤い石のようなものを受け取った。サッカーボールほどの大きさがあったが、俺の手の上でするするとそれは小さくなり、豆ぐらいの大きさになった。
「土産だ。俺の炎の塊よ」
 ドラゴンは鼻を俺の頭に一度擦り寄せ、硬直する俺を見てくつくつと笑った。
「この世界に来たことが信じられなくなったら、それをお前の世界で見ればいい」
「あ、ありがとうございます」
「信じるかどうかはわからんが、お前の隣の席の人にも見せてやると、喜ぶんじゃないか? ん?」
「えっ」
 俺の隣の席の人って――――高坂さん?
 訊くより前に、ドラゴンは大きな翼を広げ何度もそれを上下に揺らした。大きい、雄大だ。その光景に、思わず言葉を忘れてその姿を見る。
「またな」
 そう言って、ドラゴンは勢いよく上に飛んだ。風が俺を襲う。驚いて一瞬だけ顔を腕で覆うと、次の瞬間にはもう、ドラゴンは空高く舞い上がっていた。
「……夢みたいだ」
「夢の国でしょう、勇者様の世界じゃ、ここは」
「確かに」
「さ、最終イベントも終わりましたし、帰るとするっすよ」
「どうやって?」
「こっちっす」
 メルは、にこりと笑うと凄い速さで左手に飛んだ。
「待って!」
 俺の隣の席の人って、どういうことだかを聞きたかったのに、そんな暇も与えてくれなかった。メルは、ひゅん、と風のように居なくなってしまった。左側の遠方に彼女の姿がかろうじて見える。白い草原でよかった。青い髪がよく目立つ。
 俺は走り出した。羽のような白い草が舞う。懸命に走った。青い髪の彼女は、ある地点で止まると、くるりと回って下に急降下した。白い草原に降り立ったのだろうか、姿が見えなくなる。
「どこいったんだよ、おい!」
 返事が無い。急に不安になる。どういう事だ? 腰の剣を確かめる。また、手が震えていて嫌になる。もつれそうになる足を懸命に動かしながら、俺は走った。走って、走って――「あっ」俺は足元の異変に気がつき、その場に止まった。メルが消えた地点は、この辺だったはずだ。
「すげぇ……ここか?」
 草原の中に、穴がぽっかり空いているようだった。よく見ると、それは穴ではなく、水たまりだった。風が水面を撫でていた。揺れるその水たまりの中に見える景色は、空ではなく、古い建物だ。

村咲アリミエ
作家:村咲アリミエ
不貞寝トリップ
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