何人かの子どもが刺されたような顔でうつむいていたが、町で暮らし始めたばかりのかぐやにはわからない言葉だった。
それが悲しいことなのかつまらないことなのか、うれしいことなのか楽しいことなのかをおいさんに尋ねたが「難しい質問をするようになったなあ」と、耳の根元をくすぐられただけだった。
かぐやの記憶もその頃から曖昧になり始めたが、むしろ遅いほうだと猫が言った。猿は異形だったことなどとうに忘れているが、食い意地のせいか花見のことだけ覚えているようだとも。それを聞いたかぐやは思い切り彼をからかってやったが、とうとうかぐやの名前を思い出せずに「君」と呼んだ少年は、とうとうそれきり姿を見せなかった。
やがて境内に立つのもただ一人となった。次の年で最後することを猫が提案し、かぐやはうなずいた。昨年のことである。
「でも忘れなかったらどうしようかな」
盃を干してからしばらく、かぐやは無言のまま打掛の裾を指でいじっていたが、切り出した。猫は不意をつかれて一瞬ためらいながらも、
「忘れますよ」
断言する。
「そうなのだろうけど、万に一つ。忘れなかったら?また来年、ここに来ても。あなたはいないわけ」
「万に一つ、耳が立派になってしまった際は、私ではなくこの壺の隠し場所に向かうことをお勧めしますよ」
「そうではなくて。あなたに会いたくなったらってことよ」
意外な言葉に猫は若干、答えを迷わせた。
「あなたはさびしくなくても、わたしはどうなるのってことよ」
「どうなるもなにも、そろそろ私にも穏やかな老後を送らせてほしいですね」
「ミケとして?」
「ええ、三毛猫のミケとして」
想像したのだろう、かぐやは噴きだした。
昔からよく笑う娘だと猫はそれを眺める。
ただの雑な甘えだ、育ての親を思い出す、と思考を逃がす。正面からまともに受けてはいけない。そう言い聞かせた。
彼女もまた、遠くへ旅立つ姫である。
気の遠くなるような歳月をかけて、一体いくつの土地で、一体何人の子どもたちを見送ったのか、猫はもう数えるのをやめていた。
三毛猫のミケという生涯を送るのも悪くはないと本気で考えていた。それがまともで正しいことのように思われた。
「まあ、忘れますよ。わたしも忘れますから」
お互いに、忘れなければまともに生きてはいけないのだ。
「なんか、きれいすぎるなあ」
「何がですか。酔っていますね」
「こんな格好で猫とおしゃべりしながら花見酒なんて、そもそもまともではないのよ。忘れてしまえばまともになれるなんて、そんなのって本当かしら」
それっていいことなのかよくないことなのかわからないわ、とつぶやき、かぐやはぐっと伸びをした。勢いをつけて枝から飛び降りるのにつづき、猫も静かに地面に立った。
「いいことに違いないでしょう」
そうねと答えて長い耳を指先で確かめながら、かぐやはやはり腑に落ちない様子だった。
鳥居をくぐり、和装を解くと、異形だった少女はどこから見ても女子高生の姿となる。
「じゃあね、元気で」
一言そう告げると、あっさりと階段を下り始めたので、猫はいささか拍子抜けして目をしばたかせた。それも一段飛ばしの軽快なステップである。
「ええ元気で――
かぐや」
「なあに?」
既に中ほどまで差し掛かっていた少女が振り返るが、ちょうど早朝の新聞配達員が下の歩道を通りかかっているのが目に入り、猫は口をつぐんだ。
そうでなくとも、続く言葉が何なのか、なぜ呼び止める形になったのかについて考える必要があった。
静寂があたりを包む。破ったのはかぐやのほうだった。
「やっぱり来るよ」
通り過ぎかけていた配達員の青年も振り返る、大声である。
「カレンダーとか、手帳とか、あとスマホにも入れておく。
来年ここに来ることだけは覚えてるように頑張る。そのことだけは本当だから。でも、覚えてなくても来るから」
猫に人差し指を向け、
「てなわけで、よろしく!」
雑な一言を加えて、今度は手すりに腰かけ、颯爽と滑り降りていくのだった。
(ひとりぐらいかっぱらっていってもいいんだぜ)
ふと、遠い昔に宮司が雑に鎌をかけてきたことがあったのを思い出す。
どれにしようか迷っている、と答えたら尻尾を踏まれたが。
そんなわけにいくかと、猫は少女の後ろ姿を見送りながら、夜明け近くの空に向かって盛大に息を吐いた。